アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
十二月最初の週、水曜の午後。内閣委員会での質疑を終えた勝は、答弁席から議員会館ではなく本館側の廊下を選んだ。理由らしい理由はない。当選から一月あまり、まだどの動線が自分にとっての近道かも定まっていない。委員会では特定サービス業務適正化法案の付則をめぐる質疑が続いていた。出席議員は定足数ぎりぎりの二十六名、傍聴席はまばらで、記者クラブの席にも空きが目立った。勝自身は質問に立たなかったが、ギグワーカー向けの与信サービスをどこまで貸金業法の枠に押し込めるか、答弁する経産省の官僚が同じ言い回しを三度繰り返すのを、傍らでずっと聞いていた。「適正な範囲内での運用を、事業者側と継続的に協議してまいります」。その一文だけが、質問者を変えるたびに、句読点の位置まで同じ形で戻ってきた。
本館三階、喫煙室の扉を押す。天井の換気扇が低く唸っている。壁際に据えられたステンレス製の灰皿は腰の高さに三基並び、うち二基はすでに吸い殻で縁が埋まりかけていた。窓は曇りガラスに近い型で、外の光をぼかしたまま取り込んでいる。壁紙は煙草の匂いが染み付いて、本来の色よりわずかに黄ばんで見えた。胸元の議員バッジを指先で軽く整える。まだ慣れない重さだった。着けて一月足らずのバッジは、指の腹に触れるたびに冷たい金属の感触を思い出させる。廊下を歩く自分の靴音が、以前より大きく聞こえることに、勝はまだ慣れていなかった。足音を殺す必要のない人間に戻った、というだけのことだったが、その簡単な事実に慣れるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
先客がいた。壁にもたれ、窓の外に目をやったまま煙草を吸っている毛利だった。窓の外は日比谷方面の灰色の空で、雲の低さが今日の気温を語っていた。
「先輩、まだ吸ってらしたんですか」
毛利が先に口を開いた。感情の乗らない声だった。だが続いた言葉には、わずかに人間の湿りが混ざっていた。
「タバコは辞めたんじゃないんですか」
「タバコは絶対やめた」
勝は答えながら、右手の指に挟んだ煙草を軽く持ち上げてみせた。火のついたそれを。
「やめてない」
毛利が言う。視線が煙草の先端から立ち昇る煙にわずかに動いた。
「吸ってるじゃないですか」
「今日はまだ、これで二本目に手をつけていない」
「屁理屈だ」
短く言って、毛利は自分の煙草を灰皿に押しつけた。角度も深さも一定で、灰皿に押しつける動作にすら整合性を求めているように見えた。この癖は学生の頃からだった、と勝は思い出す。東大の法学部で、勝が一年先輩、毛利が後輩。当時から、毛利は物を置く角度にまで理由をつけたがる男だった。灰の落とし方一つで相手の性格を推し量る、という悪癖が勝にはあったが、この男に限っては推し量る余地がなかった。角度も深さも、いつでも同じだったから。
「そういえば、次の内閣改造の話ですが」
毛利の声が、すでに元の温度に戻っている。
「経済安保担当の政務官に、なかなか筋のいい人を推薦しておきました。名前はまだ申し上げられませんが、勝先生も、遠からずお耳に入るはずです」
固有名詞はぼかしたまま、事実だけが先に置かれる。人事とはそういうものだと勝は知っていたが、毛利の口から出ると、事実そのものが誰かの設計図の一部に見えてくる。
「若手か、それとも」
「年齢の話はしておりません」
一切の含みを持たせない返答だった。勝はそれ以上追わなかった。
「例の法案は」
「特定サービス業務適正化法案ですか。来週火曜、衆院の委員会を通ります。会期末までには参院送付を終える日程で、経産省側の説明資料も、もう刷り上がっているはずです。附帯決議の文言だけ、与野党協議に二日ほど余分にかかりますが、大勢に影響はありません」
数字だけがよどみなく出てくる。感情の抑揚がまったくない声で、日程だけが正確に語られる。この男の言葉には、いつも季節がなかった。夏の話も冬の話も、同じ温度で処理される。
そのとき、毛利の懐で携帯電話が短く震えた。画面を一瞥し、毛利は喫煙室の隅へ半歩だけ動いてから応じた。
「Yes. Speaking.」
流暢な英語だった。相槌の間の取り方が、この国の言葉を話すときよりわずかに速い。勝はその後ろ姿を見ながら、灰皿の縁を指先でなぞった。通話は一分足らずで終わった。切り際、毛利は「Thank you, same to you」とだけ言い残し、画面を伏せてポケットに戻した。
「『赤坂』からかな」
勝は言った。番地でも住所でもない、その一語だけで通じる呼び名だった。外事にいた頃、勝の同僚たちは、赤坂の一角にある大使館の別棟——正式な看板を掲げず、来訪者名簿にも記載されない側の建物を、ただそう呼んでいた。あそこに常駐する人間の一部が、公電とは別の回線を持っていることは、外事の人間なら誰でも肌で知っている。名刺の肩書きと実際の役割が一致しない人間が、あの通り沿いには何人もいた。
「ご想像にお任せしますよ」
毛利は答えた。だが口元には、いつもの制度的な無表情とは違う、わずかに嬉しそうな色が浮かんでいた。
「しかし最近は忙しくてたまらない。まもなくあの国から大統領がこの国を訪れる。これからもっと忙しくなりますが——最高のショーを、見せられると思いますよ」
来日の日程はまだ官邸からも正式発表されていないはずだった。それを毛利が「まもなく」と口にする時点で、この男がすでに何かの内側にいることが分かる。
「大統領が来るのも、君の真意ありきかな」
「真意、とは?」
「デバイスの件じゃないのか」
毛利が一拍、まばたきをした。長さにして半秒に満たない。それでも勝はその半秒を見逃さなかった。
「まさか」
「最近は、麻布のニューサンノーや、狸穴のアメリカンクラブに、よく出入りしてるそうじゃないか」
声量を落とし、視線を灰皿の縁に置いたまま、勝は言った。ニューサンノーは正式には米軍関係者向けの宿泊施設で、狸穴のアメリカンクラブは会員制の社交場に過ぎない、と表向きは説明できる。だが外事の人間にとって、この二つの固有名詞は別の意味を持っていた。予約簿に載らない会合、名刺を交換しない紹介、議事録の残らない会食——この国の政治の一部が、そうした場所で先に決まってから、後で正規の手続きをなぞる形で公になることを、勝は身をもって知っていた。ゲートの受付に立つ制服の係員が、身分証よりも先に顔を覚える客の質が、あの二つの施設には共通していた。
「よくご存知で」
「アメリカ人たち、だろう。この国の行末を決めているという」
「ただの親睦会と、就任祝いですよ」
「ただの官邸官僚を、就任祝いか」
「私は振付師ですから。その名前が、ワシントンにまで届きつつあるということです」
毛利は事もなげに言う。誇りとも自嘲ともつかない声だった。
「老婆心ながら言っておくが」
勝は続けた。
「外事時代の『アメリカ人たち』とは、様子が違う気がするんだ」
「何か根拠でも?」
「ない。ただの勘だ」
毛利が笑った。一度だけ、短く。感情語を一切使わないこの男が笑うところを、勝は数えるほどしか見たことがない。笑い声には、勝の勘を軽んじる響きも、警戒する響きも含まれていなかった。ただ、通り過ぎていく音だった。
「あれは、あなたが思っている筋の意向ではないでしょう」
勝は声のトーンを落とした。低く、部屋の換気音に紛れる寸前の高さで。
「形だけ借りている、もっと上の——誰かの意向だ」
毛利は何も言わなかった。窓の外の灰色の空だけを見ていた。勝は続けた。
「振り付けているつもりの足元を、一度ご覧になった方がいい。この国の音は、変わるときに、いちばん低いところから変わる。地鳴りに近い音だ。誰かが号令をかけてから変わるんじゃない。もう変わり終わった後で、遠くにいる人間だけが気づかずにいる——そういう変わり方をする」
「ご心配には及びません」
毛利は答えた。感情語ゼロの、いつもの声に戻っていた。三つ目の受け流しだった。組閣の話も、法案の日程も、こうして受け流されるたびに、毛利の言葉から人間の湿りが抜けていく。聞けないのだ、と勝は理解した。理解というより、確認に近かった。この男にとって、自分がこの脚本の作者であるという前提こそが、存在そのものの土台になっている。土台を疑えという忠告は、その男自身に、自分の足元が地面ではないと告げるのと同じだった。届くはずがない。
毛利は煙草をもう一本取り出さなかった。指先で灰皿の縁を一度なぞり、先の一本の灰を落とし切ってから、火を消した。ジッ、という短い音。それだけで、毛利は喫煙室を出ていった。ドアが閉まる音すら控えめで、足音はほとんどしなかった。役職を持たない人間ほど、自分の重さを消す歩き方をする——いつか誰かがそう評していたのを、勝は思い出す。
勝は一人残り、新しい一本に火をつけた。二本目だった。マッチではなく卓上のライターを使う。火をつける手つきに迷いはなかったが、火をつけてから最初の一服を吸うまでに、いつもより長く間を置いた。換気扇の音だけが、変わらず低く唸り続けていた。窓の外の雲は、依然として低いままだった。
灰皿の縁には、毛利が消した一本の吸い殻が、角度も深さもいつも通りに残っている。あの角度のまま、この男は物事を全部片付けていくのだろう。委員会の議事録も、法案の日程も、赤坂からの電話も、この国の一部を動かしている集まりも——全部、同じ角度で灰皿に押しつけられていく。勝は煙を長く吐き出した。喫煙室の壁に染み付いた匂いに、また新しい一筋が混ざっていく。バッジの重さを、もう一度指先で確かめた。まだ慣れない。だが、慣れる前に確かめるべきことの方が、今は多かった。
十二月に入って、まだ一週間と経っていない夜だった。表参道の欅並木は、十一月の末から光の粒に覆われている。幹に巻きつけられた電球が枝先まで届くと、そこだけ夜が白く洗われたように見えた。今年は青みを帯びた白だと、通り過ぎる誰かが連れに話していた。手を繋いだ二人連れ、コートの襟を立てた学生、ベビーカーを押す夫婦——並木の下を通る人の列は、まだ途切れていない。誰もが一様に顔を上げ、頭上に架かる光の天井を見上げていた。
サクラだけが、その光の下を、光と関わりのない速度で歩いていた。傘のない歩行にはもう慣れていた。制服はまだ着たままだが、生地の色が最初の夜より少し沈んで見える。ネットカフェの朝を三度、教会の炊き出しの列を二度くぐり抜けた先に、こんな静けさもあるらしかった。ショーウィンドウの中では、値札のついていない毛皮のコートが、光を纏ったまま誰にも買われずに立っている。その前を、サクラは足を止めずに通り過ぎた。あの雨の夜から数えて何日が経ったのか、正確な数字はもう出てこない。ただ、指先の感覚が痛みから重さに変わるまでの時間が、少しずつ長くなっている気がした。
隣を歩くタマは、めずらしく口数が少ない。イルミネーションの光を弾き返すはずの毛並みが、今夜はどこか反射を持たず、ただ暗く沈んで見えた。理由を尋ねる気力は、サクラの側にもなかった。吐く息だけが、二人分、白く上がっては消えていく。並木の切れ目、信号待ちの人だかりの向こうに、腕時計を覗き込む会社員の背中が見えた。時刻を知る手立てを持たないサクラには、その仕草だけが、今が何時なのかを知る唯一の手がかりだった。
音が、先に来た。エンジン音というより、アスファルトの上を滑るタイヤの音だけが、少し遅れて背後から追いついてくる感触。振り返るより早く、黒い車体がサクラの真横で静かに止まった。艶のある黒塗り、窓は深く色を落としている。ブレーキの軋みも、タイヤの擦れる音もなかった。ドアの重さは、止まった瞬間の車体の沈み方だけで分かった。バネの利きが、街を走る普通の車とは違う種類のものだった。ヘッドライトも消え、アイドリングの震動さえほとんど感じられない。並木の光を映して、ボディの表面だけが静かに揺れている。フロントグリルの下、小さな紋のようなものが一つだけ光を反射していたが、何の意匠かまでは、暗さと距離のせいで読み取れなかった。
助手席側の窓が、音もなく下がっていく。中から伸びてきたのは、白い手袋越しの細い指先と、それよりもさらに細い声だった。
「お乗りなさいな」
その声を、サクラは知っていた。あの劇場の夜、舞台の袖から支えられて現れた人の声。もっと磨かれた抑揚で、あの日と同じ並びの単語を口にしていた人だった。今、窓の隙間からこぼれてくる声は、あのときよりもいくらか力を落として、まっすぐ届くというより、こちらの耳が自分から迎えに行かなければ拾えないほどの細さだった。
「門は、叩いた方にしか開かないと申しましたのに」
窓の奥、暗がりの中で、声の主が薄く笑ったのが分かった。自嘲ではなかった。むしろ、自分の言った台詞を、今夜は自分で裏切っている——その事実そのものを面白がっているような、軽い響きだった。
「今夜は、こちらから、開けてしまいました」
反対側のドアが、音もなく開いた。運転席から降りた者の姿は、街灯の逆光の中で輪郭しか見えない。黒い制帽、黒い手袋。一言も発さず、ただドアを支える形でサクラの前に立っている。頭を下げる角度も、ドアを押さえる腕の高さも、練習を重ねた者だけが持つ均等さだった。タマは、いつもの「せやな、乗ろか」も言わないまま、サクラより先に車内へ滑り込んでいった。誘われるより先に動いた、その素早さの意味を考える間もなく、サクラも身をかがめて乗り込む。
ドアが閉まった瞬間、外の音が丸ごと切り離された。並木の下を歩く人々の話し声も、車の走行音も、遠い救急車のサイレンさえも、分厚い一枚の膜の向こうに置き去りにされたようだった。革張りの座面は冷えていたが、湿った公園のベンチとは違う、乾いた冷たさだった。車内に満ちているのは、古い木か、あるいは古い紙のような匂い。かすかに、菊の花に似た香の名残がある。運転席との間には、磨りガラス張りの仕切りが立てられていて、その向こうの気配は、ハンドルを操作する腕の動きだけが影になって伝わってくる。会話を伝えるための機器らしきものは見当たらなかった。用があれば、あの仕切り越しに何らかの合図が届くのだろうと、サクラは想像するしかなかった。座席の間の小卓には、湯気の消えた茶碗が一つ、蓋をされたまま置かれている。誰のために用意されたものか、尋ねる間もなかった。
窓の外だけが動いていた。イルミネーションの帯が、後方へ長く尾を引きながら流れていく。信号待ちで止まるたび、光の粒が窓ガラスの表面で滲んで、また流れ出す。車はやがて広い通りへ出た。青山の方角から六本木へ抜ける道筋らしいと、サクラは窓の外の見覚えのある看板だけで見当をつけた。走行音はほとんど聞こえない。タイヤが路面の継ぎ目を拾うときだけ、車体がわずかに沈んで、また元に戻る。その揺れの少なさが、かえって現実感を薄くしていた。
タマは、乗り込んだ瞬間から一言も発しなかった。いつもならとっくに「豪華な車やなあ、サクラ」くらいは言いそうなものだったが、今夜は違う。座席の隅、サクラの足元に近い床に体を丸め、耳を伏せ、毛を寝かせている。街灯の光を弾いて跳ね返すはずの毛先が、今は車内の間接照明の下でも、ひとまわり小さく縮んで見えた。
「サクラさん、と、お呼びしてよろしいかしら」
奥の座席に、薄い毛布を膝に掛けた人が座っていた。あの日と同じ、支えがなければ長く姿勢を保てないらしく、背もたれと肘掛けの両方に体重を預けている。返事を待つ間、膝の上で指先が細かく震えていた。隠す仕草は見せない。淡い色の羽織の下、肩の線はひどく薄かった。首の傾け方一つにも、力を配分する順番があるらしく、顔をこちらへ向けるまでに、瞬きよりも長い間があった。
サクラが小さく頷くと、礼子は満足そうに、しかしゆっくりと瞬きを一つした。
「昔——といっても、暦の数え方がまだ定まらないくらい昔の話ですけれど」
そう前置きしてから、礼子は語り始めた。世間話でもするような温度だった。天気の話でも、庭の紅葉の話でもするみたいに。
「この国では、ヒトとカミの区別が、はっきりしていなかった時代があったのです。カミのようなヒトがいて、ヒトのようなカミもいた」
「みんな、特別なチカラを持っていた、ということですか」
「ええ。ただ、そのチカラには上限があったのです」
礼子は、一度言葉を切って呼吸を整えた。長く続く文を話すための、唯一の間の取り方であるようだった。
「一人であれば強く、大勢で寄り集まれば集まるほど、そのチカラは薄まって——しまいには、ただのヒトに戻ってしまう。そういう決まりが、あったのだそうです」
その言い回しに、サクラの中で何かが小さく音を立てた。劇場の夜、羽根川クロエが誰かに向けて語っていた言葉を思い出す。大勢で舞台に立てば互いの尺を食い合い、独りで立つ者だけが強く見える——バレエの言葉で語られていたはずのその法則が、今、礼子の口からはまったく違う衣をまとって出てきていた。同じ形をした何かが、あのときは芸術の語彙で、今は血筋と家の記憶の語彙で語られている。サクラはそのことを、誰にも言わずに、ただ胸の内側だけで確かめた。
「その分、独りでいる方が、強かったということですか」
「ちょうど、そのように出来ておりました」
礼子は、答えながら小さく笑んだ。当たり前のことを聞かれたような、それでいて嬉しそうな声だった。
「では、大勢で手を組んだ方が、良かったのでは」
サクラが重ねて尋ねると、礼子は首をわずかに横へ傾けた。考えているというより、答えをどう配るか計っているような間だった。
「手を組めば、その場は凌げます。ですが、続きはしません。誰か一人が抜きん出た瞬間に、残りは薄まったチカラのまま置き去りにされる——そういう仕組みだったのだと、聞いております」
「争いは、絶えませんでした。数えきれないほどあったカミの系統は、山を越え、川の名を変えながら、争いを重ねるうちに、一つに絞られていったのです」
「その果てに、どうなったんですか」
サクラが尋ねると、礼子は窓の外を短く見やり、また視線をサクラへ戻した。声を配る間隔そのものが、話し続けるための唯一の手立てであるかのようだった。
「それが」
一拍置いて、続けた。
「わたくしの、御先祖様になります」
世間話の温度のまま、その一文だけが車内に落ちた。イルミネーションの最後の帯が、窓の外を流れきって消える。街路樹の途切れた先は、ただの夜だった。タマは、その言葉が聞こえなかったかのように、床の上で丸くなったまま動かない。耳の先だけが、わずかに伏せられた角度のまま固まっていた。普段なら「へえ、御先祖様て、そらすごいなあ」くらいは挟んできそうなものを、今夜はひとことも発しない。中央の声の前では、末端の声はそもそも出す場所を持たないのだと、誰に教わるでもなくサクラは理解した。
礼子は、話し終えたことで安堵したのか、それとも力を使い果たしたのか、目を伏せてしばらく黙っていた。膝の上の指先の震えだけが、変わらず続いている。車は、環状の道をまだ静かに走り続けていた。窓の外を流れる光の帯が、次第にまばらになっていく。街の灯そのものが、少しずつ夜の色に呑まれ始めていた。