アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
自宅跡を訪ねてから、四日が経っていた。今度は平日の放課後で、「図書館に寄ってから戻ります」とだけA1に伝えた。嘘ではなかった。行きか帰りのどちらかで実際に寄るつもりでいたから、嘘にはならないはずだった。行き先の残り半分は言わなかった。訊かれなかったので、それで済んだ。
渋谷駅から東横線で二駅。改札を出てからの経路は、自宅跡へ向かった時と途中まで同じだったが、坂の手前で右に折れる点だけが違っていた。この分岐を覚えていたのは頭ではなく、足だった。右に曲がった先の道を、体はまだ通学路として扱っている。踏切のない小さな鉄橋を渡り、自動販売機が二台並ぶ角を過ぎ、駐輪場の柵に沿って歩く。柵の高さも、支柱の間隔も、記憶にあるものと変わらなかった。かつて毎朝ここで自転車の列を避けながら歩いていた、という感触だけが足の運びに残っている。避ける対象の自転車は、今日は一台もなかった。鉄橋の欄干に貼られたゴミ収集の案内シールは、去年のものより新しい書式に替わっていた。それ以外は、道の記憶とほとんど重なっていた。橋を渡りきったところに小さな児童公園があり、記憶にある滑り台と同じ色のものが同じ位置に立っていたが、周りの遊具は見覚えのない新しい形に替わっている。ブランコの鎖の錆び方だけが、昔から変わらない速さで進んでいるように見えた。公園のベンチに座る老人が一人、鳩に何かをやっていた。目も合わせず通り過ぎた。自動販売機の値段表示は、記憶にある数字よりどれも十円ほど高くなっている。値段は変わっても、並びの順番だけは覚えている通りだった。
道の先に見えてきたのは、記憶にある鉄門でも、赤茶けたレンガの校舎でもなかった。灰色のタイル張りをした四階建ての建物が、敷地いっぱいに建っている。正面に大きなスロープが弧を描いて設置され、車椅子の絵とともに「専用通路」と印字された案内板が脇に立っていた。自動ドアの上には縦書きの看板が掲げられ、大きな文字の下に「デイサービス/地域包括支援センター/障害者相談支援」と三段に並んでいる。玄関脇のガラスケースには、今月の行事予定表と、利用時間の一覧が貼り出されていた。開所は八時三十分、閉所は十七時十五分。土曜は隔週で開いている、という但し書きが小さな文字で添えられている。予定表には「体操教室」「認知症カフェ」「相談日(要予約)」の三つの文字が、色違いの丸いシールで日付ごとに貼り分けられていた。敷地の隅、駐輪場だった場所は今、車椅子用の駐車枠に変わっていた。線が四本、白く新しく引き直されている。門柱があったはずの位置には、その代わりに「送迎車専用」と書かれた小さな看板が立っているだけだった。
統廃合を知らせる掲示は、どこにも見当たらなかった。移転先を案内する看板も、旧校名を刻んだ記念碑も、敷地のどこにもない。以前ここに何があったか、という一行すら残されていなかった。植え込みの縁石だけが、以前見たものと似た高さで敷地を囲んでいる。石の継ぎ目の並び方に見覚えがある気もしたが、確かめる手立てはなかった。敷地の外周を半分ほど回ってみたが、竣工年を示す銘板も、寄贈者の名を刻んだ石も見当たらなかった。あるとすれば玄関の中だろうと思ったが、そこまで踏み込む理由が自分にあるのか、サクラにはまだ分からなかった。
校名を思い出そうとして、サクラは正門があったはずの場所に立ち止まった。頭の中に、輪郭を持った像は一つも浮かんでこない。代わりに出てくるのは、物の記憶だった。セーラー襟の縁を彩っていた紺の三本線。喉元で結んでいたリボンの、少しだけ固めの結び目の感触。プリーツの折り目を指で辿ると、いつも同じところで一本だけ浅くなっていた箇所があった。夏場は半袖の上に薄い紺のベストを重ね、冬場はそのベストの下にセーターを着ていたことまで、腕の記憶として残っている。指定の靴下の長さが膝下三センチだったことも、体はまだ覚えていた。制服そのものの形は、これほど細かく残っているのに、その制服を着て通っていた場所の名前だけが、どこにもなかった。指先で空中に漢字をなぞろうとしたが、一画目から先へ進まなかった。集合住宅の前で番地を思い出そうとした時と、同じ止まり方だった。物は残る。名前だけが、先に抜け落ちる。
自動ドアの前まで進んで、サクラは立ち止まった。ガラスの向こうに受付カウンターが見えた。制服姿の来訪者は珍しいのか、カウンターの女性が顔を上げてこちらを見ている。センサーが反応し、ドアが左右に開くまで、二歩分の距離があった。その二歩の間に、訊く言葉の形を頭の中で組み立てた。カウンターまでは、ドアから七、八歩ほどだった。歩きながら、声に出す前の準備として、喉の奥で一度だけ息を整えた。カウンターに近づくと、女性が「こんにちは」と声をかけてきた。人当たりのいい声だった。カウンターの端に「本日の来所者数」を数える紙のカウンターが置かれ、目盛りの針は午後の分だけ進んでいる。
「あの、前——」
言いかけて、サクラは声を止めた。喉の途中まで出かかっていた続きを、そのまま飲み込んだ。「前、ここに中学が」まで言ってしまえば、返ってくる答えはもう分かっている気がした。「昔からここです」。自宅跡の集合住宅と同じ答えが、同じ穏やかさで返ってくるだけだ。確認して、それが崩れる望みはどこにもない。訊く必要は、もうなかった。
「……お手洗いは、どちらですか」
出てきたのは、用意していた言葉とは別の一文だった。女性は少しも訝しまず、「そちらの奥です」と廊下の先を指した。礼を言って、サクラはその方向へ歩き、角を曲がったところで足を止めた。用を足すつもりは最初からなかった。廊下の壁には、地域の高齢者向け体操教室のポスターが貼られている。しばらくそこに立ってから、来た通路を戻り、玄関から外へ出た。女性は特に気にする様子もなく、次の来訪者の対応に移っていた。
敷地の外に出てから、サクラは足を止め、建物の壁を見上げた。四階建ての壁に西日が当たり、タイルの目地が細く陰を落としている。この壁のどこかに、教室の窓があったはずだった。何階のどのあたりだったか、それも出てこない。
田中の顔を思い出そうとしたのは、そのときだった。目を閉じて、輪郭を探る。眉の形も、笑うときの目の細め方も、像を結ぶ前に霧散した。父や母の顔と同じ止まり方だった。代わりに耳の奥に残っていたのは、声だった。「そうなんだけどさー」という一言。語尾の伸ばし方、力の抜けた笑い方の混ざった調子、息の抜け方まで、驚くほど正確に耳の奥で鳴った。何の話の返事だったのか、内容はもう分からない。昼休みの机の並びも、隣に座っていたはずの位置も、輪郭が薄い。それでもこの一言だけは、何度再生しても同じ高さ、同じ間で鳴った。意味の抜け落ちた音だけが、そこにあった。田中という名前は覚えている。声も覚えている。だが、その声を出していた顔だけが、抜け落ちている。
気づくと、風向きが変わっていた。さっきまで背中に受けていた風が、正面から吹くようになっていた。空を見上げると、西の方角から灰色の雲の帯が近づいてきている。夕方にしては早く、あたりが翳り始めていた。空気の匂いが変わっている。土埃と、湿った金属に似た匂い。夜には雨になる、とサクラは思った。理由は説明できないが、そう思った。
敷地の角まで来たところで、サクラは最後にもう一度だけ振り返った。灰色のタイルの建物は、西日を反射して、ただの建物として立っていた。中学だったことを覚えているのは、この街のどこにもいない。サクラは踵を返し、来た道を戻り始めた。鉄橋を渡るころには、雲はさらに厚くなっていて、欄干の金属が触れると少し冷たく感じられた。児童公園の滑り台の色が、さっきよりくすんで見える。光の量が落ちただけなのか、色そのものが変わったのかは、確かめようがなかった。図書館に寄る時間は、もうあまり残っていなかった。
午後八時、投票が締め切られた。資料室の壁掛けテレビは、Qが自分の判断で音量を落として点けたままにしてある。画面の下段に「投票終了」の文字が出た三十秒後、系列各局が一斉に出口調査に基づく当確を打ち始めた。全国二百九十五の小選挙区に配置された調査員が、投票所を出た有権者およそ二十八万人から聞き取った回答をもとにした数字だった。与党の獲得議席は「二百七十一から三百六」という幅で示され、単独過半数の基準線である二百三十三を、幅の下限からすでに超えている。画面右側の議席バーは、この時点でまだ確定値ではなく推計値の色で塗られていた。確定と推計の色の違いを、Qはこの選挙で初めて意識して見た。局によって色の濃淡の付け方が違うことにも、今夜初めて気づいた。議席を持たない少数政党の枠だけは、どの局も申し合わせたように同じ灰色で塗っている。
八時十二分、東京の小選挙区の一つに「当確」の赤い文字が灯った。「東京○区 かつ・けい 当選確実」。所属を示す一文字の党略号がその下に添えられ、末尾の丸括弧には「新」の一字だけが入っている。当選回数を示す欄に、これまでの記録が何もないことを示す一字だった。テロップは十数秒映って次の当確速報に切り替わり、それきり画面には戻ってこなかった。Qはこの十数秒を、巻き戻さずに一度だけ見た。系列局のうち一局はこの当確をまだ打っておらず、確定値の反映に八分ほどの遅れが出ていることを、Qは並べた二つの画面で確認した。
十時ちょうど、議席バーの推計値が確定値に置き換わり始める。「確定百八十四」。十一時十五分、「確定二百三十八」。開票率はこの時点で四割に届いていなかったが、確定議席の伸び方だけを見れば大勢はすでに決していた。単独過半数の基準線を、確定値の側が初めて越えた瞬間だった。Qはこの数字を台帳に書き写しながら、新総裁が選出されたあの夜、同じ基準線を越えた瞬間を静止画で保存したことを思い出したが、今夜はその作業をしなかった。保存する理由が、今回は見つからなかった。
見出し監視の画面に目を移す。劇場の一件を拾う設定にしてある行は、この一週間ほど一時間あたり三百四十件前後の低い水準で推移していた。非常ベルの誤作動という説明に納得しきれない層が、憶測を交えて書き続けている数字だった。八時十五分の時点でまだ二百十件。開票速報の項目がトップページを占め始めた九時四十分には五十四件まで落ち、十時五十三分には一桁になった。件数そのものより、更新の間隔が伸びていくことの方が、Qには数字として分かりやすかった。同じ時間帯、偽の赤の出現ログを拾う行にも新着が一件もない。単独出現の輪郭が濃くなるという傾向とは別の話で、今夜はただ、誰も見ていないだけかもしれなかった。
東京駅の三文字を拾う行は、もう何ヶ月も文字通りのゼロが続いている。ただ、そのゼロの下にわずかに残っていた表記ゆれや隠語の総量——全体の検索量に対する比率としては小数点以下四桁でしか表せない、消えたことにもならない残り香のような数字——が、今夜だけは「その他」の項目にまとめて吸収され、行そのものが表から消えた。監視システムの設定では、全体比が〇・〇〇〇一を下回った項目は自動的に「その他」へ統合される仕様になっている。この閾値に触れたのを見るのは、Qの記録が始まって以来今夜が初めてだった。ゼロがさらに沈む、という現象を、Qはこの部屋で初めて見た。
数字を声に出し、耳から返るものと画面の文字を照合する。「二百十」「五十四」「一桁」。三度とも、ずれはなかった。窓の外、いつの間にか雨の音が混ざり始めている。傘立ての位置を確認しなければ、とQは思ったが、今はまだその作業に立つ時刻ではなかった。
台帳の別のページに、選挙期間中に凍結された照会コードFR2・SP9・FA4の三件が並んでいる。凍結期限はいずれも投開票日の翌日までと記されていた。日付が変われば、Qの照会権限はまた元に戻る。戻ったところで何を照会するかを、Qはまだ決めていなかった。
三面モニターの待機欄には、今夜も四角い灰色の空白が浮かんでいる。Cの通達がいつも取る書式に似ているが、まだ何も書かれていない。この空白の意味は今夜も分からないままだった。分からないものと、分かったものを、同じ棚に並べておくわけにはいかない。Qは棚の前に立ち、これまで積んできた名前のつかないファイルの並びをもう一度目で辿った。匿流の怒り係数の折れ線、フューチャーペイの手数料をめぐる蒲原の供述調書の写し、シンポジウムの資料に出ていた労働力ファンドの語彙、新政権の政策骨子、そして今夜の議席バー。どれも別の棚に、別の理由で置かれてきたものだった。
今週届いた劇場の一件の事後報告書に、Qはこれまで庁内の文書で見たことのない二語を見つけていた。委員会。プロバイダー。A1名義の報告書には出典も定義も書かれておらず、報告書の書式上は「関係者からの伝聞」としか分類されていない。それでも、この二語が公式の紙に印字されたという事実だけで、Qの手元にある語彙は一つ増えていた。増えた語彙を使えば、これまで「確認中」としか書けなかった欄に、初めて動詞を置くことができる。
「……分離できていない、のではない」
声に出したのは、それだけだった。誰もいない部屋に向けて言ったわけではなく、確認のためだった。
「最初から、一つのものだ」
端末の新規ファイル入力欄に、Qは今夜はじめて迷わず文字を打った。「毛利」。分類のプルダウンからは相変わらずどの項目も選べなかったが、空欄のまま保存キーを押す手が、これまでのように途中で止まることはなかった。確認のダイアログに「はい」を選ぶ。棚の奥、名前のつかないファイルの列の、いちばん手前に、初めて名前のついた一件が加わった。
窓ガラスを打つ雨の音が、いつの間にか一定の強さになっている。冷めた紙コップの中身に、Qは口をつけなかった。テレビの中で、議席バーの色がまた一段伸びていた。
雨は、日付が変わる少し前から降り始めていた。窓ガラスを伝う水の筋が、街の光を細く歪めている。テレビは音を絞ったまま、選挙特番を流し続けていた。議席バーの色が、さっき見たときよりわずかに伸びている。低いテーブルの上、わたくしは二枚の紙を並べていた。
一枚は、選挙戦最終日に配布された政策集の抜粋。表紙に箔押しの党章、紙は上質でつやがある。政治部の当番から今夜八時過ぎに届けられたばかりで、まだ折り目の角が固い。もう一枚は、東和新聞経済部が半年前に非公式に入手した、経産省と投資家層が集まったシンポジウムの配付資料の写し。裏面にコピー機の縦筋が薄く残り、余白には経済部の記者が走り書きした「未確認」の三文字だけが赤鉛筆で添えられている。この二枚を並べて眺めるのは、今夜が初めてではない。カノンが指名手配された夜に一度、カノンを取り戻した夜にもう一度、先月の政権発足の報道でもう一度。三度とも、似ている、で止めて紙を重ねてしまった記憶がある。
窓の外、庭の欅がまだ枝の輪郭を保ったまま夜に沈んでいる。葉の残りはもう数えるほどだった。
「まだ見てるの、それ」
カノンがドアの隙間から顔だけ出して言った。手にはコンビニの袋をぶら下げている。袋の中身は肉まんらしく、湯気の匂いが廊下からわずかに流れてきた。
「見ていますわ」
「ふうん」
それだけで、カノンは廊下の奥へ消えた。生前の口調のままの、興味の薄い相槌だった。玄関で靴を脱ぐ音がして、それきり静かになる。
政策集の一文に、わたくしは指を置いた。「多様な働き方に対応する資金調達手段の環境整備を進める」。もう一枚の余白近くの一文に、もう一方の指を置く。「多様な働き方を下支えする資金循環の仕組みづくりを急ぐ」。語順の崩し方、読点の位置、体言止めを避けて必ず動詞で終える癖——三度目までは、似ている、で止めていた偶然だった。
四年前、まだ経産省の一係長だった頃の毛利が、ある業界紙のインタビューで語った一言も、記憶の奥から重なってくる。「多様な働き方を、行政の側から縛らずに支える環境をつくりたい」。同じ骨格の文が、時期を変え、書き手の肩書きを変えながら、律儀に三度書き直されてきたことになる。四度目の今夜、開示されたものを知った上でこの二枚を並べると、偶然と分類する理由がどこにもないことに気づく。
万年筆を取り出す。インクを足す間も惜しまず、キャップを外す。二枚の紙ではなく、盤面をまとめてきた別の頁を引き寄せる。空いた余白に「フューチャーペイ」と書き、これまでの癖通りに丸で囲んだ。丸で囲むところまでは、いつも通りの動作だった。そこから先が違った。ペン先を丸の縁に戻し、離さないまま、少し離れた場所にある「毛利」の丸まで、一息に線を引く。丸をつけるのではなく、丸と丸を線でつなぐ。これまでの記録にない動作だった。引き終えた指先に、インクがまだ乾ききらない感触が残っている。
「同じ設計者の、同じ筆癖ですわ」
声に出してから、わたくしは万年筆のキャップを閉めた。テレビの中で、議席バーがまた一段伸びる。壁の暦に目をやると、投票日の日付だけが赤い枠で囲まれ、その先の頁はまだ何も書き込まれていなかった。窓の外、雨の粒が少しずつ大きくなっていくのが、ガラスの向こうの街灯の光でそれと分かった。庭の欅の枝が、風もないのに一度だけ揺れた。二枚の紙をそろえて重ね、デスクライトだけを残して、わたくしは雨音に耳を傾けた。南平台の方角にも、今頃は同じ雨が降っているはずだった。