アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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16.エスケープ-Escape-

居間のテレビは、音量をいつもよりひと目盛り絞った位置で点いたままだった。画面の下段には「開票速報」の帯が固定表示され、上段の議席バーは赤く塗られた部分を少しずつ伸ばしている。二十二時四十分、当確テロップが三度目の繰り返しとして流れた。「東京○区 かつ・けい 当選確実」。末尾に添えられた「新」の一字は、最初に見たときと同じ大きさのまま画面の隅に残っている。テロップの下には小さく「得票率六十二パーセント」の数字が添えられ、対立候補の名は画面の端に一段小さく流れて消えた。画面が切り替わったスタジオでは、コメンテーターの一人が「今回の与党の勝因は、有権者の安定志向にあります」と言い、司会がそれを受けて次の選挙区の当確速報へ話を移した。窓の外では、宵のうちから降り出していた雨が、まだ本降りには届かない強さで庭石を叩いていた。冷めた麦茶のグラスが、サクラの前の低いテーブルに一つ置かれたまま、表面に薄い水滴の輪をつくっている。

低いテーブルの端に、A1は明日の巡回計画表を広げていた。四枚綴りの右上をホチキスで留めた書式で、日付欄の隣に「掲示場周辺・投票日前日巡回」とだけ印字されている。決裁欄にはKの印がすでに押され、施行日の下に保存年限「五年」の二字が小さく添えられていた。A1は表の左端から順に指でなぞりながら、事務的な声で読み上げていった。

「明日は七時出発。掲示場十二箇所を二時間おきに巡回。九時から十時、資材の点検立会い。十時から十二時までは投票所の外周警備に人員を割く。十四時、渋谷署から要請の書類受け取り。十六時——」

そこで一拍、指の動きが止まった。止まった長さは、それまでの項目と変わらなかった。

「変身適格者の予備調査への協力。場所は下馬、時間は未定」

紙の上の文字を追ったまま、A1はその一行だけ他の項目と同じ速さで読み終えた。備考の欄には「既存適格者一名同席可、任意」とだけ小さく添え書きがある。サクラは、聞き間違えたのかと一瞬思った。だが紙にはその文字が確かに印字されていて、A1はもう次の項目に指を移していた。

「……それ」

声が、思っていたより低く出た。

「今、なんて言いましたか」

「変身適格者の予備調査。K機関からの依頼だ。明日、下馬地区の対象者に会う」

「対象者って」

「新しく適格判定を受けた候補者だ。年齢、性別は伏せられている」

「見つかったのは、どうやってですか」

「照会システムの自動抽出だ。手順は、ワタシの知る範囲の外にある」

サクラの時も、同じ手順だったのだろうか。訊こうとして、やめた。訊いたところで、A1の答えは今と同じ形になる予感がした。

「その調査に、ワタシを使うんですか」

言ってから、自分の声の温度に、サクラ自身が驚いた。詰問の形になっていた。A1は紙から顔を上げ、サクラを見た。

「協力の内容は、対象者の反応の観測だ。過去の適格判定の記録との照合に、既存適格者の同席が有効だという判断がある」

「その判断をしたのは」

「Kだ」

「ワタシに、訊きましたか」

「協力の可否は、K機関の判断事項だ。今、訊いている」

「今夜、この紙を読み上げるまで、黙ってましたよね」

答えの形は、いつもと変わらなかった。だが今夜、その変わらなさそのものが、サクラの中で何かを押し切った。

「宮中に行ってたことも、教えてくれませんでしたよね」

言葉が、勝手に口から出た。フックの一つが、現在の会話の温度の中でそのまま像を結んでいた。装束のことも、行き先のことも、A1の口からは一度も聞いていない。予定表の隅に一度だけ見えた「宮中」の二文字を、サクラは自分の目で確かめただけだった。A1の表情は動かなかった。

「劇場で、礼子様、って呼んでました。非常ベルが鳴った夜、あなたは真っ先にあちらへ行って、搬入口へ向かう間、一度も、ワタシの方を見ませんでした」

もう一つ。列挙するつもりはなかった。ただ、次から次へと出てくるだけだった。「礼子様、こちらへ」という一言の速さを、サクラは今も耳の奥で覚えていた。呼び慣れた響きだった。

三つ目が出たところで、サクラは自分の声が震えていることに気づいた。震えを止めようとして、かえって声が大きくなった。

「自宅があった場所を、ワタシは一人で見てきました。中学があった場所も、一人で見ました。誰にも言いませんでした。言う必要が、どこにあるのか分からなかったからです」

A1は書類を閉じた。閉じる動作は、いつもと同じ速さだった。ホチキスの角を指で揃え直す仕草まで、いつも通りだった。

「その質問には」

「答えの持ち合わせがない、ですか」

食堂での会話を、サクラはそのまま引用した。皮肉のつもりだった。皮肉になっているかどうかは、自分でも分からなかった。

「今日じゃなくて」

声が、また一段温度を変えた。

「昔から、ずっと、そうでした」

指先が、震えていた。震えの発生源を確かめる前に、右手の先に薄い光の輪郭が浮かんだ。制御して出したものではなかった。透明な板が一枚、続けてもう一枚、頼んでもいないのに宙に固定されていく。三枚目が現れたところで、テーブルの上のリモコンと麦茶のグラスが板の縁に触れて弾き飛ばされた。グラスが床に落ち、麦茶の染みが絨毯に広がる。四枚目、五枚目——数える間もなく増えていく。左手の指先からは、細い光の線が幾筋も伸び、居間の空気を格子状に区切り始めた。線の一本がテレビの筐体をかすめ、画面の端に細い焼け跡が走り、開票速報の帯の文字が一瞬だけ歪んだ。

「サクラ」

A1が名前だけを呼んだ。姿勢を低くし、腰の警棒を展開する動作に入っていた。展開音が短く鳴る。

板が壁に触れた。漆喰の表面が乾いた音を立てて割れ、白い粉が宙に散った。もう一枚の板が窓際の観葉植物の鉢を弾き飛ばし、土が絨毯の上にこぼれる。境界線が絨毯の上を這い、繊維を焦がしながら居間の出入口の方へ伸びていった。サクラ自身、次にどの板が出るのか、次にどの線が伸びるのか、把握できていなかった。攻撃しているという感覚はなかった。ただ、これまで溜め込んでいた何かが、板と線の形を取って外へ出ていくだけだった。

A1はワイヤーを一射した。射程十五メートルのはずのワイヤーは、この距離ではほとんど全長を使わずに届く。着弾は板の一枚を捉えたが、板そのものは壊れず、ワイヤーだけが弾かれて床に落ちる。警棒の先が電撃音を立て、サクラの右腕を狙ってかすめたが、板の陰に隠れて空を切った。A1は間合いを詰めようとせず、代わりに位置を変え続けた。倒すための動きではなかった。出力が落ちるのを待つ動きだった。

居間の出入口の建具が、境界線の一本に押されて軋んだ。引き戸の溝が歪み、戸が半分外れたまま傾く。サクラが後ずさりした先は廊下だった。廊下の幅は畳一枚分ほどしかなく、左右の壁に板が次々と押し当たった。天井の照明カバーが振動でずれ、片方の留め具が外れて宙にぶら下がる。突き当たりの壁掛け時計が落ち、文字盤のガラスが廊下の板張りの上で割れた。時計の針は九時四十七分を指したまま止まった。壁に埋め込まれた消火器のボックスの扉が、境界線の余波で歪み、蝶番のあたりから浮いた。中の消火器は落ちなかったが、点検票の紙が一枚、ボックスの隙間から滑り出て床に落ちた。

食堂の戸を、サクラの背中が押し開けた形になった。楢材の一枚板のテーブルに、板の一枚がぶつかり、テーブルの端が斜めに欠けた。壁際の食器棚が揺れる。以前に何度見ても使われた形跡のなかった十二客のグラスが、棚の中で連鎖的に倒れ、半分ほどが床に落ちて割れた。下段に立てかけてあった五枚の大皿のうち二枚が縁から滑り落ち、粉々になった。棚のガラス扉も一枚、蝶番から外れて床に落ちる。A1はワイヤーをもう一射し、今度は着弾した先端がサクラの手首をかすめたが、境界線がその軌道を弾いた。

「そこまでにしろ」

A1の声は、まだ平坦だった。命令の形をしていたが、怒気は乗っていなかった。

食堂の奥、階段を数段上がった先にビリヤード室があった。サクラは板を出しながら後退し、気づけばその階段を上っていた。手すりに境界線が触れ、木の継ぎ目が裂ける。ビリヤード室に入ると、緑のラシャ張りの台が部屋の中央にあり、壁のラックには五本の球撞き棒と、使われた形跡の薄いチョークが二つ並んでいた。板の一枚が台の縁にぶつかり、ラシャの表面が裂けて中の詰め物がのぞく。玉が数個、台の上から転がり落ち、床の上で四方に散った。ラックが倒れ、球撞き棒が音を立てて折り重なる。天井から吊るされたシェード付きの照明が、衝撃で振り子のように揺れ、壁の額縁が一つ落ちて額のガラスが割れた。台の脇に置かれていた得点表示用のスコアボードも倒れ、木製の数字駒が床の上に散らばった。壁際の小さな書き物机に置かれていたグラスが一つ、振動で縁から滑り、絨毯の上で音もなく転がった。

A1が距離を詰め、ワイヤーの三射目を放った。今度は先端の手錠がサクラの両手首を捉えた。ワイヤーが自動で巻き取られ、サクラの腕が背中の方へ引き寄せられる。板の展開が、そこで途切れた。

「あなたは」

息が上がっていた。

「ワタシの、何なの」

A1は答えなかった。警棒を下げたまま、サクラの正面に立っていた。

「装置ですか。それとも」

続きの言葉が出てこなかった。ワイヤーの手錠が手首に食い込む感触だけが、はっきりしていた。A1の視線は、サクラの顔から動かなかった。表情に変化はなかったが、次の動作に移る様子もなかった。答えを探している間か、答えがそもそもない間か、サクラには判別がつかなかった。割れた玉突きの球が、床の傾きに沿ってゆっくりと転がり、ラックの脚に当たって止まった。

沈黙の中、境界線の残り一本が、まだ宙に浮いたままだった。サクラの意思とは無関係に、その一本がワイヤーの結び目に触れた。金属の継ぎ目が焼け、細い煙が上がる。手錠の内側で、ワイヤーが一瞬だけ緩んだ。

サクラは両腕を引いた。ワイヤーが千切れる音が短く鳴り、手首に赤い擦過痕が残った。痛みを確かめる前に、身体が動いていた。

「待て」

A1が一歩、踏み出した。踏み出した先で、床に散らばった玉の一つを踏み、体勢がわずかに崩れた。その一拍の遅れを、サクラは背に受けたまま、ビリヤード室を出て階段を駆け下りた。食堂を抜け、庭に面したガラス戸に体当たりする形で外へ出る。鍵は、朝のうちにA1が確かめてから、締め直されていなかった。

庭は、雨の粒がさっきより大きくなっていた。欅の枝が、風のない中で一度だけ揺れる。サクラは門の方へ走った。つっかけを履く間もなく、素足に近い靴下のまま敷石を踏んだ。

背後で、腰のものが抜かれる音がした。振り返らなかった。だが、その音の質だけは分かった。乾いた、金属同士の摩擦。マグロックの固定が外れる音だった。

右腕に、ランヤードの張る感触が一瞬伝わった気配がした。腰から取り出されたものの先が、夜空へ向く。安全装置を外す小さな音が、雨音の合間に紛れて届いた。

「止まりなさい!」

A1の声が、初めて張り上げられた。命令でも懇願でもない、ただ大きいだけの声だった。

夜空に向けて、一発。

破裂音が庭に響き、雨粒の落ちる音を一瞬だけ塗りつぶした。欅の枝が一本、その反動とは無関係の高さで折れ、地面に落ちる。折れた枝の切り口の近く、幹の表面に桃色の板が掠めた痕が薄く残っていた。近所のどこかで、犬が一度だけ吠えた。塀の向こうの隣家の窓に、灯りが一つ点いた。

サクラは止まらなかった。

黒い鉄格子の門扉を体で押し開け、サクラは外に出た。さっきの破裂音の残響が、まだ耳の奥にあった。雨が本降りに変わり始めていた。街灯の下を抜けるたびに、濡れた靴下が路面に張り付く音を立てた。遠くで、救急車とは違うサイレンが一度短く鳴り、すぐに聞こえなくなった。振り返る余裕は、もうどこにもなかった。

 


 

 

坂を下りきるまで、十五分ほどかかったはずだった。時計を確かめる余裕はどこにもなかった。傘は持っていなかった。持っていくという発想そのものが、南平台を出た時にはどこにもなかった。濡れた靴下の底が、アスファルトに触れるたびに湿った音を立てる。片方の靴下は爪先のあたりで擦り切れかけていて、指の先が直接路面の冷たさを拾っていた。もう片方はかかとの部分が途中で破れ、素足の皮膚が直接濡れたコンクリートに触れる感触があった。息を吸うたびに、雨に混じった排気ガスと濡れたアスファルトの匂いが喉の奥まで届く。渋谷の谷を下りきったところで風向きが変わり、正面から雨粒が顔に当たるようになった。

スクランブル交差点の手前まで来ると、人の数が急に増えた。金曜でも週末でもない晩秋の平日、しかも深夜に近い時間にしては、傘の花が異様なほど密に開いている。ビニール傘、黒い長傘、コンビニのレジ袋のような透明な折りたたみ、キャラクターものらしい柄の子供用——種類だけは渋谷らしく揃っていた。数えれば百は超えていたはずだったが、途中で数えるのをやめた。サクラはその隙間を縫うように進んだ。誰の傘の骨にも触れずに歩くのは、傘を持たない人間だけが身につける歩き方だった。

母親のお下がりの第六世代iPodは、まだポケットの中にあった。画面を確かめる気になれず、ただ角の硬さだけを指先で確認した。時刻を知ったところで、今夜これからどこへ向かうのかは、何も変わらなかった。

路面のあちこちに、浅い水たまりができていた。信号待ちの人の列の足元で、たまり水が街頭ビジョンの光を歪んだ形のまま映している。赤、青、白——三色の光が水面の上で揺れ、靴が踏むたびに輪を広げて崩れた。傘の布地にも光が反射していて、頭上を見上げれば、無数の丸い水滴の粒がビジョンの色を弾いているのが分かる。ビルの壁面いっぱいに設置された大型ビジョンは、雨粒の膜越しに見ると輪郭がわずかに滲んで見えた。交差点脇の家電量販店のショーウィンドウにも、同じ画面がもう一段小さく複製されて映り込んでいる。ガラスの奥に並んだ在庫のテレビ十数台が、それぞれ少しずつ違う遅延で同じ映像を繰り返していた。

ビジョンには開票特番がまだ続いていた。画面の下段を流れるテロップが、次々と当確の文字列を吐き出していく。「与党、単独過半数を確保する見通し」という速報の文字が数秒だけ表示され、すぐに別の選挙区の数字に切り替わった。画面の隅には小さく「投票率 五十八・二パーセント(前回比プラス二・一ポイント)」という数字が固定表示されている。開票率を示す帯グラフが右へじりじりと伸び、九十パーセントを超えたところで動きが止まった。スピーカーから流れる音声は、雨音と傘の骨の軋む音に半分ほど食われていて、当選者の弁らしき一節が「……支えてくださった皆様に、この場を借りて……」というところで途切れ途切れに耳へ届いた。語尾が雨に千切れて、意味の輪郭だけが残った。キャスターらしい声が続けて何か喋っていたが、頭上を通過したバスのエンジン音に丸ごと消された。

画面が切り替わった瞬間、その顔が映った。「東京○区 かつ・けい 当選確実」。文字の下に、選挙事務所らしい壇上で頭を下げる男の姿が大写しになる。ビルの三階分ほどの高さに引き伸ばされた顔は、記憶に固定されにくかったはずの輪郭を、今夜だけは誰の目にも留まる大きさで晒していた。花束を受け取る手つきまで、画面越しにはっきり見えた。その顔の真下を、名前を失った少女が一人、傘もささずに通り過ぎていく。信号待ちの人波の中で、その画は誰にも撮られず、誰にも気づかれずに、一瞬だけ成立して消えた。足元には、雨で剥がれかけた選挙ポスターの切れ端が一枚、水たまりに沈みかけていた。区画番号の数字だけが、まだかろうじて読み取れた。

誰もサクラを見なかった。傘を畳みながらコンビニに駆け込む会社員が、肩をかすめる寸前で軌道を変えた。若い男が二人、開票特番の画面にスマートフォンを向けて動画を撮りながら、サクラのすぐ横をすり抜けていった。「勝ったらしいよ、あの人」「へえ」という会話の切れ端だけが耳に残り、話していた二人はもう振り向かなかった。街頭で配られていたポケットティッシュのビラ配りの青年も、サクラの前で一度だけ手を止めたが、目が合う前にその手は隣を歩く別の通行人へ向けられていた。おそろいの黄色いレインコートを着た小さな子供連れの家族が、はしゃぐ声をあげながらサクラの脇を駆け抜けていく。信号の待ち時間を示すカウントダウンの数字が、赤い光でひとつずつ減っていく。誰かがその数字を見上げ、誰かが腕時計を見て、誰もサクラのことは見なかった。

ワタシが、誰なのか。そっちからは見えてるんでしょ。だったら、教えてほしい。ワタシが今夜、何を無くして、この交差点に立ってるのか。声に出したかどうか、サクラ自身にも分からなかった。雨音がすべての輪郭を均していて、自分の声がどこまで届いたのか、確かめる術がなかった。今までの語りかけは、いつも誰かに宛てるつもりで、宛先の方向感覚だけはどこかにあった。今夜のそれには、方向感覚そのものがなかった。上に向けているのか、前に向けているのか、それとも自分の内側に折り返しているだけなのか、区別がつかないまま言葉だけが出ていった。

答えは来なかった。信号待ちの電子音のリズムが、いつもより大きく聞こえた気がした。周りの傘はまだ動き出さず、赤信号を待つ足音がその場に留まったまま重なっている。街頭ビジョンの音声が別の選挙区の当確速報に切り替わり、拍手のような効果音が短く挿入された。近くの居酒屋の引き戸が開いて、暖かい光と一緒に誰かの笑い声が漏れ、すぐにまた戸が閉まって消えた。誰かの傘の先から落ちた雫が、サクラの首筋に一滴だけ当たった。冷たさだけが、はっきりしていた。

それでも、語りかけをやめる理由は見つからなかった。向こうに何かを言おうとする癖は、今夜もまだサクラの中に残っていた。届いているかどうかを確かめないまま、言葉だけを先に手放す。その手放し方だけが、今のサクラにできる唯一のことだった。ツッコミが返ってくることに、いつからか慣れていた。慣れていたことに、今夜はじめて気づいた。

信号が青に変わった。サクラは下を向いたまま、白線の上を歩き出した。俯いて歩くのは物心つく前からの癖で、今夜もそれは変わらなかった。あの坂の上の交差点には、来ない車を待つだけの静けさがあった。ここには、その静けさはどこにもなかった。青になった瞬間から、五方向すべてから人が同時に動き出す。傘の群れが左右から交差点の中央へ流れ込み、反対側から来る人波とすれ違う。誰かの傘の骨がサクラの肩をかすめたが、持ち主は謝りもせずに通り過ぎていった。信号柱に設置された歩行者用のカウントダウン表示が、残り五秒を切ったところで点滅に変わり、まだ渡りきっていない何人かが小走りになる。サクラは走らなかった。走る理由が、自分の中に見つからなかった。白線を一本ずつ数えるつもりはなかったが、気づけば十四本目まで数えてしまっていた。

渡りきった先、ハチ公前の広場は、いつもと変わらない密度で人がひしめいていた。待ち合わせらしい男女、大声で笑う若者の集団、大きなスーツケースを引く旅行者、閉店作業のシャッターを下ろし始めた靴屋の店員——晩秋の冷たい雨は、その誰の足も止めていなかった。銅像の周りには、雨宿りのつもりか、傘を差したまま座り込む数人の姿があった。一人がスマートフォンの画面を掲げ、開票特番の中継を自分のカメラで撮り直している。何のためにその映像がもう一度必要なのか、サクラには分からなかった。サクラはその群れの中に紛れ込み、特に行き先を決めないまま歩き続けた。背後で、街頭ビジョンの光が明滅し、当確テロップが新しい数字に切り替わる音が遠ざかっていく。振り返らなかった。

雨に濡れたスクランブルは、今夜も何万人という人間を飲み込んでは吐き出していて、その中の一人が今夜、名前を持たずに渡ったことを、誰の記憶にも留めなかった。

 

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