アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.ナンバー19-N°19-
雨はまだ止む気配を見せていない。スクランブル交差点を渡りきってからどれだけ歩いたのか、サクラ自身にも分からなくなっていた。行く先を決めるための場所が、今の自分の中に見当たらない。体温は、もう測るまでもなく分かる。指先の感覚が痛みではなく重さに変わり始めたら、それは体が冷えを通り越した合図だった。素足に近いつま先が、アスファルトの継ぎ目や小石の輪郭を拾うたびに、一拍遅れて痛みだけが届く。信号待ちの数十秒でさえ、立ち止まると膝の裏から震えが這い上がってくるので、サクラは青になる前に歩き出した。雨は、傘を弾く音がしないぶん、地面を叩く音だけが妙にはっきりと聞こえた。アスファルトの上では短く硬い音、街路樹の葉の上では少し遅れて重い音、放置された自転車のサドルの上では甲高い音。同じ雨が、当たる場所によって別の音になって耳に届く。数えたことはないが、傘を差している人と差していない人の割合は、今夜は九対一どころではなかった。
道玄坂を上る。閉店したドラッグストアのシャッターが看板の灯りだけを路面に漏らし、コインパーキングの精算機が誰もいない歩道を青白く照らしていた。傘のない歩行は、髪の先から水滴が落ちる間隔で測ることができる。最初は一秒に満たない間隔で落ちていたものが、坂を半分ほど上ったところで急に間遠になった。髪に含みきれる水の量を、髪自体が使い果たしたということだった。制服のブラウスは肩に貼りつき、スカートの裾が太腿にまとわりつく。肩から二の腕にかけて、寒さはとうに感覚を鈍らせていて、痛みよりも重さとして残っているだけだった。閉まりかけのコンビニのガラス越しに見えた時計は、零時を四十分ほど過ぎている。店員がモップで床を拭く音が、自動ドアの隙間からわずかに漏れて聞こえた。坂の途中、ビニール傘を差した配達員がバイクを押して歩道を横切っていったが、サクラのほうを見ることはなかった。
坂を上りきったところで公園通りへ折れる。終電をとうに過ぎた時間帯で、路上には千鳥足の男が二人、信号を無視して渡っていくのが見えた。空車ランプをつけたタクシーが列をつくり、運転手たちは車内の灯りの中で新聞を広げるか、目を閉じているかのどちらかだった。コンビニの前で若い二人組が一本の傘を分け合い、肩を寄せて笑っていた。その笑い声が、サクラの数メートル手前で急に遠く聞こえた。誰もサクラを見なかった。傘もささず靴も履かずに歩いている少女がいれば、普通なら誰かが振り返る。今夜、その視線は一つもサクラの上を通り過ぎていかなかった。見えていないのか、見えていて見なかったことにしているのか。それを確かめる気力は、もう残っていなかった。パトロール中らしい制服の警官が自転車で通り過ぎたときだけ、サクラは一瞬身構えた。だが自転車はスピードを落とすことなく、ライトの輪の中にサクラを一度照らしただけで走り去った。呼び止められることも、声をかけられることもなかった。この街のどこにも自分は引っかからないのだという感触だけが、言葉になる前に体の奥へ先に届いていた。
足だけが、迷わず北へ向かっている。頭では次にどこで折れるか考えていないのに、爪先がアスファルトの傾きを読んで角を選び続けている。意識より先に、体のほうが道順を覚えていた。それだけが、今のサクラを前に進ませている理由だった。NHKホールの案内看板を過ぎ、歩道橋の下をくぐる。ここまでで、たぶん二キロは歩いている。
明治通りを渡ったところで、生垣の切れ目に見覚えのある入口が現れる。代々木公園。街灯の色が、記憶にあるものと違っていた。あの日の橙色の光は、今は白に近い水銀灯に替わっていて、雨粒がその光の中で細い針のように見える。縁石の高さは変わっていないはずなのに、爪先で探ると記憶よりわずかに低く感じられた。近くのブランコが、風に押されるたびに鎖の音を立てる。あの頃、その音は湿った夏の空気の中で間延びして聞こえていた。錆びた金属が湿気を吸って重く軋む、間の抜けた音だった。今夜は違う。乾いた金属音に近い、短く硬い音が鳴っては止み、鳴っては止みしている。同じ道具立てが、季節を変えただけでこれほど違う音を出す。植え込みの脇には、去年はなかったはずの防犯灯の柱が一本増えていて、根元にまだ新しい針金の巻き跡が残っていた。土の匂いが、雨に押し出されるようにして強く立ち上っている。夏の匂いとは違う。腐葉土と、枯れて濡れた落ち葉の匂いが混ざった、重く沈む匂いだった。遠くで環状の道路を走る車の音が、絶え間なく低く響いている。
かつてサクラは、この場所を少し離れたところから見ていた。生垣の外側、通学路の途中、足を止めずに視線だけを動かして、縁石に座る藍色の少女の輪郭を数えるように観察していた日々があった。距離にして十メートルほど。植え込みの切れ目からその一瞬だけ視界が開ける場所を、当時の自分は帰り道の中で無意識に選んでいた。一日目は歩調を落とさずに通り過ぎただけだった。二日目、三日目と、通り過ぎる歩幅がわずかに短くなっていったのを、当時の自分は気づいていなかった。四日間、それだけを続けて、五日目に傘を置いた。今、その視線の先にあった場所へ、サクラ自身が歩いていく。見ていた側が、見られていた側の位置に立つ。その反転を、頭で理解するより先に、足のほうが理解していた。
ベンチは雨に濡れていた。木の座面に手のひらを置くと、水が皮膚の下まで染みてくる感触がある。構わず腰を下ろした。冷たさは最初、皮膚の表面だけの話だった。それが下着の下まで届き、太腿の内側からじわりと体温を奪い始めるまでに、数えていたわけではないが、たぶん一分は経っていた。制服越しに木の冷たさが伝わってくる、その時間差が、今夜は奇妙にはっきりと感じられた。座面の木目に沿って、指先で水の筋をなぞる。板と板の継ぎ目に溜まった水が、押した指の下でわずかにへこみ、離すとまた元の高さに戻った。背もたれに寄りかかると、濡れた背中の生地がひやりと肩甲骨の形に貼りついた。座面の端、誰かが彫ったのだろう小さな傷が二本、交差する形で残っている。指の腹でその溝をなぞると、木の繊維がささくれて引っかかった。ベンチの脚元にあるはずの小さな金属プレート――設置年と管理番号が刻まれているだけの、誰も読まないもの――は、暗くて文字までは読み取れなかった。
傘のことを思い出す。最初に置いたのはサクラのほうだった。透明のビニール傘。柄の部分に、コンビニのシールが半分剥がれかけたまま残っていたもの。それを何日か後、雨の降っていない日に、藍色の傘と交換される形で戻ってきた。次にまた降った日、サクラは自分の傘を忘れ、藍色の傘を半分だけ差しかけられ、途中でそのまま渡された。今度でいい、と言われた。今度は、来なかった。借りたのがいつだったか、正確な日付までは出てこない。ただ、借りたまま返していない、という事実の形だけが残っている。返す機会は、あの夜からずっと訪れていない。藍色の傘は、今も傘立てのいちばん奥に、閉じたまま挿さっているはずだった。今はもう、それを取りに戻れる場所ではなくなっている。
手紙のことも思い出す。ノートの切れ端を四つに折ったもので、藍色のインクで四行だけ書かれていた。文字は定規で引いたように傾きがなく、迷った跡の消しゴムの筋が一箇所だけ残っていた。「来ない方がいい」。理由は書かれていなかった。差出人の名前もなかった。下駄箱の中に入っていたそれを、サクラは制服のポケットに入れたまま一日持ち歩き、夜になってから引き出しの奥にしまった。読んだ翌日、サクラは廃ビルへ向かった。理由を聞かれたときの答えは、いつも同じだった。来ない方がいいとは書いてなかったので。
——向こう。
言おうとした。いつものように、届く先があるはずの方角へ、言葉を投げようとした。喉の奥まで来た息が、白く曇って口の外に出る。だが今夜は、言葉が形になる前に何かが止まっている。合わない、という判断が出るより先に、口の中で言葉が崩れて、ただの息になって出ていった。もう一度、試す。同じところで止まる。届く先の感触そのものが、今、掌の中から消えていた。何かを握ろうとして、握るべきものの位置さえ分からなくなっている手のひらの感じに近い。目を閉じて、もう一度だけ息を吸い直す。喉から胸のあたりまで、冷たい空気がまっすぐ落ちていく感触があった。それでも、言葉は出てこなかった。
後ろから声は来なかった。
雨は変わらず降り続けている。ベンチの正面、街灯の白い光の輪の外側では、木々の影が風に押されるたびに形を変えていた。サクラはしばらく、膝の上に置いた自分の手だけを見ていた。爪の先が白くふやけている。遠くで、回送列車でも通ったのか、踏切の音が一度だけ鳴って止んだ。乗せる客のいない列車が律儀に鳴らすその音を、サクラは意味もなく数えていた。一回。それだけだった。何分そうしていたか、数える気力もなかった。
雨音の隙間に、濡れていない足音が一つ混ざっていることに気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。ザッ、ザッと路面の水を跳ね上げる自分の足音とは違う、パタ、パタという乾いた小さな音。近づいてくる。振り返る前に、サクラの中でその音だけが、やけにはっきりと輪郭を持ち始めていた。
振り返ると、街灯の白い光の輪の中に、それはいた。
膝の高さほどの丸みを帯びた輪郭。招き猫の意匠そのままに、右の前足を耳の横まで高く掲げている。丸い目、への字に結んだ小さな口、耳の先だけ少し垂れているところが、量産型の型からわずかに崩れている証のようにも見えた。毛並みは長めで、街灯の光を吸って白っぽく光っている。触れれば指が沈み込みそうな柔らかさが、見ただけで伝わってくる質感だった。座面の濡れた木目を見つめ続けていた目には、その毛並みの白さがやけに眩しく映った。
どこかで見た。ゲームセンターのプライズコーナーに、同じ顔をしたぬいぐるみが何十体も積まれているのを見た気がする。駅前の商店街の入口に据えられた、等身大の招き猫の置物にもよく似ていた。深夜に開いたデリバリーアプリのアイコンにも、こんな輪郭の猫がいた覚えがある。似ているのではなく、同じだった。どこで見ても同じ顔をしている量産品——そのはずのものが、今、雨の中に一体だけ立って、こちらを見ていた。
クレーンゲームの景品棚に、似た顔のぬいぐるみが積まれているのを、田中と下校の途中で覗いたことがある。三百円で三回、田中は一つも取れずに笑っていた。あのとき棚の奥にいたのと、今目の前にいるのと、輪郭も表情も同じだった。既視感というより、確認に近い。どこで見ても同じ顔をしている量産品を、今、雨の中に一体だけ、生きて動くものとして見ている。
雨粒がその毛並みに触れる寸前で、わずかに軌道を逸れているように見えた。弾かれているのか、最初から避けているのか、目で追ってもよく分からない。足元のアスファルトには、サクラの靴痕の隣に、濡れていない乾いた輪郭が一つだけ残っていた。輪郭の縁は、雨が跳ねる音のリズムからだけ、少し遅れて生まれているようだった。近くのコンビニの時計は、たしか零時四十分を指していた。あれからどれだけ経ったのか、数える気力はまだ戻っていない。
「あかんあかん。そんなとこおったら風邪ひくで!」
第一声は、名乗りではなかった。よく通る関西弁。叱っているというより、本気で心配している響きだった。腰の高さまでしかない体を弾ませながら、猫はベンチの前まで駆け寄ってくる。駆けてくる間、跳ねた水たまりの飛沫が毛先にかかった。かかったはずの水滴が、次の瞬間にはもう見当たらなくなっていた。
「あんた、そんな薄着で。もうびしょ濡れやんか。風邪ひいたら元も子もないで、ほんまに」
猫はサクラのすぐ横まで来て、濡れた制服の袖に前足の肉球を押し当てた。押し当てられた場所だけ、水気が引いていくような感触があった。気のせいだと思おうとしたが、袖の色が一瞬だけ薄くなり、また元の濡れた色に戻るのをサクラは確かに見た。触れた前足自体は、最後まで乾いたままだった。
「あなた、誰」
声は、警戒よりも疲労のほうが先に立っていた。もう驚く体力が残っていない。膝の上に置いた自分の手を見ていたときと同じ角度のまま、視線だけを猫に向けた。
「担当や。遅れてもうたけど」
猫は当然のことのように答えた。担当、という言葉の意味を、サクラは考える気力がなかった。何の担当なのか、聞き返す前に猫はもう次の言葉を継いでいた。
「何しに来たの」
「何しにって、そら、来なあかんから来たんや。あんたのとこ、ずっと空席になっとったんやで」
空席、という言葉も、担当と同じくらい、意味を結ばなかった。サクラが黙っていると、猫はそれを了解の合図と受け取ったのか、満足げにうなずいて話を先へ進めた。問いを重ねても、返ってくるのは常に同じ手続きの言葉だった。誰なのか、なぜここにいるのか、そういう問いの形そのものが、この猫には最初から用意されていないようだった。
「風邪、こじらせんうちに、どっか屋根のあるとこ行かな。あんた、ほんまに冷え切っとるやん」
心配の言葉が先に立ち、それからほんの数拍遅れて、猫はもう一つの用件を思い出したように付け足した。
「……あー、せや。はよ活躍せな、打ち切られてまうで」
同じ抑揚のまま、その一言だけ質が違っていた。心配していた声の温度そのままに、違う種類の言葉が滑り込んでくる。サクラはその違和感を、意識の表面にまで持ち上げる前に聞き流した。今はまだ、それが何かを問うだけの余力がなかった。ただ、耳の奥にだけ、その一言の輪郭が引っかかって残った。
「サクラ、な。あんた、そういう名前やろ」
「……何で、名前」
「さあ。何でやろなあ」
猫は目を細めて、はぐらかすように前足で自分の耳の後ろを掻いた。誰から聞いたのか、いつから知っていたのか、そのどちらにも答える気配がなかった。困っているようには見えなかった。ただ、答えるべき質問だとすら思っていないような、ごく自然なはぐらかし方だった。
「あなたは」
はぐらかされたままでは終われない気がして、サクラは聞き返した。名前も知らない何かに、これ以上世話を焼かれ続けることのほうが、今は落ち着かなかった。
「タマや」猫は前足を自分の鼻先にちょんと当てて、得意げに答えた。「ワシのことは、タマ言うて呼んでくれたらええ」
タマ。ありふれた名前だった。どこかの家で、何匹もの猫が同じ名前で呼ばれてきたような、そういう響き。だが、名乗る声そのものには、迷いも恥じらいもなかった。自分の名前を初めて口にするような新しさは、そこにはなかった。
その名を聞いてから、雨の中に立っているそれは、サクラの中でようやく、ただの猫以上の輪郭を持ち始めていた。
そのとき、公園の外周を巡る歩道を、傘も差さず自転車を押す男が一人、フードを目深に被って通り過ぎていった。深夜の清掃業者らしい、蛍光色のベストを胸元に羽織っている。タマはその背中に向かって、声を張った。
「自分、そこ濡れてて滑るで、気ぃつけや!」
自分。見知らぬ相手には、その二人称だった。振り返りもせず去っていく背中を見送ってから、タマはまたサクラのほうへ向き直り、「サクラ」ともう一度名前を呼んだ。呼び方の違いに、サクラは何も言わなかった。ただ、自分だけがタマにとって名前を持つ存在らしい、という事実だけが、冷えた体のどこかにわずかに残った。
「とにかく、まずタオルや……いや、ワシ、タオルなんぞ持っとらんかったわ。堪忍な」タマは前足で自分の額を叩き、それからすぐに続けた。「せやけどサクラ、風邪引いてる場合と違うで。ここんとこの数字、正直言うてキツいんや」
心配の言葉と、数字という言葉が、同じ息の中に同居していた。サクラは黙ってタマを見ていた。
「髪の毛くらい拭いたらんと、体力の消耗が違うで。……ま、その前に稼働の話もせなあかんのやけどな」タマは自分の尻尾の先で、器用にサクラの前髪を軽く払った。触れた場所の水気だけが、また不自然に引いていった。尻尾の毛先は、そのあとも変わらず白いままだった。
「冷えは大敵やで、ほんまに。あんたが弱ったら、ワシの持ち場も終わりやからな」
言葉の後半だけを取り出せば、突き放すような響きにもなり得た。だが、声の調子はさっきと少しも変わっていなかった。心配している響きのまま、数字と、持ち場という言葉が出てくる。サクラは、その二つがどうして同じ声で言えるのか、分からなかった。
「風邪薬より先に、まずは温かいもんでも……いや、その前や。稼働率の話、先にせな」
タマは自分で言いながら順番を間違えたことに気づいたのか、少し慌てたように前足を振った。慌てる仕草そのものは、コミカルで、悪意の欠片も見当たらなかった。
「しんどいんは分かるで。せやけど、しんどいままやと数字も伸びへんし、話にならへんのや」
五度目のそれで、サクラはようやく、自分がこの応酬をどこかで数えていたことに気づいた。あんたのため、と、数字のため。二つの言葉が、タマの口の中では最初から一つの文法でできていた。タマの中では、その二つは矛盾なく同居していた。人情と商売が、最初から同じ土台の上に立っている話し方だった。
「そのへんの段取りは、ワシに任しとき」タマは急に胸を張って、前足を腰に当てるような格好をした。「長いことこの仕事しとるからな。ワシが教えたる」
先輩面、という言葉がサクラの頭をよぎった。教える気満々の口ぶりに、少しだけ大袈裟な自信がにじんでいた。何を教えるつもりなのか、具体的な中身はまだ何も語られていなかったが、タマはもうそのつもりでいるらしかった。
「あんた、行くとこないんやろ。分かるで、そういうんは」タマはもう一度、サクラの膝の高さまで顔を寄せてきた。丸い目が、街灯の光を映して二つ光っている。「風邪ひかれても困るんやって。あんたが寝込んだら、数字なんか稼げへんやろ」
雨はまだ止んでいない。ベンチの座面に染み込んだ冷たさが、今も太腿の内側から力を奪っている。サクラは、タマを追い払おうと思えば、まだそれくらいの力は残っているはずだった。だが、手を上げる気にならなかった。敵意も嘘も感じない、この過剰な世話焼きを押しのける理由が、今の自分の中に見当たらなかった。
タマが「ほら、こっちや」と言って、公園の出口のほうへ歩き出す。振り返って、サクラがついてくるかどうかを確かめる仕草もしなかった。ただ当然のように、先を歩いていく。歩幅は小さいのに、迷いのない足取りだった。
サクラは、立ち上がった。決めたという感覚はなかった。座っていた時間の分だけ、太腿の裏がベンチの木目の形に痺れていて、最初の一歩は膝から崩れそうになる。それでも足は止まらなかった。気づいたときには、膝が伸びて、足がタマの背中を追う方向に向いていた。振り払えなかった。振り払うということが、今の自分から、何か大事なものまで一緒に引き剥がすような気がした。
先を歩くタマが、一度だけ振り返る。挙げたままだった右の前足を、招くように小さく二度振った。客を招く縁起物の仕草そのままの動きだったが、それが自分に向けられているのだと、サクラは遅れて理解した。
濡れた靴の裏が、アスファルトを踏む。乾いた小さな足音が、少し先を歩いている。サクラはその音を追って、公園の出口へと歩き出した。