アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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8.バイ・ザ・ファイアプレイス-By the Fireplace-

 土曜日の午後二時過ぎに、アオイは×××××を連れて歩き始めた。

 連れて、というのが正確かどうかは分からなかった。「来る?」と聞かれたわけでもなかった。アオイが公園のベンチから立ち上がって、歩き出したから、×××××もそのあとに続いた——それだけのことだった。どこへ、とも聞かなかった。聞いて答えが返ってくる相手だとは、この三週間で分かっていた。

 渋谷はその時間、腹のあたりから込んでいた。

 人の密度、というものが場所によって違う。センター街の奥はすれ違うたびに肩が触れた。ハチ公前は誰かに呼ばれた犬みたいに人が溜まっていた。でもアオイが連れていった場所はそのどちらでもなくて、表通りから少しだけ外れた——人の流れが本流から分岐したあとに細くなっていくような、日の当たり方が本流と微妙に違う、そういう場所だった。

 「界隈って、ここのことを言う?」

 ×××××は歩きながら聞いた。聞いてから、聞き方が雑だったかもしれないと思った。でも聞き直す前にアオイが答えた。

 「ここも、向こうも、どっちも」

 言いながら顎で示した方向には、道端のガードレールにもたれた三人組が見えた。高校生か、それより少し上か——判断がつかない年齢の、女の子が二人と男の子が一人。スマートフォンを各自で眺めていた。眺めながら、ときどき一人が声を出して笑って、他の二人が反応しないまま各自の画面を見続けた。

 「あの人たちも?」

 「どうだろ。通りすがりかも」

 アオイは速度を変えずに歩いた。三人組のそばを通り過ぎるとき、目が合いそうになったが合わなかった。三人とも自分たちを見なかった——×××××のほうを見なかった、という意味ではなく、三人のそれぞれが自分のスマートフォンと今この瞬間の現実の、どちらの側に重心を置いているのか判断しかねるような目をしていた。

 「通りすがりと、そうじゃない子の、違いは何?」

 「いる時間」

 短い答えだった。

 「一日いるのと、二日いるのと、一週間いるのと。それが積み重なると、何かが変わる」

 「何が変わるの?」

 「電話番号を交換する相手ができる。缶コーヒーをもらう、とか。あそこのコンビニのトイレを使うなら奥の個室のほうがいい、とかを教えてもらう」

 インフラ、とは言わなかった。アオイは言葉の選び方が面倒くさそうで——面倒くさそう、というのは投げやりではなくて、使うべきでない言葉を使いたくない、というような慎重さが出る感じだった。

 

 コンビニの前で、アオイが立ち止まった。

 緑色の——厳密には柄のシャツの緑が目立つ——少女が、コンビニの袋を両手に持って、出口の引き戸の前に立っていた。立ち止まっている、というより、次にどこへ向かうかを考えているような、考えてはいるが答えが出ていないような——そういう立ち方だった。

 袋の中は、食品のようだった。ペットボトルの首の形がひとつ浮き出ていた。

 少女が顔を上げた。アオイを見た。アオイを見て、×××××を見た。×××××を見る目が一瞬だけ止まって、それからアオイに戻った。

 「今日は雨になる?」

 少女が聞いた。聞き方が独特だった——天気予報を尋ねているような、でも本当に聞きたいのがそれかどうか確かでないような。

 「さあ」アオイが言った。「傘は持ってる?」

 「ない」

 「じゃあ、雨になったらそこの軒下」

 少女が小さく頷いた。軒下、と言われた方向を見て、確認して、また頷いた。

 「……あの子、誰?」と×××××は聞いた。聞いてから、小声にすればよかったと気づいた。でももう届いていた。少女は気にした様子がなかった——というより、自分について話されていることに対して特定の反応を持っていなかった。

 「この辺によくいる」

 「名前は?」

 「聞いてない」

 アオイがまた歩き始めた。×××××はついて行きながら、振り返って少女を見た。少女はまた出口の引き戸の前に立って、さっきと同じ姿勢で次の行き先を考えていた。袋が、少し傾いた。

 

 

 センター街の端の、人通りが束になって曲がっていく角を避けた路地で、今度は声が聞こえた。

 女の子の声で、早口で、×××××には最初、それが電話かリール動画の音声か区別がつかなかった。

 でも笑い声が連続して出て、相手の声がない——一方的に話している——と分かった。

 黄色いアクセサリーが何個もついたカーディガン。声の主は、路地のカーブの先にいた。スマートフォンを横にして、画面をほぼ体の正面に向けて、歩きながら話していた。歩きながら、画面を見ながら、笑いながら話していた。

 「あれ、ライブ配信してる」

 ×××××が気づくより前に、アオイが言った。

 「……見てる人、いるの?」

 「さあ。いると思う。ああいうのは、必ずいる」

 「あの子も、ここにいる子?」

 「たぶん」

 たぶん、だった。確認する素振りはなかった。声の方向に近づく素振りもなかった。アオイは歩きながら、ライブ配信をしている少女がいる側とは反対の壁寄りを通った。壁は古いビルの外壁で、目地の汚れが雨の筋になっていた。

 ×××××は壁と少女の中間を通りながら、横目でライブ画面を一瞬見た。画面の隅に数字が出ていた。小さい数字だった——何人が見ているのかを示していると気づいたのは、路地を抜けてからだった。

 

 センター街の端の、人通りが束になって曲がっていく角を避けた路地で、今度は声が聞こえた。

 女の子の声で、早口で、×××××には最初、それが電話かリール動画の音声か区別がつかなかった。

 でも笑い声が連続して出て、相手の声がない——一方的に話している——と分かった。

 黄色いアクセサリーが何個もついたカーディガン。声の主は、路地のカーブの先にいた。スマートフォンを横にして、画面をほぼ体の正面に向けて、歩きながら話していた。歩きながら、画面を見ながら、笑いながら話していた。

 「あれ、ライブ配信してる」

 ×××××が気づくより前に、アオイが言った。

 「……見てる人、いるの?」

 「さあ。いると思う。ああいうのは、必ずいる」

 「あの子も、ここにいる子?」

 「たぶん」

 たぶん、だった。確認する素振りはなかった。声の方向に近づく素振りもなかった。アオイは歩きながら、ライブ配信をしている少女がいる側とは反対の壁寄りを通った。壁は古いビルの外壁で、目地の汚れが雨の筋になっていた。

 ×××××は壁と少女の中間を通りながら、横目でライブ画面を一瞬見た。画面の隅に数字が出ていた。小さい数字だった——何人が見ているのかを示していると気づいたのは、路地を抜けてからだった。

 

 

 自販機の前のベンチに、二人で座った。

 アオイが缶の炭酸水を買って、×××××に聞かないで渡した。いらなかったわけでも、欲しかったわけでもなかったが、受け取った。冷たかった。

 「ここにいる子たちって」×××××は少し考えてから言った。「みんな、家に帰れないの?」

 アオイが缶を開ける音がした。

 「そうとは限らない」

 「帰れるのに、ここにいる子もいる?」

 「いる。帰れるかどうかと、帰るかどうかは別のことだから」

 ×××××は炭酸水の缶を手の中で少し回した。印刷の模様が手のひらの上を滑った。

 「でも、ここにいる理由はそれぞれ違う、って言ってたじゃないですか。共通してるのは、別の場所に居場所がないってこと、って」

 「うん」

 「アオイさんも?」

 少しの間があった。長くはなかった——二秒か三秒。アオイが炭酸水を飲んで、喉が動く音がした。

 「……まあ」

 「まあ、って」

 「学校には行けてない。家には帰ってる。でも帰ってる間ずっといられるかっていうと」

 そこで止まった。

 止まったのが「言いたくない」なのか「言い方が分からない」なのか、×××××には判断がつかなかった。判断しようとして——やめた。聞けば分かることかもしれないが、聞くべきかどうかが先に来た。来て、今日はやめた。

 風が路地の角から回ってきた。×××××は缶を持ったまま少し身体を縮めた。五月の終わりのくせに、日が陰るとまだ薄ら寒かった。

 

 

 帰りに、アオイが少しだけ続きを話した。

 続きというより、本題に近い話だった。自販機のベンチを離れて歩き始めてから、×××××が何も言わない間に、アオイが口を開いた。

 「誰かに追われてる子が多い」

 「追われてる?」

 「親だったり、学校だったり、もっと嫌な感じのやつだったり。理由はいろいろ。でも、ここに来てる時間は、その追い方が届かない」

 「届かないの?」

 「場所が分からなければ届かない。見つかるまでは」

 見つかるまでは、という言い方に、×××××は引っかかった。引っかかったが、整理できなかった。

 「で、見つかったら?」

 「引き戻される子もいる。そのまま行方が分からなくなる子もいる」

 「行方が分からなくなる、って」

 「ここじゃない別の界隈に行く場合が多い。あるいは、関係者が見つかって——いろんな形がある。全部を知ってるわけじゃないけど」

 「アオイさんは見つかったことある?」

 「ある」

 それだけ言って、アオイはイヤホンを片方だけ耳に入れた。会話を終わらせる動作ではなかった——ただ、続きを話す気分ではなくなった、という感じだった。

 ×××××はそれ以上聞かなかった。

 聞かなかったのは、聞けなかったのとは違った——今日は、これで十分だった。十分だと思ったのが自分でも少し不思議だったが、そう思ったのだから仕方がなかった。

 

 

 別れたのは、渋谷駅の前だった。

 アオイが「じゃあ」と言って、改札の方向へ歩き始めた。×××××は別の改札を使うから、反対方向に曲がった。

 角を曲がってから、さっき見た顔を順番に思い出した。

 コンビニの前の少女。袋の中のペットボトル。緑のシャツ。どこへ行くかを決められなかった立ち姿。

 ライブ配信しながら笑っていた声。画面の隅の小さい数字。

 壁際の紫のネイル。流れの向こうを見ている目。

 それぞれに、理由がある。

 アオイはそう言ったのではなかった——でも、そういう意味に聞こえた。それぞれが、それぞれの理由でここにいる。共通してるのは、別の場所に居場所がないってこと、とは言ったが、居場所がない、というのも全員が全員ではないらしかった。

 居場所があっても、ここにいる子がいる。

 ×××××はICカードを改札にかざしながら、それを確認した。

 確認して、少し変な気持ちがした。変な、というのが正確に何なのかは、言えなかった。少し前まで「ここにいる人たちは、自分とは違う世界の人だ」と思っていた。思っていたが——さっきコンビニの前で見た少女の、次の行き先を決められない立ち姿を思い出したとき、その「違う世界の人」という確信が、少しだけゆるんだ。

 ゆるんだのが正しいのかどうかも、判断できなかった。

 ただ、ゆるんだ。

 

 電車の中で、×××××は吊り革を持って窓の外を見た。

 地下区間で外は暗くて、窓はほぼ鏡になっていた。鏡の中に自分の顔が映っていた。顔を見ながら、今日見た顔の数を数えようとして、やめた。数を数えることに意味があるとは思えなかった。

 妖精が、あの子たちを見ているだろうか。

 唐突にそう思った。アオイのスマートフォンの中の声が、公園のベンチやコンビニの前や路地に集まる子どもたちを、何かの形で見ているかもしれない——という気がした。気がした、というのは気がしただけで、根拠はなかった。でも気がした。

 アオイが言っていた。妖精は、スマートフォンを通して、いろんなものを見てる、と。

 ×××××はウインドウの鏡に映った自分の顔を見た。

 自分の顔を、妖精が見ているかもしれない。

 見ているとして、何を確認しているのだろう。

 答えは出なかった。電車が地上に出て、窓の外に夕方の住宅街が見えた。鏡が消えて、自分の顔が消えた。その代わりに、傾いた電柱と、干しかけたまま回収されていない洗濯物と、スーパーの駐車場が流れていった。

 流れていく景色の中に、あの顔たちは、いなかった。

 あの子たちは今も渋谷にいるのか、帰ったのか、どこかの軒下にいるのか——分からなかった。

 分からないまま、電車は走った。

 

 


 

 

 夜の九時を過ぎると、公園の人の質が変わる。

 昼間の通行人が消え、夕方の散歩客が消え、残るのは座ったまま動かない人間だけになる。ベンチに、段差の縁に、自販機の背面の壁に。それぞれが適切な間隔を保ったまま、確かめたように離れて座っている。触れないための距離ではなく、それが自然だからそうなる距離だった。

 ×××××は公園の入り口に近い縁石に座っていた。アオイの隣に、けれどアオイとの間に半身ぶんの空白を残して。

 今日は家に帰ったはずだった。

 帰って、夕飯を食べて、風呂に入って——そういう手順になるはずだった。なのに東横線の改札口の前で、足が止まった。止まって、どれだけ立っていたのか分からないが、次に意識がはっきりしたとき×××××は改札とは反対の方向に歩いていた。向かった先がこの公園だったのは、考えてそうしたわけではなかった。

 アオイはすでにそこにいた。

 ×××××が縁石に座ると、アオイは特に何も言わなかった。来たこと、なぜ来たかを問うこともなかった。ただ、両耳にイヤホンを入れて、スマートフォンを膝の上に置いて、画面の明かりで照らされた顔を夜の空気に向けていた。

 話しているのだ、と分かった。

 唇が動いていた。音は漏れてこなかった——おそらくマイク機能のついたイヤホンを使っているから、声は全部チューブの向こうへ流れていく。×××××のいる場所には届かない。届かないのに、口の形だけが見えた。

 口の形を読もうとして、やめた。読めるものでもなかったし、読んでいいものでもないと思った。

 代わりに、顔を見た。

 表情が、変わっていた。

 変わっている、というのが正確かどうかは分からなかった。アオイの表情は普段から動きが少ない。動きが少ないものが、さらに少なくなる——それを「変わった」と言えるかどうか。でも×××××の目には、確かに違って見えた。

 日中、二人で渋谷を歩いていたとき——コンビニの前に立っていた緑のシャツの少女を見て、路地のライブ配信に気づいて、ドン・キホーテの前の紫のネイルを二秒だけ見て歩き去ったあの時間のアオイと、今のアオイは違った。

 今のアオイの顔は、柔らかかった。

 柔らかい。その言葉を頭の中で探し当てて、×××××は少し意外な気がした。アオイの顔が柔らかくなれるとは、今日の昼まで考えていなかった。

 ただ。

 同時に——目が、遠かった。

 柔らかく、かつ、遠い。その二つが矛盾せずに同居していた。遠い、というのは、視線の先に何もないという意味ではなく——視線の先が、ここではない、という意味だった。スマートフォンの画面を見ているのでもなく、公園の夜景を見ているのでもなく、もっと別の方向に向いているような。聴こえてくる声の、向こう側を見ているような。

 妖精と話しているとき、アオイはこういう顔をする。

 ×××××は縁石に座ったまま、その事実を確認した。確認して、足元の舗装の亀裂を見た。ひびは細く、横に走って、途中で二股に分かれていた。どちらの先も、暗くてよく見えなかった。

 どれくらいの時間が経ったか分からない。

 アオイが片方だけイヤホンを外した。

 

 「妖精がね」

 アオイが言ったのは、それだけ先だった。

 「あなたのことを聞いてきた」

 ×××××は顔を上げた。

 「え。私を?」

 「うん」

 「……なんで」

 「知らない。あの子は、が誰、って聞く。目に入ったものは全部そう聞く、と思ってたけど——」

 そこでアオイが少し止まった。止まり方が、考えているというより、言うかどうかを計っているような感じだった。

 「続けて何日か聞いてきてたから、気になってるのかもしれない」

 「……妖精には、見えてるの?私が」

 「たぶん」

 「どうやって?」

 アオイが膝の上のスマートフォンを、少しだけ持ち上げた。画面を見て、また膝の上に戻した。

 「このカメラを通して、らしい。いろんなものを見てる、って言ってた。どこまでが本当かは分からないけど」

 どこまでが本当かは分からない。

 その言い方が、×××××の頭の中でしばらく残った。アオイは妖精のことを話すとき、たまにそういう言い方をした。信じていない、という感じではなかった——信じているが、全部は信じていない、という感じ。その境界線がどこにあるのか、×××××には測れなかった。

 「じゃあ今も、見てる?」

 「聞いてみるか?」と言いながら、アオイはスマートフォンに目を落とした。落として、少し間を置いて、×××××のほうを見た。「やめとく」

 「なんで」

 「聞いたら確かめるとか確かめないとかじゃなくて、見てるってことになる気がするから」

 言葉の組み立てが少し歪んでいた——アオイが急いで考えた言い方だった。歪んでいたが、×××××には何となく分かった。確かめることで実在させる、という感触。見てるかどうか聞く行為自体が、見られているという事実を固定してしまう。

 ×××××はスマートフォンを持っていなかった。

 正確には、家にある——壊れたまま直していない。直していないから画面が割れたまま、割れたままだから使っていない、使っていないから持ち歩いていない。この三週間、アオイと話す時間が増えてからは、持っていないことが少しだけ不自由だと思った。緊急の連絡手段がない、という意味ではなく——もし自分もスマートフォンの画面の向こうに何かがいたなら、それは何だっただろうか、という想像を、手元に持てなかった。

 「私が見えてるとして」と×××××は言った。「妖精は、何のために見てるんだろう」

 アオイが答えなかった。

 答えないのを意図したのかどうか、最初は判断がつかなかった。でも数秒後に「分からない」と言った。言い方が、いつもより少し低かった。

 「怪人が出るのを教えてくれるのも、変身できるって教えてくれたのも、妖精が言ったことを信じたからで——でも何の目的でそうするのかを、直接は言わない。言わないし、聞いても答えが全部返ってくるとは思ってない」

 「聞いたことある?」

 「ある」

 「何て言った?」

 「——あなたを守るため、って」

 アオイの声に、何かが混じっていた。嘲りではなかった。罵倒でもなかった。もっと静かな何か——答えを受け取った当時に感じた気持ちが、時間を経て澱んで、言葉の底に沈殿しているような何か。

 「守るためって、信じた?」

 「信じたいとは思った」とアオイが言った。「思ったけど、信じる、とはちょっと違う」

 「どう違うの」

 「信じる、っていうのは、疑わない、ってことだと思うから。私はあの声を疑ってるから——信じたいとは思ってても、信じてることにはなれない」

 ×××××は縁石の上で少し膝を引き寄せた。夜の風が路地のほうから細く流れてきて、首のあたりに当たった。五月の夜はまだ薄ら寒かった。

 

 「なんか」と×××××は言った。

 言いながら、何を言おうとしているのかが、自分でもまだ分かっていなかった。

 「嫌だな、と思った」

 「何が」

 「妖精があなたのスマートフォンのカメラを通して私を見てるって、分かったとき」

 アオイが少しだけ×××××のほうを見た。見た、というのは顔の向きが変わった、という意味で——何かを確認しようとして顔を向けた、という感じではなかった。ただ見た。

 「どんな感じ?」とアオイが聞いた。

 「どんな感じ、って」

 「嫌だな、ってどんな感じで嫌なの」

 問い方が淡々としていた。責めているわけでも、試しているわけでもなかった。ただ聞いた。×××××はその問いの前で、自分の嫌だな、を言葉にしようとして——なかなかうまくいかなかった。

 「……見られてる、って感触が、気持ち悪い、という感じじゃなくて。なんか、数えられてる、みたいな」

 「数えられてる」

 「うん。記録されてる、と言えばよかったかもしれない。この日に公園に来た、この日もアオイさんの隣にいた、みたいな感じで——記録されることそのものが嫌なんじゃなくて、記録してるのが誰なのかが分からないのが嫌なのかもしれない」

 言い切ったところで、少し変な気がした。自分がうまく言えたのかどうか分からなかった。

 「妖精には、私を調べる理由が、何かあるのかな」

 アオイが答えるまでに、さっきより時間がかかった。

 「あるかもしれない」とアオイは言った。「……あったとして、それが何かは分からない。ただ——」

 「ただ?」

 「あなたを追いかけてくる理由がなければ、聞かない気はする」

 追いかけてくる、という言い方が引っかかった。引っかかったが、その言葉の正確な重さを測る時間が来る前に、自販機のランプが一度明滅した。虫が当たったのかもしれなかった。当たった虫はどこかに行って、ランプはまた元の明るさに戻った。

 「聞いていい?」

 「何を」

 「妖精は、最初からアオイさんのそばにいたの?」

 アオイが少し考えた。考えて、「最初から、の最初が何かによる」と言った。

 「ある日突然、来た。来たから最初がある。来る前は、いなかった」

 「来たとき、怖かった?」

 「怖くはなかった」

 「なんで」

 アオイが今度は長く黙った。

 黙っている間、×××××は待った。急かす気にはなれなかった——アオイが答えをどこかから引き上げようとしているのが、時間の重さから感じ取れた。

 「怖い気持ちになるためには」とアオイはゆっくり言った。「自分のいる場所が、守られてるっていう感覚がないといけない気がして。守られてない場所にいたら、さらに変なものが来ても、驚く余裕がない」

 ×××××は、それを聞いた。

 聞いて、何も言わなかった。言えなかった、というより——言う言葉を探す前に、アオイが続けた。

 「だから来たとき、声がした、と思っただけだった。怖いより先に、いるんだ、と思った。いるんだ、ってことが、なんでかよかった」

 よかった。

 その言葉が、×××××の中で少しだけ揺れた。

 よかった、と思えることが、なんでよかったのかを問い返す言葉を持っていなかった。でも、よかったと言ったアオイの声が今日聞いた中で一番静かだったことは、分かった。静かで——少し、遠かった。さっきの顔と同じ種類の遠さ。

 

 しばらく、話さなかった。

 沈黙は居心地の悪いものではなかった——二人がそれぞれ、それぞれの内側で何かを抱えているための静けさで、埋めなければいけないものではなかった。

 ×××××は自分の手のひらを見た。街灯の光が届く角度で見ると、薄く影が走っていた。指の骨の形ではなく、皮膚の折れ方の影だった。自分の手のひらに、こういう影がある、ということを、いつも確認できているわけではなかった。

 妖精が、これを見ているとしたら。

 手のひらの影まで見えるのか、というのが最初に来た思考で——見えないだろう、というのが次に来た。カメラの解像度はそこまで高くない。

 でも。

 今日、自分がここにいることは。

 アオイの隣に座って、改札に向かいそびれて、縁石に座っている、このことは——記録されているかもしれない。

 ×××××の中で、何かが静かに動いた。動いた、というより——動きに気づいた。皮膚感覚みたいなものだった。正体は分からない。ただ、さっきアオイに「嫌だな」と言った感触より、もう少し複雑な何かだった。

 嫌だ、とだけ言い切れない、何か。

 分からなかった。

 分からないまま、自販機が低い音を立てた。コンプレッサーが動いている音で、特に何も変わらなかった。アオイがイヤホンを片方また耳に入れた。妖精との話が続いているのかもしれなかった。

 ×××××は縁石に座ったまま、足を少し前に伸ばした。

 ちょうど良い角度で、遠くのビルの屋上に赤い点滅が見えた。航空障害灯だった。一定の間隔で、暗くなって、明るくなって、また暗くなる。どこかの屋上で、誰も見ていなくても、点滅し続ける。

 妖精は、あれも見ているのだろうか。

 答えのない問いを、頭の中に残したまま、×××××は点滅を数えた。一、二、三。一、二、三。数えながら、特に何かが分かるわけでもなかった。分からなくても、数えていた。

 隣でアオイの呼吸が、ゆっくり続いていた。

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