アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
夜、南平台の自室で、サクラは制服の内ポケットに入れたままだったカードを取り出した。表の一行を何度か読み返してから、何気なく裏返してみると、そこにも同じ細い筆記体で文字があった。「十一月十日、十八時三十分。同じ場所に、いらして」。表よりも裏の文字の方が、心持ち太かった。インクの乾き方も違う気がしたが、確かめようがなかった。差出人の名前は、やはりどこにもなかった。カードは、教科書に挟んで机の引き出しの奥にしまった。誰かに見られる心配はほとんどないはずだったが、その夜だけは引き出しを二度確認してから寝た。
日付だけを頭の中に置いたまま、サクラは二日を過ごした。誰にも言わなかった。言う言葉を用意する作業自体を、最初からしなかった。その二日のあいだ、A1と交わした会話はいつも通りの量だったはずだが、サクラの側では、いつも通りに見えるように振る舞う分の力を余計に使っていた。十日の夕方、書斎でA1が報告書の続きに向かっているのを廊下から確認してから、サクラは制服のまま玄関を出た。靴を履く音を立てないよう、踵を先に入れてから爪先を落とした。行き先は言わなかった。訊かれなかったので、それで済んだ。時刻確認用に持っている第六世代のiPodには、十七時四十分と表示されていた。母親のお下がりだったこの端末を、サクラはこういう時にだけ意識する。
渋谷から大手町までは、半蔵門線で二十二分。乗り換えなしの一本だった。車内にはまだ制服姿の生徒が何人か残っていて、サクラはドアの脇に立ったまま、窓の外が藍色に変わっていくのを見ていた。表参道のあたりで、車内の照明が急に眩しく感じられた。外の方が先に暗くなった、というだけのことだった。窓ガラスに映る自分の顔を、サクラは長くは見なかった。制服のリボンの結び目を一度だけ指で確かめる。カードを見つけた夜から、この結び目を確かめる回数が増えていることに、本人はまだ気づいていなかった。
大手町の駅を出ると、目当てのビルは周囲より頭一つ高く、上のほうの窓だけがまだ夕方の名残の色を映していた。ビルの正面まで歩く間、風はほとんどなく、空気だけが渋谷より少し冷たく感じられた。エントランスで名前を訊かれることはなく、指定されたエレベーターに乗せられる。受付脇のモニターには、この日の来訪者数が「本日:十九名」とだけ表示されていた。渡された来訪者証には所属欄も氏名欄もなく、発行時刻と有効時間だけが印字されている。有効時間は九十分だった。案内の人間は一言も話さず、カードキーを自分でかざしてから、階数のボタンにはサクラを触れさせなかった。エレベーターの内壁は鏡になっていて、俯いたままの自分がそこに映っていたが、サクラは見ないようにした。数字の増える速さが、途中から明らかに変わった。三十を過ぎたあたりで耳の奥に鈍い圧がかかり、サクラは唾を飲み込んでそれを逃した。逃しきれない分が、耳の奥にまだ薄く残っていた。扉が開いた先の廊下は、足音をほとんど吸ってしまう絨毯敷きで、サクラの上履きに近い靴の音も、途中から聞こえなくなった。壁際の照明は等間隔に並び、その間隔の狂いのなさだけで、学校の廊下とは違う場所だと分かった。
通された部屋は、壁の一面がガラスだった。窓の外には、東京の灯りが下から順に埋まっていく途中の景色が広がっている。テーブルの脇、低いガラスの飾り棚には、古びた新聞の一面が数枚、額に入れられて並んでいた。日付までは読み取れない距離だったが、見出しの活字の大きさが今の新聞よりずっと大きく見えた。紙の色はどれも黄ばんでいる。棚のもう一方の端には、紅葉した枝を一本だけ活けた花器があった。花はなく、枝と葉だけだった。天井の照明は電球の見えない間接照明で、影のできかたが学校や自宅のものと違っていた。空調の音はほとんど聞こえないのに、部屋の中はうっすらと暖かかった。案内された椅子は、窓を背にしない側だった。座ってすぐ、光が正面から当たっていることに気づいたが、理由までは考えなかった。テーブルの木目には継ぎ目がなく、傷らしい傷も見当たらなかった。三人目の客として通されたという事実を、サクラは特に意味づけせずに受け取った。
ノックがあって、羽根川クロエが給仕を一人連れて入ってきた。「ごきげんよう。お運びいただき、ありがとう存じますわ」。声は柔らかく、抑揚のかけかたに迷いがなかった。給仕はポットを二つ運んできて、片方だけに茶葉を入れ、もう片方の湯をそちらへ移し替えてから、砂時計で蒸らしの時間を計った。サクラはその手順を、初めて見る作法として黙って眺めた。香りに覚えがある気がしたが、それが何の匂いなのか、言葉になる前に消えた。カップは薄く、持ち手に指をかけるとかすかに揺れた。落とさないように両手で持つと、クロエが小さく笑って、「片手でよろしいのよ」と言った。
三段のトレイも運ばれてきた。一段目にサンドイッチ、二段目に焼きたての匂いのするスコーンが二種、三段目に一口大の焼き菓子が並んでいる。サクラはどれにも手を伸ばさなかった。学校の給食でも家でも見たことのない並べ方で、どれから食べていいのか分からなかった。クロエはそれに気づいたふうもなく、自分のカップだけをゆっくり傾けている。給仕は一礼だけを残して退室し、扉の閉まる音は、家の玄関よりずっと静かだった。
「今年は、紅葉が早いようですわね」。クロエは窓の外を一度見て、それからサクラの方へ視線を戻した。「学校の方は、選挙のせいで何か変わりまして?」「……特には」とサクラは答えた。「入口のところに、選挙カーが止まってたことはあります」。「それは、賑やかなことですこと」。「先生が、静かにするようにって、朝礼で一回言ってました」とサクラは付け足した。クロエは「学校の先生らしい対応ですこと」とだけ返し、それ以上は広げなかった。世間話はそこで一度途切れ、クロエが茶碗を持ち上げた。「ところで」と続けた声の高さは、季節の話をしていたときと変わらなかった。「あなた、魔法少女になる前は、何者だったのか——覚えていらして?」
覚えている、と答えるつもりで、サクラは自分の中に手を伸ばした。名前があったはずの場所に、指を伸ばす。掴む前に、そこに掴むものがないことが分かった。何度も開けてきた引き出しの、取っ手のあるはずの位置に指をかけたら、板だけがまっすぐに続いていた——その時の感触に近かった。開かない、のではなかった。取っ手そのものが、最初からそこになかった。膝の上に置いた手の指先が、意味もなくスカートの布地をつまんでは離すのを、サクラは自分でも止められなかった。「……ないです」とだけ、サクラは言った。声は思ったより平らに出た。
クロエはすぐに次の言葉を継がなかった。いつもの間合いより長い沈黙が挟まり、指先が茶器の縁を一度なぞってから離れた。「ない、というのは」と促す声も、いつもより少しだけ遅れて出た。
答えられない代わりに、他のものは出てきた。夕食はいつも七時半だったこと。風呂は父、母、自分の順で入っていたこと。家から少し歩いた先の、信号のない交差点。車が来ないのを待って、渡り始めるまでにいつも十七歩数えていたこと。手続きの形をした記憶だけが、順番も歩数も崩れずに残っている。「そういうのは、覚えてます」とサクラは言った。「何時にご飯を食べてたとか、信号のない道を渡るのに何歩だったとか、そういうのは」。声に出しながら、自分でも意外なくらいすらすらと数字が出てくることに気づいた。忘れていたはずのものが、訊かれた途端に順番よく並んで出てくる感触は、名前を探したときの手応えのなさとまるで違っていた。クロエは黙って聞いていたが、ソーサーに戻しかけたカップが、一瞬だけ宙で止まっていることに、サクラは気づかなかった。
顔は、もっと早く消えていた。父の顔も、母の顔も、思い出そうとすると輪郭のところで止まる。田中という友達の顔も同じだった。ハンバーグの味は舌の記憶としてまだ残っているのに、それを作った手も、それを一緒に食べていた顔も、像を結ばない。フライパンの音、ソースの焦げる匂い、皿が四枚並ぶ音までは思い出せるのに、その音を立てていた手の持ち主が抜けている。「味は、分かるんです」とサクラは付け加えた。「でも、誰の顔でそれを食べてたのか、そこだけが白いっていうか」。クロエは「白い、と仰るのね」と繰り返しただけで、それ以上は訊かなかった。手続きと事実だけが残って、その真ん中にいたはずの人間の形だけが抜けている。
カップの中の茶は、いつの間にか湯気を上げなくなっていた。表面に薄い膜のようなものが張っている。サクラはそれに気づいていたが、手を伸ばさなかった。伸ばす理由が、うまく組み立てられなかった。壁際の置き時計は、面会が始まってから、まだ二十分ほどしか進んでいなかった。それだけの時間で、三つの質問がすでに終わっていた。
中学の名前も、番地も、同じように出てこなかった。テーブルの木目の上に、指先で見えない地図をなぞろうとしたが、二画目のあたりで指が止まった。「学校のお名前は?」とクロエが訊いた。「……東横線で、二駅のところです」とサクラは答えた。「駅名でも、校名でもなく?」「坂の下、っていうのは覚えてるんですけど」。答えになっていないことは、サクラ自身にも分かっていた。残っているのは「東横線で二駅」ということと、「坂の下」という場所の断片だけだった。地図の上の点ではなく、歩いた感触の方だけが記憶に残っている。名前だけが、どの記憶からも先に抜け落ちていた。
クロエは、しばらく何も言わなかった。何か言おうとして、途中で止めた気配だけがあった。「これは——」と言いかけて、続きが出てこない。数秒待ってから、クロエは「……興味深いことですわね」とだけ言った。「興味深い」という言葉が、この部屋に来てから初めて、社交の温度から外れて聞こえた。窓の外では、灯りの粒がまた一つ増えていた。
帰りの支度をする素振りもないまま、サクラはカップの表面の膜を見つめていた。三段のトレイは、一段目も二段目も、まだ誰の手もつけていない状態のまま残っている。向こうに、何か言おうとした。いつもなら向こうに言葉を投げる前に、まず自分の中で言いたいことの形を作る。今夜はその形を作る場所自体が見当たらなかった。何が本当かを確かめてほしいのか、それとも何もなかったことを確かめてほしいのか、その区別すらつかない。確認してほしいことがあるはずなのに、確認する側の自分が、何を差し出せばいいのか分からない。声にする手前で、言葉は止まったままだった。窓の外の灯りは増え続けていて、部屋の中の二人だけが、さっきから同じ位置で止まっている。クロエの視線が、まだこちらに向いていた。