アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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9.オピウム-Opium-

十二分という数字は、思っていたより早く溶けていった。屋上の縁からアオネが目で追い続けていたくすんだ灰緑の輪郭は、群衆の中を縫うように進みながらも、まだ何もしていない。歩く速度、視線の向け方、立ち止まる位置――そのどれもが、あらかじめ決められた手順をなぞっているというより、初めて訪れた場所を手探りで進んでいるように見えた。窓を覗いたままのA1は、照準の中心をその輪郭からわずかにも外さなかった。動かない。まだ、動かない――何もしないまま歩いているだけの十分あまりが、二人の間の沈黙をいつもより重くしていた。朝のうちに配られたカロリーバーの紙パックには、結局どちらも手をつけないままだった。アオネは風速計の羽根車を三度読み直し、そのたびに同じ数字が出ることだけを確認した。四・〇。風は変わっていない。変わっていないという事実だけが、今のところの安心材料だった。沿道の徒歩警戒は、地図上の割り振りでは五十メートルおきに一名。今、輪郭が歩いている区画を担当しているのは配置番号十七号――だが十七号は、群衆の反対側、先方警護官との動線確認に呼ばれて位置を離れていた。空白は、せいぜい二分。だがその二分が、今この十分の中に重なっている。アオネはこの偶然を、幸運とは分類しなかった。単に、確率の低い側が引かれた、というだけの記録として頭の中の棚に仕舞う。

無線に、合同指揮所からの中継が割り込んだ。

「――Beast One, final approach. ETA, nine-zero seconds.」

三十秒ほど遅れて、担当者の声が日本語の要約を重ねる。

「先方車列、最終進入。到達まで、九十秒」

窓の中で、A1の指先が目盛りから離れた。照準の中心にいた輪郭が、群衆の流れに逆らって、それまでとは違う速さで動き始めていた。両手を胸の高さに上げ、指先が震えている。変身途中の少女に特有の、輪郭の定まらない硬さが、遠目にもはっきり見て取れた。

「動きました」

アオネが短く言う。歩道の密度は、目測で一メートル幅あたり五人を超えていた。規制線の内側、報道の立ち位置には三脚のカメラが十数台、番号を振られた区画ごとに等間隔で沿道を狙っている。地点符号でいえばC5からC9――ちょうど雑色の輪郭がいる区画の対岸にあたる並びだった。沿道に立つ警護官の無線から、進捗を確認する短い声がかすかに漏れ聞こえてきたが、群衆の側からの通報はまだない。異変に気づいているのは、この屋上にいる二人だけだった。A1は窓から目を離した。

「降りる。本部には」

「今は上げません。確度が低いままでは、かえって混乱します」

短いやり取りで、判断は決まった。無線に流すのは、確保が完了した後――それがこの九十秒の中で二人が共有した唯一の合意だった。

「了解。あさひ二一、降下開始」

短く応じたアオネの声を背に、A1は屋上の縁へ走った。右腰には、いつもの重みがなかった。三脚に固定されたままの筒と窓――握りごと一式に組み上げられたそれを分解して戻すには、決まった手順を踏む必要があり、この秒数では間に合わない。今日のここから先は、それを屋上に置いていく。腰の後ろのケースに残っているのは、伸縮式の警棒とマグライト、ワイヤーの束だけだった。使える武器が、腰から一つ減っている。その事実を、A1は歩きながら一行の確認として処理しただけだった。

建物は十四階建て。屋上から地上まで、非常用の足場が外壁に沿ってジグザグに設けられている。A1はそれを踏むというより蹴るようにして、三階分をまとめて一気に落ちた。手すりを掴む動作は最小限に留め、次の階の窓枠の縁に爪先だけを預けては、そのまま身体を反転させて次の段へ移る――考えて選んだ動きというより、繰り返し確認された反射に近かった。九階の窓の内側で、電話に出ている社員がこちらに気づかないまま横切っていくのが、一瞬だけ視界の端を過ぎった。地上に足が着くまで、七秒。着地の衝撃は、膝でほとんど吸収されて音にならなかった。降り立った場所は、配送トラックの死角――報道カメラの角度からも、沿道の目からも外れた位置を、A1は落ちながら逆算して選んでいた。

歩道に出たときには、灰緑の輪郭はすでに群衆の最前列近くまで進んでいた。A1は横合いから距離を詰め、肩ではなく腕を軽く取る形で、群衆の流れの外へ連れ出す。押しのけない。突き飛ばさない。半径三メートル以内に第三者を入れない――被害の出ない動線を、A1は近づきながら頭の中で組み立てていた。誰にも気づかれないまま、少女の身体だけが群衆の外へ、こぼれ落ちるように外れていく。近くにいた家族連れの一人が、一瞬だけこちらを見たが、すぐに車列の方角へ視線を戻した。子どもが手にした小さな旗が、風に小さくはためいた。

無線がまた重なった。

「――Beast One, ETA six-zero seconds.」

「到達まで、六十秒」

数字が読み上げられるたびに、沿道のあちこちで歓声の予行のような声が、小さく上がり始めていた。誰かが拍手の練習でもするように、両手を一度だけ合わせる。その音に紛れて、少女の抵抗する足音は誰の耳にも留まらなかった。

A1は少女の腕を取ったまま、沿道から一本裏へ入る細い通路へ体を向けた。両側にビルが迫り、日の届かない谷間が奥まで続いている。人の目も、報道カメラの角度も、ここまでは届かない。強引に引きずり込むのではなく、少女自身が逃げようとする方向が自然とこの谷間に重なるよう、A1は自分の立ち位置と歩調だけで押していった。谷間の奥、非常用の給水管が壁を這う場所まで進んだところで、少女がようやく振り向いた。

両手の先に、色の定まらない光が滲む。くすんだ緑にも、灰にも見えるその光は、輪郭を保てないまま揺れ、二秒と持たずに一度萎んでは、また同じ強さで滲み直した。持続の短さそのものが、練度のなさを語っている。止め方を知らない――それが、A1がまず見て取ったことだった。溢れ出す力に本人の呼吸が追いつかず、肩が上下するたびに光の輪郭がさらに崩れていく。京浜島で見た、本物の動きを覚えた劣化コピーとも違う。あちらには、少なくとも真似るべき型があった。この光には、型そのものがない。ただ出したいという衝動だけが先に立ち、身体がそれに追いついていなかった。止まり方を知らない力は、使う本人を先に傷つける。それがどういう傷になるのか、この少女はまだ知らない。

一方、屋上を降りたアオネは、非常階段を使って先に三階分を移動していた。契約の第四項――現場協力、その中の一態様である退路封鎖。谷間に通じる出入口は三箇所ある。アオネはまず、路地の北端にある資材搬入口の鉄扉に、傍らにあった鋼管を差し込んで動かなくした。所要、十二秒。次に南側、大人が一人ようやく通れる幅の隙間には、放置されていた台車を横倒しにして押し込む。所要、九秒。二箇所を塞いだ時点で、逃走経路は当初の三本から一本に減っている――アオネの頭の中で、確率の数字が自動的に更新された。残る一箇所、谷間の奥から表の駐輪スペースへ抜ける経路だけを、あえて塞がずに残した。幅、およそ一・二メートル。人ひとりが小走りで抜けられる程度の隙間で、A1が押し込んでいく方向とちょうど正反対に位置している。閉じる順序は無作為ではない。逃げ場を一つだけ残すことで、少女の動く先を一本の線に絞り込むための計算だった。塞ぎ終えるまで、四十秒。無線に「北、封鎖完了」「南、封鎖完了」と、アオネは二度、抑揚のない声で報告を入れた。応答は、A1からの短い「了解」が一度あっただけだった。

無線が三度目の数字を運んでくる。

「――Beast One, ETA three-zero seconds.」

「到達まで、三十秒」

A1は少女との距離を一定に保ったまま、詰めもせず、離れもしなかった。放たれる光をかわし、あるいは腕でいなし、反撃はしない。少女の呼吸はさらに乱れ、光の持続はもう一秒と保たなくなっていた。出させて、切らせる。倒すためではなく、消耗させるための距離感――五度目の発光が萎むより先に途切れ、少女の膝が崩れた。踏み込めば、そのまま終わらせられる体勢だった。A1はそこで止まる。仕留められる場面で、仕留めない。警棒を短く一度、相手の肩に当てた。電撃、短く一回。それだけで、抵抗は完全に止まった。

「確保。十一時五十三分」

A1は無線に告げた。アオネから「搬送、了解」と短い応答が返る。ワイヤーで両手を拘束し、意識のない少女の身体を路肩まで運ぶ。制服のポケットには、電子マネー専用の端末が一台と、画面の割れた安価なスマートフォンが入っていた。中身を検める余裕は、今はない。待機していた搬送班へ引き渡す段取りだけを、A1は簡潔に無線へ乗せた。「対象一名、意識レベル低下。外傷なし。搬送先、通常経路で」。搬送車のスライドドアが開く音、担架を出す金属の軋み、隊員が声を掛け合う短いやり取り――谷間の中で、それらの音だけがしばらく続いた。担架に乗せられる直前、隊員の一人が腕時計に目をやり、クリップボードの受領欄に時刻だけを書き込んだ。名前の欄は、後で記入されることになっている。塞いでいた鉄扉と台車を、アオネが元の位置へ戻していく。鋼管を抜き、台車を元の壁際まで押し戻す――所要、合わせて二十秒。誰かがここを通った痕跡は、数分後には残らなくなる。

そのころ、谷間の外では、車列が交差点を曲がり切っていた。何も知らないまま、予定された速度で、予定された位置を保ったまま。沿道の歓声が、時速二十キロで進む車の窓ガラスに反射しながら、次々と後方へ流れていく。

歓声は、遅れてビルの谷間まで届いた。乾いたコンクリートの壁に幾度も反響しながら弱まっていくその音は、少女が崩れ落ちた場所には不釣り合いなほど明るかった。A1は警棒を縮め、乾いた音を一度だけ響かせて腰のケースに戻す。マグライトも同様に、点灯、消灯――光量の落差はいつもと変わらない。異常なし。空いたままの右腰のホルスターにだけは、確認すべき手順が残っていない。屋上に置いてきたものは、屋上に戻るまで、そのままだった。

谷間の入口から、アオネが歩いてくる足音が近づいてくる。「確保完了まで、通算三分十二秒」と、抑揚のない声で数字だけを渡された。A1はそれに頷きもせず、ただ端末のログに同じ数字を打ち込んだ。二人の間に、それ以上の言葉はなかった。頭上高く、報道各社のヘリコプターが飛行制限区域の縁に沿って旋回する音だけが、遠くからかすかに響いていた。車列は、あと数分で迎賓館の車寄せに着く。谷間の入口から一歩出れば、そこにはまだ歓声と国旗の小旗があるだけで、この十四階建てビルの裏手で何が起きたのかを知る通行人は、この先も一人も現れないはずだった。

 

 

 


 

 

警視庁本部、九階の取調室に着いたのは、日付が変わるまで残り三時間を切った時刻だった。窓のない部屋に置かれた事務机はスチール製で、天板の角には長年の使用でえぐれたような傷が残っている。天井の蛍光灯は片方だけ点灯が不安定で、瞬くたびに壁の掛け時計の針が一瞬止まって見えた。廊下の向こうから、当直の誰かが台車を引く音が二度、遠ざかっていく。Qが持ち込んだのは、供述調書の用紙一式、弁解録取書の様式、それに取調べの録音録画機材の設置記録簿だった。少年事件の取調べは深夜零時をまたいではならないという内規が、今夜使える時間をあらかじめ区切っている。逮捕から検察官送致までの四十八時間のうち、今日という日はすでに半分近くを使っていた。残り時間は、あと三時間弱。今日のうちにどこまで聞けるかは、この時計が決める。

隣の椅子には、当番で呼ばれた付添人の弁護士が一人、開いたノートに何も書かないまま座っていた。少女の登録上の保護者欄は空欄のままで、家庭裁判所への通告と、法定代理人不在の場合の代替手続きは、この後の別枠で進められることになっている。録音録画機材の赤いランプが点灯したのを確認し、機材番号と開始時刻を記録簿に書き込んでから、Qは机の向かいに腰を下ろした。天板を挟んだ距離は、目測でおよそ七十センチ。マニュアルに定められた標準の間合いだった。

少女は、体に合わない灰色のパーカーを着ていた。搬送先の病院で借りたものだという。右の手首には、電撃による軽い痕を覆う白いテープが一枚、貼られたままになっている。証拠品袋にまとめられた所持品は三点――画面の隅にひびの入った安価なスマートフォン(裏面には、端の欠けたキャラクターもののステッカーが一枚だけ貼られていた)、電子マネー専用の決済端末、それに財布の中に残っていた四百二十円。所持品目録の金額欄に、Qはその数字をそのまま書き写した。四百二十円で、この先の一日をどう過ごすつもりだったのか、欄にはそれを書く場所がなかった。

帰る場所として登録されていたのは、都内の民間シェルターの住所だった。だが直近の入所記録を照会すると、三週間途切れている。施設側への確認では、「布団だけ置いて、ほとんど帰ってきていなかった」という職員の回答が、電話口の記録として残されていた。変身の履歴は、K機関のデータベースに残る限りで四回――いずれも今月に入ってからのものだった。うち三回は、界隈の小さないざこざの仲裁に駆り出された程度の、数分で終わる短い発動に過ぎない。四回目が、今日だった。四回という数字を、Qは画面に映したまま、しばらく見つめた。

供述調書の名前欄には、四文字の名前が記されている。Qはそれをここでは書き写さない。以降の記録でも、少女は色の記号だけで扱われることになる――雑色。輪郭の定まらない、ありふれた色。

「連絡が来たのは、いつですか」

Qが尋ねると、少女はスマートフォンの画面をこちらに向けた。メッセージアプリの、鍵マークのついたアカウントからの一通――アカウント名は数字とアルファベットを無作為に並べただけの十二桁で、プロフィール画像は設定されていない。日時は十二月十四日、午後十一時過ぎ。既読がついたのは、送信から四分後だった。

「相手の名乗りは」

「ない。ずっと、ない」

「これまでにも、同じ相手から連絡が」

「今回で、二回目。前は、荷物を運んだだけ」

「そのときの報酬は」

「五千円。今回は三万って言われて、多いなと思った」

メッセージには、日付と時刻、それに待ち合わせ場所ではなく「立つ場所」を示す地図の切り抜きが添付されていた。文面はこうだった。

「12/15 11:50 例のとこで。目立つこと。前金は先に」

句読点はほとんどなく、絵文字も、改行の癖もない。誰が打っても同じ文字面になりそうな、体温の感じられない書き方だった。前金は、メッセージが届いた直後に振り込まれていた。電子マネーで、三万円。全額前払いという形式は、この種の依頼では珍しくない――成果に応じた追加はなく、指示もそれ以上具体的にはならない。Qはこの形式を、これまで扱ってきた匿流案件のいくつかで見てきた。何を目立たせるのか、誰に向けてなのか、そこまでは一切書かれていなかった。

「『例のとこ』というのは」

「前に一回だけ、下見に連れて行かれた場所」

「誰に連れて行かれましたか」

「知らない人。顔も、声も、あんまり覚えてない」

「怖くはなかったですか」

「別に。前も、何もなかったから」

指示文には、誰かを傷つけろとも、何かを奪えとも書かれていなかった。「目立つこと」――それだけが、指示された行動の中身のすべてだった。殺意どころか、標的にあたる言葉すら、文面のどこにも存在しない。

「その日、その時間に、何が通ることになっていたか、知っていましたか」

少女はわずかに首をかしげた。

「何が、って」

「大統領の車列です。その日、その時間に、その場所を通る予定でした」

「知らない。テレビとか、あんまり見ないから」

「沿道の警備が、いつもよりずっと厳しくなっていたことは」

「別に、いつもと変わらないと思ってた……人が多いなあ、とは思ったけど」

「規制線とか、警察の数が増えていたのは」

「工事かなんかだと思ってた。よく分かんない」

質問を重ねても、返ってくる答えの質は変わらなかった。メッセージの文面――日付、時刻、場所――は一字一句、聞かれる前から淀みなく再現できるのに、その日にそこで何が起きる予定だったのかという、指示の外側にある事実には、最後までまるで触れていない。金額と、待ち合わせに使ったアプリの操作手順は、正確に答える。だが「なぜその日なのか」「なぜその場所なのか」という問いには、答えが用意されていなかった。付添人が一度だけ、少女の側に体をかたむけて何か囁いたが、少女は首を振っただけだった。Qは供述調書の余白に「指示内容の再現精度と、背景事実の理解との間に著しい差」とだけ書き留めた。それ以上の言葉は、書かなかった。

弁解録取の最後、Qは供述調書の動機欄を前にした。定型の書式には「犯行に至った経緯及び動機」という項目が、あらかじめ罫線で区切られて印刷されている。分類の選択肢として、欄外に小さく「怨恨」「利欲」「激情」「思想的動機」という四つの語が参考として添えられていた。この欄は、恨みや金銭欲、あるいは政治的な主張といった、書き手があらかじめ想定できる範囲の動機を前提に作られていた。

「なんで、あの日、あそこで、目立とうと思ったんですか」

「お金、要ったから」

「それだけですか」

「それだけ」

即答だった。迷いも、取り繕いもない。Qは欄を見つめたまま、しばらくペンを動かさなかった。四つの選択肢のどれにも、丸をつける場所がなかった。この欄が想定している種類の動機を、目の前の少女は持っていない。あるとすれば、四百二十円という所持金の数字と、三万円という前金の数字――その差だけだった。Qは結局、欄に「特段の政治的・思想的動機は認められず、金銭目的による短絡的な行動と認める」とだけ書いた。書きながら、この一文もまた、欄の外側にあるものを何一つ説明していないことに、Qは気づいていた。

取調べの合間、Qは端末で、来日警備の準備段階に集めていた警戒情報の一覧を呼び出した。四日前、経由部署の欄が空白のまま紛れ込んでいた一件――「魔法少女による襲撃の可能性」とだけ記された、出所不明の警戒情報。あのときは座標も、報告者名も、根拠となる資機材の記載もないまま、「確認中」のタグをつけて棚に上げるしかなかった。今夜、目の前で完結した事件と重ね合わせれば、内容そのものは正しかったことになる。ただし、正しかったことと、それが誰の意図によるものかは、まったく別の問題だった。Qはそのファイルのタグを「確認中」から「事実関係、一部符合」に書き換え、保存し直した。書き換えた後も、経由部署の欄はやはり空白のままだった。

匿流の実行犯と、目の前の少女の立場は、ほとんど同じ形をしていた。指示を出す者の顔は見えず、報酬は前払いで、失敗しても追加の指示は来ない。使い捨てにされることと、使い捨てにされていると自覚することの間には、まだ距離がある。少女はまだ、自分が何に使われたのかを、言葉にできていなかった。

決済端末の入金履歴を、Qは画面上で遡った。三万円の送金元を示すIDは十六桁の英数字――その末尾三桁だけが、他の桁とは明らかに異なる筆致で振られたように見える数字だった。Qは端末をノートパソコンに接続し、押収済みの証拠品データベースを開く。湾岸の物流倉庫から押収した帳簿、十一月二十六日の欄に記されていた文字列を呼び出し、画面上に二つを並べて置いた。

末尾の三桁――そこに現れる規則性は、同じだった。直前の桁に記された数字に、一定の値を加えた形になっている。倉庫の帳簿では意味を持たないまま「確認中」のタグをつけて棚に上げた符号が、今夜、別の送金履歴の中に、同じ形をとって現れていた。

「偽の赤の件、これで分離できた」

Qは、あの晩と同じ台詞を、今度は誰に向けたものでもなく呟いた。分離できたはずのものが、今夜また同じ符号を運んできた以上、その先に続く言葉も、あの晩と同じにならざるを得ない。

「……分離できたことに、しておく」

言い直して、ウィンドウを閉じる。分離できたという確認と、分離できたことにしておくという保留は、似ているようでいて別のものだった――あの晩、Q自身がそう区別したとおりに。Qは新しいウィンドウを開き、二つの符号の画像を並べて保存した。ファイル名には「要再確認・符号照合」とだけ打つ。今回もまた、その記録自体は記録しない。名前のつかない棚に、また一枚、薄い紙が積まれた。

取調べの終了時刻を記録簿に書き込み、録音録画機材のランプが消えるのを、Qは最後まで見届けた。少女は付添人に伴われ、椅子から立ち上がる。手首のテープが、蛍光灯の光を受けて一瞬だけ白く光った。取調室の壁の時計は、日付が変わるまで、あと四十分を示していた。

 

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