アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
宮益坂の掲示板は、夜のあいだに顔を変えていた。
八枚並んだ合板のパネルに、朝六時を回ったばかりの時間から、各陣営のスタッフが入れ替わり立ち替わり紙を貼りに来ていた。まだ通勤の人通りは薄い。腕章の色も、羽織ったジャンパーの柄も、陣営ごとにまちまちだった。一番の枠には無所属候補の陣営から男が一人で紙を抱えてやって来て、渡された番号札とパネルの番号を指で照らし合わせてから貼り始めた。二番の枠では、揃いのジャンパーを着た党のスタッフが二人一組で、パネルの上端に張られた細い糸に紙の上辺を沿わせてから、両面テープで留めていく。テープだけでは冬の風に負けるらしく、四隅にはさらに針金を通し、あらかじめ開けられた枠の穴でねじって固定する。貼り終えた端から、指の腹で気泡を押し出すようにして紙を撫でつける仕草を、二人は何度も繰り返していた。少し離れた位置に選管の腕章をつけた職員が一人立っていて、手元の名簿に貼付の完了印を押して回るだけだった。作業そのものには手を出さない。紙は厚手のコート紙で、朝の薄い光を受けて表面がわずかに反射する。台車に積まれた束からは、まだインクの匂いが残っているのが、少し離れたサクラのところまで届いた。パネルの左下、四桁の管理番号は、板組みだけだったあの日に見たのと変わらない位置に打たれている。四番目のパネルだけ番号の色が薄れていて、雨に何度か打たれた分だとひと目で分かった。この位置に掲示場が置かれているのは、区の選挙管理委員会が投票区ごとに世帯数を基準に箇所数を割り振っているからだと、A1が巡回計画表を見せながら以前に説明したことがある。宮益坂のこの一台は、隣接する二つの投票区の境界からほぼ等距離になるよう選ばれていた。道路の使用許可は前月のうちに区の道路課へ申請され、パネルの設置期間は公示日から投票日翌日までと決められている。撤去の日程まで、この時点ですでに書式の上では確定していた。
二番の枠のスタッフの一人がリュックから水準器を取り出し、貼ったばかりの一枚に当てた。気泡がわずかに右へ寄っていて、上端の糸をもう一度張り直す。掲示順は前日の夕方、選管の事務所でくじ引きによって決まったばかりだと、A1が以前一度だけ口にしたことがあった。くじで引いた番号がそのまま枠の番号になる決まりで、番号の若い候補の陣営ほど朝の便に間に合いやすいという噂を、サクラは巡回のあいだに小耳に挟んだことがある。三番の枠だけは、他よりひと足早く仕上げが済んでいるらしく、貼り手の姿はもうなかった。路肩の水たまりに、車が停まっていたらしいタイヤの跡だけが新しく残っている。
三番目の枠に、その顔があった。
「かつ・けい」。平仮名で組まれた名前の下に、党の略称と、赤い縁取りの「公認」の一字が刷られている。写真は正面を向いたもので、口元だけがわずかに緩んでいた。肩書欄には「元警察官僚」とだけあり、年齢の数字がその下に小さく続く。スローガンは太い明朝で一行、「この国を、守れる手に。」と組まれていた。本人はどこにも来ていない。紙とインクだけが、朝の道端に立てられていた。
サクラは足を止めた。
顔が記憶に固定されにくいと言われていた男の顔が、今は区画番号つきで街のあちこちに同じ形のまま増えていく。雨が降っても、インクは滲まないよう表面加工がされているはずだった。風に何日さらされても、口元の緩み方は今朝貼られた瞬間のまま変わらない。印刷は、覚えていられなかったものを、覚える必要すらない形に変えてしまう。知っている、というのと、思い出せない、というののあいだで、サクラの足は数秒動かなかった。何を思い出そうとしていたのか、自分でもうまく言葉にならなかった。ポスターの中の目は、こちらを見ていなかった。
「二時間に一回」
隣に立っていたA1が言った。手にした端末には、巡回計画表が表示されている。
「今日から投票日まで、この頻度で回る。破れと落書きは写真を撮って毀損届を出す。様式は選管の窓口にある。原因の欄には破損・落書き・気象の三択があって、複写は二枚、控えはこっちで持つ」
「壊されること、多いんですか」
「先の代表選の時より多い。理由は決まっていない」
それだけだった。A1は端末をしまい、パネルの下端を一枚ずつ指で押していく。三番目の枠だけ、留め方にわずかな緩みがあった。針金を軽くねじり直すと、紙の端がぴたりと板に吸い付いた。
坂を下って次の掲示場に着くと、七番の枠が斜めに裂けていた。裂け目は右上から中央にかけて、定規で引いたような直線だった。A1がしゃがんで裂け目の角度を確かめ、端末のカメラで三枚撮る。正面から一枚、裂け目に沿って斜めから一枚、パネル全体の位置関係が分かるよう引いて一枚。撮り終えると、その場で毀損届の用紙を鞄から出し、路面にファイルを敷いて記入台にした。発見時刻、掲示場番号、パネル番号、原因の欄には「破損」に丸をつける。原因が人為的なものか気象によるものかは、この時点では判断がつかないらしく、備考の欄に「刃物様の直線。強風による可能性は低い」とだけ書き添えられた。控えの一枚をクリアファイルに挟み、正本は帰庁後に選管へ提出する段取りだと、A1は書きながら短く説明した。
坂の下から、選挙カーの声が近づいてきた。候補者名を三度繰り返す録音の声だった。A1が腰のポーチから小さな騒音計を取り出し、車がすれ違う瞬間に向ける。液晶に数字が並んだ。
「八十一デシベル。基準は八十五以下だ」
数字を巡回計画表の余白に書き添え、A1は騒音計をしまった。声は坂を上りきったところで、また同じ文句を繰り返し始める。すれ違う瞬間、車の側面に貼られた顔写真がサクラの目の高さに来た。掲示板の顔とは違う候補者だった。
匿流のタグには、音がなかった。数字だけが伸び縮みして、誰の声も乗らないまま拡散していく。選挙カーの声には、少なくとも人の喉から出たはずの震えがあった。数字で測れる分だけ、こちらの方が輪郭がはっきりしている気がした。どちらが街を塗り替える力として強いのか、サクラには判断がつかなかった。
坂の途中の店のシャッターにも、二階のベランダの手すりにも、選挙事務所開設や個人演説会の日程を知らせる貼り紙が、ここ数日でめっきり増えていた。顔写真の入ったものは今朝のこの掲示板が最初で、それまでの紙はまだ文字だけの案内がほとんどだった。駅前の不動産屋の窓には、賃貸物件の案内チラシの上から選挙事務所開設の貼り紙が重なり、下の物件情報の家賃の数字だけが端からのぞいている。街の色が少しずつ塗り変わっていくのを、サクラはここ数日、朝の巡回のたびに見ていた。
掲示板の前を、通勤らしい大人たちが何人も通り過ぎていく。イヤホンをつけた男が一人、スマートフォンの画面から目を上げないまま横を通った。自転車の女がハンドルを切って避けただけで、掲示板そのものには目をやらなかった。学生服の少年が二人、掲示板の前で信号待ちをしながら話していたが、話題は昨夜のゲームの続きらしく、視線は一度も紙の面に向かなかった。ベビーカーを押す女性が、車輪をパネルの土台の縁で軽くぶつけ、詫びる相手もいないまま通り過ぎていく。足を止める者は誰もいない。振り返る者もいない。誰もが顔の前を素通りしていくその速さの中に、サクラだけが数秒立ち止まっていたことになる。
「行くぞ」
A1が先に歩き出した。サクラは掲示板をもう一度だけ見てから、後を追った。次の掲示場までは、坂を下って十分ほどだった。
投票日まで、あと十日ほどだった。それより前に、行っておきたい場所が二つあった。電車で二駅、坂を上ってすぐの、番地までは覚えていない場所。それから、通っていたはずの中学のあった場所。どちらも、地図アプリで検索すれば駅名くらいは出てくるはずだったが、サクラは検索しなかった。検索して何かが出てきたら、それはそれで困る気がした。何も出てこなくても、困るのは同じだった。
いつからそう思うようになったのか、自分でもはっきりしない。ただ、公認の一字が刷られた顔を見た瞬間から、その考えが急に重さを持ち始めたことだけは分かった。あの男の顔は、消えずに残ることを許されている。この道端の何十枚もの紙が、そのことをただ証明しているだけだった。
A1には、まだ言っていなかった。今日中に決める必要はない、と自分に言い聞かせた。言わずに済ませられることが、今はまだいくつか残っている。そのうちの一つが増えただけだった。
土曜日、学校は正午で終わった。午後の巡回当番には入っていない日だった。「少し寄るところがあるので、夕方までに戻ります」とだけA1に伝えてあった。行き先は言わなかった。訊かれなかったので、それで済んだ。制服のまま、コートも着なかった。行くと決めたのは昨夜のうちで、決めてからは迷わなかった。迷う前に、体の方が先に動き出しそうだった。
渋谷駅の地下改札を抜けたのは、午後四時を少し過ぎた時刻だった。時刻確認用のiPodには十六時十七分と出ていた。この時間を選んだことに、はっきりした理由はなかった。ただ、この時間でなければいけない気がした。改札を抜けてすぐ、サクラは俯いた。俯いて歩くのは物心つく前からの癖で、今日もそれは変わらなかった。地下道の照明の位置も、階段の段数も、体は覚えていた。頭で思い出そうとすると崩れてしまう記憶が、足の裏にはまだ残っている。掲示板の広告は、去年よりも新しい映画のものに替わっていた。それ以外は、記憶にある地下道とほとんど変わらなかった。東横線のホームに降りると、次の電車まで三分と表示が出ていた。二駅先までは、乗り換えなしで七分もかからない。ホームの端で待つあいだ、反対側の線路を渋谷方面の電車が三本、続けて通過していった。
車両の中は空いていた。座席の半分ほどが埋まっていて、部活帰りらしい生徒が数人、スマートフォンの画面を見ている。老人が一人、夕刊を膝の上で広げたまま眠っていた。ドアの脇に立ち、窓の外が住宅の屋根に変わっていくのを見た。窓ガラスに映る自分の顔を、長くは見なかった。二駅を数えるあいだ、車内アナウンスの駅名だけを聞いていた。降りる駅の名前は、聞けばすぐに分かった。分かることと、それが自分の駅だったと納得することのあいだには、まだ薄い膜のようなものがあった。改札を出る客は、サクラを含めて三人だけだった。他の二人は自動改札の先ですぐに別方向へ歩いていき、駅前のロータリーには誰も残らなかった。
駅前の商店街は、三十メートルほどで途切れた。半分近くの店がシャッターを下ろしている。以前からあったはずのクリーニング店は、看板だけ残して中身が空になっていた。代わりに、見覚えのないコンビニエンスストアが角に建っている。壁の色以外は、渋谷のどの店舗とも変わらない造りだった。入口に貼られた求人の紙には、時給の数字だけが目に入った。商店街の端に小さな稲荷社があり、赤い幟だけが記憶にあるものと同じ位置で立っていた。神社は、誰にも忘れられずに済んでいるだけなのかもしれなかった。改札を出ると、坂が始まっていた。上りきるまでどれくらいかかるか、体は知っていた。両側に建つ家々の屋根の高さも、電線の張られ方も、見覚えのある通りに並んでいる。角の駄菓子屋はシャッターが下りたままで、貼り紙も色褪せて文字が読めなくなっていた。半分だけ開いたシャッターの隙間から、埃をかぶった陳列棚がわずかに見えた。犬を散歩させる年配の女性とすれ違ったが、目も合わせずに通り過ぎていった。光の色は、記憶の中の色と、ほとんど同じ角度で差していた。この時間、この季節の傾き方を選んで来たのだと、坂の途中でサクラは気づいた。一月や二月の午後四時と、十一月下旬の午後四時では、日の落ち方の速さがまるで違うはずだったが、光の傾きだけは近かった。似ているものを選んで、似ていないものには目をつぶった。坂の途中の生垣の匂いだけが、記憶にあるものと少し違って感じられた。今の季節の匂いなのか、生垣そのものが変わったのか、確かめようがなかった。
坂を上りきったところに、信号のない交差点があった。片側にカーブミラーが一枚、少し傾いた角度で取り付けられている。ミラーの中に、俯いたままの自分の姿が、実物より小さく歪んで映っていた。交差点の隅、アスファルトの端に近いところに、チョークで描かれた石蹴りの枠がまだ薄く残っていた。線の太さも歪み方も、記憶にあるどの子供の字とも違っていた。車は来ていなかった。それでもサクラは足を止め、来る車を待つ姿勢を取った。以前は、なぜそうするのか、考えたことがなかった。今日も、なぜかを考えなかった。ただ、体が覚えている通りに立ち、来ない車を待ち、しばらくしてから渡った。渡り終えて、交差点の先の角まで、十七歩だった。数えたわけではなく、数えてしまっていた。数え終えた瞬間、この数字だけは何一つ欠けずに残っていたことに、少しだけ驚いた。夕食の時刻や風呂の順番と同じ、手続きの形をした記憶だった。
そこから先は、坂の下、二つ目の角を目印にした。二つ目の角を曲がったところに、見覚えのある電柱があるはずだった。電柱はあった。灰色のコンクリート柱で、上の方に古い変圧器が取り付けられている。電柱の脇には、記憶にある柿の木も残っていた。以前より幹が太くなっていて、葉のほとんどを落とした枝先に、熟れすぎた実がいくつか残っている。木は覚えていた。番地の表示板は色褪せていて、数字の一部が読み取れなかった。何丁目の何番地だったか、思い出そうとして、指先が空中で止まった。声に出せば思い出せるかもしれないと、口の中で数字らしきものを二つ三つ転がしてみたが、どれも仮のものにしかならなかった。空中に見えない字を書こうとして、最初の一画から先に進めなかった。番地は、どの記憶よりも先に抜け落ちていた。
柿の木の先に、三階建ての集合住宅が建っていた。灰色の外壁は薄く汚れ、雨だれの跡が窓の下から縦に何本も走っている。一階の掲示板には、自治会の古い回覧文書が数枚、ピンで留められたままになっていた。目を近づけると、日付は三年以上前のものだった。壁の一角には耐震診断済みを示す古いシールが貼られていて、印字された実施年も同じくらい前のものだった。エントランス脇の定礎には、施工年月として今から二十数年前の年号が刻まれている。会社名の一部は摩耗して読み取れない。この建物は、少なくとも二十数年、この場所に建ち続けていることになる。十ヶ月前まで自分がここで暮らしていた記憶と、この年号は、どうやっても両立しなかった。今年でも去年でもない。ずっと前から、ここにはこの建物しかなかったことになる。エントランスの自動ドアが開き、買い物袋を提げた中年の女性が出てきた。サクラの前を通り過ぎるとき、一瞬だけ視線が合ったが、それだけだった。見慣れない制服の生徒が突っ立っているという以上の関心は、その顔のどこにも浮かばなかった。
集合ポストには、部屋番号ごとに小さな表札が並んでいた。どれも知らない名字だった。エントランスのインターホン脇には、居住者名簿を兼ねた案内板があり、そこにも見覚えのある名字は一つもなかった。駐輪場には自転車が七、八台とまっていて、錆び方の年季がそれぞれ違う。一台には、幼児を乗せる前カゴが取り付けられていた。エントランス脇の植え込みは、剪定の跡から見て何年も同じ手入れを受け続けている木立だった。太い幹に一箇所、古い傷跡が盛り上がっている。ゴミ集積所の看板には、収集日と分別方法が印字されていて、角が丸く擦り切れていた。郵便受け、駐輪場、植栽、ゴミ集積所——探せば何か残っているはずの場所を順に見ても、痕跡は一つもなかった。夕食が七時半だった食卓も、風呂の順番が父、母、自分の順だったことも、この建物のどこにも行き場がなかった。
集合ポストの前で、サクラの足が動かなくなった。表札を一枚ずつ確認するだけの動作だったが、指先を伸ばす手前で止まった。確認して何が出てくるのか、想像がつかなかった。探すための手がかりが、名前しかない。その名前が、どこにもなかった。名前さえあれば、この建物のどこかに残っている何かと、線でつながるかもしれない。だが線を引く両端のうち、片方が最初から欠けていた。父も、母も、名前で探すことができない。それ以上は、考えなかった。
坂の上のこの一角は、少女がここで暮らしていたことを、一度も知らなかったことになっていた。
集合住宅の前を離れる前に、サクラは一度だけ振り返り、三階までの窓を順に見上げた。どの窓にも、見覚えのある形の洗濯物も、見覚えのあるカーテンの柄もなかった。柿の木の下を通り過ぎるとき、熟れすぎた実がひとつ、風もないのに枝から落ちて、乾いた音を立てて転がった。拾わずに、そのまま坂を下った。
来た道を戻り、改札を抜けて、電車に乗った。行きと同じ席には座らず、ドアの脇に立った。乗客はさっきより増えていて、買い物帰りらしい主婦や、塾帰りらしい小学生の姿が混ざっていた。窓の外の光は、来たときよりも赤みを増していた。一月の午後四時と、十一月下旬の午後四時では、暮れ方の速さが違う。行きに感じた光の近さは、帰りにはもう感じられなかった。二駅ぶんの時間だけ、日が落ちる速さが追いついてきていた。ドア上の路線図には、次に停まる駅の名前だけが点灯している。渋谷に着くころには、ホームの照明がもう点いていた。改札を出る前に、iPodの時刻を確かめた。南平台までは、まだ間に合う時刻だった。