アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
コンビニのイートインスペースには、二人以外に誰もいなかった。
プラスチックのテーブルが四台、壁に押し付けられているようだ。プラスチックの椅子がそれぞれに二脚ずつ。蛍光灯の色が白から青白に寄った店内は、夜の十時を過ぎると灯りの量が空間の需要を明らかに超えてくる。そのせいで内側にいる人間の輪郭がかえってはっきりとして、なのに存在が薄くなる、という奇妙な現象が起きた。×××××はそのことに、座ってから気づいた。
アオイは何も言わなかった。
コンビニに向かって歩き始めたのはアオイの方だった。「行こう」とも「来て」とも言わなかった。ただ歩き始めた。×××××はその背中についていった。何も考えていなかった。考えるための器官がしばらく機能を停止していた——戦闘を目撃した後の頭は、そういうものらしかった。
アオイが缶コーヒーを二本買った。二本とも同じ銘柄で、差し出された一本を×××××は受け取った。受け取り方を考える余裕もなかった。手が缶を掴んだ。それだけだった。
壁に向かい隣り合うように座った。
アオイが缶コーヒーのプルタブを引いた。金属の小さな音。それだけが、二人の間にあった。
×××××は缶を両手で包んだ。熱かった。熱いということは、自分の手が今もここにあるということだった。ここにある、ということが、今この瞬間は確認事項として機能した。
沈黙があった。
長い沈黙だった——時計がなかったから計れなかったが、電子音の少ないイートインに、二人の呼吸の気配だけが薄く積もっていくほどの沈黙だった。コンビニの奥の冷蔵庫のコンプレッサーが低く回り続けていた。誰かが入口の自動ドアを通り過ぎる音が外から来た。遠くで救急車のサイレンが一度、遠ざかった。
×××××は何を言うべきか考えた。考えたことは全部、何かが違った。「大丈夫でしたか」「怖かったです」「かっこよかった」——どれも、さっき見たものの手前で引き返していた。さっき見たものの全量を一語に変換できる言葉が、×××××にはなかった。
だから、あったことだけを確認した。
「……怪人って、何」
アオイが顔を上げた。
少し間があった。間の置き方が、考えているのではなく、どこから始めるかを計算している感じだった。
「……魔法少女」
×××××は缶コーヒーを持ったまま、動かなかった。
魔法少女という三文字が、頭の中で着地する場所を探した。探したが、見つからなかった。×××××が知っている魔法少女は——テレビアニメの中の存在だった。変身して、戦って、悪と友情についての一話完結を繰り返す、光の多い世界の話だった。さっき見たものは、そうではなかった。暗かった。重力があった。音が湿っていた。疲労が本物だった。
「え」
「自分と同じやつ」とアオイは言った。「だから、怪人じゃない。でも妖精はそう呼ぶ」
×××××は缶を一度テーブルに置いた。
置いてから、なぜ置いたかを考えた。答えは出なかった。手が必要になったのか、置くという行為で何かの動作区切りを作ろうとしたのか、どちらとも分からなかった。ただ置いた。缶の底がプラスチックのテーブルに当たって、鈍い小さな音が出た。
「魔法少女が」と×××××は言った。「魔法少女と戦ってるの?」
「……さっきのは、そう」
「なんで」
アオイが少しだけ視線を落とした。落とした視線が缶の上面のタブに向いた。そこを見ているのではなかった——ただ「向けた先が必要だった」という感じの方向だった。
「……いくつかある」
間が来た。
「でも一番は」とアオイは続けた。「こっちが攻撃されるから」
答えが出るたびに、次の問いが来た。
×××××はそれに気がついて、少し居心地が悪くなった。問い続けていることが、アオイを追い詰めているのかもしれなかった——思ったが、アオイの顔がそういう顔をしていなかった。追い詰められている顔ではなかった。ただ、重いものを正確に運ぼうとしているときの、集中の顔だった。
「なんで攻撃してくるの。あっちは」
「……」
アオイが缶を一口飲んだ。
喉が動いた。飲んで、少し間を置いた。置き方が長かった。
「なんであなたたちは攻撃し合うの、って聞かれると」と、アオイはゆっくり言った。「答えが、ちゃんと出てこない」
×××××は黙った。続きが来るのを待った。
「妖精が言うには」とアオイは続けた。「力が有限で、それを奪い合ってるから、らしいけど」
「らしいけど」と×××××は繰り返した。問いとして言ったのではなかった。語尾の質感に、何かが引っかかって、反射で繰り返した。
アオイが顔を上げた。
×××××を、見た。今夜はじめて、ちゃんと見た、という感じの視線だった。
「本当のことを全部教えてくれてるとは、思ってない」
その言葉が着地した。
着地して、じんわりと浸透した。「妖精を信じていない」というのではなかった。「妖精が全部を知らせてくれているとは限らない」——その差が、×××××にははっきり感じ取れた。感じ取れた内容を言語化する前に、胸の内側の何かが反応した。温かくも冷たくもない何かが、ゆっくりと膨らんだ。
蛍光灯が一本、わずかに明滅した。
一瞬のことだった。気のせいかもしれなかった。でも×××××は見た。アオイも、たぶん気づいていた——目線がほんの少し、天井に向いてすぐ戻ってきた。
二人とも何も言わなかった。
蛍光灯はまた均一に白く戻った。
「アオイさんは」と×××××は言った。「妖精のことを、嫌い?」
これは聞くべき問いではなかったかもしれない、と言いながら思った。言い終わってから後悔しかけた。しかしアオイは表情を変えなかった。変えないことで「聞いていい問いだった」という判断をされた気がした。
また間があった。
今度の間の質が、他の間と少し違った。他の間は「どう言うかを探している」間だったが、この間は「どう感じているかを確かめている」間に近かった。
「嫌いかどうかは、分からない」とアオイは言った。
声が、少しだけ低くなった。
「妖精は、来てくれた。来てくれたのは確かだ。私が一番——外にいた頃に」
外にいた頃、という言い方が引っかかった。×××××は聞き返さなかった。聞き返す必要がなかった——「外にいた」の意味は、たぶんこの文脈の中に含まれていた。家の中、あるいは社会の中、あるいはどこかの「中」から、切り離されていた頃。その頃に、声が来た。
「でも」とアオイは続けた。「全部信じているかというと」
止まった。
「……違う」と、最終的に言った。「違う、と思う。何かが、違う、とは思ってる」
何かが、という言い方だった。
具体的に何かを言わなかった。言えないのではなく——言語化する前の段階で、「何か」と名付けることを選んでいる感じがした。「何か」と呼ぶことで、それを検討し続ける余地を残している感じ。言葉で固定すると、固定したものが実体になる——アオイはそれを怖れているのかもしれなかった。あるいは、固定することを拒否しているのかもしれなかった。
×××××には判断できなかった。
缶コーヒーが、冷めてきた。
×××××は缶を両手で包んだまま、温度が少しずつ移っていくのを感じていた。掌から奪われていくのか、缶の熱が手に移っているのか、どちらが正しい表現なのかは分からなかった。どちらでもあった。熱は移動するだけで、消えないのだということを、手が知っていた。
「じゃあ」と×××××は言った。「妖精は、全部を教えてくれてないかもしれない。でも、アオイさんは戦ってる」
「うん」
「それは、どうして?」
今度の間は、一番長かった。
アオイがテーブルの上に両手を置いた。缶を持たずに置いた。指先が、プラスチックの表面に触れていた。その状態で、何かを考えた。考えているあいだ、指先は動かなかった。動かないことが、考えの深さを示していた。
「……変身してる間は」とアオイは言った。「静かだから」
「静か、って」
「頭が。いろんなことを考えなくていい。考えなくていいというより——考えることができなくなる。全部が、今目の前にあることだけになる」
×××××は、その言葉を受け取った。
受け取って、どこに置くべきか分からなかった。ただ、落とさないように持った。
「それが」と×××××は言いかけて、止まった。「……いいこと、なの?」
「分からない」とアオイは即座に言った。
即座だった。考えずに出た言葉だった。考えずに出たということは、考えるまでもなく「分からない」が本当だということだった。
「良くないかもしれない。良いかもしれない。ただ、静かになる、というだけのことは事実で、それが私には——」
また止まった。
「今は必要だから、してる」と、最後にそこへ着地した。「それだけ」
自動ドアが開いた。
深夜の渋谷を歩いていた誰かが、コンビニに入ってきた。一人の男だった。三十代か四十代か、疲れ方が年齢を食っていた。コンビニに入ってきてすぐに冷蔵庫の前に向かい、スポーツドリンクを一本取った。レジに向かった。財布を出した。支払った。出ていった。
その一分足らずの間、×××××もアオイも話さなかった。
男が自動ドアを抜けて外の夜に消えると、また二人だけになった。コンプレッサーの音が戻ってきた——消えていたわけではないのに、男がいた間は聞こえていなかった音が、また聞こえるようになった。
「一つ、聞いていい」と×××××は言った。
アオイが顔を向けた。
「さっきの——戦ってた人。あの人も、妖精がいるの?」
「……いると思う」とアオイは言った。「私のとは、たぶん違う妖精。でも、いると思う」
「そのひとも、誰かに」
「たぶん」
「……『あなただけが』って言われてる?」
アオイが少し止まった。
止まったのは、問いが予想外だったからではないと、×××××には分かった。予想の範囲内だったが、それを認識したときに何かが動いた——そういう止まり方だった。
「……そうかもしれない」と、アオイはゆっくり言った。「同じことを言われてるとしたら」
「何?」
「その人が戦う理由と、私が戦う理由は」と、アオイは言った。「おなじなのかもしれない」
その言い方が、×××××には引っかかった。
おなじ、という言葉に——「それが困る」という感触が乗っていた。戦う理由が、同じ。同じ理由で、同じ妖精に動かされて、互いに戦わされている。それが「困る」のは、どういうことだろう。困る、というより——それが分かったとき、何かの枠組みが変わる、という感触。
言語化できなかった。
できないまま、×××××は缶コーヒーを持ち上げた。飲んだ。ぬるかった。飲みながら、向かいのアオイを見た。アオイは缶を両手で持ったまま、テーブルの一点を見ていた。見ていて、何も言わなかった。
それでよかった。
×××××には、今それ以上の言葉が出てこなかった。出てこないが、出てこないことが——この沈黙を壊さなかった。この沈黙は「何も言えない」の沈黙ではなかった。「言わなくてもある」の沈黙だった。その差が、×××××にはっきりと分かった。
しばらく経って、アオイが言った。
「帰れる?」
「……うん」
「電車、まだある」
「ある」
確認し合った。それだけだった。立ち上がる前の、実務的な言葉の交換だった。しかしその実務が、奇妙なほど温かかった——温かい、という表現が正確かどうかも×××××には分からなかったが、他の言葉が出てこなかった。
二人で立ち上がった。
缶を捨てるゴミ箱はレジの横にあった。アオイが先に行って、自分の缶を捨てた。×××××がその後に続いた。二人並んで自動ドアを抜けた。
外の空気が、コンビニの内側と全然違った。
三月の夜の渋谷は、昼間のような体積を持たない。人が少なくなった分だけ、空気が薄まる——薄まるというより、密度が下がって、それぞれの音と光が輪郭を取り戻す。コンビニの看板の白い光が、アスファルトに四角い影を作っていた。遠くで電車の走る音がして、消えた。
「アオイさん」と×××××は言った。
アオイが少し振り返った。振り返りきらなかった——横顔だけが夜光の中に向いた。
「今日、一緒にいてよかった?」
間があった。
この間の質を、×××××は判定できなかった。今夜、いくつも種類の違う間を経験していたが、これはまたどれとも違う間だった。驚きを処理する間でも、言い方を選ぶ間でも、感情を確認する間でもなかった。
もっと根の深い場所で、何かを確認している間だった。
「……いた、から」と、アオイはゆっくり言った。
「え?」
「あなたが、いたから」
それだけだった。
続かなかった。アオイはそれだけ言って、また前を向いた。歩き始めた。×××××はその後を、一歩遅れてついていった。
「いたから、よかった」なのか、「いたから、どうした」なのか——アオイが最後まで言わなかった。言わなかったが、×××××には何かが伝わった。伝わった内容を言語化することを、×××××はしなかった。言語化すると、何かが失われる気がした。
言葉になる前の何かを、そのまま持って帰ることにした。
コンビニから渋谷駅まで、二人は大して話さなかった。
話さなかったが、並んで歩いた。それだけのことが、×××××には確かなことだった。並んで歩いている、ということ。足音がそれぞれに違うこと。アオイの歩幅が×××××よりほんの少し広いこと。三月の夜のアスファルトが足の裏から固さを伝えてくること。
どれも、今ここにある事実だった。
今夜見たものを——変身を、戦いを、あの疲弊した顔を——全部処理し終わるのはいつのことか、×××××には分からなかった。処理できる日が来るかどうかも、分からなかった。ただ、処理するとしたら一人でする、ということは分かった。今夜ではない。一人になってから。電車の中か、あるいは家に帰ってから布団の中で天井を見ながら。
改札の前で、二人は止まった。
アオイは渋谷に住んでいる。×××××は電車で帰る。ここで分かれる。それだけのことが、この場所でははっきりしていた。
「またね」と、アオイが言った。
言い方が、いつもと少し違った気がした。少し、というにも小さい差だった。差がどこにあるかを×××××は特定できなかった。ただ、違った。
「うん」と×××××は言った。「またね」
アオイが踵を返した。
渋谷の夜の中に、歩いていった。
×××××はその背中を見た。見えなくなるまで見た——見えなくなるまで、という判断をしたわけではなかった。見ていたら見えなくなった。見えなくなってから、改札に向かった。
ICカードをタッチした。
電子音が一度鳴った。
改札の向こうに入った。ホームへの階段を下りながら、×××××は今夜のことを頭の中で並べてみた。並べてみたが、並べ方が分からなかった。一本の線にならなかった。点が、いくつかあった。傘を渡した夜の「ありがとう」。コンビニのイートインの蛍光灯。缶コーヒーの熱。「本当のことを全部教えてくれてるとは思ってない」という声。「あなたが、いたから」という言葉の、続かなかった部分。
全部が、一本の線にならなかった。
ならなくてよかった、と思った。
線にした瞬間に、その線の外が消える。消えてほしくなかった——どこかへ落ちてほしくなかった。全部を、ばらばらのまま持っていたかった。
ホームに、電車が来た。
ドアが開いた。×××××は乗った。ドアが閉まった。
電車が動き始めた。
渋谷の光が、窓の外を流れた。流れながら、遠くなった。遠くなりながら、見えなくなった。
見えなくなった後も、×××××はしばらく窓の外を見ていた。