アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
車は環状の道を離れ、いつの間にか幅の狭い通りに入っていた。街灯の間隔が広くなり、一つ分の暗さが長く続く区間が増えている。窓の外を流れていた光の帯は、今はもうほとんど残っていない。ときおり信号の赤だけが窓ガラスの表面を一瞬染めて、また闇に戻っていく。車内の間接照明は変わらず控えめに灯ったままで、小卓の上の茶碗も、蓋をされたまま先ほどと同じ位置にあった。
礼子は、まだ目を伏せていた。しばらくの沈黙が、走行音のほとんどしない車内では実際よりも長く感じられる。サクラは、その静けさの中で、聞かなければいけないことがまだ一つ残っていることに気づいていた。御先祖様の話は、遠い昔語りとしてはきれいに終わっている。だが、その話がここに——この車に、この夜に——繋がっている理由が、まだどこにも見えていない。
「あの」
サクラが声を出すと、礼子は伏せていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。急かされたことに苛立った様子はなく、むしろ続きを待っていたような瞬きだった。
「それが、エイさんと、何の関係が」
礼子は、すぐには答えなかった。答えを持っていないからではなく、どの順番で渡すかを、また計っているような間だった。膝の上の指先が、変わらず細かく震えている。
「たくさんの系統が一つに絞られていく中で」
礼子は、そう切り出した。
「たった一人だけ、許された方がいらっしゃいました。争いを終わらせるための人選ではなく——争いが終わったあとも、争いが二度と起こらないように、留め置かれた方、と申した方が近いかもしれません」
「留め置かれた」
サクラは、その言葉をそのまま繰り返した。礼子は小さく頷く。
「遠い帝の御代に、勅封をお受けになりました。それからずっと——本当に、ずっとでございます——この国を支える柱の一つとして、いらっしゃいます」
「柱」
「はい。文字通りの、柱でございます」
礼子は、そこで一度言葉を切り、車の天井のあたりへ視線をやった。何かを支える構造そのものを思い浮かべているような、緩やかな仕草だった。
「古い建物には、屋根の重みをすべて受けている柱が、表からは見えない場所に一本、あるものです。その一本が抜ければ、建物全体が傾く。そういう役目のことを、家では、柱、と呼び習わしております」
「見えない場所で、支えている、ということですか」
「ちょうど、そのように」
礼子は、そこで一度、瞬きよりも長い間を置いた。何かをおかしがっているような、それでいて懐かしむような、二重の響きが声に混じった。
「柱、という言葉には、もう一つ意味がございます。この国では、古くから、カミの数を数えるときに、一柱、二柱、と数えるのです。人を一人、二人と数えるのとは違う数え方が、カミにだけ与えられている」
「数え方が、違う」
「ええ。同じ字を使いながら、数える対象によって、読み方も、重みも、変わってしまう。——面白い言葉だと、わたくしは思っております」
礼子の声には、講釈をしている硬さがなかった。子供の頃に家で聞いた雑学を、久しぶりに誰かに話す時のような、軽やかさに近いものがあった。サクラは、その軽さの中に置かれた事実の重さと、声の軽さとの落差に、少しの間、言葉を継げなかった。
「彼女は、その時から、ここにいます」
礼子は、静かにそう言った。名前は出さなかった。だが、誰のことを指しているか、サクラにはもう疑いようがなかった。
「私は、天智天皇の時代から存在する」——あれは、南平台の庭で、それも一度きりだった。西南戦争が初任務だった、という話も、聞いたことがある。「田原坂」という地名を口にした時の、いつもと変わらない平らな声。それらの言葉は、これまでずっと、サクラの中で別々の場所に転がされたままだった。誰かの言葉を継ぎ足せば繋がる、という発想さえ持てなかった——本人が語らない以上、繋げていい話なのかどうかも、判断のしようがなかったからだ。それが今、礼子の口から出た「遠い帝の御代」「勅封」という言葉によって、初めて一本の筋の上に並び直されていく感触があった。訊けば「必要な情報ではない」とだけ返ってくる話が、今、招かれてもいない場所から、勝手に届いている。その落差だけで、サクラは自分が何か、聞いてはいけない場所に足を踏み入れている気がした。
「あの、御先祖様には」
サクラは、慎重に言葉を選んだ。
「生命を、分け与えるチカラが、あったのですか」
「はい」
礼子は、迷いなく頷いた。
「生命を付与するチカラ——それが、わたくしの家に伝わる、いちばん古いチカラでございます。他の系統は、争いの中で、姿を消したり、薄まったりしていきました。ですが、このチカラだけは、今も、絶えておりません」
そこまで言って、礼子はサクラの方へ、初めて真正面から視線を向けた。
「あなたが、今、こうしてここにいらっしゃる理由も——もしかすると、その一部なのかもしれません」
「もしかすると」
サクラが繰り返すと、礼子は薄く笑んだ。
「わたくしにも、はっきりとは、申し上げられないのです。ですが、そうだと考えれば、辻褄が合う部分は、ございます」
「辻褄が」
「ええ。あなたの中に流れているものと、あの方が古くから持っていらっしゃるものとが、もし同じ水源から来ているのだとすれば——今のあなたの在り方にも、いくらか説明がつく気がいたします。あくまで、わたくしの想像でございますけれど」
礼子の言い回しは、どこまでも仮定の形を崩さなかった。断言する強さより、断言しない配慮の方が、この人にとっては自然な話し方であるらしかった。サクラは、その慎重さの中に、何か触れてはいけないものへの遠慮に近いものを感じた。
「同じ水源、だとしたら」
サクラは、確かめるように、もう一度尋ねた。
「ワタシは、何か、特別なものを持たされている、ということになりますか」
「そうとも言い切れませんし、そうでないとも言い切れません」
礼子は、そう答えて、一度目を伏せた。
「特別という言葉が正しいのか、それともただ、そういう形で結ばれただけのことなのか——決めることは、わたくしの役目ではないのだと思います」
役目ではない、という言い方が、サクラの中に小さく引っかかった。ならば誰の役目なのか、と重ねて訊きたい気持ちが湧いたが、礼子の声の配分は、そこで一区切りついたことを示していた。
「では」
サクラは、一拍置いてから、続けた。心臓が、車の静けさに反して、少し速くなっている気がした。
「それによって生まれた、ワタシの能力は、何なんですか」
礼子は、答えなかった。
薄い羽織の下の肩が、わずかに動いた。答えを拒んでいるというより、答えの形をまだ持っていない——あるいは、持っていても、今夜、この場所で渡すべきものではないと、静かに判断しているような沈黙だった。窓の外を見やる仕草もない。ただ、視線をサクラに向けたまま、口元だけがゆっくりと、言葉を探すように動いて、止まった。
車内に、しばらく、車の走行音だけが続いた。窓の外を、灯りの消えたオフィスビルの列とシャッターを下ろした店舗が、ゆっくりと後方へ流れていく。ネオンの類はもう見当たらない。エンジンというより、路面を滑る低い響き。運転席との仕切りの向こうで、方向指示器の作動音が、規則正しく鳴り始めた。かちり、かちり、という乾いた音に合わせて、車体がゆるやかに減速していく。速度が落ちるにつれて、体にかかる慣性が少しずつ薄れていくのが分かった。
「彼女が、あなたに分け与えたもの」
礼子が、やがて口を開いた。方向指示器の音は、まだ続いている。
「あれは、貸したものではございません。預けたもの、でございます」
一拍、間があった。方向指示器の音だけが、その間を埋めていた。
「預けたものは、いつか、還ります」
その一文が落ちたあとも、方向指示器の音は、しばらく鳴り続けていた。かちり、かちり。車が完全に停止し切るまでの数秒、サクラはその音だけを数えていた。何を意味する言葉なのか、確かめる問いを口にする間もなく、車は静かに停まった。
タマは、床の上で丸くなったまま、その一文にも動かなかった。耳の先だけが、わずかに震えたように見えたが、それが空調のせいなのか、別の理由なのか、サクラには判別がつかなかった。
サクラの側のドアが、外から音もなく開いた。乗る時と同じ、黒い制帽と黒い手袋の輪郭が、街灯の逆光の中に立っている。一言も発さず、ただドアを支える形を保っていた。冷えた外気が、隙間から車内に滑り込んでくる。サクラは、その空気の冷たさで、自分がずいぶん長い間、息を浅くしていたことに気づいた。
「今夜は、ありがとうございました」
サクラが頭を下げると、礼子は小さく首を横に振った。
「いいえ。——一つだけ、申し上げてよろしいでしょうか」
サクラが顔を上げると、礼子は、これまでで一番、静かな声で言った。
「お探しなのは、名前ではないでしょう」
サクラは、すぐには意味を掴めなかった。だが、聞き返す前に、礼子は続けた。
「お励みなさい」
それだけだった。説明も、続きもなかった。サクラは頷き、タマを促して、身をかがめて車を降りた。ドアが閉まる音は、乗った時と同じように、ほとんど聞こえなかった。
外の空気は、車内よりもずっと冷たかった。人通りのない住宅街の細い道に、街灯が数本、間隔を空けて立っている。車は静かに走り出し、角を曲がって、テールランプの赤い光がやがて見えなくなった。
サクラは、しばらくその場に立ったまま、車が消えた方角を見ていた。隣で、タマがようやく、床の上で丸めていた体をほどき、伸びをする。乗り込んでから今までずっと閉じていた口が、ゆっくりと開いた。
「……えらい人やったんやなあ」
短い一言だった。世話焼きの調子も、数字の話も、そこには一つも混じっていない。ただ、今しがた聞いたばかりのことの大きさを、自分の手で掴み損ねたまま呟いたような、頼りない声だった。サクラは何も答えず、白い息を一つ吐いて、また歩き出した。
東和新聞ビル、自室。夜十時を回っていた。暖房の吹き出し口が低く唸る音だけが、部屋の中で規則正しく続いている。窓の外、仲通りの街路樹に巻かれていた電飾は、今夜からようやく点灯していた。まだ調整が済んでいないのか、一本だけ点滅の周期が他と合わず、白い光が二拍遅れて瞬いている。クロエはブラインドを半分だけ下ろし、その狂った周期が視界の隅に入らない角度を選んで、机に向かい直した。飲みかけの紅茶は、とうにカップの縁まで冷え切っていた。湯気が消えたのがいつだったか、思い出せない。
机の上には、この十日ほどで拾い集めた紙が扇状に広げられていた。書店で撮った奥付の写し。文化面の紙面切り抜き。分析班の週次レポートの抜粋。経済部の記者から回してもらった法案審議の日程表。それぞれの紙の端には、拾った日付と出所を示す小さな符牒が、クロエ自身の手で書き加えられている。中央に一枚、白紙のコピー用紙を置き、そこへ六本の線を引く。
一本目、『将門は何を為したか?』の増刷数——初版四千部、十一月三十日に二刷六千、十二月三日に三刷一万二千、合計二万二千。二本目、東和文化面への掲載速度——十一月二十九日付、選書会議を経ない異例の四日。三本目、匿流の怒り係数——分析班の集計で、十一月二十九日の二・一から今週月曜の二・八へ、十日間で確実に上向いている。四本目、「特定サービス業務適正化法案」の審議入り——当初の来週予定から、委員会採決の前倒しで今週末に繰り上がったと、先ほど経済部から一報が入ったばかりだった。五本目、毛利の面会予定——今週だけで議員会館と料亭とホテルのラウンジを合わせて四件、いずれも相手方の秘書に確認を取ると「先方からのご指名」だったという答えが返ってくる。六本目、正体不明の赤の出現間隔——社会部の受電記録を洗い直した限りでは、ひと月前より確実に詰まっている。手元の集計では平均十八時間台まで縮まっていた。線を引き終えたところで、クロエはペン先を紙の上に止めた。
将門の物語が、中央への挑戦の先例として市場に接ぎ木される。匿流の怒りが、行き場を求めて水路を変える。規制の網が、その水路の少し先で口を開けて待つ。毛利の日程だけが、他の五本と違う速さで動いている——予定を作っているのではなく、すでにある予定を後から埋めているような速さで。六本の線を、これ以上分けて考える理由が見つからなかった。同じ設計者の、同じ筆致だった。誰の手で書かれた台本であっても、これだけの線が同じ夜に同じ方向を向くことは、偶然の範囲を超えている。ひとつの舞台だ、とクロエは分類した。
だが、線を全部引き終えたはずのその舞台に、まだ立っていない場所がある。
バレエの床には、稽古用の目印がある。踊り手が正面を確認するために打たれる、目に見えるか見えないかの小さな印——ダンサーの間ではただ、位置を示す数字として呼ばれる。子供の頃、週に二度通わされていた稽古場の床にも、同じ印があった。テープの色が剥げかけていて、先生が毎回「そこ、そこよ」と扇子の先で示していたのを覚えている。あの頃の自分は、その一点に立つことの意味を、まだ何も知らずに立っていた。今なら分かる。あの印は、舞台の設計者が最初に決める場所だった。振付よりも先に、まず誰かが立つべき場所が決まる。舞台の中心、客席から見て正面のその一点に、まだ誰も立っていない。誰かをそこへ立たせるつもりで線を引いてきたはずなのに、その一点だけが空白のまま残されている。ポジション・ゼロ、とクロエは声に出さず、自分にだけ分かる言葉として置いた。ユカリに説明するときの語彙とは違う。今夜はまだ、誰の耳にも渡さない語だった。
首謀者の役。憎悪を集め、法案を動かし、御霊として祀られるための誰か。線の設計はそこまで進んでいるのに、その役を演じる名前だけが、どの資料にも見当たらなかった。
社会部が保管している魔法少女関連の識別ファイルを、念のためもう一度開く。表紙には「魔法少女関連事案・個体識別資料(社内限定・更新随時)」とだけ印字され、右肩に最終更新日と通し番号が振られている。全三十八ページ、うち桃の項目は八ページ目から十ページ目までの三枚。赤、青、緑、黄、紫——五色の欄には、それぞれ複数枚の目撃写真と、複数の目撃報告に共通する呼び名が整理されて並んでいる。桃の欄だけが違った。目撃報告は九件あるのに、写真として使えるものが一枚もない。日付は十月から今月まで、場所は渋谷区内が六件、隣接区が三件。手ブレでも逆光でもなく、輪郭そのものが像を結ぼうとした瞬間にわずかにずれる、という種類の不鮮明さだった。担当記者の手書きで「解像度不足、再取得を推奨」という付箋が、九件のうち六件に貼られたままになっている。名前の表記も報告ごとに揺れている。「サクラ」とだけ書いたもの、「少女A」で処理したもの、片仮名の一部が読み取れずに空欄のままのもの。同じ人物を指しているはずの九件が、九通りのまま統一されずに残っていた。
設計図の線が、この一点でだけ滲んでいる。誰かを置こうとして、まだ置けていない。あるいは、置こうとして、失敗し続けている。データの不備、と社会部なら処理するだろう。だがクロエの手つきは、その言葉で紙を閉じることを拒んだ。
——中央に、いらしたいのね。
劇場の夜、あの人の声がそう言った。あのときは聞き流すことのできる指摘のふりをして、聞き流さなかった。今、静まり返った部屋の中で、その一文だけが遅れて戻ってくる。
「そうよ」
声には出さなかった。だが、これまでの自分なら分類の言葉を挟んでいたはずのところに、今夜はその一言だけが、飾りもなく立っていた。認めてしまうと、次に浮かぶのはどうやってか、という問いだけだった。
東和という道具は、すでに手の中にある。編集の裁量は、あの人の一言でどこへでも向けられる。文化面の四段抜きも、社会部の識別ファイルも、経済部の審議日程も、指示一本で自分の机に届く仕組みが、すでに出来上がっている。紙面を動かす力と、街の空気を動かす力は、もう別々のものではないことを、この十日間の六本の線が証明していた。舞台に立つ手順を考えるなら、まず空いたままの一点に何を置くかを決める必要がある——将門の物語のように、誰かを別の誰かに接ぎ木するのか。それとも、接ぎ木の元になる素材そのものを、自分の手で用意するのか。前者なら、東和の紙面と経済部の日程さえ押さえれば、来週にも動かせる。後者なら、時間がかかる。答えはまだ、紙の上のどこにも書けなかった。だが、問いの立て方を変えたのは今夜が初めてだった。
手帳を抽斗から取り出す。表紙の角の擦り切れが、また少し進んでいるように見えた。毛利、ユカリ、カノン——丸のついた名前の列を一つ指でなぞり、マタギの丸のない名前の脇を通り過ぎる。これまでこの欄に書いてきたのは、いつも他人の名前だった。分類し、線を引き、丸をつけるかどうかを決める側に、自分は常にいた。今夜、その並びの続きに自分の名前を書くことに、迷いがなかったと言えば嘘になる。だが迷いは、ペン先を紙に下ろすまでの、ほんの一拍にしか居場所を持たなかった。
「クロエ」
いつもより、線の運びが遅かった。一画ごとに紙の繊維を押す感触を確かめるように、力の入れ方を変えながら書いた。「ク」の跳ねが、自分でも珍しいと思うほど大きく流れた。「ロ」の四角を閉じる最後の一線だけ、わずかに震えて紙面から浮いた。書き終えて、文字の上に少しの間、ペン先を浮かせたまま止める。インクが乾く前の艶が、電灯の光を細く反射していた。
丸は、つけなかった。
丸をつける資格は、舞台に立ってから手に入れるものだ。今はまだ、客席から線を引いているだけの手でしかない。手帳を閉じる前に、もう一度だけ、桃の欄の九通りの表記を思い出す。像を結ばない写真と、揃わない名前——あの空白が、自分が今夜見つけたポジション・ゼロと同じ場所を指しているのかどうか、まだ確かめる材料がなかった。窓の外、点滅の周期が狂った電飾が、二拍遅れてまた白く光った。クロエはその光を見ないまま、手帳を閉じた。