アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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9.キュイール・ドゥ・ルシー-Cuir de Russie-

窓の外の灯りは増え続けていたが、部屋の中の二人はさっきから同じ位置で止まっていた。壁際の置き時計の針は、面会が始まってから四十分近くを指している。来訪者証に印字された有効時間は九十分だったから、残りはもう半分を切っている。クロエの視線がまだこちらに向いている。カップの中の膜はさらに厚くなり、三段のトレイのサンドイッチとスコーンは手つかずのまま冷めきっていた。給仕を呼ぶ気配もなかった。しばらくして、クロエはテーブルの上の紙入れの角をわずかに直し、それから、飾り棚に並んだ古い新聞の額の方へ一度だけ視線をやった。日付までは読めない黄ばんだ一面。それから、口を開いた。

「委員会——上部構造の仕業ではなくて?」

問いというより、確かめるような声の高さだった。「あなたの中から抜けているものは、忘れた、というのとは違う気がいたしますの。忘れたのなら、忘れた場所の輪郭くらいは残るものですわ。あなたのそれは、輪郭ごと持っていかれている」。サクラは何も答えなかった。答える言葉を、まだ持っていなかった。

「わたくし、以前からある考えを温めておりますの」とクロエは続けた。「この国の中央には、誰にどれだけの尺を与えるか、誰を配役の外に置くかを決めている者たちがいる、と。舞台には人数分の尺しかありませんもの。全員が主役では、舞台そのものが持ちません」。「尺、というのは——」とサクラが訊きかけると、クロエは「時間の配分、というほどの意味ですわ」とだけ短く挟んで、先を続けた。「本来、その舞台に立つはずのない者が、数え間違いのように紛れ込むことがあるとしたら。決められた配役の外側に、余分な一人がいるとしたら」。クロエはそこで初めて、少し声を落とした。「あなた、もしかして、その方かもしれませんわね」

「七人、って」。どこかで聞いた数字が、サクラの口から思わずこぼれた。クロエは軽く首を傾けただけで、その先は答えなかった。「それは、今はまだ、よろしいですわ」。核心には触れさせない、線を引くような間の置き方だった。サクラは、それ以上尋ねる言葉を持たなかった。

「配役には、終わりが来るものですの」。クロエは湯呑みに指をかけたまま、それを持ち上げなかった。「書かれた者は、いつか、書き終わられる。名前が消えるのも、顔が像を結ばなくなるのも、その終わり方の一部だとしたら。筋は、通りますでしょう」。棚の額の中の新聞も、いつか誰かが書くのをやめた紙面だった。「終わられる、って」とサクラが繰り返すと、クロエは頷いた。「ご自分では、終わらせられない側にいらっしゃる、という意味ですわ」。サクラは、通るとも通らないとも言えなかった。ただ、「終わられる」という言い方の、自分がされる側にしかならない語順だけが、耳に残った。

「そんなことのために、名前を消すんですか」。サクラの声は、責めるというより、確かめる響きに近かった。クロエは少し考えてから答えた。「消す、というのとも、少し違いますの。要らなくなった尺を、片付けるだけ。片付けの理由に、悪意があるかどうかは、また別の話ですわ」。片付け、という言葉の軽さが、サクラの中の何かに引っかかった。片付けられる側に、感情も痛みもないという前提で、その言葉は選ばれていた。自分がその「片付け」の対象だったのだとしたら、この部屋の暖かさも、目の前の菓子の匂いも、片付けの合間にたまたま置かれた小道具に見えてくる。だが、それを言葉にする前に、クロエはもう次の話に移っていた。

「東和の記録に、あなたが一行でもあるか、検めて差し上げますわ」。クロエの声が、初めて実務の調子に変わった。「うちには縮刷版のデータベースがございますの。ただし電子化されているのは一九八〇年代以降の分だけで、それより前は、地下の書庫にあるマイクロフィルムを一本ずつ繰るしかありませんの」。指先で、見えない紙をめくる仕草をひとつ挟む。「古いものほど、紙魚に食われて字が読めない箇所もございますの。それでも、見出しの大きさだけは分かりますわ」。「学籍記録の照会経路も、区役所の窓口を通すよりずっと早い経路がございますわ。うちの顧問弁護士の名義で、教育委員会の学事課に一本、電話を入れるだけで済みますもの。早ければ、三日で返事が参ります」。給仕が下げ忘れたトレイの端で、冷めた紅茶の匂いが弱く漂っていた。「東横線で二駅、坂の下、という断片だけでも、学区を絞る手がかりにはなりますわ。あなたの中学が、どの統廃合の書類にも載っていないのだとしたら、それ自体が一つの答えになる。載っていないことを、確かめに行きましょう」。区の教育委員会が保管する廃校台帳は、統合か閉校かの区分ごとに別の綴りになっていて、どちらにも該当がなければ、それ以上の照会先はもう文部科学省しか残っていない、とクロエは付け加えた。そこまで言われて、サクラはようやく、自分がどれだけ具体的な手続きの話をされているかに気づいた。

「わたくしと一緒に、その上を、ご覧になりません?」

クロエの手が、テーブルの端でわずかに前に出た。誘う仕草というより、選択肢を差し出す仕草だった。指の先が、冷めた茶器の縁から数センチのところで止まっている。窓の外では、街灯の灯りがまた一つ増えていた。サクラは膝の上で指を組んだまま、しばらく黙っていた。やがて、声にした。

「ワタシは、名前が、ないんです」

それだけだった。上部構造とか、配役とか、そういう言葉の続きではなく、もっと手前にある欠落を、サクラはそのまま口にした。声は思ったより小さく出た。クロエが一拍止まる。カップに触れていた指が、ソーサーの縁で止まったままだった。「ですから、それを探すための道筋を——」と言いかけたクロエに、サクラは首を振った。「そういうことじゃなくて」。うまく説明できず、言葉が途切れる。膝の上で組んだ手に、力だけが余計に入る。「誰が決めたとか、なんで消えたとか、そういうのは、今はいいんです。ただ、名前が欲しいだけなんです」

クロエは間を置かず、二の手を出した。「道筋があれば、名前にも辿り着けますわ」。声の丁寧さは崩れていなかったが、二度目の説明には、さっきよりわずかに速度がついていた。サクラは首を横に振った。「道筋、じゃなくて」。膝の上で、指先がまたスカートの布を意味もなくつまんでは離す。窓の外、灯りの粒がまた一つ増えたのが、視界の端でぼんやり分かった。「クロエさんが言ってるのは、全部、外側の話です。ワタシが知りたいのは、そういうことじゃなくて」。クロエが三の手を出す。「では、内側の話とは、どういうものですの」。静かな問いだったが、サクラにはそれすら答えられなかった。何が違うのかを、自分でもうまく言葉にできない。喉の奥に言葉の形だけがあって、声にする前に崩れる感触だった。ただ、クロエの語彙のどこにも、自分の欲しいものの形が見当たらないことだけは分かった。

クロエは何も返さなかった。差し出した手を、そのまま自分の膝の上に戻す。テーブルの上の紙入れに、もう一度視線が落ちた。サクラの欲しいものと、クロエが渡せるものは、たぶん最初から別のものだった。それが確定するまでに、三度のやり取りで足りた。会話が途切れたあとの沈黙は、世間話が途切れたときの沈黙とは質が違っていた。埋めようとする素振りすら、どちらの側からも出てこなかった。

サクラは立ち上がった。椅子を引く音が、絨毯に半分吸われて小さくなる。スカートの裾を一度だけ手のひらで払い、それ以上の動作はしなかった。窓を背にする位置に立つと、東京の灯りがサクラの輪郭の向こう側に広がった。間接照明の作る影が、床の上でサクラの足元だけをわずかに濃くしている。ガラス越しの冷気が、背中にわずかに触れる。振り返らずにドアへ歩く。三段のトレイの脇を通り過ぎるとき、スコーンの焼けた匂いがまだかすかに残っていることに、サクラは初めて気づいた。ノブに手をかけたところで、後ろから声が来た。

「あなた、本当は、何者なの?」

丁寧さの膜が、そこで一瞬だけ剥がれていた。語尾の伸びがなく、言葉が短く切れて出てきた声だった。サクラは振り向かなかったが、ドアノブにかけた手が止まった。息を止めていたことに、自分でも遅れて気づく。壁の置き時計の秒針が二つ分進むほどの間があって、部屋の空調の音だけがその隙間を埋めていた。それから、クロエの声がもう一度続いた。

「——何者、でいらっしゃるの」

言い直しは、ほとんど間を置かずに来た。だが、最初の一言との落差だけは消えなかった。剥がれた膜を、クロエ自身がすぐに貼り直した音だった。サクラには、その貼り直しの速さの方が、剥がれたことよりも雄弁に聞こえた。何かを取り繕う声というより、取り繕うことに慣れている声だった。

答えを持たないまま、サクラはドアを開けた。廊下の絨毯敷きの静けさが、部屋の空気とは違う温度で足元に触れる。来たときと同じで、上履きに近い靴の音は、一歩目からほとんど吸われて消えた。壁際の照明の等間隔な並びも、来たときに見たままだった。ドアが閉まりきる直前、隙間からガラス壁の反射が一瞬だけ見えた。クロエがテーブルの紙に何か書き足している。ペン先が「サクラ」の字の脇で止まり、丸を描く動きには入らないまま、そこで止まっていた。ドアが閉まり、反射も見えなくなった。

 

 


 

 

エレベーターの数字は、上がるときより速く落ちていった。三十階を切ったところで耳の奥にまた鈍い圧がかかったが、今度は驚かなかった。同じことが同じ場所で起きると分かっている分、飲み込むタイミングだけ早く出た。籠の中には他に誰も乗っていない。壁一面の鏡張りは行きと同じだったが、今度は最初から目を伏せていたので、映る角度を確かめる必要もなかった。一階に着くと、案内の人間は行きと同じ無言のまま、サクラの首から下げた来訪者証を指先で示した。返却口は受付の脇にある小さな金属の箱で、投函口の形をしている。押し込むと、内部で軽い音が一つ鳴った。壁のモニターには「本日:二十名」と表示が変わっていた。来たときは十九名だった数字が、サクラの分だけ増えて、また誰にも分からない形に戻ろうとしている。エントランスの回転扉のガラスには、清掃済みを示す小さなシールが貼り替えられたばかりだった。日付は今日のものだった。夜間受付の警備員は、机の脇の巡回簿に何かを書き込んでいる途中で、サクラが通り過ぎるのを目の端で追っただけだった。壁の防犯カメラの赤いランプが、天井の隅で規則正しく点滅している。

ビルを出ると、風が出ていた。大手町のこの時間は人通りが少なく、道の両側のビルの窓の灯りだけが、まだ仕事の続いていることを示していた。地下鉄の駅までは五分もかからない。改札を抜けて半蔵門線のホームに立つと、発車標には「次:渋谷方面 三分後」と出ていた。行きに乗ったのとほとんど同じ間隔だった。渋谷までは二十二分、乗り換えなしの一本。車両の中は、行きよりも混んでいた。スーツ姿の大人が増え、部活帰りらしい制服の生徒はもう見当たらない。空いていた座席の一つには、読み終えた夕刊が畳んで置き去りにされていた。暖房がこの時期から入り始めたばかりらしく、足元の吹き出し口から出る温い空気が、ドア際に立つサクラの足首にだけ届いていた。ドアの脇に立ったまま、サクラは窓の外を見ないようにした。行きは長くは見なかっただけだったが、帰りは最初から見ないと決めていた。ガラスに映るものを確かめる気力が、もう残っていなかった。表参道を過ぎたあたりで車内アナウンスが次は渋谷だと告げ、ドアの上の路線図でその駅名だけがまだ点灯していないことに、サクラは気づいた。時刻確認用のiPodには、二十時を少し過ぎた数字が出ていた。

渋谷に着くと、地下の連絡通路はいつもと同じ人の流れだった。改札を抜け、地上へ続く階段の手前で、サクラは俯いた。俯くこと自体は、物心つく前からの癖だった。だが今夜のそれは、癖とは少し違う動き方をしていた。誰かに顔を見られたくないという理由が、初めて俯く動作の後ろについていた。地上に出ると、風は大手町より一段冷たく感じられた。息は白くならない程度の冷え方だったが、制服の袖から出た指先はもうかじかんでいる。スクランブル交差点の街頭ビジョンは、まだ選挙の話題を映していない。買い替え直後らしい家電の広告が、大きな音量で繰り返し流れていた。信号の待ち時間表示は残り四十秒を示していて、数字が減っていく間、周囲の誰もが同じ方向を向いて立っていた。青に変わると同時に、人波に紛れ、周りの誰とも目を合わせないまま横断歩道を渡る。この街を「向こうから要求してくる場所」だと感じていた頃と、今の俯き方は、外からは同じに見えて、中身が違っていた。あの頃は、俯くことで街をやり過ごしていた。今夜は、俯くことで自分をやり過ごしている。

宮益坂の手前に、選挙の掲示場がもう組み上がっていた。合板のパネルが横に八枚、左から順に一番から八番までの番号が振られている。どの枠にもまだポスターは貼られていない。骨組みだけの状態で、パネルの継ぎ目を留める針金が、街灯の光を受けて細く光っていた。枠の下には「候補者氏名掲示場」という印字があり、その脇に管理番号らしい四桁の数字が小さく打たれている。パネルを支える鉄パイプの脚は左右二本ずつ、地面に打ち込まれたアンカーで固定されていた。土台のコンクリートブロックはまだ真新しく、周りのアスファルトより白かった。組み立て作業の際に出たとみられる木くずが、ブロックの隙間にまだ数枚挟まったままになっている。パネルの一枚だけ、下端がわずかに反っている。留め忘れた針金がまだ一箇所残っているせいらしかった。サクラは足を止めずに通り過ぎた。ここに誰の顔が貼られるのか、今夜はまだ知らない。

宮益坂を上りきったところで、人通りが急に減った。シャッターの下りた店が三軒続き、自販機の明かりだけが道の片側を照らしている。ビルの隙間から見える空に、月は出ていなかった。自販機の下の方で、コンプレッサーの唸りが低く続いていた。サクラは、街の音が一段遠くなる角を選んで、足を止めていた。選んだ、ということに、口を開いてから気づいた。

——ワタシが、誰だったか、知ってるの。

声になったのか、ならなかったのか、自分でも判別がつかなかった。今までの向こうへの言葉は、いつもA1が近くにいるときに出てきた。今度だけは違う。答えの返る見込みのない場所を、無意識のうちに選んで、そこで初めて訊けた問いだった。訊いてしまってから、選んでいたことに気づいたのは、サクラ自身だった。返事を怖がっているのか、返事のない場所でしか訊けない自分を確かめたいだけなのか、区別はつかなかった。これまでの向こうへの言葉は、いつも誰かに宛てるつもりで出てきた。今度の言葉は、宛先が自分自身の内側に折り返しているようにも感じられた。指先の冷たさだけが、はっきりしていた。ポケットに手を入れ、また出す。それを二度繰り返してから、サクラは坂の続きを歩き出した。

南平台までは、坂を上って十五分ほどだった。渋谷の谷を抜けて代官山寄りに上るこの道は、平地より二度は気温が低いと、以前A1が一度だけ口にしたことがある。この時間になると、坂の途中の街灯は半分ほどが人感センサー式に切り替わり、サクラが通るたびに一つずつ点いては、通り過ぎた後で消えていく。坂の勾配がきつくなる辺りで、息が上がって白く見え始めた。塀の切れ目の門のところに、黒い上下のA1が立っていた。街灯の届かない位置に立っているせいで、輪郭だけが先に見えた。呼び鈴は、この家についてから一度も押したことがない。

「遅かったな」

問いの形をしていなかった。語尾は下がったままで、疑問符を必要としない言い方だった。時刻を確かめたわけでもなさそうだったが、A1が時刻を確かめない、ということ自体が、もう一つの確かめ方のように聞こえた。

「……散歩です」

言ってから、声の震え方に、サクラ自身が遅れて気づいた。隠し事をこんな形で口にしたのは、今日が初めてだった。今までの隠し事は、黙っているだけで済んでいた。今度は、言葉の形を取って外に出てきた。出てきてしまった後で、戻す方法はどこにもなかった。

A1は、それ以上訊かなかった。手にしていた巡回記録らしい端末を、一度だけ軽く握り直しただけだった。画面の光は、下を向けたままだった。沈黙は、数えるなら三十秒に満たなかったはずだった。それでも今夜のその三十秒に満たない間は、いつもの沈黙より長く感じられた。

追及しないことが、いつもならただの信頼に見えた。今夜だけは、違って見えた。訊けば嘘だと分かってしまうから訊かない、というふうに見えた。気づいていて、言わない。サクラの中に、また一つ、名前のつかない重さが積まれた。

門をくぐると、欅の枝が夜風に鳴った。葉はもう半分近く落ちていて、残っている分だけが、風の中で乾いた音を立てていた。数えれば、今夜だけで何枚か減っているはずだった。数える気には、まだなれなかった。レンガ造りの洋館は、窓の半分だけに明かりが点いていた。書斎の窓は暗く、台所の窓だけが黄色く灯っている。玄関の明かりが、先に立って歩くA1の背中を照らしている。サクラはその影を踏まないよう、一歩分だけ間を空けて後に続いた。振り返らなかったA1の背中に、今日の行き先を訊く気配は最後までなかった。

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