アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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7.パープル・パチュリ-Purple Patchouli-

目黒合同庁舎の通用門に来訪者が立っている、という一報が資料室の内線に入ったのは、十一月八日の午後二時過ぎだった。この建物に一般の来庁者が訪ねてくることは、Qの知る限り一度もない。窓口業務のない建物だと、案内標識にすら書かれていない。庁舎の受付を通らず、通用門の警備小屋止まりで用件が処理される仕組みになっているのも、そのためだった。警備員からの内線は「面会希望者、氏名不詳、身分証の提示あり、面会先の指定なし」とだけ伝えてきた。面会先の指定がない来訪者を上へ通す規定は、Qの知る限りどこにもない。裏をとる間もなく、Qは受話器を置いて一階へ降りた。

門の脇の警備小屋で身分証を提示していたのは、マタギ・アオネだった。提示していたのは運転免許証ではなく、区民国保の被保険者証と生徒手帳の組み合わせで、住所と生年月日は読み取れても、それだけでは来訪の正当性を裏づける材料にならない。警備員の方が先に戸惑っていた。「以前、坂道で、桃色の少女に観測データを渡したことがあります」。アオネは警備員にではなく、内線の奥にいるはずの誰かに向けて言った。「その数字が、こちらの記録と小数点第二位まで一致したと聞いています。今日はそれを、正式な形にしたくて来ました」。前例という言葉こそ使わなかったが、言っていることは前例の引用そのものだった。K機関という名は出さず、桃色の少女、という言い方だけで用件が通ると踏んでいたらしい。実際、それで通った。

Qは身分証の番号を控え、来訪者証を発行した。所属欄も氏名欄もない紙片に、発行時刻と有効時間だけを手書きで書き込む。有効時間は九十分。数字の根拠は、この庁舎の様式集のどこにも書かれておらず、Qにも分からなかった。同伴の要否を確認する欄には、あらかじめ「要」に丸がついている。警備員が内線の受話器を置く前に、もう一度上へ確認を取った。「本当に、通していいんですか」。その問いへの返事を、Qは持ち合わせていなかった。エレベーターで四階へ上がる間、アオネは一度も口を開かなかった。安価な腕時計に一度だけ目をやり、到着までの残り時間を確かめるような仕草をしただけだった。四階の廊下は二階よりも照明が一段暗く、防音の吸音材が壁一面に張られている。足音はほとんど響かなかった。廊下の突き当たりの窓から、庁舎の公孫樹が見えた。先月はまだ葉先だけが黄色かったが、今はもう半分近くが色を変えている。

面会室は、二階の会議室よりひと回り小さい。楕円のテーブルではなく、四角い机が壁際に据えられているだけの部屋で、来客用の椅子には座面の跡がほとんど残っていない。壁の時計はここでも庁舎のサーバー時刻より進んでいたが、進み方は四十秒ではなく一分十秒だった。この部屋の時計を最後に合わせたのがいつなのか、Qはまだ調べていない。天井の隅にカメラのドームはなく、代わりに集音マイクらしき小さな穴が一つ、壁の高い位置に空いていた。

「録音は、いたしますか」。Qが尋ねると、アオネは首を振った。「文字だけでお願いします。録音データの保存期間と、閲覧できる人数が分からないので」。「保存期間は内規で三年、閲覧できるのはこの機関の職員のみです」とQが答えると、アオネは一拍だけ考えてから「それでも、いいえ」と重ねた。理由を先に言ってから断る、という順序に変わりはなかった。Qは記録用紙を一枚めくり、同席者の欄に自分の名前だけを書き入れた。新Kが入室したのは、それから三分後だった。

椅子を引く音、腰を下ろす音。銀縁の眼鏡が天井の蛍光灯を一瞬だけ反射する。ネクタイは今日も紺色だった。「お待たせしました」という一言だけを述べ、名乗りも肩書きの説明もしない。相手が誰であるかをすでに知っている、という前提の態度だった。

「観測データの、継続的な提供についてです」。アオネは前置きなしに切り出した。「これまで通り、無償で渡すつもりはありません。条件が三つあります」

「一つ目。身分の保全です。私の氏名、学校、住所を、記録のどこにも残さないでください。今日発行された来訪者証も、退出時に回収して構いません。それから免責も一つ。観測のために立ち入った場所について、あとから咎められないようにしてください」。要求というより、あらかじめ決まっている条件を読み上げているだけの調子だった。抑揚の起伏がほとんどなく、Qは文字に起こしながら、語尾の強弱をどう書き分けるべきか一瞬迷った。結局、句点の位置だけで済ませることにした。新Kが「立ち入った場所、というのは」と初めて言葉を挟むと、アオネは「私有地の敷地内から観測したことが数回あります。詳細は今は申し上げません」とだけ答えた。「不法侵入の疑いが生じた場合は」と新Kが続けると、「その場合は、契約自体を無効にしていただいて構いません」。それ以上は続かなかった。

「二つ目。対価です」。アオネは鞄から一枚の紙を取り出した。几帳面な明朝体でプリントされた表で、手書きの跡はどこにもなかった。「観測にかかる実費、通信データ量と交通費の相当分として、月に一万二千円。多いとは思っていません。安いと思うなら、そちらの査定基準を教えてください。契約は三か月ごとに見直します。数字が変われば、条件も変えます」。振込先の口座は未成年名義では作れないため、当面は図書カードか、駅の売店で使える電子マネーで受け取りたいという但し書きが、表の下段に小さく添えられていた。現金の手渡しは避けたい、と口頭でも付け加えた。記録に残る形でのやり取りの方が、後々こちらの身を守ることになる、という理屈らしかった。

「三つ目。私は組織には入りません。契約だけです」。この一言だけは、声の調子がわずかに違っていた。確認ではなく、念を押す響きだった。「身分証も、制服も、要りません。データを渡す側と受け取る側、という関係だけでいいです。それと、私が今、赤の観測以外に別で計算していることがありますが、それは今日の話には含めません。まとまったら、また来ます」。何を計算しているのかは、最後まで語られなかった。Qはその一文だけを、条件とは別の欄に書き留めた。

条件を言い終えると、アオネはもう一枚の紙をテーブルに滑らせた。偽の赤の出現ログだった。日付と時刻が縦に並び、出現地点は町名までで止められている。最新の一件は今日未明、十一月八日午前二時七分、高田馬場駅裏の路地。前回、十一月六日十九時五十五分の出現からの間隔は三十時間十二分——先月末までQが把握していた最短の四十一・六時間を、はるかに下回っていた。「間隔は狭まる一方です」とアオネは言った。「乱れが大きくなる方向にしか、今のところ動いていません」。Qはその数字を一度、声に出して確かめた。「三十時間、十二分」。紙の数字と、耳から返ってくる音の間に、ずれはなかった。

新Kは、三つの条件のそれぞれに、間を置かずに答えた。「身分の保全と免責については、検討します」。「対価については、持ち帰ります」。「契約のみという形式については、前例を確認します」。「いつ頃、返事をいただけますか」とアオネが尋ねると、「今月中に」とだけ返ってきた。今月中、という言葉の幅の広さに、アオネが何か言い返すかとQは思ったが、「分かりました」の一言で引き取られた。数字で切り返すはずの人が、日付の幅については何も言わなかった。旧Kであれば、この場で三つとも突き返していただろう。K機関は外部の人間と契約を結ぶ組織ではない、というのが、これまでの一貫した立場だった。タチバナ・サクラの前例は決裁を経ない例外として処理され、二人目を想定した書式はまだどこにもない——少し前の定例会議で、その書式を作る許可が下りたばかりだということを、Qはこの場の誰にも言わなかった。捜企二第一一七号の決裁欄が埋まった翌週に、もうその欄を試す相手が現れている。却下されるはずの案件が、検討の俎上に乗っている。教義が変わる速さを、Qはまた一つ、目の前で見ていた。

「では、また連絡をお待ちしています」。アオネは席を立ち、上体を十五度ほど倒しただけの、実務的な角度の一礼をした。深く長い礼でも、へりくだった仕草でもなかった。来訪者証を外し、テーブルの端に置いてから、案内も待たずにドアへ向かう。廊下の絨毯はこの階には敷かれておらず、足音がリノリウムの上にはっきりと残った。エレベーターの扉が閉まる音を、Qは面会室の壁越しに聞いた。新Kはその音が消えるまで席を立たず、来訪者証だけを指先で自分の方へ引き寄せた。

アオネの足音が完全に消えてから、Qは端末の前で新しいファイルを開いた。名前欄に「マタギ」と打ち込む。拡張子の前で、指が止まった。協力者、と分類するには対価の交渉が生々しすぎる。候補者、と分類するには本人が組織に入る気を一切見せていない。第三の候補として、単なる情報提供者、という枠も考えたが、それでは免責の条項が説明できなかった。何かを咎められることを、アオネはあらかじめ織り込んで来ている。棚に並ぶ名前のつかないファイルの列を、Qは一度だけ見た。J関連のやりとりも、坂口の情報も、あの印章についての問いも、名前をつけないまま積んできた。今回は、名前だけはある。名前の後に何を続けるかが、まだ決まらない。保存の形式を選ばないまま、Qはファイルを閉じた。「マタギ」とだけ書かれたその一件は、拡張子のない状態で、その日のうちは棚に戻された。

 

 


 

通報が入ったのは、二十一時十四分だった。渋谷駅東口から歩いて七分ほどの再開発工区、地上二十三階建ての複合施設は、今はまだ十二階までしか躯体が組み上がっていない。近隣住民からの一報は「工事現場の上のほうで、赤い光が動いている」という短いもので、通報者の氏名は伏せられたまま所轄署からK機関に転送されてきた。転送票には受理時刻と経由番号だけが打たれ、通報内容の欄は要約された一文で終わっていた。

白いバスが南平台を出たのは十四分後、二十一時二十八分だった。運転要員は無言のままハンドルを切る。後部コンパートメントの向かい合わせのシートで、A1は書類を持たず、細い棒だけを膝の上に置いていた。出発前、A1は無線の周波数を一度だけ確認し、送話のテストに三秒使った。応答は問題なく返ってきた。

「先着は」

サクラが訊くと、A1は端末の画面を見たまま答えた。

「界隈の二人。緑と黄。通報より先に動いている」

「早いですね」

「選挙期間中は、街で目立ちたくない側が先に動く」

それだけだった。車内の無線が一度短く鳴り、所轄署からの現況報告が入る。負傷者の連絡はまだない、という一文だけを聞いて、A1は端末をしまった。サクラは制服の上から板を一枚出し、すぐに消した。感触の確認だった。バスは首都高の入口を使わず、明治通りをそのまま北上した。渋滞の予測が入っていたためだと、後で知った。信号待ちのたびに、A1は窓の外の掲示場を一度ずつ見ていた。まだポスターの貼られていない、板だけの状態だった。

現場の住所は渋谷三丁目の一角で、工区の掲示板には「(仮称)渋谷三丁目再開発計画」という工事看板がまだ掛かっていた。竣工予定は再来年の春、施主名と施工会社名も看板の下段に小さく印刷されている。現場に着くと、正面ゲートの警備員はすでに詰所の奥に避難していた。工区の外周を囲うフェンスの一部が、内側から歪んでいる。足場はまだ十五階相当の高さまで組まれていて、鉄骨の骨組みの外側を養生ネットとブルーシートが覆っていた。据え付けられたタワークレーンが一基、夜空に向かって腕を伸ばしたまま止まっている。仮設の投光器は四箇所。数え直したのは、そのうち一箇所だけが明滅していたからだった。光源が不安定なぶん、鉄骨の陰影が階ごとに違う角度で伸び、影の濃さが階を上がるごとに変わっていく。地上のコンクリートには、資材を吊るためのワイヤーが何本も垂れたまま止められていて、風が出るたびにそれぞれ違う速さで揺れていた。

先に着いていたのは緑と黄だった。緑は八階の梁の上にしゃがみ、両手を鉄骨に押し当てている。厚みを確かめる姿勢だった。黄は少し離れた足場の踊り場に立ち、声を出さずに様子を窺っている。選挙期間中、界隈で騒ぎを大きくしたくないという判断が、二人をサクラたちより先に動かしていた。工事現場の警備会社が通報するより先に、この二人の耳にはもう情報が届いていたということでもある。

「上、どんな感じ」

A1が地上から声をかけると、黄が振り向かずに答えた。

「今んとこ、暴れてはない。ただ、降りてこない」

赤は十二階の躯体の縁に立っていた。両手に炎の覆いをまとわせたまま、下を見ている。誰かを狙う動きではなかった。目的のない足取りで縁を歩き、時々足元の鉄骨を蹴っては火花を散らす。破壊のための動きというより、退屈しのぎの動きに見えた。この高さから赤を見るのは、サクラにとって初めてだった。距離があるせいで、炎の色だけが夜の中で異様にはっきりして見えた。

下の通りから、選挙カーの声が届いていた。候補者の名前を連呼する録音の声が、工区のフェンス越しに反響している。掲示場の板を組む音、木槌が薄い板を打つ乾いた音も、少し離れた交差点の方から聞こえた。この街は今、二つの現場を同時に抱えている。ひとつは選挙のための現場、もうひとつは、誰にも報道されないまま処理される現場だった。

A1が先に動いた。足場の外側の鉄骨を三段飛びに上がっていく。サクラは一拍遅れて続いた。八階の高さで緑とすれ違う。緑は「上」とだけ言って、また鉄骨に手を戻した。十階まで上がったところで、杖を伸ばし、赤との間に一本の光の線を引く。境界線は赤の足元で止まり、赤がそこを踏み越えようとした瞬間、わずかな抵抗を返した。赤は舌打ちひとつでその抵抗を押し切り、そのまま前へ出る。

「そこ、越えないでください」

サクラが言うと、赤はこちらを一瞥もせずに答えた。

「越えたら、どうすんの」

答える前に、赤の右手が動いた。炎の塊が短く放たれ、サクラは板を二枚出してそれを受ける。板の表面で炎が滑って止まり、熱だけが遅れて頬に届いた。もう一枚、後ろに控えさせていた板をとっさに横へずらす。二撃目は来なかった。赤はもう別の方向を見ていた。

杖を引いたまま、サクラはもう一つの板を出す代わりに、カメラを構えた。シャッターの光が赤に一瞬だけ当たり、写真が一枚、その場で現像されていく。写っていたのは赤の輪郭と、その内側に薄く滲む残量の目盛りだった。目盛りは八割近くを示している。まだ削れていない。写真をポーチにしまいながら、サクラはA1に「まだ、余裕あります」とだけ伝えた。

十一階の高さで、飛んできたワイヤーが赤の手首に絡んだ。A1が引き寄せようとした瞬間、絡んだ炎が表面を焦がし、繋がりが緩む。A1は警棒を展開し、間合いを詰めた。右手が一瞬、腰のものへ向きかけて、止まる。今夜、抜く理由はない。抜かないまま、警棒の先で赤の手首を打った。電撃音が短く鳴る。赤の動きが一拍だけ乱れた。

黄の声が空間に満ちたのは、そのときだった。「そっち、危ない」という短い一言が、鉄骨の骨組みに反響して増幅される。全員の注意が一瞬、黄の方へ向いた。その隙を突いて、緑が梁に手をついたまま、低く「ここにいて」と地面に向けて言う。声は届かないはずの高さだったが、階下の基礎部分から樹根に似た帯が一本、コンクリートの割れ目を伝って伸びていった。場所が厚くなる感触が、足場全体にゆっくり広がる。赤の足元、崩れかけていた鉄骨の継ぎ目が、一段だけ持ち直した。

サクラは透明な板を三枚、赤の進路上に並べて出した。板は宙に固定され、炎がその一枚に触れると、面の上を滑って止まる。板そのものは壊れないが、赤の勢いを削ぐには十分だった。四色とA1の動きが、狭い足場の上でほとんど同時に交差する。誰かの合図があったわけではなかった。下では選挙カーの声が、また同じ文言を繰り返しながら遠ざかっていく。工事現場の非常灯だけが、赤い光の点滅と紛らわしく明滅を続けていた。

赤が一度、足場からタワークレーンの基部へ飛び移った。鉄骨よりも太い支柱を蹴って、さらに上へ逃げようとする動きだった。A1がその軌道を読み、ワイヤーを支柱の陰から回り込ませて先回りする。サクラは杖を伸ばし、支柱と足場の間に境界線をもう一本引いた。逃げ場を塗りつぶすための線だった。赤はその場で一度だけ立ち止まり、進む先の全部が塞がれていることを確かめるように視線を巡らせた。

十二階の縁まで詰めたところで、赤の動きが急に緩慢になった。追い込んだ、というより、追い込む前に力が抜けたように見えた。

「あー、もういいや」

低い声でそれだけ言うと、両手の炎をゆっくりと収める。追い詰められた顔ではなかった。飽きた、という以外に言いようのない離脱だった。輪郭が滲み、次の瞬間には、鉄骨の陰に紛れて消えている。追う姿勢を取っていたA1も、足を止めた。追う理由が消えた、という判断だった。

緑が黄に「戻る?」と声をかけ、黄が「戻る」とだけ返す。二人の間ではそれで用が足りるらしかった。黄がその場に残った。サクラの方を一秒だけ見て、それ以上は何も言わずに足場を降りていく。何かを伝えたそうな目だったが、言葉にはならなかった。緑もそれに続いて降りていった。二人とも、こちらに一礼も報告もしなかった。降りていく二人の足音が、鉄骨を伝ってしばらく届いていた。

地上に降りると、A1が所轄署への一報を無線で入れた。「対象、離脱。負傷者なし」。Q経由の受信確認が短く一言だけ返ってくる。「了解。記録します」。時刻は二十二時三分になっていた。出動から現場離脱まで、およそ三十五分。工事現場の責任者が呼ばれ、フェンスの破損箇所と足場の損傷を、点検表を片手に確認していく。「上のほうの鉄骨、二本ほど焦げてますね」と責任者が言い、A1は「強風による資材の落下、ということで処理をお願いします」とだけ返した。責任者は少し間を置いてから、「……分かりました」と頷いた。夜間の巡回員には同じ説明が繰り返されることになるらしい。現場保存のテープが二箇所に張られ、破損箇所の写真が四枚撮られた。被害額は概算で十数万円になるという見立てだった。目撃者は、詰所に避難していた警備員一人だけで、供述は「音がして、見たら光っていた」の一文で終わっていた。明日の朝までに、工事監督の判断で足場の再点検が入るという。責任者が最後に「工期には響かないと思います」と付け加えたのを、A1は「それは、そちらのご判断で」とだけ返して聞き流した。近隣への聞き込みは行わない方針で、朝までに現場周辺の看板を一枚差し替えるだけの対応で済ませることになった。

後始末の最中、サクラは足場の一番上、まだ誰もいないはずの層に、黒い影が立っているのに気づいた。逆光で顔までは見えない。影はしばらく動かず、こちらを見下ろしていた。A1は責任者との確認に戻っていて、上のほうまでは見ていない。やがて、何かがサクラの持っていた透明な板の上を滑ってきた。

カードだった。厚みのある紙質で、端に金の細い縁取りがある。板のわずかな傾きに沿って滑り、途中で一度速度を落としてから、サクラの手のひらの前でぴたりと止まった。指先で拾い上げると、紙は思ったより重く、表面に細かい凹凸があった。

「あなたに、伺いたいことがございますの」

小さな筆記体で、その一行だけが書かれていた。インクは滲みひとつなく、書いてすぐ乾かしたような線だった。差出人の名前はどこにもない。もう一度顔を上げたときには、黒い影はすでに足場の上から消えていて、そこにいた気配だけがまだ残っていた。

A1はまだフェンスの破損箇所を工事責任者と確認している。こちらを見ていない。サクラは一度、カードを制服の袖口に隠す案も考えた。だが袖口では歩くたびに端がのぞく。結局、内ポケットに滑り込ませることにした。A1の視線が届かない側の角度を選んで。紙の硬さが、布越しに胸の位置でかすかに主張していた。歩き出しても、その硬さだけは消えなかった。誰かに何かを隠すのは、これが初めてだった。

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