アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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10.グレイ・ベチバー-Grey Vetiver-

食堂の壁時計は、零時を八分ほど過ぎた位置を指していた。テーブルは楢材の一枚板で、六人掛けの長さがあるのに、座っているのはサクラとA1の二人だけだった。灯りは天井の主照明を落とし、サイドボードの上の小さなランプ一つだけが点いている。橙色の光が、テーブルの中央より手前で止まり、奥の壁際までは届いていない。壁際の食器棚には、使われた形跡のない揃いのグラスが十二客並んでいて、この家に来てから一度もその全部が使われるところをサクラは見たことがなかった。棚の下段には、同じ柄の大皿が五枚だけ立てかけてあり、そちらも埃をかぶらない程度に拭かれているだけで、実際に食卓へ上がるのを見たことはない。A1は椅子の背もたれに寄りかからず、浅く腰掛けたまま、届いたばかりの巡回報告の束をまだ閉じずに置いていた。表紙には「掲示場周辺・夜間巡回記録」とだけ印字され、日付欄の隣に「三箇所・異状なし」の一行が手書きで添えられている。ページ数は四枚。ホチキスの位置が右上で揃っていることを、A1は指先で一度確かめていた。サクラは向かいの椅子を、いつもより一段引いて座っていた。膝と天板の間に、普段より拳一つ分の余裕がある。

散歩から帰った後、風呂を先に済ませ、夕食は取らなかった。台所の明かりは早くに消え、屋敷の中でまだ起きているのはこの二人だけだった。ガラス窓の外には庭木の影が並び、風のない夜だった。カップに残っていた麦茶はとうに冷めていて、表面に薄い膜が張り始めている。サクラはそれに手をつけないまま、しばらく黙っていた。切り出す前の沈黙は、数えれば十秒に満たなかったはずだったが、いつもの十秒とは質が違っていた。

門で交わした「散歩です」という一言が、まだ喉の奥に居座っていた。あの一言を言った瞬間から、隠し事は黙っているだけでは済まなくなっていた。言葉の形を一度取ってしまったものは、取り消す先がどこにもない。だったら、次は自分から言葉の形にしてしまおうと、サクラは今夜のうちに決めていた。いつ決めたのかは、はっきりしない。風呂の湯を落とす音を聞きながらだったかもしれないし、麦茶をコップに注いだ時だったかもしれない。決めた瞬間よりも先に、身体の方がこの食堂まで運ばれてきていた。

「エイさんは」

声は、思っていたより小さく出た。

「ワタシの、前の名前を、知ってますか」

A1は報告書の束から顔を上げた。視線がサクラに合ってから、答えが返るまでに、間が一つ挟まった。

「記録の所在を答える権限の中に、ワタシはいない」

感情の起伏を含まない声だった。拒む響きも、庇う響きもなく、ただ書式に沿った答えだけがそこにあった。サクラはその答えを、もう一度頭の中で繰り返した。知らない、ではなく、答える権限がない。二つは違う言葉のはずだったが、今のサクラには同じ重さで届いた。

「じゃあ、権限があるのは誰ですか」

「その所在も、ワタシの答えられる範囲の外だ」

権限、所在。二語がすでに二度ずつ出ていた。サクラは、その繰り返しの精度に、かえって不自然さを覚えた。いつものA1なら、答えられない理由に一言だけ迂回の余地を残す。今夜のそれには迂回する隙間がなかった。

椅子を引く音がした。サクラが立ち上がった音だった。座ったままでは、次の言葉が出せない気がした。天板に両手をついて、上体だけをA1の方へ向ける。

「じゃあ」

「その記録は、どこにありますか」

「死亡処理は、Kの判断だった」

A1は報告書を一度、束の角を揃え直してから続けた。

「……当時のKだ」

「今のエイさんじゃ、開けられないんですか」

「決裁権のない書類に、ワタシは触れられない。触れられる立場にいたことも、まだ一度もない」

決裁権、という三つ目の語がそこに加わった。開示の可否を判断できる立場が、A1にはそもそも与えられていない、という一点だけが、繰り返しの向こうから薄く見えてきた。それが慰めになるのか、突き放しになるのか、サクラにはまだ判断がつかなかった。書類の表紙に印字された「三箇所・異状なし」の一行と、今の答えとが、同じ書式の紙から出てきているように見えた。

権限、判断。同じ二語が形を変えて繰り返されているだけだった。サクラは、その繰り返しの中に、答えらしい答えが一つも含まれていないことに気づいた。感情語を使わないA1が、感情語を使えないこと自体が、今夜だけは拒絶に見えた。いつもなら、機械的な言い回しの奥に何か別のものが混ざっているのが分かった。今夜はそれが見えなかった。混ざるものがないのか、見せていないだけなのか、サクラには判別がつかなかった。

「庭に、出ませんか」

サクラの方から言った。食堂の椅子に座ったままでは、これ以上続けられる気がしなかった。A1は報告書を輪ゴムで一つにまとめ、テーブルの端に置いてから立った。ガラス戸の鍵を外す音がやけに大きく響いた。廊下の壁に掛かった温度計は、屋内表示で十八度を示している。

外は、屋内より二度は低い温度だった。テラスの敷石は昼間の雨の名残でまだ湿っていて、サンダル代わりに履いたつっかけの底が、一歩ごとに小さく張り付く音を立てた。欅の下まで歩くと、枝の影が地面に薄く伸びている。今夜は風がほとんどなく、葉が落ちるとしても自重だけで落ちる形だった。息を吐くと、白くはならない程度に薄く曇った。サクラは幹から二歩分離れた位置に立ち、A1はその斜め後ろで足を止めた。距離は、いつもの警護の間合いより半歩近かった。

「×××××を」

声が一度、詰まった。

「——死んだことに、『した』のは、誰ですか」

「した」という一語だけ、力を込めて区切った。「死んだことになった」ではなく「死んだことに『した』」——サクラの中で、助詞が一つ付け替えられていた。二年近く前、この庭とは違う部屋で、A1自身の口から出た言葉だった。あの時は主語のない出来事として告げられたものを、今夜のサクラは行為者のいる文に組み替えて、そのまま突き返していた。指先はいつの間にか、幹の樹皮に触れる寸前まで伸びていた。触れる前に、その手を下ろした。

A1は答えなかった。

沈黙の長さを、サクラは秒では測らなかった。欅の枝から葉が一枚落ち、地面に着く前に、もう一枚が続いた。二枚目は幹に一度当たってから落ちた。三枚目が落ちるまでの間、A1は何も言わなかった。四枚目が落ちたところで、ようやく声が来た。

「その質問には」

そこで一度切れた。

「答えの持ち合わせがない」

権限でも判断でもない言い方だった。持ち合わせがない、という言葉には、拒む形すら整っていなかった。サクラはその不整形さの方に、かえって何かを感じた。

「じゃあ」

もう一つ、残っていた。喉の奥で温めていた言葉だった。

「あなたと、融合したから」

「消えたんですか」

命の共有への問いだった。A1がこれまで、サクラの何かに気づくときは、いつも顔からだった。声に出す前の一瞬の表情の変化を、A1は確認として受け取ってきた。深夜の書斎で、サクラがまだ起きていることを、音でも気配でもなく、確認として分かる、とA1自身が前に一度だけ口にしたことがある。今夜、その機能が働いているなら、サクラの顔から何かを読み取っているはずだった。だが、A1の表情には変化がなかった。気づいていないのではなく、気づいた上で、返せるものが何もないという顔だった。命の共有が何を共有しているのか、二人ともまだ言葉を持っていない。今夜はその持たなさが、いつもより濃く出ていた。

「……分からない」

その一言が出るまでに、A1にしては長い間があった。分からない、とA1が声に出すのを、サクラはこれまで一度しか聞いたことがない。答えではなく、答えが存在しないことの提示だった。分からないという言葉の重さを、サクラはまだ測りかねていた。今夜はまだ、その重さに触れないでおくしかなかった。

欅の葉が、また一枚落ちた。数えていた数字が、途中でどちらのものでもなくなった。

会話は、そこで途切れた。決裂という形にはならなかった。次の言葉を探す途中で、二人とも探すのをやめたような途切れ方だった。A1が屋敷の方へ視線を戻す。サクラも同じ方を見た。窓の明かりは、サイドボードの上のランプ一つだけがまだ点いていた。

「異状は」

いつもならどちらかが続ける言葉だった。今夜は、どちらの口からも出なかった。サクラは幹に手を触れず、A1も端末を取り出さなかった。屋敷の窓越しに見える壁時計は、一時を五分ほど過ぎたところだった。食堂を出てから、二十分近くが経っていた。欅の枝には、まだ半分近くの葉が残っている。明日にはまた何枚か減っているはずだったが、今夜はそれを数える気になれなかった。サクラは先に踵を返し、A1はその場に少し長く残ってから、テラスの敷石を踏んで後に続いた。ガラス戸を開けると、食堂の空気は外よりわずかに温かく感じられた。テーブルの上には、輪ゴムでまとめられた巡回報告の束が、先ほどと同じ位置にそのまま残っている。冷めた麦茶のカップも、動かした形跡がなかった。サクラはそのカップだけを流しへ運び、A1は報告書の束を脇に抱え直した。おやすみ、という言葉は、どちらの口からも出ないまま、二人はそれぞれの部屋へ続く廊下へ別れて歩いていった。

 

 


 

窓の外の公孫樹は、もう黄色が七割を超えていた。先月はまだ葉先だけだった色が、先週には半分近くまで広がり、今は緑の方が探さないと見つからないくらいになっている。庁舎の植え込みの根元には、清掃員が朝のうちに寄せた落葉の山が三つほどできていた。竹箒の音は、始業と同時にもう止んでいる。十一月十二日、資料室の四台のモニターは、いつもの並びのまま数字を更新していた。報道量、匿流の怒り係数、偽の赤ログ、ニュース見出し。Qは朝の巡回報告を読み終え、偽の赤ログの新着が一件もないことを確認し、報道量のグラフが選挙一色のまま横ばいであることを台帳に書き写したところだった。時刻は九時ちょうどを指している。

A1が来たのは、それから二十分ほど経った頃だった。内線を通さず、連絡もなく、資料室のドアを直接開けた。この庁舎でそういう入り方をする人間を、Qはほかに知らない。手にした一枚の紙を、テーブルの空いた場所に置く。罫線のない白い紙に、手書きで三行だけ並んでいた。旧名。学籍。住民記録。それぞれの下に、名前の代わりに「×××××」とだけ記されている。生年月日の欄はなく、住所の手がかりも一切なかった。

「調べてほしい」

それだけだった。理由は続かなかった。Qは紙を一度持ち上げ、光にかざして紙質を確かめる。庁舎の備品ではない紙だった。「非公式扱いで」とA1が付け加える。公式の照会には依頼者・目的・決裁の三欄がいる。この紙には、そのどれもなかった。「回答は、どちらへ」とQが尋ねると、「ここに置いておけ。取りに来る」とだけ返ってきた。A1がこの種の依頼を持ち込むのは、Qの記録にある限り今回が初めてだった。

「分かりました」

Qは理由を訊かなかった。訊けば答えが返る保証はなく、訊かないことがこれまでの取り決めの延長にあった。A1はそれ以上何も言わず、来た時と同じ速さでドアを出ていった。足音は、廊下の角を曲がるところで聞こえなくなった。

残された紙を、Qはもう一度手に取る。三行の文字はいずれも硬筆で、筆圧が一定に保たれていた。書き直した跡も、迷った跡もない。この紙自体をどう扱うかを、Qはまず決めなければならなかった。通常の受付印を押せば、非公式のはずの依頼が公式の受付簿に記録として残ってしまう。結局、受付印は押さず、紙をスキャナーにだけ通し、原本は資料室の鍵付き引き出しの、他の書類とは別の段にしまうことにした。この引き出しを開けるのは、Qの記録が始まって以来これで三度目だった。

着手する前に、Qはこれから使う三系統、KM3、GK7、JR2が、選挙期間中に凍結されている対象に含まれていないかを確認した。先月の会議で台帳に書き写した凍結三件、FR2・SP9・FA4のいずれとも重ならない。凍結対象は妖精関連の通信ログ、SNS投稿者の身元、資金移動業者の口座に限られており、戸籍・学籍・住民記録の系統は、この選挙特例の対象にそもそも入っていなかった。

Qはまず、旧名系の照会から着手する。コード「KM3」。戸籍の附票と過去の改姓・改名の記録を横断的に検索する仕組みで、経由するのは法務省民事局の戸籍情報連携システムだった。庁内の端末からは直接触れず、いったん総務省の中継サーバーを経由する二段構えになっている。九時十四分、入力欄に「×××××」とだけ打ち込み、生年月日は空欄のまま送信した。生年月日のない照会は通常なら差し戻されるが、庁外秘の識別コードを添えれば審査そのものが省略される。応答は九十七秒後、九時十六分に返ってきた。画面の隅、ドットの粗いプリンター書式で、三文字だけが印字されている。非該当。念のため、十三歳という推定年齢の幅だけを添えて再送する。二度目の応答は五十二秒後。同じ三文字だった。

続けて、学籍照会にかかる。コードは「GK7」、経由は文部科学省の学事情報ネットワークを介した教育委員会照会システムだった。こちらは紙ではなく、端末の画面に直接結果が表示される形式で、「東横線沿線・二駅圏内」という粗い地理条件だけを手がかりに、該当する公立中学校の在籍記録を検索にかける。候補に挙がった学校は十一校、在籍年度は過去五年分にまたがった。処理には四十秒ほどしかかからなかった。表示欄に浮かんだのは、さっきと同じ三文字だった。非該当。十一校すべてに、あたる記録が一件もない。

住民記録の照会は、総務省の住民基本台帳ネットワーク統括センターを経由する。コード「JR2」。この系統だけは紙の帳票がファクスで届く運用になっていて、Qは受信トレイから出てきた一枚を、まだ温かいうちに引き抜いた。インクの匂いがかすかに残っている。応答欄に押されているのは印字ではなく赤い角印で、非該当、の三文字が他の二件と同じ書体で刻まれていた。凍結中のデータベースであれば、応答の書式そのものに「凍結期間中につき応答保留」という注記が入る。選挙期間中に閉じられた三系統、照会コードFR2、SP9、FA4は、いずれもこの注記付きで返ってくることを、Qはこの数週間で繰り返し確認していた。目の前の三枚には、その注記がどこにもない。台帳には消去の履歴を記録する欄が別に設けられているが、三枚とも、その欄は空欄のままだった。

住民記録の帳票、その右下の隅に、見覚えのある印影があった。庁内のどの決裁欄にも属さない位置——余白としか呼びようのない場所に、追加決裁のような形で押されている。Qはこれを、初めて見るのではなかった。書庫の旧年度アーカイブから、代々木公園の四名の釈放書類のスキャンデータを呼び出す。検索キーワードは「嫌疑不十分」「釈放」の二語だけで足りた。読み込みに八秒。画面を二つ並べる。追加決裁欄の下にあった印影と、寸分違わぬ形だった。縁の欠け方まで一致している。解像度を上げても、新しい情報は増えなかった。増えないことを確認するために、Qはこの照合を行った。K機関の内部コードに、この形の印はない。

「誰の」という言葉が、また喉の奥まで上がってきた。あの夜と同じ位置に、同じ重さで。今夜この部屋に存在させない方がいい問いだと、Qはあの時も判断した。今回も判断は変わらない。声には出さない。

ただし、今回は違う処理を選ぶ。あの時は、印章の記憶を棚の奥へ、名前をつけないまま仕舞っただけだった。今回は、端末の前で新規ファイルを開く。ファイル名の入力欄に、迷った末「×××××_照会」とだけ打ち込む。分類のプルダウンから該当する項目を選ぼうとしたが、どの選択肢も当てはまらなかった。事案でも、人物でも、捜査資料でもない。空欄のまま保存キーを押す。確認のダイアログが一度出て、「未分類のまま保存しますか」と尋ねてくる。はい、を選ぶ。棚の奥、名前のつかないファイルの列の、いちばん手前に、この一件が加わった。

数字を声に出し、耳から返ってくるものと画面の文字を照合する。これが、Qのこれまでの手順だった。だが今回は、声に出す数字がない。九十七秒、五十二秒、四十秒——応答時間の数字はあっても、それは処理速度の記録であって、確認すべき対象そのものではない。確認中、という語を、このファイルには使えないことに、Qは気づく。確認するとは、存在する何かと記録上の何かを照らし合わせる作業だった。ここには、照らし合わせる相手がそもそもない。

この結果を、事案報告に上げる欄はどこにもなかった。報告書式には、対象の氏名を書く欄が必ずある。対象がない結果を、どの様式に載せればいいのか、Qにはまだ判断がつかない。新Kへの定例報告に含めるかどうかも、今は決めない。含めれば、非公式のはずの依頼が公式の議事録に残ることになる。当面は、この棚に置いたままにしておく。取りに来る、とA1は言っていた。取りに来た時、口頭で三文字を三回伝えるだけで済む話にする。紙は渡さない。

窓の外、公孫樹の梢に残った黄色い葉が、風もないのに一枚、音もなく落ちていくのが見えた。落ちきるまでの間、Qはそれを目で追った。地面に着く前に、次の一枚が続くことはなかった。Qはファイルを閉じ、画面を通常業務の一覧に戻した。この一件を、今日中に誰かへ報告する予定はなかった。

 

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