アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
十一月十四日、正午を少し過ぎた頃、南平台の書斎で、A1は先週分の巡回報告を整理していた。表紙のホチキスの位置を指で確かめ、四枚を番号順に揃え直す。窓の外では欅の枝がもう三分の一ほど裸に近づいていて、今朝の掃き掃除の量が昨日よりひと目盛り増えていたことを、A1はすでに庭で確認済みだった。回転デスクの上には、今週分の予定表がまだ半分しか埋まっていない。空欄の多くは掲示場の巡回担当に割り振られる予定の枠で、決まり次第、Qの側から埋まっていく仕組みになっていた。書類を鞄の内側の段に収めたところで、卓上の端末が短く一度だけ振動した。着信は電話ではなく、K機関の内部回線を通じた文書だった。件名の欄には「警護要請」とだけ記されている。差出人の欄は、いつもと同じ「捜査企画課」の印字だった。
発番の位置にある記号が、いつもと違っていた。通常の警護要請は「警企」の二字から始まる四桁の数字で届く。過去にA1が受けた警護案件は、記録にある限り十七件、どれもその書式から外れたことがない。今回届いたのは「臨〇七」という三文字だけの記号で、そのどの一件とも重ならなかった。決裁者欄は空白のまま残されている。保存区分の欄には、通常の五年ではなく「永年」の二字だけが印字されていた。宛先の欄には、いつもの捜査企画課のほかに、A1の名前だけが単独で並んでいる。目的の欄には「要人警護」とだけあり、要人の具体的な区分を示す略号は入っていなかった。書式の分厚さそのものは普段と変わらないのに、埋まっているはずの欄がいくつか抜け落ちていた。
経由の印は警察庁警備局のものだった。発信時刻の記録は十一時四十一分、受信時刻は十一時五十分。九分のずれがある。九分のあいだ、どこかで一度、誰かの手元にこの一枚が置かれていた時間があったということだった。A1はその九分を記録し、記録の使い道は決めないまま端末を閉じた。
数分後、Qから直接の回線が入った。「発番、確認しました」前置きなしにQが言う。「警察庁経由の書式ですが、この記号はうちのどの系列にも属していません。四桁でも六桁でもない、三文字だけの記号です。過去の照会記録も当たりましたが、該当はゼロでした」「宛先も、いつもと違う」A1が言うと、「ええ」とQが短く返した。「捜査企画課のほかに、A1の名前が単独で入っています。個人名だけが宛先に並ぶ書式を、うちで見たのは初めてです」「どこから来ている」「警察庁の印はあります。ですが、発信と受信のあいだの九分が、どこの工程を挟んだものか、こちらの記録では追えません。もう一段、上から来ている可能性があります」「可能性、ですか」とA1が返すと、「断定はできません」とQは答えた。「念のため、この一枚も名前のつかない棚に置いておきます」それ以上、Qは踏み込まなかった。回線はそこで切れた。数分後、受諾の確認番号だけがQの側から返ってきた。番号は八桁、いつもの照会案件の番号よりひと桁多い。桁数の意味を、A1は問い合わせなかった。
対象の欄は空欄のままだった。氏名も、年齢も、性別を示す記載すらない。場所の欄にだけ、都心の劇場の名が記されている。日時は今夜、公演の終演後。選挙の公示を間近に控えたこの時期に、要人が名を伏せたまま夜の劇場に姿を見せるという取り合わせ自体が、A1にとっては初めての組み合わせだった。書式のどこにも、空欄の理由を尋ねる項目は用意されていなかった。
A1は受諾の欄に、自分の識別番号を記入した。理由を確かめる工程は、今日の書式にも組み込まれていない。確かめる必要のある項目に、A1はこれまで一度も出会ったことがなかった。対象の氏名が一部でも記載された警護要請なら、過去に何件か記録がある。全欄が空白のまま受諾に至った案件は、A1の記録を遡っても今回が初めてだった。
午後のあいだ、A1は装備を点検した。伸縮式の警棒は柄を三度握り直し、電撃の出力表示が規定値の範囲にあることを確かめる。マグライトは電池残量を示す小窓を覗き、目盛りが八割を超えていることを確認した。予備の電池も一本、鞄の内ポケットに追加する。ワイヤー手錠は二巻を装着し、予備の一巻を鞄の別の段に収めた。拳銃は右腰の位置に収めたが、発砲の許可区分はいつもと変わらない。Kの許可なく引き金を引くことはできない、という一点だけが今日も動かなかった。合体銃のケースは玄関脇に置いたまま、開けずに済ませる。動線図は白地図に手書きで描き足した。正面口、搬入口、非常口の三箇所に丸をつけ、舞台裏へ通じる通路にだけ別の色の線を引く。客席の勾配や非常灯の位置までは、この白地図には反映されていない。無線は一チャンネルを場内担当に、二チャンネルを搬入口担当に割り振り、三チャンネルは予備のまま空けておいた。使われた実績のないチャンネルが、今日もまた一つ増えることになる。警棒とワイヤー手錠は、上着の内側に収まる長さのものを選び直した。劇場という場所柄、外から見て分かる装備は最小限にとどめる必要がある。拳銃だけは規定通り右腰の位置のままだったが、上着の裾で隠れる角度を、A1は姿見の前で一度確かめた。点検を終えたのは十七時前だった。予定表を開くと、今日の欄に新しい一行が加わっていた。「劇場」とだけ記され、備考の欄は空白のままになっている。地名の後にも前にも、それ以上の言葉は続いていない。
夕方、サクラが縁側から戻ってきたところで、A1は言った。
「今夜、警護だ」
「どこに行くんですか」
「劇場だ」
「誰を、守るんですか」
「対象は、行けば分かる」
「……何時に、帰ってこられますか」
「分からない。長くなる可能性がある」
「……そうですか」
それだけだった。サクラはそれ以上訊かなかった。訊いても答えが変わらないことを、この数か月で覚えていた。制服の上に着るコートを取りに、サクラは一度部屋へ戻った。戻ってきたときには、リボンの結び目を指で確かめる仕草が一度挟まっていた。いつもより結び方に時間がかかっているように、A1には見えた。
隠している情報の量を、A1は数えなかった。数える意味のある項目ではない。今日の一枚に書かれていた対象の欄が空欄だったのは、A1にとっても同じだった。隠す側に立っている自分が、隠される側でもあるという事実を、A1はただの構造として受け取った。サクラの顔に、いつもと違う動きが一瞬だけ出た。訊きたいことを飲み込む速さが、今日はいつもより遅い。命の共有が伝えてくるのはそこまでで、その先の中身までは届かなかった。
白いバスが南平台を出たのは、十九時五十分だった。後部コンパートメントの向かい合わせのシートに、A1とサクラが座る。運転要員は無言のままハンドルを切った。首都高には入らず、明治通りを都心方向へ進む経路が、事前に共有されていた。渋谷を過ぎたあたりで、風が出ているらしく、街路樹の枝が街灯の下で揺れているのが窓越しに見えた。車内で言葉が交わされかけたのは三度あった。一度目、サクラが口を開きかけて、窓の外を流れる掲示場に目をやり、そのまま黙った。二度目、A1が無線のチャンネル数を言いかけて、すでに端末に共有済みだと気づき、途中で止めた。三度目、サクラが「今夜って——」と言いかけたところで、車体が段差を越え、言葉の続きが揺れに紛れて消えた。三度とも、会話にはならなかった。
信号待ちの間、サクラの唇がわずかに動いた。声にはならなかった。何かを言おうとして、言う前に自分で止めた——そう見えるだけの一瞬だった。A1はその動きを見たが、何も言わなかった。命の共有は、声になる前の言葉までは拾わない。窓の外を、掲示場の白い板が一枚、また一枚と過ぎていった。まだポスターの貼られていない板だけの列が、ヘッドライトの光を順番に受けて、後ろへ流れていった。都心の灯りが密度を増していくのを、A1は運転要員の肩越しに確認した。ビルの隙間から、大きな看板の一部が見えては消える。文字までは読み取れない距離だった。時刻確認用の内部時計は、二十時三十二分を示していた。到着の予定は二十時四十分と共有されていたが、その先の段取り——誰を、どこで、どう守るのか——は、まだ誰にも告げられていない。
バスが停まったのは正面ではなく、建物の裏手、搬入口に近い暗い路地だった。昼間の雨の名残が路面のあちこちに水たまりを残し、街灯の光が細長く映り込んでいた。降りて見上げると、袖看板にはすでに黒い布のようなカバーがかけられている。チケット売り場のガラス越しに、今夜の終演を告げる一枚の貼り紙だけが見えた。「本日の公演は終了いたしました」という定型の文字の下に、次の公演の案内はまだ差し込まれていない。ロビーへ通じる大扉には金属の格子が下ろされ、南京錠が掛かっていた。A1が通用口の呼び鈴を押すより先に、内側から鍵の外れる音がした。出てきた警備員は身分証の提示を求めず、手元のクリップボードに何かを一行書き込んだだけだった。名乗る前から、こちらの顔をすでに知っている態度だった。時刻は二十時四十一分、共有されていた予定より一分遅れていた。吐く息はまだ白くならない程度だったが、屋外より確実に冷えていた。
館内は非常灯の緑色だけが、床のわずかな範囲を照らしていた。天井の主照明はすべて落とされている。壁際のパネルには、火災報知器の小さな緑ランプが一定の間隔で点滅していた。客席は緩やかな勾配で舞台へ向かって沈み込み、暗がりの中に座席の背もたれの列が幾重にも重なって見える。列の端に取り付けられた座席番号のプレートは、非常灯の光を受けて数字だけがぼんやり読めた。舞台の額縁——金の装飾が施されたプロセニアムの縁に非常灯の緑が乗って、色が半分だけ死んで見える。頭上高くには何本ものバトンが吊られたまま、今夜は下ろされる予定がないというように止まっていた。オーケストラピットには黒い蓋がされている。案内板のパンフレット差しは、すでに中身が抜かれて空になっていた。客席の通路には、白い花びらが一枚だけ落ちている。今夜の公演の衣装から落ちたものらしいが、誰も拾わないまま踏まれた跡がついていた。壁の一枚向こうの通りから、選挙カーの声が一度だけ、くぐもって届いた。何を訴えているのかまでは聞き取れない距離で、それきり静かになる。公示前夜の街の音が、この分厚い壁一枚を隔てて別の時間に属しているように感じられた。A1は入ってすぐ、正面ロビーへの扉、搬入口、舞台袖の非常口、その三箇所を視線だけで数えていた。無線のイヤホンに軽く触れ、チャンネルを一つ切り替える仕草が一度あったが、何かを話す様子はなかった。
舞台へ上がる階段は客席の端から続く仮設のものだった。踏板を上がるたび、靴底の下でわずかにたわむ感触がある。舞台の床には、色の違うテープが幾筋も貼られていた。白、黄、水色。端がところどころ剥がれ、糊の跡だけが四角く残っている場所もある。同じ色のテープが平行に二本走っている箇所と、交差して菱形を作っている箇所があった。かつてここで踊っていた誰かたちの、立ち位置を示す印だとサクラにも分かった。今夜のために運ばれてきた折り畳み椅子の脚が、そのテープの上に無造作に乗っている。誰かの定位置の上に、今夜は別の誰かが座らされる格好になっていた。
椅子は舞台の中央に半円形で六つ並べられていた。羽根川クロエは半円のほぼ中央、背筋を伸ばした姿勢で座り、膝の上で両手を重ね、視線を客席の暗がりへ静かに向けている。この場に不釣り合いなほど整った身なりで、他の五人の誰よりも早くこの部屋に着いていたことが、姿勢の崩れのなさから分かった。一つ椅子を挟んだ隣に、フジサキ・ユカリが重心を低く保ったまま座っていた。暗い色の服は、この舞台の上ではよく目立たない色だった。クロエに寄るでも離れるでもない、その中間の距離だった。空いた椅子は、ユカリとカノンの間、両者からそれぞれ半歩分の隙間を置いて据えられていた。座面にはまだ皺一つなく、脚の折りたたみ金具に貼られたメーカーのシールも剥がされていない。誰も一度も腰を下ろしていないことが、その一枚のシールで分かった。カノンはその隣で脚を組み、頬杖をついて舞台袖の方を眺めていた。私服のカーディガンは生前見たことのある型で、袖口の毛羽立ち方まで同じだった。ここに呼ばれた理由に興味がないという顔だった。半円の一番端、カノンから最も遠い位置に、キサラギ・キヅキとモリヤマ・ミドリが肩の触れる距離で並んで座っている。キヅキは明るく染めた髪をいつもより低い位置で一つにまとめ、普段より抑えた色のパーカーを着ていた。ミドリは制服の右の袖を指先で軽く引っ張る癖をここでも繰り返していた。
キヅキが一度、カノンの横顔へ視線を投げた。すぐに戻す。ミドリが同じ動きを、少し遅れてなぞった。二人の間で交わされた視線には、言葉になる手前の重さがあった。あの夜、湾岸の埠頭で確かめたはずのことを、まだ誰にも届けられないままでいる。届け先のない情報を抱えたまま、二人は今夜、その情報の出どころと同じ舞台に座らされていた。
サクラには椅子が用意されていなかった。半円の外、舞台袖に近い位置に立ったまま、椅子の数を目で数える。招かれた側ではなく、連れてこられた側だということが、椅子の有無だけではっきりしていた。工区で言葉を交わした黄、お茶会で向き合った黒、名前も知らない紫と、死んだはずの赤。並んだ顔ぶれのどこにも、サクラの居場所はない。Qの通信の端で見た「宮中」の文字が、脈絡もなく頭に浮かんで消えた。今夜もまた、自分だけが呼ばれた理由を持たされないまま、この場に立っている。クロエがこちらへ顔を上げた。
「一人、断った方がいらっしゃいますの」
誰に向けたというわけでもない口調で、クロエはそれだけ言うと、また視線を客席の暗がりへ戻した。空いた椅子の意味を、それ以上説明するつもりはないようだった。マタギ・アオネの名を、クロエは一度も出さなかった。
それから先、誰も口を開かなかった。壁の非常灯の点滅する間隔だけが、この場に流れる時間の唯一の単位になっていた。A1は端末を一度取り出し、画面を伏せたまま数秒眺めてから、また上着の内側に戻した。招集された人数と、今この舞台に座っている人数を照らし合わせる作業らしかった。五人、それに空席が一つ。数字はすでに合っているはずだったが、確認そのものをやめる気配はなかった。端末を操作する指の動きから、短い一文を打っているらしいことが分かった。「異状なし、着席五名、欠席一名」——目黒へ送る定型の報告だろうと、サクラは横から見て思った。舞台袖の壁に掛かった業務用の丸時計が、二十時四十五分を指していた。秒針の音は、この距離でもかすかに聞こえた。
袖のさらに奥、通用口とは別の扉が、内側からゆっくりと開いた。蝶番の軋む音は最後まで聞こえてこない。低い声が一言二言、扉の向こうで交わされ、それから足音が来た。一歩ごとに小さく間の挟まる、慎重な歩調だった。舞台上の空気が、それだけでわずかに動いた。カノンでさえ頬杖から手を離し、顔を上げている。
姿を現したのは、白い衣装をまとった線の細い少女だった。長い髪は結い上げず、背中にそのまま流されている。付き添いの女性が半歩後ろに控え、肘のあたりへ軽く手を添えている。歩みは遅く、一歩ごとに息を整えるための間が挟まれた。裾を自分で持ち上げる余力はないのか、白い布の端がそのまま床を擦っている。バミリのテープの上を、その裾がゆっくりと越えていった。頬の色は照明の乏しさを差し引いても白く、目の下に薄い影があった。用意された椅子とは別に、袖から運ばれてきた背の高い一脚に、付き添いの手を借りて腰を下ろす。座り直しにも、いつもより長い時間がかかっているようだった。付き添いの女性が小声で何か確認し、少女が小さく頷いてから、初めて手を離れた。
サクラの一歩後ろで、A1が声を出した。
「礼子様、こちらです」
それだけの一言だったが、サクラの中で今夜の書式の空欄が、ようやく一つ埋まった。対象は、この人だった。行けば分かる、と言われていた対象が、今、名前ではなく敬称の形でサクラの前に座っている。警護してきた相手が、この舞台に人を集めた側でもあったという事実を、サクラはまだ言葉にできないまま受け止めていた。
A1は礼子の斜め後ろ、付き添いの女性とは反対側に立った。警護の定位置に立っているだけのはずだった。それなのに、サクラの目には、その立ち位置が今夜だけ違う意味を持って見えた。列席者たちの側でもなく、サクラの側でもない。礼子の側に、A1は立っていた。今までずっと隣にいた背中が、今夜だけ半歩遠い場所にあるように見えた。
列席の側にも、それぞれ違う反応があった。クロエは背筋をさらに一段伸ばし、膝の上の手を重ね直した。ユカリは表情を変えないまま、視線だけを礼子の方へ静かに合わせている。カノンだけが、脚を組んだ姿勢を崩さず、値踏みするでもないただの一瞥をくれただけだった。キヅキとミドリは同時に居住まいを正し、それからほとんど同じ角度で会釈した。誰に教わったわけでもない動きが、二人だけそろっていた。
礼子は舞台に並んだ顔ぶれを、一人ずつゆっくりと見ていった。クロエ、ユカリ、空いた椅子、カノン、キヅキ、ミドリ。客席の暗がりへは、一度も視線を向けなかった。何かを見るためにここへ来たのではなく、何かを見せるためにここへ来たかのような順番だった。息を一つ整えてから、礼子の唇がわずかに動いた。声は、まだそこから先に出てこなかった。