アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
十二月二十日、日付が変わって間もない時刻。大井町駅から徒歩十二分、月極ではなく日割りでも借りられるウィークリーマンションの一室に、アオネはいた。六畳一間、備え付けのユニットバスから、換気扇の低い音が絶えず漏れている。窓の外は隣の建物の非常階段しか見えず、街灯の色が磨りガラス越しに黄色くにじんでいた。室温は表示で十七度、暖房を入れる基準に自分の中で満たない。折りたたみ式のローテーブルが唯一の作業台で、壁際に積んだ段ボール箱の上に、プリントアウトした紙の束が三つ、輪ゴムで留めて並んでいる。偽の赤の出現座標、怒り係数の推移、東和新聞グループの発行部数と広告収入と政界接触頻度――どれも自分で集めた数字だった。部屋を借りるときの名義は、毎回違う。今回は三週間前から、一泊三千八百円の日割り契約でこの部屋を使っていた。契約更新は今日でちょうど三度目になる。
観測報告用の端末が、テーブルの上で短く振動した。K機関との契約に基づき支給された、報告専用のアプリだけが入った端末だった。画面に表示されたのは、今月分の対価――月額一万二千円――の入金予定通知。過去の通知履歴を遡ると、送金元の登録名はこれまで九回とも「捜査企画課」の四文字で固定されていた。だが今回だけ、金額の横にあるはずのその表示が、「(登録更新中)」という仮の文字列に変わっている。入金予定日は変わらず二十五日のまま表示されているが、送金元の名義が仮表示に切り替わるのは、契約以来はじめてのことだった。会計システムの側で、何かの手続きが先に動き始めている。公式な発表より先に、数字の裏側が動く――これはアオネにとって、めずらしい現象ではなかった。
もう一つの情報は、昨日のうちに街頭で確認済みだった。渋谷の交番の掲示板、新宿東口の街頭ビジョン――手配の顔写真が四方向に散っていくのを、アオネは自分の目で数えた。掲示は二箇所、街頭ビジョンでの露出は一時間あたり平均三回。青は含まれていない。含まれていないことも、計算の材料になる。手配されていない立場のまま、界隈全体が捜査線上に浮かび上がっている状況で観測を続けることの意味は、手配されている場合とは別の重みで検討する必要があった。
情報を並べる。手配の発出。会計システムの名義変更。この二つが同時に起きたということは、K機関という主体そのものが、近いうちに別の形へ組み替えられる可能性が高い。契約相手が消える、あるいは別の名前に変わる場合、三条件契約はその時点で自動的に効力を失う――契約書のどの条項にも、承継についての規定がないことを、アオネはすでに三度、読み返して確認していた。承継規定のない契約が、主体の消滅とともにどう扱われるか。その帰結は、K機関の側の裁量に委ねられており、こちらから確認する手段はない。アオネはノートの新しいページを開き、選択肢を三つ、縦に並べて書いた。
残留。協力。一時退場。
残留の期待値から検討する。今のまま観測業務を続けた場合、契約が新しい主体にそのまま引き継がれる確率は、過去に確認した行政組織の再編事例三件から見て、おおよそ六割から七割。残る三割から四割は、契約自体が白紙に戻る。加えて、界隈で手配が四方向に広がっている今、青として公の場に姿を見せ続けることには、任意の事情聴取に巻き込まれる確率が新たに乗る――直近二週間の手配関連の接触件数の増加率から、アオネはこれを二割前後と見積もった。二割という数字は、京浜島の強襲に観察参加した際の巻き込まれ確率(五分未満)と比べて、明らかに高い水準にある。期待値としては、悪くない数字ではある。だが下振れ側の幅が大きい。
協力の期待値。新体制の側から、観察のみではなく実働への参加を求められた場合を仮定する。対価は上がる可能性がある――報酬体系の一般的な上乗せ幅から見て、月額で二万円から三万円程度が相場だった。だがこれは契約第三条――組織不参加――に自ら反することを意味する。条件を破れば、これまで積み上げてきた「身分の保全」の実績そのものが無効になる。得られる上乗せよりも、失う土台のほうが大きい。数字にするまでもなく、この案は早い段階で除外された。
一時退場の期待値。対価は当面ゼロになる。潜伏の維持費は、この部屋のような日割りの部屋を渡り歩く前提で、一日あたりおよそ四千円。移動と通信費を加えると、実質は四千五百円前後になる。仮に二ヶ月潜伏すると仮定すれば、二十七万円前後の持ち出しになる計算だった。手元の残高――これまでの契約報酬と、それ以前から続けている数字整理の副業分――で、その期間は問題なく賄える。得られるものは、下振れの回避と、判断を先送りできる時間そのものだった。
三つを並べたとき、アオネの計算式の重心は、対価の金額ではなく、もう一段上にあった。私の目的は、今の構造を維持することです――これは自分自身に何度も言い聞かせてきた一文であり、今夜もそのまま当てはまる。維持すべき構造が、今まさに組み替えられようとしている局面で、組み替えの完了前に自分の観測点を外へ移しておくことは、構造そのものへの関与を保つための、最も合理的な一手だった。中に留まって巻き込まれることは、維持という目的にとって、むしろ遠回りになる。正しいかどうかは、この場では判断のしようがない。ただ、計算はできる。
結論は出た。一時退場。
書き置きは残さない。理由を書けば、それは追跡の手がかりになる。荷物の選別に取りかかる。プリントアウトの紙束は、三つとも別々のコンビニのゴミ箱に分けて捨てる――一箇所にまとめて捨てれば、内容の関連性が読み取られる可能性が残るからだった。輪ゴムは外し、紙は一枚ずつ数字の面を内側にして折る。折りたたみテーブルは持って出る。軽く、どこでも使える。衣類は圧縮袋に入れて、リュック一つに収まる分だけを残し、残りは古着回収ボックスへ。歯ブラシと充電器、契約書の控えを収めた薄いファイルだけは、リュックの内側の別区画に入れる。部屋の鍵は、契約書に記載された返却方法どおり、郵便受けに投函する。指紋を拭き取る手順は、テーブルの脚、ドアノブ、窓の桟、給湯器のスイッチの順で、いつも決まっている。三分十秒――拭き取りにかかる時間も、これまでの記録から、おおよその見当がついていた。
端末を開き、通信欄に文字を打ち込む。
「三条件契約(観察参加)、通知。第三条(組織不参加)は維持。第一条(身分の保全)・第二条(対価)の履行を、期間の定めなく中断する。解除ではない」
一度読み直し、送信ボタンの上で指を止める。中断と解除は、契約上まったく別の扱いになる。解除であれば、再開のためには新規の交渉が必要になる。中断であれば、条件が整った時点で、同じ契約書のまま戻ることができる――そのための一文だった。最後にもう一行だけ足す。
「再開の条件が整えば、戻ります。計算上」
送信を確認し、端末の電源を落とす。バッテリーを抜き、通信履歴を一度だけ消去する。この端末自体は、契約書に記載された返却方法に従って、後日、指定の私書箱へ郵送する予定だった。
ノートの最後のページ、これまで書き溜めてきた計算の続きに、もう一行だけ足す。第三の脅威――K機関でも魔法少女でもない、別の変数についての計算は、今夜も止めていない。東和新聞グループの評価点は、まだ収束していなかった。
「あちらの計算は、まだ合わない」
書いた文字の上に、ノートを閉じる。ノート自体は焼却も廃棄もしない――これだけは、どの部屋を渡り歩くときも必ず持っていく数少ない荷物だった。リュックを背負い、部屋の中を一周見渡す。忘れ物がないことを、視線で確認するだけで済ませる。ローテーブルの跡が、カーペットにうっすらと四角い凹みを残していた。それも、時間が経てば戻る程度の跡でしかない。灯りを消す。玄関に立ち、鍵を郵便受けに落とす金属音を背中で聞きながら、外に出る。
非常階段の踊り場から見下ろす路地に、人影はなかった。街灯の下を、白い息だけが一つ、二つと流れて消えていく。ドアが閉まる音は、いつもより少しだけ長く尾を引いた。蝶番の軋みが一度、二度。それから、静かになった。
十二月二十日、午前零時をもって、一件の訓令が施行された。標題は「対魔法少女事件特別捜査本部の設置について」。根拠条項は警視庁組織規則第十七条ノ二――特別の事案に対応するため必要があるときは、警視総監が臨時に捜査本部を設置できる、という一文だった。設置期間は「当分の間」とだけ記され、終期は書かれていない。K機関という名称は、この訓令のどこにも出てこない。これまでの正式名称であった捜査企画課特命班という表記も、同じだった。廃止される側の名前を一度も書かないまま、新しい名前だけが発令文の中に立ち上がっている。
Qの官給端末に届いた通知メールには、人員の発令一覧が別紙で添付されていた。本部長・警視一名(勝京一郎)、捜査第一班・十二名、情報分析班・三名。情報分析班の三番目にQの名前がある。役職は「分析官」。これまでの「情報官」から一文字だけ変わっていた。変わった理由の説明は、どこにもなかった。別紙の末尾には「装備」という項目が別枠で立てられており、そこに「量産型対応要員(J系)三名」とだけ記載されていた。人員一覧の中ではない。装備一覧の側だった。同じ欄には「白いバス一台(更新予定)」「携帯型測定器七台」とも並んでいる。J系の三名は、それらと同じ行に、同じ書式の文字幅で収まっていた。Qはその区分を、二度読み直した。読み直したところで、記載の位置は変わらなかった。
昼過ぎから、明け渡しの作業が始まった。窓のない資料室――三年近く使ってきた部屋――の壁際から、段ボール箱が積まれていく。梱包の順番は、Qが自分で決めた。まず配線を外す。電源、LANケーブル、ディスプレイケーブルの順に、色分けしたラベルを一本ずつ貼っていく。赤は電源、青はLAN、黄はディスプレイ。次に外付けストレージを個別の緩衝材付き箱に収め、シリアル番号を油性ペンで側面に書き写す。次にキーボードとマウス、最後にモニター本体。四台のうち左端の一台――出現座標の赤い点を最初に映していた一台――だけ、緩衝材を二重に巻いた。理由を聞かれることはなかったので、答える必要もなかった。段ボールは全部で九箱になった。箱番号は一から九まで、搬入先の新しい部屋番号と対応させて一枚ずつ貼った。運搬業者ではなく、庁内の総務班が台車を出し、二往復で運び終えた。備品の引継書にも記入が要った。机一・椅子一・棚二――固定資産番号を一つずつ確認し、備考欄には「異動先へ移設」とだけ書いた。持ち出さない物品もあった。壁に据え付けられたホワイトボードと、来客用の折りたたみ椅子二脚は「残置」の欄に丸をつけ、引き渡し先の名前は空欄のまま提出した。空になった部屋を、Qは扉の前で一度だけ振り返った。机の跡、椅子の跡、紙コップの輪染みだけが床に残っていた。清掃業者の入る予定は、来週の月曜と決まっていた。ドアの名札――「捜査企画課特命班」という五文字――は、Qが自分の手で外した。裏に貼るための新しい名札は、まだ支給されていなかった。
新しい本部は、桜田門の本部庁舎六階、これまで会議室として使われていた一角に設けられていた。パーティションで区切られたばかりの空間には、まだ会議室時代の白いホワイトボードが壁に残っていて、誰かの書いた議事メモが半分消し切れないまま残っていた。窓のある側は総務と広報の合同班が先に押さえており、Qに割り当てられた席は、案の定、窓のない側になった。蛍光灯は真新しく、以前の資料室より一段明るかったが、明るさに慣れるまでには時間がかかりそうだった。
台車を押して廊下を歩いていると、後ろから足音が来た。一人ではない。複数の足音が、同じ歩幅、同じ速度で、Qの数メートル後ろにぴたりとついてくる。振り向くと、制服姿の三人が、同じ書類箱を同じ持ち方で運んでいた。中肉中背、目鼻立ちの整った顔、青年と呼ぶにはまだ幼さの残る輪郭――Jによく似ていた。抱えている書類箱の中身も、三人とも同じ帳票の束だった。表紙の記載を横目で確認すると、通し番号だけが一違いで、あとの項目はすべて同一だった。
「その書類、どちらへ運ばれるんですか」
Qが尋ねると、三人は同時に足を止めた。それぞれの口が、ほとんど同時に――だが正確には同時ではなく、判で押したように〇・二秒だけ遅れて――開いた。
「情報分析班の資料室です」
三人の声は、同じ抑揚、同じ速さで発された。Qは端末の時刻表示で応答の間隔を確かめた。〇・二秒。もう一度、今度は右端の一人だけを見て、同じ問いを繰り返した。
「では、そちらの箱は」
「同じく、情報分析班の資料室です」
遅れは、やはり〇・二秒だった。左端の一人にも聞いた。
「今日の搬入は、これで最後ですか」
「あと二便、ございます」
答えは違う言葉だったが、遅れの長さだけは同じ〇・二秒だった。会話の内容は最後まで事務的なままで、遅れだけが三人ぴったりとそろっていた。
Qは、それ以上は何も言わなかった。「この子たちは、犯罪者なのか」――以前、そう問うた声のことを思い出しかけて、思い出す手前で止めた。今この廊下に、その問いを存在させない方がいい。理由をうまく言葉にはできなかったが、判断としては迷いがなかった。声に出さなかった問いは、ファイルにもならない。三人は再び歩き出し、Qを追い越して先に進んだ。同じ歩幅、同じ速さのまま、廊下の先へ――少女たちを追う側の隊列に加わるはずの場所へ――消えていった。すれ違いざま、一人の襟元に、製造ロットを示すらしい小さな刻印が見えた。数字はそれぞれ違っていたが、書体と大きさは三人とも同じだった。
新しい端末にログインし直すと、決裁待ちの案件が一件、優先度・高のタグ付きで並んでいた。件名――「毛利ファイル、移管対象外・保全指定について」。文書番号は、これまでの捜企二の連番ではなく、新設された本部の番号体系――特捜一第〇〇一号――が振られていた。本文は短い。「対象ファイルは本部移管の対象から除外し、現行のアクセス権限のまま凍結保全する。理由の開示は不要とする」。決裁者の欄には、Kの印だけがあった。承認欄はもう一段あり、そちらは空欄のままだった。誰が埋めるのかは、書かれていなかった。
Qは決裁欄に確認済みの印を入力した。ネットワークの中では、それで全てが完結する。毛利ファイルは、これまで通りの場所に、これまで通りの権限のまま、誰にも動かされずに残る。入力の速さも、確認の仕草も、いつもの決裁と寸分違わなかった。従うということに関して、Qの手つきに乱れは一つもなかった。指の動きだけを見ていれば、この一件を特別な決裁だと気づく者はいないはずだった。
だが、Qは知っていた。あのファイルには、ネットワークに乗らない複製がもう一つある。数か月前、回線が強制的に切られた夜――先方の拠点がオフラインへ落とされた、あの夜――にだけ生成された、ローカルの複製だった。物理的な保管場所も、Qは把握している。施錠保管庫の三段目、可搬記憶媒体を並べた箱の、左から四番目。ラベルには日付だけが書かれていて、内容を示す文字は一つもない。今の指示は、ネットワークの中の話でしかない。切れた場所にある複製には、指示そのものが届かない。触れようと思えば触れられる。だが今夜、Qはそれを思うだけで止めた。触れない、という判断も、記録には残らない。
移管データの整合性チェックを流していると、ログの列が画面をスクロールで流れていった。ほとんどが機械的な項目だった。ファイルサイズの一致、タイムスタンプの照合、権限の再割り当て。全体で二千三百十四件、うち警告フラグ付きは七件。その中に、警告フラグのつかない、一行だけ違う種類の記述が混ざっていた。
「A1・共有系リソース値――前週比、緩やかな減衰を検出」
前の行には「バックアップの世代整理、完了」とあり、後ろの行には「旧端末のリース満了、返却手続き開始」とあった。三行は同じ書式、同じフォントサイズで、同じ速度で流れていった。Qはその一行だけを止めて読み返すことをしなかった。カーソルは止まらず、スクロールバーはそのまま下へ落ちていった。
夕方までに、荷解きは終わった。窓のない側――割り当てられた机は通路の突き当たりで、隣の空調の吹き出し口から、常に低い音が漏れていた。三面モニターを設置し、電源を入れる。四台目――緩衝材を二重に巻いたあの一台――だけは、少し遅れて起動した。画面が明るくなるまでの数秒間、Qはただそれを見ていた。壁の時計は、この部屋にもなかった。時刻はいつも通り、ログの並びが教えてくれる。
七つだった赤い点は、今日の座標をひとつ加えて八つになっていた。Qは新しいファイルを開き、日付だけを打ち込んだ。名前のつかないファイルの棚が、今日また一段、厚みを増した。声に出して確認する、いつもの手順は、今夜も取らなかった。中身はまだ、何もなかった。
日報の提出期限は十九時と定められていた。今日の項目は少ない。「本部移管完了。特記事項なし」。特記事項の欄に、Qはそれ以外を書かなかった。三人の輪郭のことも、〇・二秒のことも、減衰ログのことも、この一行の外には出さなかった。送信ボタンを押すと、確認済みの表示が一秒で返ってきた。窓のない部屋の中で、モニターの光だけが、いつもと同じ明るさで机の上を照らしていた。