アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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11.ロール・ブルー-L'Heure Bleue-

十二月十八日、午前六時前。池袋、親の名義のままの2DKで、キヅキは目が覚めきる前にスマートフォンへ手を伸ばした。指が覚えている動作だった――数字を見るより先に、通知の数を見る。今朝は、その桁がいつもと違っていた。カーテンの隙間から入る光はまだ夜の色を残していて、暖房の効きの悪い部屋の中、布団の外に出した指先だけが先に冷えていく。

一番上に来ていたのは、いつも使う配信アプリの速報枠だった。「警視庁、特殊な能力を持つとされる人物複数名に任意出頭を要請」。見出しの下、リンク先の全文は、驚くほど短かった。

「警視庁刑事部捜査一課は、十二月十七日に発信された米軍施設関連資機材の持ち出し及び政府への威迫を示唆する一連の投稿について、関与が疑われる人物複数名の特定に至った。該当者には、最寄りの警察署または当課への任意出頭を求める」

固有名詞は、どこにもなかった。年齢も、性別も、色も。ただ「複数名」とだけ。それでも同じ画面の下、界隈の掲示板ではもう色の名前が並び始めていた。数字の羅列だけの匿名アカウントが、投稿時刻を見る限り公式発表より十分近く早く、四色を名指ししていた。「赤緑黄紫、名指しされたってマジ?」「桃は入ってないっぽい」「情報古いかも、消される前にスクショ推奨」――返信欄には、確証のない推測と、確証のなさを気にしない拡散だけが積み重なっていく。キヅキはその流れを、いつもなら自分から作る側にいた。今朝は、画面をスクロールする指だけが動き、言葉は一つも足さなかった。

七時を過ぎる頃には、街の側でも同じ発表が別の形をとって現れていた。豊島区内の交番には「特別手配に関するお知らせ」という文字だけの紙が一枚貼られ、渋谷のスクランブル交差点の街頭ビジョンには、正午のニュースの帯に「複数名に出頭要請」という文字が流れる。原稿を読むアナウンサーの声には、いつもと変わらない抑揚のなさがあった。専門チャンネルの下段テロップだけが、五分おきに同じ文言を律儀に繰り返し続けていた。近くのコンビニの棚上のテレビでも同じ映像が流れていたが、レジに並ぶ客の誰も足を止めない。駅の発車案内の上に張り出された号外の見出しも、通り過ぎる人波の速度をわずかにも変えなかった。

その同じ紙を、モリヤマ・ミドリは自転車置き場の脇の掲示板で見た。貼り替えの途中だった巡査が、振り返りもせず作業を続けている。ミドリは自転車を押したまま、しばらくその場を動かなかった。

界隈の年少の子たちのうち、今も定期的に顔を出すのは五人ほどだった。一番下は中学一年、一番上でもまだ十五歳。公園の奥のベンチ――背後が植え込みで前方からしか人が来ない、あの位置――に誰かが座っていれば、それだけで今日は大丈夫だと思える子たちがいる。いつからか、その子たちはミドリのことを「ここにいて」の人と呼ぶようになっていた。もし今日、緑の輪郭が消えれば、あの子たちは自分で行き場所を探さなければならなくなる。探す途中で、網に引っかかる子が出るかもしれない。「ここにいて」と言ってきた自分だけが、外に出ていく――ミドリの中で、その順番だけが、迷う余地なく正しく思えた。

段取りは、それほど時間をかけずに決まった。ミドリは公衆電話を探し、界隈の掲示板を管理している年長の男の子一人にだけ連絡を入れる。

「明日から、しばらく行けない」

「え、なんで」

「行かなきゃいけないところがあるだけ。ベンチのこと、頼める?」

男の子は数秒黙ってから、「……分かった」とだけ答えた。理由を重ねて聞かなかったのは、界隈の暗黙のルールに従っただけかもしれないし、聞かない方がいいと察したのかもしれない――ミドリにはどちらか分からなかった。行き先は、最寄りではなく巣鴨警察署――顔を知られていない方を選んだ。持っていくものは、図書館利用カードと、小さく折りたたんだ千円札が数枚、それに水筒だけ。制服は着ない。目立たない色の私服のまま、午後には出る。

一方、キヅキは違う結論に達していた。

いつもなら、通知が鳴るたびに画面を開く。数字が動くたびに、その理由を追いかける。十六歳からずっと続けてきた朝の手順だった。今朝、キヅキは配信アプリのアイコンを一つずつ長押しし、通知だけを切っていく。アカウントは消さない――消せば、後で戻れなくなる気がした。ただ、誰にも見つからない場所へ動く準備だけを、静かに始める。

リビングの奥、押し入れにはまだ開けていない段ボールが積んだままになっている。親の教団の会合用に借りていた部屋だから、荷物の大半は自分のものではない。今朝も、隣の部屋からは物音一つしなかった。出がけに声をかけるかどうか、キヅキは数秒だけ迷い、結局何も言わずに玄関を出た。話しても「うん」で終わる話題にしかならない。それなら、話さない方が早い。

行き先は、池袋西口の裏手にある二十四時間営業のカラオケ店。窓のない個室を指定できる、これまでも声を出さなくていい場所として使ってきた店だった。今日から先は、声を出さないためではなく、姿を映さないために使う。荷物は最小限――充電器、現金三万円弱、着替え一組。スマートフォンの電源は、店に入ってから切る。拡散させる側の人間が、拡散されないことにこれまでの手順のすべてを使う――反逆の準備は、そういう地味な形をしていた。

出発の前、キヅキはミドリにだけ一通、メッセージを送った。

「そっちどうする」

返信は数分後に来た。

「出る」

「え」

「界隈の子ら、巻き込みたくない。それだけ」

「そか」

「そっちは」

「潜る。声、しばらく出さない」

それ以上、お互い何も聞かなかった。「気をつけて」の一言さえ、どちらからも来なかった。言えば、次にまた会えることが前提になってしまう気がした。

同じ日の午後、赤い光の記憶を持たない身体は、渋谷のガード下でその紙を見た。壁の掲示板に貼られたばかりの手配書は、四枠が写真つき、色の名前は伏せたまま「対象A」から「対象D」までの記号で並んでいる。そのうちの一枚、「対象A」の輪郭が、自分によく似た顔をしていた。近くを通る通行人の何人かが足を止め、スマートフォンで写真を撮っていく。カノンは足を止めなかった。歩幅も変えないまま、紙の前を通り過ぎる。

「まあいいか」

声に出すというより、息に混ぜて言った程度だった。生前のカノンなら、この紙の前で一拍だけ足が乱れたはずだった。今のカノンには、その一拍がない。ただ、いつもと同じ速度で、いつもと同じ方向へ歩いていくだけだった。

同じ頃、フジサキ・ユカリは東和新聞ビルに近い喫茶店の窓際で、冷めかけたコーヒーを前に、一本の連絡を受け取っていた。画面に浮かんだ文字は短い。

「あなたは、袖にいらして。幕が落ちる時、わたくしの側に」

ユカリは文面を二度読み返してから、既読だけをつけて、返信は打たなかった。誰かに使われる位置に立つことを、以前の自分なら鋭く拒んでいたはずだった。今は、拒む理由より先に、拒まない理由の方が具体的に思い浮かぶ。手配リストの中に、自分の色が一つも入っていないことにも気づく。安堵とは呼べない、名前のつかない感触だけが残った。

半年に満たない間だけ存在した緩い一致は、この日をもって形を失った。誰も解散を宣言せず、誰も見送りの言葉を口にしないまま、それぞれの理由で、それぞれの方角へ動き出しただけだった。

この手配リストの処理は、合同庁舎の広報担当部署でも進められていた。四枠はすでに写真つきで入稿を終え、印刷所への発注番号まで振られている。残る一枠――桃――だけが、まだ埋まらないままだった。色の指定は決まっているのに、貼るはずの写真が、何度差し替えても像を結ばない。担当者が三度試みた顔写真は、いずれも輪郭の縁がにじんだまま焦点を結ばず、システムのプレビュー画面には赤い「表示エラー・コード07E」の文字だけが浮かんだ。名前の表記も定まらない――ローマ字表記の候補が二つ並んだまま、どちらも確定にできずにいる。

担当者は三度目のエラーで小さく息を吐き、隣の席に「これ、データが壊れてるっぽいんですけど」と声をかけたが、返ってきたのは「後で見とく」という気のない返事だけだった。結局この一枠だけ発出を保留し、決裁書類の余白に「データ不備のため、別途処理」と一行書き添えて、未処理の箱へ戻す。他の四枠がすでに発出済みである以上、この一枠の遅れは、単なる事務処理上の遅延としてしか扱われなかった。

日が落ちる頃には、四つの輪郭はそれぞれ違う方角に散っていた。ミドリは警察署の受付へ続く自動ドアの前に立ち、ガラスに映る自分の顔を一度だけ見てから中へ入った。受付の当番が顔を上げ、「ご用件は」と定型の言葉をかける。キヅキはカラオケ店の受付で偽名を使い、窓のない個室の鍵を受け取った。会計はすべて現金、会員登録の欄には適当な生年月日を書き入れる。カノンは渋谷の雑踏に紛れたまま、いつもと同じ速度で歩き続けていた。ユカリは喫茶店の窓越しに、東和新聞ビルの明かりを見上げ、冷めきったコーヒーの最後の一口を飲み干した。

冬の街を彩るイルミネーションの光だけが、四つの方角のどこにも変わらず届いていた。街を歩く誰も、今日この街から四人が消えたことに気づかないまま、いつも通りの速度で年末へ向かっていく。

 

 


 

 

十二月に入ってから、サクラとタマの日々には、はっきりした境目がなくなっていた。教会の朝の炊き出しに並ぶ日、駅ビルの通用口が開いている時間帯に座り込む日、コインランドリーの奥で乾燥機の温風に当たりながら夜を明かす日――タマの教えてくれる場所を、順番も決めずに渡り歩いた。炊き出しの列に並んだ回数は、数えていたわけではないが、たぶんもう十回は超えている。今日が何日で何曜日なのか、指を折って数えようとしても、途中でどこかの日を二重に数えてしまい、いつも合わなくなった。雨はもうほとんど降らない。かわりに空気が乾いて、吐く息が白く残るようになっている。

十二月十八日、日が落ちてしばらく経った頃だった。大久保の教会の前、炊き出しの列に並んでいたサクラの隣で、順番を終えたばかりの年配の男が、丸めた夕刊紙をベンチの上に置いたまま列を離れていった。列には、いつもより少し多い十五、六人が並んでいる。鍋から立つ湯気の匂いと、紙コップにスープを注ぐ音を背に、サクラは何気なくその紙を手に取った。インクの匂いがまだ新しい、薄い紙面だった。一面は与党内の人事に関する記事、三面は年末ジャンボ宝くじの当せん番号案内――日常の続きの中に、その記事は挟まっていた。社会面の下段、見出しの活字は他の記事より一回り小さい。「特殊能力保持者複数名に特別手配 都内で警戒強化」。本文はわずか五行だった。「警視庁は十七日、一連の投稿に関与したとみられる複数の人物について、身柄の確保に向けた特別手配に踏み切った。対象者の身元は依然不明だが、いずれも通常の身体能力を超える特異な力を有するとされ、捜査本部は目撃情報の提供を呼びかけている」。文末には、配信元を示す小さな符牒が一つ並んでいるだけで、写真も名前もなかった。それでも、紙を持つ指先が、いつのまにか紙の端を強く握りすぎて白くなっていることに、サクラは少し遅れて気づいた。

紙をベンチに戻さず、四つに折ってポケットに押し込む。タマは少し離れたところで、炊き出しの匂いを名残惜しそうに嗅いでいたが、サクラが黙って列を離れると、すぐに小走りで追いついてきた。

「サクラ、まだ並んどったのに。今日はコロッケパンやったのに」

返事はしなかった。足は、迷わず同じ方角へ向かっていた。大久保通りを西へ、職安通りに折れて明治通りに出る。ひと月足らず前と同じ道順を、今度は迷いなく、最短の速さで辿っていく。あの夜は雨で、傘のない肩に水が重く貼りついていたが、今夜は乾いた冷気だけが頬を刺した。参宮橋のガードをくぐる頃には、息が浅く速くなっていることに気づいた。走ってはいない。それでも呼吸が、歩幅に追いついていなかった。公園に着いた頃には、夜はとうに更けている。遠くのイルミネーションの光が街路樹の梢を包んでいるが、この植え込みの奥までは届かない。サクラはベンチには近づかず、四阿の下で足を止めた。柱に施された朱色の塗装、屋根裏の蜘蛛の巣――ひと月前、初めて仕組みの話を聞いた、同じ場所だった。後ろをついてきたタマを、振り返って見下ろす。座って待つつもりはなかった。

胸の奥で、何かがまだ言葉になりきっていなかった。ポケットの中の夕刊紙が、歩くたびに折り目の角で腿を突く。その硬さだけが、今のサクラにとって、いちばん確かな手がかりだった。喉が渇いている。息を一つ吸って、白く長く吐き出す。吐いた息が街灯の光の中でしばらく形を保ってから、ゆっくりとほどけて消えた。

「打ち切りって、何」

低い声だった。タマが答えるより先に、サクラは続けた。

「打ち切られたら、どうなるの」

タマは、すぐには答えなかった。いつもなら、問われた瞬間には言葉がもう滑り出てくる。世話焼きの相槌も、数字の話も、間を置かずに続くのが、このタマの話し方だった。今は違う。丸い目が、街灯の光の輪の外で、サクラの顔を見上げたまま止まっている。前足の先が、意味もなく地面を二度、三度と掻いた。答えを探しているのではなく、その答えを今ここで渡していいものかどうかを、量っているような沈黙だった。

「……あの子のことやろ。藍色の」

タマが、ようやく口を開いた。関西弁の抑揚が、いつもよりずっと平たくなっている。

「あんたが、ずっと訊きたかったん」

サクラは答えなかった。答える必要がなかった。

「もう、ほとんど、おらんのや」

短い一言だった。タマはそれだけ言って、また口をつぐんだ。

「おらんって……死んだ、ってこと?」

「違う。せやったら、話はまだ簡単やったんやけどな」

タマは、前足の爪先で地面に小さな輪を描くようにしながら続けた。

「残っとるとこは、あるにはあるんや。あんたら魔法少女の記憶の中と、K機関はんのデータベースの中とにだけ、な。K機関はんのほうは、名前やのうて、整理番号だけで残っとるらしいで。ワシも、詳しい仕組みまでは知らんけどな。せやけど、それ以外の場所からは、もう」

「それ以外って」

「記録。痕跡。家族の記憶」

タマは、一つずつ数えるように区切って言った。

「新聞にも、卒業アルバムにも、あの子のことは、もう載ってへん。家族が思い出そうとしても、顔の輪郭からして出てこうへんはずや。数字を産まんようになったもんの行き着く先は、死ぬことと違うんや。最初から、おらんかったことに、なることやねん」

サクラの中で、いくつかの記憶が同時に立ち上がった。傘。透明のビニール傘、柄のシールが半分剥がれたもの。手紙。ノートの切れ端に、藍色のインクで四行だけ。この公園、あのベンチ、十メートルの距離――どれも、サクラの側にはまだ、確かな輪郭を持って残っている。だが、それを確かめる相手が、もうこの世のどこにもいない。傘立ての奥に挿さっているはずのあの傘を、今このまま持ち帰って誰かに見せたところで、「これは誰の傘」と聞かれたら、答えられるのは自分だけになる。物は、たしかにまだそこにある。ただ、その物と、それを持っていた誰かとを繋いでいた糸のほうが、名前より先に、迷子のように抜け落ちていく。

タマは、サクラの沈黙を挟んで、耳の付け根に前足をそっと当てた。ひと月前、丸いメーターがあると示したのと、同じ場所だった。目を閉じ、何かを探るような間があってから、また開ける。

「……あかんな。何にも、引っかからへんわ。名前でも、学籍でも、家族構成でも」

「死ぬんとは、違うの」

サクラが訊くと、タマは小さく首を横に振った。

「死ぬんは、まだ優しいほうやで。お墓があって、命日があって、誰かが線香の一本もあげてくれる。せやけど打ち切りは、そういうのとも、また違うんや」

タマは、少し間を置いてから続けた。

「棚から下ろされて、伝票からも消えて、倉庫のどこにあるかも、誰も控えとらんようになる。まだどっかには、あるんやで、たぶんな。せやけど、探しに行く人間が、もう誰も、おらんようになってまうんや」

軽い口調だった。商売の言葉で、事もなげに言われたその比喩の危うさに、サクラは背筋の冷たさを覚えた。棚、伝票、倉庫。誰かが生きて、笑って、傘を貸してくれたことが、そんな言葉で片づけられていく。

「……お墓も、ないの」

声が、掠れた。タマは、少し困ったように、前足で自分の鼻先を掻いた。

「お墓、いう発想そのものが、多分もう、要らんことになってもうてるんやと思う。お墓を立てるんは、覚えとる誰かがおるからやろ。覚えとる誰かがおらんかったら、立てる理由も、消えてまうんや」

覚えている誰か。サクラは、その言葉を口の中で繰り返した。自分は、まだ覚えている。だが、それがいつまで続くのか、確かめる術がなかった。

タマは、そこでもう一度、サクラの顔を見上げた。

「な、サクラ。あんたにも、心当たり、あるんと違うか」

「……何が」

「あんたの前の話も、もう、打ち切られとるんや」

サクラは、息を止めた。

「名前も、顔も、通うてた学校の名前も――あんたの中で白いままのやつ、全部な。あれは、忘れたんと違う。打ち切られたんや。あんたが今の話に配役される前の話が、丸ごと」

同じ現象の、別の現れだった。夕食の時刻や、風呂の順番や、信号を渡る十七歩だけが、なぜか鮮明に残っていて、名前だけが最初に白く抜け落ちていた、あの空白――物の記憶は残っているのに、それを名指す言葉のほうが先に消えていくという、あの手触り。今、目の前で語られているのは、その先だった。名前が消えるだけでは終わらない。物と物とを繋ぐ糸ごと、いずれ誰かの手で棚から下ろされていく。自分もまた、その途中にいるだけなのかもしれなかった。

――向こう。

言おうとして、喉の途中で止まった。今夜は、届く先の感触が消えているからではなかった。言葉の形は、ちゃんとある。ただ、その言葉を投げる先が、今、初めてはっきりと像を結んでしまったからだった。ワタシがずっと話しかけてきた「向こう」――数字を見ている誰か。それは、アオイを棚から下ろした側の、同じ誰かなのだろうか。向こう、と、数字、という二つの言葉が、サクラの中で初めて、同じ一点を指して重なった。重なった瞬間、指先の感覚が、雨の夜と同じくらい遠のいた。声に出す前に、サクラはその言葉を、もう一度喉の奥に押し戻した。

「なんで」

かすれた声で、サクラは訊いた。

「なんで、そんな決まりになってるの」

タマは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を傾げた。

「ワシもようわからん」

雨の夜、四阿の下で聞いたのと、同じ答えだった。だが今夜のそれは、あの夜よりもずっと重い。地図は全部渡された。委員会も、プロバイダーも、リソースも、トラヒックも、固有名詞のまま、もう何度も聞かされた。それでも、いちばん知りたかったことの答えだけが、いつも同じ場所で止まる。いちばん多くを語れるタマが、いちばん浅いところで、何度でも立ち止まる。

「前に、似たようなことがあったって、言ってたよね」

サクラは、雨の夜の四阿でのやり取りを思い出しながら訊いた。

「ワシの、隣で聞こえとった子のことか」

タマは、耳を少し伏せた。

「あの子も、同じや。声が、ある晩からふっと聞こえんようになって、それきりや。今、あんたに話したんと、同じことが、あの子にも、起きとったんやと思う」

タマはそれ以上、何も言わなかった。ただ、丸い目の中の光が、心なしか、いつもより弱く見えた。

「せやけど、な」

タマは、いつもの調子を無理に取り戻そうとするように続けた。

「ワシは、ちゃんとおるで。今んとこは」

慰めにも、脅しにも聞こえる一言だった。サクラは、それに答えなかった。

タマは、それ以上何も言わなかった。サクラも、何も言わなかった。四阿の屋根の下、街灯の白い光の輪の外側に、二つの輪郭が、少し距離を置いたまま立っていた。近づくでもなく、離れるでもない。遠くで、始発にはまだ早い時間の、無人の踏切が一度だけ鳴って、止んだ。

 

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