アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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13.レッド・ジーンズ-Red Jeans-

丸時計の針は、二十一時三十六分を少し過ぎたところで止まっているように見えた。半円の中央に戻ったクロエの背筋は、立ち上がる前より心もち浅いままだった。

壁の非常灯だけが、変わらない間隔で点滅を続けている。誰も次の言葉を持たないまま、論戦の余熱だけが舞台の上に残っていた。

礼子は背の高い椅子の上で、付き添いの女性が差し出した白湯にまだ口をつけていない。

長く話した後の消耗が、目の下の薄い影をさらに濃くしているように見えた。空調はさっきよりもう一段絞られたらしく、半円の外側の暗がりから伝わってくる冷えが、心なしか強くなっていた。

その沈黙を破ったのは、カノンだった。

「長い。飽きた」

折り畳み椅子の脚がバミリのテープの上で軋み、乾いた音を立てた。カノンは頬杖から手を離し、脚を組んだ姿勢のまま立ち上がる。誰に断るでもなかった。ただそうしたかったから、という以外の理由が見当たらない動きだった。

組んでいた脚をほどいた拍子に、踵の低い靴の底が舞台の床を鳴らした。両腕を頭上へ伸ばすと、肩甲骨のあたりで小さく骨の鳴る音がした。

カーディガンの袖口の毛羽立ちが、伸びの動きに合わせて揺れる。あくびを一つ、隠しもせずにした。舞台の上に生まれていた緊張の質を、カノンだけが最初から共有していないように見えた。

伸ばした右手の指先が、そのまま宙に浮いたまま止まる。爪の縁に、小さな火花が一つ瞬いた。マッチを擦った瞬間に似た速さで、火花は指の腹から手首の方へ走り、掌の輪郭をなぞるように赤い光が薄く覆っていく。狙いを定める目はなかった。構える姿勢もなかった。手持ち無沙汰に指を鳴らすのと同じ調子で、赤がそこに出てきていた。

「熱くないから、平気」

言いながらも、光は消えなかった。カノンはそれを消そうとする素振りも見せず、足元のバミリのテープに軽く触れた。

触れた場所から、白いテープの端が黒く縮れ始める。接着剤の焦げる匂いが、埃と古い座席の布の匂いに混じって舞台の上に広がった。

細い煙が一筋、頭上のバトンの並ぶ暗がりへ立ち昇っていく。誰の指示でもなかった。クロエの用意した進行表にも、礼子の語った開示の予定にも、この赤は入っていない。

半円の端で、ミドリが小さく息を呑んだ。キヅキが耳の後ろに指をやり、すぐに下ろした。クロエは腰を浮かせかけた。

「カノンさん、今夜は、そういうお約束では」

「べつに、約束した覚えないし」

言い返す声に、抑揚らしい抑揚はなかった。クロエがさらに何か継ごうとしたが、言葉になる前に、天井の方で先に反応があった。

暗がりの高い位置、舞台の額縁の上あたりに設置された小さな装置の緑色のランプが、点滅を止め、赤へ切り替わる。一拍置いて、二つ目、三つ目のランプが同じ色に変わっていった。カノンの起こした熱と煙を、天井の感知器が拾い上げたらしかった。

次の瞬間、場内の音が一変した。

甲高いベルの音が、劇場全体に鳴り響いた。客席の暗がりのどこかから機械油の匂いのする低い唸りが上がり、舞台と客席を隔てる分厚い幕——防火幕——が、天井から静かに下り始める。

降りきるまでには、まだしばらくかかりそうだった。小学校の避難訓練で聞いた覚えのある数字が、脈絡もなく頭に浮かんで消えた——たしか三十秒前後、という数字だった。

それまで一定の間隔で点滅していた誘導灯の緑が、倍近い速さで明滅を始めた。壁のスピーカーから女性の合成音声らしきアナウンスが流れかけた。

「ただいま、火災報知器が作動いたしました——」

その先は、ベルの音にすべて呑み込まれた。二階席の脇の操作卓で、赤いランプがもう一つ増えているのが、この距離からでも見えた。人影が一つ、その灯りの前を横切って、すぐに見えなくなった。

サクラの一歩後ろで、A1が動いた。

判断に迷う間はなかった。無線のイヤホンに指先で触れたのはほんの一瞬で、確認を待つ様子は最後までなかった。本物の火か誤作動かの判定が出るのを待ってから動く建物もあるのだと、サクラは今夜初めて知った。この場所は、そちら側ではなかった。A1は礼子の椅子の脇に半歩踏み込み、付き添いの女性に短く何か告げると、礼子の肘へ手を添えた。Qの通信で見た「宮中」の文字が、また脈絡もなくサクラの頭をよぎって消えた。

「礼子様、こちらへ」

その一言だけで、椅子から立たせる動作に移る。礼子の足取りは遅く、付き添いの女性が反対側から支える形になった。

「先に外へ。段差があります、足元だけ見てください」

A1が付き添いの女性へ短く告げると、女性は無言のまま頷き、礼子の肘をさらに強く支え直した。A1は二人の前に立ち、視線を搬入口の方へ固定したまま、一度も振り返らなかった。いつもなら、A1はこういう場面で招集された人数と今いる人数を照らし合わせる。今夜はその作業をしている気配がなかった。合っているかどうかを確かめる暇も、確かめる理由も、今のA1にはないようだった。

サクラは、その背中を見ていた。

これまで何度も、A1はサクラの前を歩いてきた。バスの中でも、南平台の廊下でも、この劇場に入ってきたときでさえ、半歩前にはいつもあの背中があった。

今夜だけは、違う位置にA1の背中があった。呼ばれもせず、確かめられもせず、視線の一つも寄越されない。

装置は誰も守らない、というならまだ理解できた。

だが今、A1は明確に誰かを守っている。判断の速さも、迷いのなさも、いつもサクラの隣で見てきたのと同じA1のものだった。

ただ、それが向けられる先が、今夜は違うというだけだった。選ばれたのが、サクラではないというだけのことだった。

半円の椅子が、次々と鳴った。クロエが真っ先に立ち上がり、ユカリの腕を取る。

「こちらですわ」

声はいつもの丁寧な調子を保ったまま、歩調だけが速かった。キヅキとミドリが並んでその後を追う。ミドリが足元の折り畳み椅子の脚に爪先を引っかけ、体勢を崩しかけた。

「危な——」

キヅキがその腕を掴んで支える。ミドリは「……ありがと」とだけ返し、二人はそのまま舞台袖の非常口へ向かった。

カノンだけが、火花の消えた自分の手のひらを一度眺めてから、最後にゆっくりと歩き出した。

誰かに急かされて動く人間の速さではなかった。サクラのすぐ横を通り過ぎるとき、カノンは一瞥もくれなかった。

目が合わなかったことに、驚きはなかった。この舞台に上がってから、誰の視線もサクラには向いていない。

客席の反対側、正面ロビーへ続く扉の方には、誰の足も向かなかった。扉の下から光は漏れていない。暗いままのその扉を、サクラは視界の端で一度だけ捉えた。

搬入口の扉が開いた瞬間、外の冷えた空気が舞台裏まで流れ込んでくるのが、ここからでも分かった。夜の匂いが、埃と焦げた接着剤の匂いを一瞬だけ押しのける。

サクラは、動けなかった。搬入口へ向かうA1たちの列と、非常口へ向かうクロエたちの列に挟まれる位置に、いつのまにか立っていた。

どちらへ足を出せばいいのか、指示する声は最後まで来なかった。二つの列の誰も、サクラの方を振り返らなかった。

心臓の音だけが、いつもより速く、耳の奥で鳴っていた。

この劇場に入ったとき、A1は正面ロビーへの扉、搬入口、舞台袖の非常口、その三つを視線だけで数えていた。今夜、実際に使われたのはそのうちの二つだけだった。数えられただけで使われなかった一つが、暗いまま残っている。

交渉は、これで終わったのだと、サクラにも分かった。委員会、プロバイダー、リソース、アテンション、トラヒック——今夜のうちに声になった言葉は、どれも取り消されないまま舞台の上に残っている。

 

だが、それを聞いた誰かがこの先何かを変える余地も、同じだけ残っていなかった。

誰の意志も、この場を制さなかった。

ただ、公示を二日後に控えた毛利のシナリオだけが、今夜どこにも傷を負わないまま先へ進んでいく。サクラには、その静かな確定だけがはっきり分かった。

ベルの音が、唐突に止んだ。

止んだ直後の劇場は、それまでより深い無音に沈んだ。誘導灯の明滅だけが、まだ続いている。天井から下り続けていた防火幕が、ちょうどそのとき床に着き、鈍い音を一つだけ立てて止まった。舞台と客席の間に、これでもう空気の通り道はなくなった。搬入口へ向かいかけていた礼子が、そこで足を止めた。付き添いの女性が支える腕の中で、ゆっくりと振り返る。視線は列席の誰でもなく、サクラの方へまっすぐ向いた。

「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。叩けよ、さらば開かれん——と、申しますでしょう」

細い声だったが、無音の中では隅々まで届いた。

「門は、叩いた者にしか開きません。今夜は、どなたも、叩きませんでしたのね」

それだけを言うと、礼子はまた前を向いた。A1の背中に付き添われ、搬入口の暗がりへ消えていく。三人分の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

舞台の上には、サクラだけが残っていた。半円に並んでいた六つの椅子は、どれも空いたまま、バミリのテープの上に取り残されている。焦げた場所からはまだ細い煙が上がっていたが、誰もそれを気にしなかった。誘導灯の緑だけが、変わらない速さで明滅を続けている。サクラは、その言葉の意味を、その場ではまだ掴めなかった。ただ、自分に向けられた最後の一言だけが、鳴り止んだベルの余韻よりも長く、耳の奥に残った。

 

 


 

 

舞台の上に一人残されたまま、どれくらい時間が経ったのか、サクラにはよく分からなかった。

誘導灯の明滅を目で追うのをやめたところで、ようやく足が動いた。

舞台袖へ続く通路は、非常灯の緑だけが頼りだった。

壁に貼られた避難経路図の、現在地を示す丸いシールが端から剥がれかけている。

楽屋口の扉には、今夜の貸切利用を示す一枚の紙が留められていて、団体名の欄は空白のままだった。踏み段を三段下りると、床材が板張りからコンクリートに変わり、靴音の質が急に硬くなる。

重い防火扉を肩で押すと、外の冷えた空気が一気に流れ込んできた。

焦げた接着剤の匂いは、風にすぐさらわれて消えた。壁に据え付けられた消火器の箱に、まだ点検済みのシールが新しく貼られているのが目に入った。

劇場の搬入用ゲートに沿って、一方通行の白線が引かれた狭い路地が伸びていた。

ゲートの脇に、コインパーキングの精算機の明かりだけがぽつりと灯っている。夜十一時を過ぎているせいか、路地には他に人影がなかった。

少し先に、二つの影があった。キヅキとミドリだった。並んで歩く歩幅がそろっておらず、ミドリの方が半歩遅れては小走りになって追いついていた。

サクラは声をかけるつもりで足を速めたが、話し声が届く距離まで来たところで、その足が止まった。

「……あれ、笑ってた」

キヅキの声だった。抑揚のない、いつもの調子だった。

「うん」

ミドリが短く応じる。それで会話が終わったように見えたが、少し歩いてからキヅキがまた口を開いた。

「点けた時。テープに触った瞬間、一瞬だけ」

「見てない」

「見てないのに、分かるんだ」

「……声が、違ってた」

キヅキが立ち止まり、耳の後ろに指をやった。何かを拾おうとする仕草だったが、すぐに手を下ろした。カーディガンの袖からは、まだ焦げた接着剤の匂いがかすかに残っている。

「厚みとか、声の出所とか、そういうんじゃ測れないやつだ、これ」

「うん」

「言葉にできたら、逆に困る気もする」

ミドリは頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。いつもなら続くはずの「そう、だと思う」が、今夜は出てこなかった。判定する手立てが二人にはもう残っていない、ということだけが、その沈黙で分かった。自分の右袖を軽く引っ張る、いつもの動作だけが返事の代わりだった。神経が通っている場所に力を入れると、今がどこかに留まる感触が来る——地面に手のひらを当てて厚みを確かめる手立ては、今夜は最初から使えないと分かっていた。厚みは、変身者が本気で戦った場所にしか残らない。今夜のあれは、戦ってすらいなかった。

少し歩いて、キヅキがようやく話題を変える。

「金曜、いつも通り?」

「うん」

信号のない交差点で、二人は左右に分かれていく。コンビニの看板の明かりだけが、二人の足元を等しく照らしていた。「また」とキヅキが言い、ミドリが小さく頷く。それぞれの背中が、街灯の輪の外へ順番に消えた。

サクラは、二人を追い越すことも、声をかけることもしなかった。届けたい言葉があるわけではなかった。今の会話は、自分に向けられたものではないと分かっていた。

劇場の正面ロビー側には、黒い車が二台、ハザードランプを点けたまま停まっていた。

ナンバープレートの数字までは、この距離ではよく見えない。救急車の姿はどこにもなかった。

制服姿の劇場スタッフが数人、通りの反対側で誰かに頭を下げている。一人はクリップボードを胸に抱え、もう一人はそれを覗き込んでは小さく頷いていた。

誰に向かって下げているのかまでは見えなかった。

今夜のことは、明日の朝には「設備点検による一時避難」という一行に収まるのだろうと、サクラはなんとなく思った。誰かがそう決める前から、もう決まっていることのような気がした。

掲示板に貼られたままの来月の公演チラシだけが、何ごともなかったような顔で街灯に照らされていた。

駅への道を、サクラは一人で歩いた。十一月の夜気は乾いていて、息を吸うたびに喉の奥が少し痛んだ。

耳の奥には、まだあの非常ベルの高い音が薄く残っていて、電車の走行音と重なるたびに一瞬だけ蘇る。

街路樹の葉が一枚、音もなく足元に落ちる。信号が青に変わるのを待つ間、目の高さにある防犯カメラのレンズに、自分の顔が小さく映り込んでいるのに気づいた。

あの舞台の暗がりの客席も、こうして誰かを映していたのだろうか。委員会も、プロバイダーも、リソースも、今夜声になったどの言葉より、あの暗がりの方が近くにあった気がした。

向こう——今夜、あの客席の暗がりに、いた? 叩けなかったのは、ワタシも同じだったのかもしれない。門があることさえ、今夜まで知らなかったんだけど。

後ろから、声は来なかった。

信号が変わり、サクラは白線の上を渡った。振り返らなかった。


私室に戻ったのは、日付が変わる前だった。

 

低いテーブルの上、二枚の紙は朝出た時のままの位置にあった。上着を脱ぐより先に、引き出しから万年筆だけを取り出す。

インクを足す間も惜しくて、キャップを外した瞬間にわずかな掠れの音がした。壁の向こうから、テレビの笑い声のようなものが低く漏れてくる。

カノンはとうに帰り着き、いつも通りソファに寝転がっているらしい。今夜あの舞台の上にいた人間とは思えない静けさだった。

紙の上部に、「交渉、不成立」。四文字を横に並べる。字の大きさは、いつもと変えなかった。

感情の大小を字の大きさで表す癖は、わたくしには向いていない。

端末でニュースアプリの見出しを一度だけ確かめる。

劇場の名も、今夜の招集の事実も、どの見出しにも出ていなかった。

出ていないことを確認する作業に、今夜はいつもより長く時間を使った。画面を閉じる指の動きだけが、いつもより一拍遅かった。

「毛利」の丸に、目を落とす。丸はもう何度もなぞられて、線の一部が紙の繊維を毛羽立たせている。

今夜、あの人は劇場の名も、招集があったことさえ知らないはずだった。

知らないまま、今夜という時間は、あの人の描いた盤面に何の傷も残さず過ぎていく。

丸の右隣に、わたくしは一言だけ書き足した。「無傷」。

ユカリの名にも、キヅキとミドリの名にも、今夜は何も書き足さなかった。

増えなかった丸の数の方が、今夜は増えた言葉の数より、多いのかもしれない。

「叩けよ、さらば開かれん」——あの声を紙に写す考えが一瞬よぎったが、ペン先を近づけただけで、結局どこにも書かなかった。書けば、今夜のうちにあの言葉を自分の側の言葉として扱うことになる。それはまだ早い。

「カノン」の丸へ視線を移す。丸の内側には、これまで何も書き加えていなかった。今夜のことをどう分類すればいいのか——迷ったのではない。分類すること自体を、今回はしないと決めた。丸の右に、わたくしは「予定外」とだけ書いた。「——と分類する」を付けずに、名詞だけを紙の上に置いたのは、今夜が初めてだった。それが何の意味を持つのか、わたくし自身、まだ測りかねている。

別の頁には、まだ丸のついていない名が一つ残っている。ペン先がその頁の方へ動きかけたが、開かなかった。今夜も、開かなかった。開かない期間の長さそのものが、もう一つの記録になりつつあることに、わたくしは気づかないふりを続けている。

手元の端末が短く鳴った。社の夜間当番からで、今夜の一件は表に出さない手配が済んだという一文だけの連絡だった。誰の判断で処理されたのかは、どこにも書かれていない。東和の名も、羽根川の名も、その一文には出てこない。この種の始末のつけ方には、いつも誰かの指紋が残らないようにできている。もう一件、続けて着信があったが、あの人の秘書からのものだと分かって、今夜は開かずに済ませた。

壁の暦に目をやる。公示まで、あと二日。赤いインクで囲んだその日付の周りには、まだ何の予定も書き込まれていなかった。わたくしは万年筆のキャップを閉め、二枚の紙をそろえて重ねた。デスクライトだけを残して部屋の照明を落とすと、壁の向こうの笑い声が、さっきより近く聞こえた気がした。

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