アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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3.コスタ・アズーラ-Costa Azzurra-

窓のない資料室に、朝という時間は存在しない。存在するのは、四台並んだモニターの隅に刻まれたタイムスタンプだけだった。作業ランプが机ごとに一つずつ灯り、廊下から漏れる冷却システムの低い唸りと、配線の束から時折伝わるかすかな振動だけが、この部屋が動いていることを教えてくれる。誰も座っていない三脚椅子が二脚、壁際に押し込まれたまま埃をかぶっている。人員が増える予定は今のところない。机の端に置かれた紙コップの中身はとうに冷めていた。淹れたのが何時だったか、Qはもう覚えていない。覚えている必要もなかった。ログを見れば、それも分かることだった。Qは椅子に浅く腰掛け、左端の画面に散った赤い点を、一つずつ座標ごと読み上げていく。

「十一月二十二日、二十三時十七分。二十四日、〇時五十二分。二十六日、一時〇八分。二十八日、二十二時四十四分。十二月一日、一時三十一分。同日、深夜二時五十九分。十二月三日、〇時十七分」

声に出す。合っているかどうかは、音にした瞬間に耳から返ってくる。誰もいない部屋でその確認を続けるのは、Qにとって長い習慣だった。壁の時計を見ることはない。今が何時かは、ログの並びが教えてくれる。データの時系列こそが、Qにとっての時計だった。

出現ログは七件。十一月二十二日から十二月三日までの、十一日間に集中している。Qは新しいウィンドウを開き、数字を三つ並べた。

「持続時間、平均六分四十秒」

カノンの生前の平均は十四分二十秒だった。半分にも届いていない。次に、地図上の座標を重ねる。

「出現地点、半径九百メートル圏内に六件。残り一件だけが、四キロ離れています」

九百メートル圏内という狭さは、供給源が固定拠点を持つことを強く示唆する数値だった。四キロ離れた一件――大井埠頭近くの座標――は、界隈の子どもが個人的に持ち出した可能性を残しつつ、Qはひとまず別枠のタグに入れて、本筋の解析からは切り離す。三つ目の数字――出現から消滅までの輪郭の縮小率――も画面の端に置いた。時間が経つほど輪郭が薄くなっていく速度が、七件とも近い値でそろっている。これは供給の質が均一であることを示していた。手作業で個別に生成されたものではなく、同じ工程を通ったものが、同じ規格の劣化を見せている。

「系統は別です」

Qはもう一つのウィンドウを開き、カノン再デプロイ体のログを横に並べた。カノン再デプロイ体の出現には、その都度、召集の記録がある。輪郭は本文の炎の描写と寸分違わず一致し、記憶の焦げだけが最初から存在しない、というずれ方をする。対して偽の赤には、召集の記録が一件もない。輪郭の縁が毎回そろわず、持続時間も出現間隔も、明らかに「作られる過程にある」不完全さを示していた。Qはこの二つを一つのファイルに混ぜたことがない。先月、現場の初動報告書に一度だけ「赤」とだけ書かれ、系統の区別がつかないまま処理されかけたことがあった。Qがその報告書を差し戻し、二種類のタグに分けさせた。混ぜれば、原因の異なる二つの現象が、一つの物語に見えてしまう。それは分析としての誤りであり、Qが最も避けたい種類の誤りだった。

九百メートル圏内の候補地を、建物用途の一覧で洗い出していく。住宅は深夜の出入りが日常的にあり、この種の活動の痕跡と区別がつかないため除外。商業施設は防犯カメラの画角と、七件のうち三件の目撃報告の角度が一致しないため除外。学校・公共施設は夜間の施錠時間が固定されており、深夜二時台の出現とは整合しないため除外。残った候補のうち、電力契約の使用量が通常の事務所仕様よりも明らかに高い一棟だけが最後に残った。大田区京浜島二丁目の物流倉庫。登記情報には二階部分が「事務所」として届け出られているが、深夜帯の使用量だけが、周辺の同種物件の平均を三倍近く上回っている。

「拠点は、ここだと思います」

思う、という言い方をQはめったにしない。だが今回は、まだ現場を踏んでいない段階の言葉として、あえてそのまま残しておく。

構図の仮説は単純だった。創設者を失ったサーカスの下部組織――残党――が、界隈の子ども向けにリソースを闇デプロイし、資金を作っている。売る側にも買う側にも、システムの正規の手続きを踏む理由がない。だからこそ、輪郭がそろわないまま出荷される。

強襲の立案に入る。令状は捜索差押許可状、対象は倉庫本体と敷地内に停められている車両二台。罪名は窃盗及び詐欺の複数罪に、組織的犯罪処罰法上の資金洗浄容疑を加える方向で、東京地検との事前協議を進める。文書番号は捜企二第一二一号。既存の捜企二第一一七号――適格者運用の予備調査についての伺――から続く連番で、新規に採番される。管轄は大田区内の所轄署との合同編成とし、K機関側はA1一名の投入と、機動隊による外周警戒への技術協力という形を取る。令状請求は明後日、発付見込みは翌々日午後。敷地内の車両二台は、いずれもナンバープレートが土で汚され判読できない状態で駐車されていることが、周辺の防犯カメラ映像から確認できている――偽装なのか単なる整備不良なのか、この段階では判断を保留した。突入時刻はH時刻として未明四時台を仮置きし、以後の詳細は現場編成が固まり次第、別紙で確定する。

A1の投入承認には、いつもと同じ書式が要る。任務内容、想定される能力的抵抗の水準、使用装備の上限――今回は密閉区画と遮蔽の多い区画、両方の想定があるため、装備欄には二種のモード運用が明記される。Qはこれを打ちながら、もう一つの欄――マタギ・アオネの契約に基づく観察参加――にも数字を入れていく。三条件はすでに確定している。身分の完全な保全、対価は月額一万二千円を電子マネーで支払う形、組織への不参加。現金授受は本人の希望で除外されている。今回の強襲は、その対価に含まれる最初の稼働実績になる。観察のみで、接触も戦闘参加もしない。報酬計算は日割りではなく、稼働一回につき定額で処理する方式で、Kの了承をすでに得ていた。契約書の写しには、アオネ本人の字ではない――K機関側で清書されたものに、確認の印だけが押されている。

廊下から足音が聞こえたのは、その入力を終えたところだった。

――新しいKの足音はいつも均等だった。かつてのKのように、歩いてきたはずなのに音がしないということがない。ドアが開き、椅子を引く音がする。木製の座面が軋む。かつてのKの椅子は鳴らなかった。この椅子は、新しい主に合わせて素直に鳴っている。着任した頃よりも、軋みの音量そのものはむしろ小さくなっているのに、続く時間だけがわずかに短くなっている――Qはその変化に気づいているが、まだファイルに書いていない。

「捜企二第一二一号、確認しました」

Kは書類に目を落としたまま言った。銀縁の眼鏡、細身の体格。三十代半ばという年頃に見える生真面目な声で、名刺を渡す仕草に迷いがないのと同じ速さで、決裁欄に印を押していく。

「A1の投入、承認します。アオネの初回稼働も、条項通りで構いません」

「令状の請求先は、東京地裁でよろしいですか」

「前任から引き継いだ判断は、当面、維持します」

型どおりの言い回しだった。かつてのKが積み上げてきたものを、いったんそのまま受け継ぐという姿勢を、この一言に込めているらしい。Qはそれを聞くたび、判断の主語が本当は誰なのか、一瞬だけ確かめたくなる。今それを口にすることはしなかった。

「決裁欄、もう一箇所あります。強襲当日の予備人員――量産型の追加投入についての伺です」

「それは、まだ、いいです」

Kは印を持ったまま、その欄だけを飛ばした。理由は説明されない。理由を求める空気も、この部屋にはなかった。かつてのKであれば、この欄自体を最初から起こさせなかっただろう。だが今、その欄は書式の中に確かに存在している。存在させたのはQ自身だった。

「見直しの余地は、検討します。今回ではなく」

短く付け加えると、Kは席を立った。決裁を終え、部屋を出ていく足音が遠ざかるのを最後まで聞いてから、Qはもう一つのウィンドウに視線を戻した。

Qは新しいファイルを開き、「魔法少女関連係数・挙動異常」とだけ打ち込んだ。中身は座標と時刻の羅列で、感想も推測も一行も足さない。保存する。声に出して確認する、いつもの手順を、今回は取らなかった。

同じような一行を、これまでに何度も保存してきた。名前のつかないファイルの棚は、そのたびに少しずつ厚みを増している。今回もまた、続きが来るまで待つしかない。続きが来るという確信も、来ないという確信も、Qは持っていなかった。

画面の隅で、七つの赤い点が、まだ何も知らないまま静かに光っていた。

 

 


 

 

海からの風は、コンテナの隙間を抜けるとき、いつもより鋭い音を立てる。金属の壁面に反響し、角の立った風が、A1の白い衣装の合わせ目を探るように這っていた。集結が完了したのは三時十五分。京浜島二丁目の倉庫まで、直線距離にしておよそ四百メートル。コンテナヤードの一角、荷役用の照明が届かない陰の中に、今夜の前進拠点は設営されている。気温は端末の表示で二度。息を吐くと、白く固まってから風にほどけて消えた。頭上を、着陸態勢に入った機影が一機、翼端灯を点滅させながら低く横切っていく。羽田までは目と鼻の先で、この時間帯でも便はまだ絶えない。エンジン音が去ると、また海鳴りに近い低い唸りだけが残った。

コンテナは三段積みで、灰色と錆浅葱の塗装が交互に並んでいる。その隙間に、簡易テーブルが一台だけ設置され、水濡れ防止の透明シートの下に地図と時刻表が広げられていた。地図には赤いマーカーで倉庫の輪郭と、三方向からの進入路が引かれている。テーブルの端には保温ポットと紙コップの束――誰も口をつけていない。夜間作業用の投光器は最小限に絞られ、地面に落ちる光の輪の外側は、隣のコンテナの影に沈んだままだった。

出発前、目黒の会議室で配られた任務指示書には、捜企二第一二一号の文書番号が右肩に打たれていた。A1に割り当てられた行動要領は一枚、突入班としての位置づけと、使用装備の上限――ガス・散弾両モードの携行が明記され、拳銃の使用は今回も想定外との注記が添えられている。指示書はすでに焼却済みで、内容は記憶にのみ残っている。

A1はまず、右腰のホルスターから警棒を抜き、伸長のテストを一度だけ行った。柄を握り、親指でロックを外す。二十五センチだった全長が、乾いた音とともに七十センチまで伸びる。異常なし。縮める。もう一度伸ばす。これは毎回の手順で、必ず二度確認する。一度目は機構の作動確認、二度目は音の確認――同じ音が二度続けば、内部の摩耗はまだ許容範囲にある、という判断材料になる。マグライトも同様に。点灯、消灯。レンズの奥で白い光がひとつまたたき、次の瞬間には消える。バッテリー残量を示す表示はない。かわりに、点灯から消灯までの光量の落差を目で確認する。今夜の落差はいつもと変わらない。異常なし。

いつもと違うのは、その次だった。

腰の後ろに固定したアタッシュケースを開く。重さは持ってみて初めて分かる二・二キロ弱――中には、警棒よりも太い、筒状の部品が収まっている。A1はそれを取り出し、拳銃のレールマウントに接続した。カチリ、という短い金属音。マウントの規格が一致していることを確認するための音で、これが鳴らなければ接続は不完全だということになる。続けて、筒の中央にある回転式の襟――外径を変えるための部品――を右に半回転させる。かすかな抵抗のあと、内径が変わったことを示す小さな段差が指先に伝わった。左に戻せば、元の径に戻る。今夜はどちらの径も使う可能性がある、という想定で、A1はいったん中間の位置に固定した。薬室に相当する部分を軽く叩くと、詰まった音ではなく、空洞の澄んだ音が返ってきた。装填はまだしていない。突入合図の直前まで、この状態で待つ。

装着した状態で数歩、コンテナの陰の中を歩いてみる。右腰の重みが増したぶん、歩幅が普段よりわずかに狭くなる。肩の位置も、いつもより二センチほど前に出ていた――重心を補正するための、無意識ではなく意識的な調整だった。この二センチのずれが、突入後の初動でどう跳ね返ってくるかを、A1は歩きながら計算していた。三歩、四歩、五歩。五歩目でずれは収まる。収まった時点の姿勢を、身体に記憶させる。その場で軽く半回転し、左右への旋回にかかる時間も測った。いつもよりコンマ一秒、遅い。許容範囲、という判断を下す。

外周には、機動隊の三個梯団が展開している。第一梯団は倉庫の北側正門、各員八名。第二梯団は南側の搬入口、各員七名。第三梯団は予備として海側の路地に待機、四名――三方を塞ぎ、残る一方を敷地の外周フェンスで区切る形になる。梯団ごとに遮蔽車両が一台ずつ、荷台を倉庫側に向けて停められていた。無線には符丁が割り振られている。北は「いろは一」、南は「いろは二」、予備は「いろは予」。三時二十分、定時の感明チェックが順に流れた。「いろは一、感明良好」「いろは二、感明良好」「いろは予、感明良好」――淡々とした復唱が、コンテナヤードの静けさの中を一巡していく。Kの指揮車は、フェンスの外、百メートルほど離れた資材置き場の陰に停車していた。細いアンテナが二本、暗い空に向かって立っている。

指揮車の屋根に近い高さ――正確には、屋根に積まれた資機材のコンテナの上に、アオネが座っていた。双眼鏡は使わない。裸眼のまま、倉庫の輪郭を見つめている。契約の条項どおり、観察のみ。接触も戦闘参加もしない、という条件で今夜のここにいる。何を数えているのか、A1にはおおよその見当がついていた。人員――梯団ごとの配置と、倉庫内にいると推定される人数。射線――各梯団の遮蔽車両から、倉庫の窓と扉に対して有効な角度が何本引けるか。退路――倉庫側から見て、敷地の外へ出られる経路が何本残っているか。アオネは声に出さない。指を一本ずつ折っていくような、小さな動作だけが見えた。

「予備の梯団、位置がひとつ甘いです」

不意にアオネが言った。声は低く、感情の起伏がない。

「海側の路地、車一台分の幅しかありません。退避のとき、詰まります」

A1は無線で第三梯団に確認を入れた。応答は、位置の修正に七分かかる、というものだった。アオネはそれを聞いて、小さくうなずいただけで、また指を折る作業に戻った。しばらくして、独り言のように付け加える。

「人員、十六と見ています。射線は三、退路は五のうち実質二。……悪くない配置です。倉庫側が、こちらの人数を把握していない前提なら」

前提が崩れたときの数字は、と続きかけて、アオネはそこで言葉を切った。それ以上は計算しても意味がない、という判断らしかった。A1は口には出さない数字を、後で確認のため無線ログに残すつもりで記憶した。

突入予定時刻、H時刻は四時十分。腕の端末の表示は三時二十五分を過ぎたところで、残りは四十五分になる。A1は装備点検の残り、位置取りの最終確認、機動隊との無線の最終照合――それぞれに割り振れる時間を、頭の中で分単位に切り分けていく。装備確認は完了――ゼロ分。位置取りの最終確認に十分、無線の最終照合に十分、H時刻の十分前に予備梯団の位置修正が完了しているかの再チェックに五分。残る二十分は予備に回す。予備が二十分あるのは、いつもより多い。今夜の対象が、輪郭の定まらない赤――通常の怪人よりも制御が困難な種類だからだった。

判断と確認の連続――それが、待機の時間にA1がしていることのすべてだった。装備の状態、周囲の配置、時刻の残り。確認すべき項目は多く、そのどれもが今のところ「異常なし」で埋まっている。

一つだけ、埋まらない欄があった。

いつもであれば、南平台からの信号として確認できるはずのものがある――「サクラが起きている」という、それだけの情報。命の共有が伝えてくる、意味の付随しない事実の一つ。定時の確認は、任務中であっても三十分おきに走らせている。今夜、三時十五分の確認でも、三時二十五分の確認でも、その信号は来ていない。二回連続の欠落を、A1はそのまま、確認の欠落として内部の記録に一行だけ残した。理由は書かない。意味も書かない。ただ、来ていない、という事実だけを置いた。

風が、またコンテナの隙間を鳴らした。腕の端末が、四十分前を示す。無線から、Kの声が短く入った。「四十分前、状況変化ありません。予定どおり進めます」。感情の乗らない、決裁済みの声だった。A1は装備を最後にもう一度点検した。警棒、マグライト、筒――すべて「異常なし」。それを確かめたところで、動きを止めた。

倉庫の輪郭が、まだ暗い空との境目に、かろうじて見えている。アオネの指は、もう折られていない。指揮車の陰で、機動隊員の一人が防弾盾の留め具を締め直す金属音が、二度、続けて響いた。誰かが小声で人数を数え直している声も、風の隙間から途切れ途切れに届く。遠くでもう一機、着陸灯の光が滑るように過ぎていった。合図はまだない。

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