アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
礼子の唇がもう一度動いた。今度は、声が伴った。
「……随分、線の残った舞台ですこと」
視線は舞台の床、色の違うテープが交差している一点に落ちていた。誰に問うでもない声だった。付き添いの女性が答えを求められているのかどうか迷う様子で半歩詰めたが、礼子はそちらを見なかった。客席から流れてくる冷えた空気が、この半円の明かりの中にだけ届かないかのように、舞台の上の温度はわずかに高かった。埃の匂いに、古い座席の布の匂いが薄く混じっている。膝の上に置かれた両手の指先が、一定の間隔でわずかに震えていた。震えを隠す仕草は、宮中で見たときと同じように、どこにもなかった。白い衣の布地が、舞台上の暖色の明かりを受けて、宮中の障子越しの光の下で見たときとは違う陰影を作っている。客席のずっと奥、二階席の脇にあたる高い位置で、操作卓の赤いランプが一つだけ点いている。誰かがまだそこに残って、この場の照明を絞り続けているらしかった。
「どなたかが、ここに立っていた跡なのでしょうね。もう、名前も残っていないどなたか」
短い沈黙があって、礼子は視線を列席の顔ぶれへ戻した。クロエ、ユカリ、空いた椅子、カノン、キヅキ、ミドリ。一人ずつを順に見ていく速さは、何かを確かめるためというより、何かを見せるための順番のように見えた。声の高さは変わらなかったが、次に継がれる言葉から、温度だけが一段変わった。
「今夜、皆さまにお集まりいただいたのは」
そこで一拍、息を継ぐ間があった。喉の奥で小さく鳴る音が、非常灯の点滅の合間に一度だけ聞こえた。
「奪い合うのを、そろそろ、お止めいただきたいと思ったからです」
誰も答えなかった。壁の非常灯が一定の間隔で点滅を続けている。舞台上のこの半円だけが仄かな明るさを保ち、その外側、客席の勾配はどこまでも暗く沈んだままだった。頭上のバトンの列も、暗がりに輪郭だけを残して静止している。客席の左右の壁際、非常口を示す緑の表示灯だけが、離れた位置から二つ、変わらない光量で灯り続けていた。その二点の緑の他には、客席のどこにも光の手がかりがない。舞台の縁からその暗がりを覗き込むような角度で、サクラは立っていた。
「あなた方が、日々、集めていらっしゃるもの。あれには、名前がついています」
礼子はそこで一度言葉を切り、両手を膝の上で組み直した。指の長さに対して、関節の位置が少しだけ高いところにあるように見えた。
「企画をする人がいます。演出をする人、意匠を与える人、旋律を付ける人。この四人をまとめて——委員会、と呼ぶのだそうです」
固有名詞が、初めて作中人物の前で声になった瞬間だった。ミドリの唇がわずかに開いた。「誰も、」でその先が続かなかった。いつもなら「怪我しませんでしたか」と続くはずの言葉が、今夜は行き先を失ったまま宙に浮いた。制服の右の袖を指先で引っ張る、いつもの癖だけが繰り返された。隣に座るキヅキがそれを横目で見て、何も言わなかった。舞台袖に立つサクラの位置からは、ミドリの唇の動きまでは正確に見えなかったが、言葉が途中で行き先を失う感触だけは、なぜか分かる気がした。向こうへ言葉を投げようとして止まる、あの感触と同じ種類のものだった。
「怪人、という言葉を、皆さんは何度もお聞きになったでしょう」礼子は続けた。「あの言葉を最初につけたのが誰か、ご存知ですか」
誰も答えなかった。妖精ではない、という否定形だけを、礼子は口にしなかった。「あの方々が、皆さんの前に現れるものをお選びになっているのです。あるいは、選ぶための仕組みだけをお作りになった、と申し上げるべきかもしれません」。答えのない問いを一つ、解かれないまま舞台の上に置いて、話は次へ進んだ。キヅキの喉の奥が、小さく上下した。妖精の声が「絶対」と言うときの調子を、思い出したような動きだった。声には出さなかった。
「けれど、その四人にも、決められることと、決められないことがございます」礼子は続けた。「皆さんがお使いになれる力の量には、多い日と、少ない日があるでしょう。あれをお決めになっているのは、委員会ではありません」
一拍。付き添いの女性が、盆に残った白湯の湯呑みを静かに引いた。飲むかと問うように少し持ち上げてみせたが、礼子は目だけでそれを断った。湯呑みは音もなく盆へ戻された。
「そちらは——プロバイダー、と」
キヅキの耳の奥で、何かが小さく反響した。言葉の意味としてではなく、音の座りの悪さとして届いた感触だった。変身の最中に何度も覚えのある、声が自分のものかどうか分からなくなる、あの感じに近かった。キヅキは耳の後ろに指をやり、すぐに下ろした。何も言わなかった。明るく染めた髪を低い位置でまとめた首筋に、うっすらと汗が滲んでいた。空調の効いた館内で、その汗だけが季節に合っていなかった。ミドリがその指の動きに気づいて、視線だけを寄せた。何か尋ねようとする気配を見せたが、言葉にする前に自分の膝へ視線を戻した。
「委員会の方々も、その天井を動かすことはおできにならないのだそうです」礼子は続けた。「今日は多く使えて、明日は使えない。その差に理由をお求めになっても、仕方がございません。天井の高さは、その日その日のプロバイダーのご都合で決まるのだと、聞いております。皆さんが変身なさる回数にも、決まった枠があるのだと聞きました。枠を使い切った日に限って、辛いことが重なる。そう感じたことが、一度や二度ではございませんでしょう」
「皆さんが奪い合っていらっしゃるもの、あれにも名前がございます。リソース、と」礼子の声は少しも急がなかった。「皆さんが日々、お集めになっているもの、あれにも名前がございます。アテンション、と」
言葉を継ぐたびに、礼子の指先が膝の布をわずかに掴んだ。声の細さの割に、言葉の運びだけは一定の速さを保っていた。壁の外、通りの方から選挙カーの声が一度だけ、くぐもって届いた。今夜は文言まで拾えるほど近く、「明日は投票日でございます」という一節だけが壁越しに聞こえて、それきり遠ざかった。
「それらを束ねて、上へお納めするためのもの——トラヒック、と呼ぶのだと聞いております」
ユカリの唇が動いた。「それは——」その先が来なかった。確認を返そうとして、確認するための足場がどこにもないことに、言った本人だけが気づいた顔だった。重心を低く保った姿勢のまま、視線だけが宙で行き場を探していた。膝の上で組んだ手の指が、一本ずつ確かめるように動いては止まった。何度か開きかけた口が、その都度、音になる前で閉じた。
礼子の斜め後ろに立ったままのA1が、端末に軽く触れる気配があった。招集された人数と、今この場に座っている人数を照らし合わせる、いつもの作業だった。数字はすでに合っているはずだったが、確認をやめる様子はなかった。話の中身が何であれ、数えることだけは変わらない仕事らしかった。半円の外に立つサクラの位置からは、その距離だけが今夜も変わっていなかった。
「皆さんが、色を奪い、傷つけ合っていらっしゃる。あれは、争いというより」礼子はそこで初めてわずかに声を落とした。「上納のために、あらかじめ仕組まれた筋書きなのだそうです」
サクラの頭の中に、数日前の工区の光景が一瞬だけ差し込んだ。足場の上で炎を纏っていた赤、離れた場所で様子を窺っていた緑と黄。あれもまた、誰かが書いた筋書きの一場面だったということだろうか。考えを言葉にする前に、礼子の声がまた続いた。
クロエの唇が、乾いた音を立ててわずかに開きかけ、また閉じた。何かを言葉にしかけて、まだその段ではないと判断したように見えた。背筋の伸ばし方だけは崩れなかった。膝の上の両手の指だけが、一度、強く組み直された。
カノンが脚を組み替えた。折り畳み椅子の脚がバミリのテープの上でわずかに軋み、乾いた音を立てた。頬杖の角度は変わらないまま、視線は舞台袖の方を向いたきりだった。カーディガンの袖口の毛羽立ちが、動きに合わせてかすかに揺れた。退屈を隠す様子もなかった。半円の中央では、クロエだけが上体をわずかに前へ傾けている。膝の上で重ねていた両手の重ね方が、先ほどより一段強くなっていた。視線は礼子から一度も逸れていない。ユカリだけが、その二人の間に挟まれた椅子の分だけ、わずかに身を引いていた。
「奪い合う理由は」礼子は続けた。「最初から、あなた方のものではございません」
その一言のあとに、しばらく誰も動かなかった。付き添いの女性が椅子の脚元で、ハンカチを一度だけ握り直す音がした。壁の非常灯の点滅が、数えて三度過ぎた。
「注目を集められなかったもの、光を当てていただけなかったもの」礼子はそこで言葉を区切った。膝の布をまた一度、指先で確かめるように押さえた。息を継ぐ間があって、それから続けた。「それは、この国では、残らないのです」
言い切ったあとで、礼子は自分の言葉に少し驚いたような顔をした。
「……言い切ってしまうのは、まだ早いのかもしれません。今夜は、そこまでにしておきましょう」
サクラは、礼子の言葉を追いながら、いつのまにか視線を客席の暗がりの方へ向けていた。委員会も、プロバイダーも、音としては届いているのに、頭の中でうまく像を結ばない。中間にあるはずのものを、サクラの理解はいつも一段飛び越えてしまう。ただ、あの暗がりの奥に、何かがいる気がした。今、この舞台を見ている何かが。何百という座席の背もたれが並んでいるだけの空間のはずなのに、そのどれか一つに、誰かが腰掛けている気配だけがあった。向こうへ、いつも言葉を投げてきた相手が、今夜は本当にそこにいるのかもしれないという感覚だけが、言葉にならないまま胸の内に残った。礼子の傍らに立つA1の横顔を、サクラは半円の外から一度だけ確かめた。距離があって、表情の細部までは見えない。統合しているのか、していないのか、その遠さだけでは分からなかった。操作卓の赤いランプは、まだ同じ位置で灯ったままだった。
礼子が、そこで一度、大きく息を継いだ。長く話したせいで、声の芯がいつもよりさらに細くなっている。付き添いの女性が半歩、椅子へ近づいたが、まだ手は伸ばさなかった。膝掛けの端がわずかにずれ、女性がそれを直すのに数秒を使った。腕時計を持たないサクラには正確な時刻は分からなかったが、舞台袖の壁に掛かった業務用の丸時計の針は、二十一時を十七分ほど過ぎたところを指していた。秒針の音は、この距離でもかすかに聞こえた。バスがこの劇場に着いてから、四十分近くが経っている。舞台の上に、しばらく誰も言葉を発しない時間が流れた。壁の非常灯だけが、変わらない間隔で点滅を続けていた。遠くの選挙カーの声も、もう届かなくなっていた。
半円の中央で、クロエの椅子の脚が、テープの上でひとつ、小さく擦れる音を立てた。空気が、そこで初めて動いた気配があった。
次に口を開いたのは、礼子ではなかった。
半円の中央で、クロエが立ち上がった。椅子の脚がテープの上を滑り、乾いた音を立てて止まる。膝の上で重ねていた両手をほどき、背筋をまっすぐに保ったまま、礼子の方へ向き直った。裾の乱れを整える動作はしなかった。整える必要のない座り方を、この数十分ずっと保っていたからだった。壁の非常灯の点滅が、また一つ数えられた。二階席の脇の操作卓では、赤いランプがまだ同じ位置で灯っている。埃の匂いに古い座席の布の匂いが混じった空気は、先ほどからほとんど動いていない。空調が絞られているせいか、半円の外の温度は、開幕からずっと少しずつ下がり続けているようだった。
「礼子様のお話、興味深く伺いましたわ」
声の高さも速さも、これまでと変わらなかった。丁寧な礼を一つ挟んでから、クロエは続けた。
「けれど、一つだけ、訂正させていただいてもよろしいかしら。委員会というものを、あなたは装置とお呼びになりましたけれど——あれは、上納のための装置ですわ。皆さまが日々差し出していらっしゃるものを、上へ吸い上げるためだけに設計された仕組み。目的のない装置など、この世にはございません」
「装置に、目的はございません」
礼子は、間を置かずに返した。声の細さは変わらなかったが、言葉の運びに迷いはなかった。
「目的をお持ちなのは、御覧になっていらっしゃる方々の側でございます。装置は、ただ、その目的を運ぶだけの箱にすぎません」
「では、その箱を組み立てた方は、どなたなのでしょう」クロエはすぐに継いだ。「箱は、自分では組み上がりませんわ」
「箱を組んだ方と、箱を使っていらっしゃる方は、同じではございません」礼子は静かに答えた。「組んだ方はとうに、この場にいらっしゃいません。今、箱を使っていらっしゃるのは、あなた方を御覧になっている、無数の方々です」
「その方々の上に、まださらに、どなたかいらっしゃるのではございませんの」
「さあ」礼子はわずかに首を傾けた。「そこまでは、わたくしにも見えません。見えないところがある、ということだけは、存じております」
クロエは小さく頷いたが、いつものように紙に書き留める仕草はしなかった。今夜、この舞台の上に、記録の道具は持ち込んでいない。
クロエの唇の端が、わずかに動いた。何かをラベリングしようとする動きだった。運ぶだけの箱、という言い方に、責任の所在を薄める意図があるのか、それとも本当にそう見える場所からしか物を見たことがないのか——どちらに当たる言葉なのか、クロエの中で決まらなかった。分類の語が出てこないまま、唇の端の動きだけが止まった。同じ止まり方を、これまでにも二度、覚えがあった。
「箱、とおっしゃるのなら」クロエは仕切り直すように言った。「箱を運ぶ手を、止める方法もあるはずですわ。舞台を降りる方法は、ございます」
「降りた方を、わたくしは一人だけ存じております」
礼子はそこで一度、目を伏せた。膝の上の指先が、また小さく震えた。付き添いの女性が半歩詰め、盆の白湯を差し出そうとしたが、礼子は目だけでそれを制した。
「あの方は、別の舞台にお上がりになりました。降りることと、消えることは、違うのだそうです」
「どなたのことか、伺ってもよろしいかしら」
クロエの声に、いつもより一段、探る響きが混じった。礼子はすぐには答えず、湯呑みの縁を指先で一度なぞった。
「今夜は、そこまでは」
それだけだった。サクラの位置からは、その一言が誰を指しているのか分からなかった。分からないまま、言葉だけが舞台の空気の中に残った。
「別の舞台、というのは」クロエが続けた。「結局のところ、すべてが舞台だから、そうなるだけのことではございませんかしら。原色たる七人——桃、赤、青、緑、黄、紫、それにわたくし。この七色の他に、皆さまの世界には、もう一色ございますでしょう」クロエの視線が、まっすぐ礼子へ向いた。「白」
半円の端で、キヅキの喉の奥が小さく上下した。自分の色の名を、こんな場所で数え上げられたことへの反応らしかったが、声には出さなかった。
「バレエの話を、なさりたいのですね」
礼子は静かに言った。責めるでも、面白がるでもない声だった。
「コール・ド・バレエと、ヴァリアシオン。群れで踊る者と、独りで舞台の中央に立つ者。あなたは、その言葉をどこかでお学びになったのでしょう」
「ええ」クロエは頷いた。「紫の子に、お話ししたことがございますの。複数で参りますと、尺は人数の分だけ割られます。独りで参りますと、尺はその者だけのものになる。格の違う色が同じ舞台に立てば、格の低い方から先に、背景へ沈んでまいります。皆さまが色を奪い合う理由の、半分はそこにございますわ」
「わたくしは、学んだことがございません」
礼子の声が、そこで初めて、わずかに温度を落とした。
「生まれたときから、舞台の中央にしか、立ったことがないからです。ヴァリアシオンを踊る努力をしたことも、コール・ド・バレエに紛れようとしたことも、一度もございません。あなたが言葉で掴もうとなさっているものを、わたくしは——生まれつき、身体の方に持っております」
業務用の丸時計の秒針が、この距離でもかすかに聞こえた。針は二十一時三十分を回ったところだった。バスがこの劇場に着いてから、もう五十分近くが経っている。壁の非常灯が、また一定の間隔で点滅を続けている。舞台上の半円だけが仄かな明るさを保ち、その外側の暗がりはどこまでも沈んだままだった。
「わたくしが求めておりますのは」クロエの声が、そこで初めて、いつもよりわずかに速くなった。「構造を壊すことではございません。皆さまを縛っているものの正体を、明るみに出すことですわ。知らないまま奪い合わされるのと、知った上で奪い合うのとでは、意味が違うはずですわ。それだけでございます」
「明るみに出した後、あなたは、どこにお立ちになるおつもりなのかしら」
クロエは即座に答えなかった。答えなかった間の長さが、答えの代わりになった。
「あなたは、構造を壊したいのではなくて」礼子が続けた。「中央に、いらしたいのね」
クロエの喉が、小さく動いた。反論の言葉を探す音だった。ここまでの受け答えでは、息継ぎの位置はいつも文の切れ目に揃っていた。今度は、文の途中で一度、喉の奥に息を溜める音が挟まった。丁寧な言い回しを崩さずに保つための負荷が、そこに一つ増えたようだった。
「……礼子様は」クロエは続けた。声の高さは戻っていたが、語尾の粒立ちがさっきより粗かった。「お立場から、そうお思いになるのかもしれませんわ。生まれたときから中央にいらっしゃる方には、中央を望むという感覚そのものが、想像しにくいのでしょう」
「想像はできます」礼子は静かに返した。息を一つ、長く継いだ。「わたくしも、一度も、そこから降りたことがございませんから」
論戦は、そこで終わったわけではなかった。だが、勝敗の輪郭だけは、その一言のあたりから動かなくなっていた。クロエの言葉は、尺、配役、装置、原色——どれも、舞台の外から舞台を見た者の語彙だった。データを集め、構造を図に描き、名前をつけて、それでようやく届く場所に、礼子は最初から住んでいた。礼子の言葉には、図がなかった。舞台の床に残るバミリのような、位置を示す目印を、礼子は一度も必要としたことがないらしかった。距離を測る必要のない人間だけが持つ、測らずに言い切れる強さがそこにあった。この応酬のあいだ、誰も業務用の丸時計を見上げていなかった。針の進みに気づいていたのは、舞台の縁に立つサクラだけだった。クロエが負けているのだとしても、それは論理で負けているのではなかった。生まれた場所が違う、というだけのことだった。
半円の端で、ミドリが膝の上の制服の袖を、さっきよりも強い力で引いていた。目は舞台の中央を向いているが、言葉の中身までは追えていない顔だった。キヅキは俯いたまま、耳の後ろに指をやる動作を、もう何度も繰り返していた。音として届いているものの、意味には変換されない状態が、まだ続いているらしかった。低い位置でまとめた髪の生え際に、うっすらと汗の粒が浮いていた。ユカリだけが背筋を伸ばしたまま、視線をクロエと礼子の間で往復させている。理解しようとする姿勢は崩さず、しかし追いつけていないことを、その往復の速さが物語っていた。何度か開きかけた口が、その都度、確認の言葉を持たないまま閉じた。カノンは脚を組み替え、頬杖の角度も変えないまま、天井の方を見ていた。折り畳み椅子の脚がテープの上でわずかに軋んだ。ユカリとカノンのあいだに残る空いた椅子だけが、誰の体温も乗せないまま、論戦の間もずっと同じ角度で置かれていた。非常口を示す緑の表示灯だけが、離れた壁の位置で変わらない光量を保っている。
礼子の指先が、また膝の布を強く掴んだ。長く話したせいで、細い声の芯がさらに細くなっている。付き添いの女性が今度は止めずに近づき、白湯の湯呑みを差し出した。礼子はそれを両手で受け、口をつける前に一度だけ、目を閉じた。持ち上げる動作に、いつもより長い時間がかかっていた。壁の外、通りの方から選挙カーの声が一度だけ、くぐもって届いた。もう、文言までは拾えなかった。
サクラは、舞台の袖からその応酬を見ていた。クロエの語彙にも、礼子の語彙にも、足がかりになるものはなかった。装置、配役、中央、どの言葉も、サクラの持っている感覚とは違う場所から来ている気がした。ただ、さっきから感じている、客席の暗がりの奥の気配だけは、まだそこにあった。この舞台の上で交わされている言葉のどちらでもなく、その暗がりだけが、何かを分かっている気がした。向こうに——そう思いかけて、サクラは言葉にする前に止めた。声にする理由が、今はまだ見つからなかった。礼子の斜め後ろに立つA1の横顔を、半円の外から一度だけ確かめる。招集された人数を数える、いつもの作業をしている気配があったが、距離はさっきから変わっていなかった。いつもなら、こういう間に何か言葉が出てくる。今夜は、その手前の気配だけがあって、言葉の形にはならなかった。
長い沈黙のあと、クロエは視線をわずかに床へ落とし、それからゆっくりと椅子に腰を戻した。座面に落ち着く動作は、立ち上がったときと同じくらい静かだったが、背筋の角度は、立ち上がる前より心もち浅くなっていた。膝の上で両手を重ね直す動きに、いつもの迷いのなさが戻るまで、数秒を要した。舞台の上に、また元の静けさが戻る。業務用の丸時計は、二十一時三十六分を指していた。壁の非常灯だけが、変わらない間隔で点滅を続けていた。