アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
南平台の塀が見えてくる頃には、腕の端末は午前八時五十二分を示していた。目黒での一次報告を終え、庁用車を使わず歩いて戻る経路を、A1はいつもどおり選んだ。倉庫からの移動、現場の引き継ぎ、報告書の提出――一連の動作を終えたあとの帰路は、身体の負荷を一定に保つため、必ず同じ距離を同じ歩調で歩くことにしている。坂の途中、ゴミ収集車が一台、住宅街特有の細い道を器用に切り返しながら通り過ぎていった。牛乳配達の自転車が一台、次の角で止まる。気温は端末の表示で四度、風はほとんどない。塀だけが新しい、という外観は、今朝も変わっていなかった。
門扉の郵便受けには、チラシと請求書らしき封筒が、隙間なく詰まっていた。取り出さずに数だけ数える。十二通。宅配便の不在票が二枚、郵便受けの外側に貼り付けられたまま、雨に打たれて文字がにじんでいた。門扉をくぐる前から、音が届いていた。風が吹くたびに、ばたばたと乾いた音が鳴る。一階の掃き出し窓と居間の壁の欠損箇所に、応急養生として張られた青いブルーシートが、四辺を留めた防水テープの隙間で暴れていた。テープが浮いているのは下端の一箇所だけで、それ以外はまだ持ちこたえている。この音を確認するのは、今朝で十六日目になる。修繕業者からの見積もりが届いたのは十一日前、着工の連絡はまだない。
玄関に鍵はかかっていなかった。かける必要がなくなっていたからだった。三和土に立ち、まず居間を確認する。テレビの筐体は側面が黒く焦げたまま、電源は入らない状態で壁際に寄せてあった。漆喰の壁の欠損部分は、応急のベニヤ板で塞がれている。板の継ぎ目の外側、まだ塗り直されていない箇所に、細い焦げ跡が幾筋も走っていた。一本ずつはほぼ直線で、交差する角度がすべて等しい。九十度ではなく、七十度前後で統一されている――展開された境界の縁が、そこで止まった痕だった。どういう形をしていたものが、どう止まったのかを、A1は焼け跡の角度から再現できたが、記録に書き起こしたことは一度もなかった。あの夜の出来事そのものを、思い返す動作はしない。倒れたままの観葉植物の鉢は、土だけ掃除機で吸い取られ、鉢自体は横向きに置かれていた。引き戸は建て付けが狂い、五センチほど開いたまま動かなくなっている。廊下側から覗くと、隙間の奥に食堂の明かりが差し込んでいるのが見えた。
書斎に上がり、回転デスクの端に置いた見積書のファイルを開く。「株式会社目黒総合建装」の社名が入った書式で、見積番号MK―一一四七、発行日は十一日前の日付だった。工期は着工から四十二日、金額は税込みで二百九十六万四千円と記されている。内訳は、居間の漆喰壁の張り替えが百十八万円で最も大きく、次いで引き戸一式の交換が六十四万円、食堂の楢材テーブルの補修が二十二万円、食器棚の再発注と据付けが四十一万円、残りは足場代と諸経費だった。発注書の様式は、すでに下書きの段階まで作成済みだった。宛先、工期、支払い区分――すべての欄が埋まっている中で、一箇所だけ空欄のままの欄がある。「発注理由・特記事項」。この欄を埋めなければ、様式は完成しない。埋めれば、送信できる。ファイルの更新履歴を確認すると、この十一日間で九回、A1はこの欄にカーソルを合わせていた。九回とも、文字は一字も入力されていない。ファイルを保存し、送信フォルダではなく下書きフォルダへ戻す。直っていない状態のまま、記録の上でも家を留め置く――そうした処理だと自分に説明することは、A1にはできる。だが、なぜそう処理したいのかという問いには、答えの持ち合わせがなかった。
廊下を進み、二階の奥の扉の前で足を止める。サクラの部屋の扉だった。ドアノブの金属部分に、薄く埃が積もり始めている。ノブに手をかけることはしない。扉の下の隙間から、廊下の明かりが漏れて細い線を作っている以外、部屋の内側の様子は分からなかった。廊下の反対側、客間の扉は開け放したままにしてある。空気の入れ替えのためだった。この扉を開けなかった回数を、A1は数えていない。数えないと決めた最初の朝から、数える手順そのものを自分の処理項目から外していた。
廊下の突き当たり、娯楽室にも扉を開けて入る。ラシャ張りのビリヤード台は、台の中央から縁にかけて張地が裂け、下地の木枠が覗いていた。二本のキューは、あの夜のままラックに立てかけられている。壁の掛け時計は、床に落ちたところで誰も拾い上げておらず、文字盤は九時四十七分を指したまま止まっていた。電池を交換すれば動く。交換するかどうかを判断する項目は、A1の巡回手順のどこにもなかった。壁際の椅子にかけた布と、飾り棚の埃の積もり方だけが、この部屋がもともと訪れる者の少ない場所だったことを示していた。
階段を下り、食堂に入る。楢材のテーブルには、天板の中央に一本、白く筋の入った補修跡がある。触れると、まだ木の繊維が微かにささくれていた。椅子は六脚のうち二脚だけが、テーブルから引き出されたままになっていた。あの夜、誰かがそこに座り、誰かが向かいに座っていた形が、そのまま残っている。食器棚のグラスは十二客のうち六客が割れ、残りは棚の奥に整列していた。大皿は元々二枚あったものが、いずれも割れて処分済みだった。取り皿は無事で、十枚のうち一枚だけ欠けが見つかっている。冷蔵庫を開けると、牛乳パックの賞味期限は四日前で切れており、ヨーグルトのカップは二日前の日付だった。買い置きの野菜室には、玉ねぎが三個、じゃがいもが二個、いずれもまだ処分するには早い状態で残っている。三点とも、A1はメモを取らずに確認だけを済ませた。
端末に、提出済みの発砲報告書の未処理項目が一件、通知として残っていた。書式番号「発砲一号様式」、提出から今日でちょうど十六日。あの夜、庭先から夜空へ向けて放った一発――命中の有無は「該当なし」、「対象」欄は空欄のまま処理保留の表示が続いている。決裁ルートは新Kの手前、審査係で止まったままだった。存在しない相手を撃った、という記録だけが物証として残り、決裁は上がってこない。A1はその通知を開き、内容に変更がないことだけを確認して閉じた。
続けて、新Kからの定期連絡を確認する。文書番号「捜企二第一三二号」、サクラの所在に関する照会への回答が、昨夜二十三時十分に届いていた。「現時点では事件性なし。所在確認のみを継続。特段の措置は取らない。捜索員の追加投入は行わない」。文面は短く、決裁印の代わりに電子承認の記録番号が一行、末尾に添えられている。事件性がない、という言葉は、K機関の書式の上では正確だった。行方の分からない未成年者について、事件性がないと判断できるのは、失踪の経緯に犯罪性を認めないという意味に過ぎない。それ以上のことを、この一行は言っていなかった。
庭に出る。裸の欅が、朝の光の中で立っていた。枝先まで見通せる。以前は数えていた葉の割合――赤茶が七割、それが黄色に変わり、やがて数える対象そのものがなくなった。先週の記録には、残存率二割という数字が最後に残っている。今朝の記録に、その数字はもう存在しない。地面に落ちたものも、業者が来る前に大方は掃き集められている。残っている葉を数える必要が、もうなくなっていた。茶室の障子紙には、一箇所だけ破れがあり、そこからだけ庭の風が室内に入り込んでいる。
夜間、南平台分室からの定時報告として、A1はこれまで「異状なし」の一行を欠かさず送信してきた。今朝もその欄は空いたままになっている。書けないわけではなかった。建物の損壊状況、侵入の形跡なし、火気の再発なし――項目を埋めることだけなら、いつもどおりにできる。だが「異状なし」という一語は、報告を受け取る側の構成が、この家に何人がいることを前提にしているかによって、意味が変わる書式だった。前提が変わった以上、同じ一語を同じ意味で使うことはできない――A1はその理由を、制度側の解釈として自分に与えた。理由が正しいかどうかを検証する項目は、A1の処理手順のどこにも存在しなかった。
日が高くなるにつれ、家の中の音の数を、A1は無意識に数えていた。湯を沸かすやかんの音がない。二階の十三段の階段を、決まった拍で上り下りする足音がない。夕方になると鳴っていたはずの、冷蔵庫の扉を開け閉めする回数もない。ドライヤーの低い唸りも、玄関で靴を脱ぐときの小さな衝突音もない。生活音として記録されるはずだった数字が、今朝の集計ではすべてゼロだった。ゼロという数字自体は、異常でも正常でもない。ただの結果として、そこにあるだけだった。廊下を歩くA1自身の足音だけが、二十歩前後、家の中を巡って消えていく。
玄関に戻り、郵便受けの中身をようやく取り出す。十二通のうち、封を切る必要があるのは電力会社と水道局の請求書、それに工務店からの再見積もりの案内だけだった。残りは開封せずに束ね、玄関脇の引き出しに収めた。引き出しの中には、同じ形の束が、すでに二つ並んでいる。三つ目を隣に置き、蓋を閉めた。
書斎に戻り、デスクランプの下で報告書の続きに手をつけようとして、A1はもう一度、下書きフォルダの発注書を開いた。特記事項の欄は、まだ空白のままだった。閉じる。窓の鍵を確認し、居間のカーテンを半分だけ閉めた。時刻は九時四十分を回っていた。A1は立ち上がり、書斎の照明のスイッチに指をかけた。押す。部屋の明かりが落ちて、窓の外の白い光だけが残った。
十二月に入って最初の平日、午後三時過ぎ。永田町での面会を一件終えたクロエは、東和新聞ビルへ戻る前に、大手町の地下街から直結する大型書店へ寄り道した。自動ドアを抜けた瞬間、暖房の熱気と、天井のスピーカーから流れる控えめなクリスマス・メドレーが同時に押し寄せる。一階の平台には、まだ年賀状関連のムックと福袋の予約案内が並んでいた。目当てのものは二階だと、当たりをつけてエスカレーターに乗る。
二階、新刊の平台が並ぶフロアの、入口からいちばん近い一台——客の動線上、誰もが必ず一度は視線を落とす位置に、その本は積まれていた。
『将門は何を為したか?』。
タイトルの下に立てられたPOPには、手書き風のフォントで「今、この国でいちばん読まれている乱世の書」と刷られている。手書き風、とクロエは分類した。本物の手書きではない。印刷所が用意した書体の一つを、誰かが意図して選んでいる。この一枚のカードだけで、この売り場が誰かの手で組み立てられたものだと分かった。
平台の段数は八段。うち三段が、この一冊だけで占められている。隣に並ぶ別の歴史書は二段、その隣の、ある俳優の対談本は一段止まりだった。三段を独占しているのは、この一冊だけだった。積まれた冊数を目で数える——一段におよそ十八冊、三段でおよそ五十四冊。これほどの量を平台に晒せる版元は限られている。
帯は赤地に白抜きの文字で、「中央の目を、一人で釘付けにした男の答え」。著者名は聞き覚えのない三文字、肩書きは「在野の歴史研究家」とだけ。写真はなく、生年も所属も書かれていない。版元は聞いたことのない小さな出版社で、奥付を見る限り、これまでに刊行した書籍は二冊しかない。帯の裏にも経歴はわずか二行しかなく、既刊のいずれにも著者近影は載っていなかった。この薄さそのものが、逆に一つの型に見える——語る者の顔を隠すことで、語られる中身だけが独り歩きするように仕組まれた薄さだ、とクロエは分類した。
一冊を手に取り、奥付を開く。発行日は十一月二十五日、初版四千部。その下に、増刷の記録が続いていた。十一月三十日、二刷六千部。十二月三日、三刷一万二千部。合計二万二千部——在野の著者による歴史書としては、発売から二週間に満たない数字にしては明らかに速すぎる。同時期に平台の隅に並んでいた、似た体裁の郷土史ものは、初版千二百部のまま増刷の記載がなかった。
「今朝も追加で百冊入ったんですけど、もう半分近く出ちゃってて」
補充のカートを押してきた店員が、独り言のような調子で言った。クロエに向けて話したというより、平台の空きを見て思わず漏らした言葉らしかった。クロエは奥付から顔を上げ、社交の声を作る。
「よく出るんですのね」
「歴史ものでこの動きは、正直、うちでもちょっと珍しくて。しかも今朝の追加分、いつもの発注ルートじゃなくて、版元さんが直接持ち込んできたらしいんですよ。取次を通す時間がもったいなかったみたいで」
「まあ。それは、よほど急いでいらしたのね」
「うちの担当も、なんでそこまで急ぐのかって首をひねってました」
店員はそう言い残し、別の棚へ移っていった。取次を通さない直接搬入、という一言だけを、クロエは頭の中に置いておく。正規の流通に乗せる時間さえ惜しんだ、ということだった。
棚の前で本を手に取る客を、しばらく観察した。三十分足らずで七人。スーツにコートを重ねた男性が四人、学生らしい若い男が二人、最後に一人だけ年配の女性。年齢も服装もばらばらに見えて、共通していたのは全員がほとんど迷わずこの一冊に手を伸ばし、レジまで一直線に運んだことだった。他の本と見比べる素振りがない。棚の前で立ち止まる時間は、平均して五秒に満たなかった。四人目の男性に至っては、同じ本を三冊まとめてレジへ運んでいる——配る先を、すでに決めている手つきだった。
組織された流行、とクロエは分類した。声には出さない。だが内心では、もう確定として扱っている。
五人目の客——学生らしい若い男の一人が、レジへ向かう途中でスマートフォンを取り出し、レシートより先に表紙の写真だけを撮って歩き去った。感想を添えるでもなく、ただ書影だけを切り取る動作。誰かに送るためか、どこかへ投稿するためか、目的は読み取れない。だが「読む前に共有する」という順番そのものが、この本の広まり方の質を語っていた。
著者あとがきに、ざっと目を通す。骨子は四つに整理できた。一つ、新皇——中央の朝廷に頼らず、自ら「新しい帝」を名乗った男の話。二つ、敗死——藤原秀郷と平貞盛によって、最終的には討たれて終わる話。三つ、祀られた敗者——討たれた首がのちに神田明神に祀られ、祟りを恐れられていく話。四つ、武力の私有——国家の軍事力ではなく、坂東の地で個人が集めた私兵によって、この国の一部が動かされた時代の話。
四つとも、歴史の話としては目新しいものではない。将門を扱った本はこれまでにも何冊も出ている。だが並べ方が違う、とクロエは分類した。この本は四つ目——武力の私有——から逆算するように、前の三つを配置していた。中央が独占していたはずの力を、一人の人間が私的に持てた時代があった。その先例として将門を読ませる作りになっている。匿流という語が世に出て以来、行き場のない怒りが、実行犯の顔だけを繰り返し映しては消えていく——その空気の隙間に、この本は静かに接ぎ木されようとしていた。東和のSNS分析班が週次で出しているレポートにも、匿流関連のタグに、この本の書影を貼った投稿が今週に入って急に増えている、という一行があったのを思い出す。中央の力が誰の手にも十分に届かないなら、力は私的に集める者のところへ流れる。そう読ませたい図式が、四つの骨子の裏側に透けて見える。
売り場を出る前に、レジ脇の平台をもう一度確認した。同じ著者名の関連本は、まだない。便乗本による水増しがまだ入っていない、初期段階の流行だということだった。
大手町の地上に出ると、風が刺すように冷たかった。仲通りの街路樹の一本にだけ、まだ本数の少ないクリスマスの電飾が試験的に巻かれている。点灯はまだ先だった。手袋を着けていない指先が、すぐに冷たくなる。東和新聞ビルの正面玄関まで、歩いて七分。
自室に上がる前に、校閲部の脇にある資料室に寄って、今週分の校了紙を確認する。受付の窓口に社員証を提示し、来訪者名簿ではなく社員用の入室記録に名前を書く——この扱いの違いを、資料室の職員は何も言わずに受け入れる。カードキーで奥の保管庫の扉を開け、日付順に並んだ紙束から目当ての一枚を探し当てる。『将門は何を為したか?』は、発売からわずか四日後、十一月二十九日付の文化面、朝刊第三部の最終ページに、書影入りの四段抜きで大きく紹介されていた。原稿の分量はおよそ原稿用紙三枚半。この枠は普段、書評委員三名が輪番で担当し、無署名運用が原則になっている。だが今回に限って、主任委員個人の実名が入っていた。選書会議から掲載までは、通常なら最低でも二週間はかかる。四日という速さは、会議そのものを経ずに、別の経路で紙面へ差し込まれたことを意味していた。
あの人のラインが動いている、とクロエは分類する。あの人、という言葉の内側には、名指しをしない距離だけが残されていた。
自室に戻り、机の抽斗から革表紙の手帳を取り出す。表紙の角はもう擦り切れかけていた。毛利、ユカリ、カノン——丸のついた三つの名前と、丸のつかないままのマタギの名が、細い線で少しずつ結ばれている。開いたページの余白に、今日拾った数字を書き足していく。初版四千、二週間で二万二千、書評掲載まで四日、取次を通さない直接搬入。来週、衆議院で審議入りが控えている「特定サービス業務適正化法案」の日程——フューチャーペイのようなギグワーカー向けの与信サービスを念頭に置いた規制案だと、経済部の記者から聞いた覚えがある。この日程と、匿流の怒り係数が今週すでに二度上書きされているという分析班の一行、そして毛利の面会予定——それぞれ別の出来事として記録されてきた数字が、今日、一本の線でつながった。誰が得をするか、その一点で逆算すれば、答えは一つしか残らない。「暴」という空気そのものを厚くしておきたい誰かが、私的な武力を肯定する物語を、選書会議を経ず、取次すら通さずに、社会の表面へ差し込んだ。
手帳の空いた欄に、「将門」と書く。丸はつけなかった。丸をつけるべきは、この本そのものではない。この本を引いて使う者の方だから。
ページの右端には、これまで引いた線が枝のように広がっていた。毛利からユカリへ、毛利からカノンへ、毛利からマタギへ——一人の名前を中心に、線だけが密度を増していく。この密度の描き方そのものが、クロエの手つきの癖だった。線の角度をわずかに変えるだけで、後から見返したときにどの日に引いたかが分かるようにしてある。今日引いた二本は、これまでよりも心なしか太かった。
隣の欄、「毛利」の名の横から、今しがた書いたばかりの「将門」の文字へ向けて、もう一本、線を足す。ペン先が紙を押す短い時間だけ、部屋の暖房の音が、やけに大きく聞こえた。窓の外では、まだ灯らないイルミネーションの電球が、夕闇の中で鈍く光を反射していた。