アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
出口まであと少し、というところで、タマは不意に足を止めた。園路の脇に建つ四阿の屋根の下だった。木造の柱が四本、瓦葺きの屋根が円く架かっているだけの、雨宿り以外に使い道のない造りだ。「ここでちょっと休も」と言われるより先に、サクラの足はもう屋根の下に入っていた。雨音が、頭上ではなく少し離れた場所から聞こえるようになる。屋根に当たる音と、地面に直接落ちる音とが分かれて、耳の中で二重になった。しばらく前から、その二つの音の間隔が開き始めていることに、サクラは気づいていた。降り方が変わっている。強さそのものより、粒の並び方が変わっていた。等間隔だった雨脚が、時折り不規則に途切れる。止むところまではまだ遠いが、確実に、上がり際に向かっている雨だった。
四阿の柱に寄りかかると、タマはサクラの足元に腰を落ち着けた。しばらく無言だった。前足で自分の耳の後ろを掻き、それから顔を上げてサクラを見た。街灯の白い光が、屋根の縁からこぼれてタマの毛先だけを薄く照らしている。柱に施された朱色の塗装は、ところどころ剥げて下地の木目が覗いていた。屋根裏には蜘蛛の巣が一つ、雨粒を規則正しくぶら下げたまま揺れている。遠くの信号が赤から青に変わる音——電子音の擬似的な鳥の声——が一度鳴って、また静かになった。時刻を確かめる手段はもうサクラの手元にない。ただ、空の暗さの質が、さっきよりわずかに薄くなっている気がした。濡れたアスファルトと、四阿の木材が吸った雨の匂いが混じり合って、鼻の奥に重く残っている。
「サクラ、あんた、何にも分かってへんやろ」
タマの声は、さっきまでの世話焼きの調子から、少しだけ低くなっていた。急かすでもなく、ただ順番を整えるような口ぶりだった。
「うちの上には、な。決めてはる人らがおるんや。あんたらの言い方やと——委員会、言うんやけどな」
委員会。聞いたことのある響きだった。サクラはすぐには反応しなかった。タマはサクラの沈黙を意に介さず、言葉を継いだ。
「早い話が、元締めさんや。仕入れから何から、全部あの人らの匙加減で決まってしまう。うちらみたいな下っ端は、決まったことに従うだけやねん」
「元締め」という言い換えが、委員会という語の硬さをいくらか和らげていた。だがタマの口ぶりの奥には、その硬さそのものへの怯えが透けて見えた。決める側と決められる側、その線引きだけは、タマにとって揺るがない事実であるらしかった。
「委員会はんの、さらに上にもおるんや。金出してくれてはる人ら。まあ、これも横文字でな——プロバイダー、言うんやけど」
サクラは黙って聞いていた。タマの声は、雨音の隙間を縫うように続く。
「うちらが取り合うとる分な。あれ——リソース言うねんけど、実はその人らが握ってはる財布の中身やねん。委員会はんかて、勝手には増やされへん。仕入れの元手、って言うたら分かりやすいかな。あんたらが体張って奪い合うとるもんの、本当の出どころ」
奪い合うもの、という言葉に、サクラの胸の奥で何かが小さく引っかかった。だがタマはまだ話を止めない。
「あんたが暴れて目立ってくれな、こっちに回ってくる分は増えへんのや。見てもらうこと——アテンション、言うねんけどな。見てもらった分だけ、こっちに——トラヒックが立つ。早い話、客の流れやな。客が通らな、店は潰れる。それと一緒や」
客の流れ。タマの口から出るその言い換えは、商店街の福引きの呼び込みか、招きタマの置物そのものの由来にでも紐づいているような、妙に軽い響きを持っていた。だが軽いからこそ、その言葉の下に流れているものの重さが、逆に際立って感じられた。
「その、客の流れって……何を、数えてるの」
サクラが尋ねると、タマは自分の左耳の付け根あたりを前足で示した。
「ここにな、丸いメーターがあるんや。目には見えへんけどな。あんたが暴れたら針が右に振れて、誰も見てへんかったら、じわじわ左に戻ってまう。今日の分は、まだ半分にも届いとらん」
半分、という具体的な割合が、抽象的だった話に急に輪郭を与えた。誰かが実際に数字を数え、記録し、上へ送っている——その手続きの実在感が、タマの一言でサクラの胸に落ちてきた。
サクラの記憶の奥で、別の声がこの語を並べていたことを思い出す。あの劇場の夜だった。舞台の上、椅子に座らせてもらえなかったサクラの少し先で、支えられながら現れたあの人が、同じ並びの言葉を、もっと静かな、もっと磨かれた声で口にしていた。委員会。プロバイダー。リソース。アテンション。トラヒック。あのときの声には、羽二重のように滑らかな抑揚があった。今、目の前のタマが発する同じ言葉には、そんな磨きは一切ない。関西弁の、切羽詰まった、生活の匂いのする声だった。
同じ語なのに、まるで別の言語のようだった。あちらは芸術の語彙で、こちらは生存の語彙。あちらは降りられない者の諦めを湛え、こちらは今にも息切れしそうな必死さだけでできている。あの夜の空気には、乾いた畳と磨かれた木の匂いがあった気がする。今、鼻に残っているのは濡れた土と苔の匂いだった。同じ言葉を包んでいる部屋の温度が、根本から違う。二つの声が、上と下からそれぞれこの世界の骨組みに触れているのだと、サクラはぼんやり悟った。悟った、というより、感じただけだった。言葉にする余裕は、まだサクラの中に戻っていない。
「なあ、サクラ」
タマの声が、初めて震えを帯びた。関西弁の抑揚が崩れ、語尾だけが妙に細くなる。
「数字が取れんと、話ごと打ち切られる。ほんでワシも、消えてまうんや」
世界の仕組みを説明する声ではなかった。命乞いだった。サクラはそれを、頭より先に、皮膚のどこかで理解した。タマの丸い目が、街灯の光を映して揺れている。作り物めいた瞳孔の奥に、本物の怯えが張り付いていた。
「前にも、おったんや」
タマはぽつりと続けた。誰の話とも言わないまま。
「ワシと似た担当の、別の子でな。おとなしい子やった。派手なこともせえへんし、あんまり目立つ子とちごたけど……ある日、担当替えの連絡も何も来んと、そのまま、静かになってもうた。何にも聞かされへんまま、気づいたら、もう」
タマはそこで一度、言葉を切った。前足で自分の胸のあたりをそっと押さえる仕草をした。
「その子の声、いつもワシのすぐ隣で聞こえとったんや。それが、ある晩から、ふっと聞こえんようになった。切れた、いうんでもない。最初から無かったみたいに、静かに」
輪郭だけの話だった。誰の妖精だったのか、どの色の担当だったのか、タマは名前も色も口にしなかった。ただ、静かになった、という一言だけが、雨音の合間に落ちた。
「なんで、消えるの」
サクラは初めて自分から言葉を発した。声は掠れていたが、意味だけは通った。
タマはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を傾げた。
「ワシもようわからんけど……そういう決まりやねん」
いちばん多くを語れるタマが、いちばん浅いところで止まった答えだった。委員会もプロバイダーもリソースも、固有名詞のまま並べられるのに、なぜそういう決まりになっているのか、という問いの前だけは、タマの言葉は止まってしまう。
「でも……大丈夫やで、サクラ」タマは急に、いつもの調子を取り戻そうとするように、明るい声を作った。「たとえ話ごと打ち切られても、素材は使い回せるから。無駄にはならへんのや。映像とか、写真とかな、残ってるもんは、また呼び戻される。昔の場面が、光の粒みたいに集まってきて、また輪郭を作るんやって。せやから、消えるって言うても、完全に消えてまうわけと違うんやで。ちゃんと、また出番が来るかもしれんし」
その言葉の意味を理解した瞬間、サクラの背筋を、雨とは別の冷たさが伝った。使い回せる、という一言が、タマにとってはむしろ慰めの言葉として発せられていることに気づいたからだった。誰かが燃え尽きた後の残骸を、また引っ張り出して使う。それが救いだと信じて疑わない声だった。サクラは何も言えなかった。
タマの言葉のどれもが、噛み砕けば噛み砕くほど、意味として頭に入ってこなかった。委員会、プロバイダー、リソース、アテンション、トラヒック——並べられた語の一つひとつは、確かに耳を素通りしていく。だが、その隙間から漏れてくるものだけは、サクラの中に体感として残った。この子は、本気で怯えている。説明としてではなく、それだけが、サクラの中にまっすぐ届いていた。
四阿の外で、雨脚がまた一段細くなった。屋根を叩く音がまばらになり、代わりに、遠くの街の音——始発を待つ路線バスのエンジン音、コンビニの自動ドアが開く音——が、少しずつ耳に届き始める。空の縁が、東の方角からわずかに白み始めていた。まだ夜と呼んでいい暗さは残っているが、確実に、朝の方へ傾いている。
アオイのことも、自分自身の過去のことも、今夜はまだ、タマの口から一言も出なかった。サクラのほうから聞くべきことは、まだ他にいくらでもあるはずだった。だが今は、その問いを差し出すだけの力が残っていない。喉の奥まで言葉を持ち上げても、形になる前に息だけになって消えていく。宙に浮いたまま、答えの出ない疑問符だけを抱えて、サクラは白み始めた空を見上げた。タマはサクラの隣で、丸い体を小さく丸め、まだ何か言いたそうに口を開きかけては、閉じるのを繰り返していた。四阿の屋根から落ちる最後の雨粒が、間隔を空けながら、ぽつり、ぽつりと石畳を叩いていた。
公園を出てから、タマは迷わず南へ歩いた。参宮橋のガードをくぐり、明治通りに出て、そこからは川を渡るように大きな交差点をいくつも越えていく。雨はいつの間にか上がっていた。上がったというより、粒がどんどん間遠になって、最後にはいつやんだのか分からないまま消えていた。制服は乾いていない。乾いていないが、重さの質だけが変わっていた。水を吸って垂れる重さから、冷えて張りついたまま動かない重さへ。歩くたびにスカートの裾が太腿の内側をこすり、乾いた擦過音に近い音を立てる。空の色は、灰色から薄い水色へ、少しずつ入れ替わっている途中だった。ビルの谷間から差し込む光はまだ横から来ていて、濡れたアスファルトの上に長い影をいくつも引いていた。
「もうすぐや。あとちょっとやから」
タマは振り返らずに言った。行き先を説明する気配はない。歌舞伎町の看板の裏側——電源の落ちたネオン管が朝の光の中でただの管に戻っている一角を過ぎ、雑居ビルの一階に、白と橙の看板を掲げた店が見えてきた。「24時間営業」「フリータイム」「シャワー完備」の文字が、まだ点いたままの照明の下で妙に眠たげに光っている。自動ドアが開くと、コーヒーの匂いと、清掃直後らしい消毒液の匂いが同時に届いた。
カウンターの中の店員は、二十代半ばくらいの男で、朝番の交代直後らしく声にまだ張りがあった。
「いらっしゃいませ。ご利用は初めてでしょうか」
サクラがうなずくと、店員はカウンターの下から用紙を一枚取り出した。氏名・生年月日・住所・電話番号を記入する欄が並び、右下に「ご本人確認書類の提示をお願いいたします」という一行があった。
「運転免許証、健康保険証、学生証、マイナンバーカード、パスポート——このいずれかで結構です。学生証は、現住所の記載があるものに限らせていただいてます」
店員は壁に貼られた案内板を指で示した。同じ一覧が、もう少し小さな文字で、レジ横のポップにも印刷されている。会員登録料は初回のみ三百円、以降は会員証の提示でフリータイム二千九百八十円、シャワー利用は別途三百円、貴重品ロッカーは無料で使えるが鍵の紛失は弁償と、細かな料金がポップの下段に並んでいた。サクラは自分のポケットに手を入れた。何も入っていない。制服の内ポケットにも、鞄にも、提示できるものは一つもなかった。学生証というものが自分にあるのかどうかさえ、今すぐには思い出せなかった。タチバナ・サクラという名前は、Qが書式の中に作った学籍として存在しているはずだった。だが、それを物として手に取ったことは一度もない。カードそのものが、南平台の邸宅のどこかにあるのかどうかさえ、サクラには分からなかった。
「あの……今、持ってなくて」
「身分証がないと、会員登録ができないんです。当店、無記名でのご利用は承っておりませんので」
店員の口調は変わらなかった。マニュアル通りの、感情の乗らない声だった。それから店員は、カウンターの端に立ち尽くしたままのサクラを、上から下へ一度だけ見た。制服の乾かない裾、素足に近いつま先、寝ていない目。何かを言いかけて、結局は言わなかった。壁の別の案内板には、「保護者同伴でない満十八歳未満のお客様は、午後十一時から午前六時までのご利用をご遠慮いただいております」という一文があった。今は午前六時を過ぎている。時間の条件はぎりぎり外れていたが、身分証がない、という前段でとっくに弾かれていた。
「……分かりました」
それだけ言って、サクラは自動ドアの外に出た。振り返らなかった。振り返れば、店員の顔にどんな表情が浮かんでいるか、確かめてしまう気がした。
隣のコンビニに入る。おにぎりを二つ選んでレジに持っていくと、若い女性店員が機械的に手を動かしながら聞いた。
「ポイントカードはお持ちですか」
「……ない、です」
「かしこまりました」
それだけのやり取りだった。レジは何の支障もなく通り、会計は現金で済んだ。だが、持っているかと問われて、持っていないと答えるその一往復の軽さが、かえってサクラの内側に小さな石を落とした。カードなど、どうでもいいものだった。それなのに、この街のあらゆる場所に、自分だけが結び付けられない何かの網目があるという事実だけが、今は妙な重さを持って積もっていく。
店の外、歩道の端にあるベンチに座って、買ったばかりのおにぎりの包みを開けようとしたところで、清掃中の警備員がちらりとこちらを見た。デッキブラシを動かす手は止めないまま、視線だけがサクラの足元から顔まで、ゆっくり往復した。制服のまま座り込む少女を、朝の街でどう扱えばいいのか測っているような視線だった。補導なのか、通報なのか、それとも単なる好奇心なのか、その区別のつかない目だった。声はかけられなかった。ただ、目が合った瞬間、サクラは自分から立ち上がっていた。開けかけたおにぎりの包装が、掌の中で小さな音を立てて歪んだ。座る場所ですら、選ぶ権利が自分にはないような気がした。
歩道の隅で、サクラは制服の内ポケットに残っていたものを確かめた。定期入れに入ったICカード、残高は三百四十円。制服のブレザーのもう片方のポケットに小銭入れ——千五十円。合わせて千三百九十円。さっきのおにぎり二つで二百四十円を使った。残りは千百五十円。ネットカフェの入会金三百円とフリータイム二千九百八十円を思い出すと、それだけで届かない額だった。仮に会員登録ができたとしても、一晩の半分にすら足りない。外で過ごせば金はかからないが、体温を保つ手段が何もない。答えは、最初から一つしかなかった。
「な、サクラ。金の心配やったら、ワシに任しとき」
タマは足元で、前足の爪を路面に軽く立てながら言った。
「あそこのビルの裏、防犯カメラの向き、朝の五時十分から五時四十分までだけ死角になるんや。掃除のおっちゃんが機材運ぶ動線と重なっとるから、映らへん時間帯がちゃんとあるんやで」
具体的すぎる数字だった。誰かが実際に見て、覚えてきた時間帯だった。
「あと、大久保のほうの教会、朝の炊き出しが七時からや。並んでも聞かれへんし、身分証もいらへん。パンとスープと、たまに卵つくときあるで。深夜清掃の時間帯なら、駅前のビルの通用口が七時までは開けっぱなしになっとるとこもあるし……そこで少し座って休むくらいなら、誰も文句言わへん」
タマの声は、さっきまでと変わらない調子だった。世話を焼く声。だが並べられている情報は、この街の隙間を隅々まで知り尽くした者だけが持てる知識だった。防犯カメラの死角の分刻みの時間、清掃員の動線、教会の炊き出しの開始時刻——それを教えてくれる善意と、その善意が「サクラという素材を稼働可能な状態に保つための管理」でもあるということが、同じ一つの動作の中に重なっていた。タマはどちらのつもりで喋っているのか、区別している様子がなかった。区別する必要そのものを、感じていないようだった。
サクラは黙って聞いていた。全部を疑うだけの力も、全部を信じるだけの力も、今はどちらも残っていなかった。ただ、タマの言う通りに歩けば、今夜また雨に打たれずに済むかもしれない、ということだけが、判断ではなく事実として胸の中にあった。
「……行く」
短くそれだけ言うと、タマは「せやろ、こっちや」と、また先を歩き出した。ついていきながら、サクラの中で、聞き入れることと、まだどこかで疑っていることが、同じ場所に同居していた。どちらか一方を選べる余裕は、まだなかった。
——向こう。
言いかけた。喉の奥から、いつもの方角へ向けて声を押し出そうとした。だがその瞬間、
「あ、そこの角、右や。ぐるっと回って裏から入るで」
タマの声が、割り込むように先に届いた。言おうとしていた言葉は、行き先を示す指示の下に埋もれて、形にならないまま消えた。回線の向こうに繋ごうとした一言が、こちらの生活の必要に押し流されていく。今までの、届かなかった沈黙とは違う感触だった。届く先が塞がれているのではなく、こちら側の雑音のほうが勝っていく感じ。サクラは、自分が今何を言おうとしていたのか、数歩歩くうちにもう思い出せなくなっていた。
朝の光が、通りの向こうから真横に差し込んでいる。始発の電車が高架を渡る音が、遠くで一度だけ響いた。制服のまま歩く少女と、その少し先を歩く濡れないタマを、まだ人通りの少ない街だけが見ていた。サクラは、タマの背中を追って、路地の角を折れた。