アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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15.ヴォル・ドゥ・ニュイ-Vol de Nuit-

日付が変わる前に、体力は尽きた。

代々木八幡の交差点を過ぎ、坂道に差しかかったところで、サクラの足はもう前に出なくなっていた。空腹と、慣れない距離を全力で走り続けた反動が、ほとんど同時に襲ってきた。目の前の街灯が二重に見え始めたところで、タマが「今夜はここまでや」と言った。数字の話でも、段取りの話でもない、短い一言だった。人気の少ない資材置き場の陰、ブルーシートの隙間にサクラを押し込み、タマは自分もその隣に体を丸めた。

「水、探してくるわ」

タマは一度そう言って闇の中へ消え、しばらくして戻ってきた。口にくわえてきたのは、誰かが飲みかけて置いていったらしいペットボトルだった。半分ほど中身が残っている。差し出された時、サクラは何も聞かずにそれを受け取った。膝を抱えて座ったまま、サクラは眠ったという実感を持てなかった。喉の渇きだけが、時間の経過を測る唯一の目盛りだった。近くの自動販売機の稼働音が、風向きが変わるたびに強くなったり弱くなったりしていた。遠くで、終電を逃したらしい誰かの笑い声が一度だけ響いて、また静かになった。気づけば、ブルーシートの隙間から見える空の端が、薄い灰色に変わっている。

十二月二十二日、夜明け前。強張った体を起こし、サクラはまた歩き出した。坂道の勾配が、前夜よりも重く感じられる。歩幅は、昨日の半分ほどに縮んでいた。それでも、方角だけは相変わらず、迷わずに一点を指し続けている。道玄坂の上まで来たところで、ようやく見覚えのある町名の表示板が見えた。南平台。そこから先は、走らなかった。走れなかったのではなく、この先にあるものを、走って迎えに行くだけの心構えが、まだ整っていなかった。

坂の下から見上げる邸宅の姿は、記憶にあるものと違っていた。門の前に、青と白の縞模様のテープが、道路を横切る形で二重に張られている。テープの文字は、遠目にも読めた。「KEEP OUT 立入禁止」の文字が、等間隔で繰り返されていた。テープの下、規制線の内側に、紺の活動服を着た制服警官が三名、等間隔に立っていた。間隔は目測で五メートルおき、姿勢はどの一人も同じ角度で背筋を伸ばしている。一人が右手を上げて周辺の通行人を誘導すると、少し遅れて隣の一人も、まったく同じ角度で腕を上げた。示し合わせたようには見えない。ただ、動きの型だけが、揃いすぎるほど揃っていた。

門扉の内側、砂利敷きの前庭には、見慣れない車両が三台並んでいた。灰色の無地のバン。窓には濃いフィルムが貼られ、車体のどこにも社名やロゴの類はない。ナンバープレートの数字も、この距離では読み取れないよう、薄いカバーがかけられていた。バンの脇に立つ職員も、活動服の警官とは別の、濃紺のジャンパーを着た一団だった。人数は五、六名。誰も大きな身振りをしない。指示は、口頭ではなく、互いの視線の動きだけで交わされているように見えた。歩幅も、立ち止まる位置も、驚くほど揃っている。一人が体の向きを変えると、少し遅れて、隣の一人も同じ角度まで体を回した。まるで同じ型を、違う体に流し込んだだけのような一団だった。サクラはその光景の意味を言葉にできなかった。ただ、見ているだけで、うなじの産毛が逆立つのを感じた。人間らしい雑さが、どこにも見当たらない。誰も咳をせず、誰も足を組み替えず、誰も寒さで身を縮めなかった。

やがて、門扉が内側から開いた。

濃紺のジャンパーの二人が、担架のようなものを両端から支えて運び出してくる。上には、灰色の毛布がかけられていた。輪郭は細い。毛布の端から覗く部分はほとんどなく、サクラの位置からは、それが誰の輪郭なのか、確かめる手立てがなかった。運ばれてくる速さは、急いでいるようでもあり、事務的な手順を淡々とこなしているようでもあった。バンの後部ドアが、音もなく左右に開く。担架がそのまま車内に収められると、ドアはまた音もなく閉じた。バンのエンジンが低く唸り、規制線の内側でゆっくりと向きを変える。前庭を出て、坂を下っていくバンを、サクラは電柱の陰から目で追った。車体のどこにも、行き先を示すものはなかった。走り去るタイヤの音が、坂の途中で角を折れ、聞こえなくなるまで、サクラはその音だけを追い続けた。

中で何が起きたのか、サクラには分からなかった。分かるのは、毛布の下にあった輪郭の細さと、その輪郭が動かなかったことだけだった。担架を運んだ二人の足取りに、迷いはなかった。手慣れた作業を、決められた手順どおりにこなしただけの速さだった。その速さの正確さが、かえってサクラの喉を締めつけた。

泣き崩れることは、なかった。涙は出なかった。ただ、体の重心が、少しずつ変わっていくのが分かった。電柱に預けていた背中を、サクラはゆっくりと離した。膝を伸ばし、両足に均等に体重をかけ直す。爪先の向きを、坂の下から、少し斜めへ切り替える。ここ数日、体の向きは南平台の一点だけを指し続けてきた。その針が、初めて別の方角を探し始めていた。守られる側の場所として頼っていたものが、今、目の前から運び去られていった。その事実だけが、輪郭を持って体の中に収まっていく。息を、一つ、大きく吸って、吐いた。

「タマちゃん」

サクラは、隣に来ていたタマを見下ろした。声は掠れていたが、震えてはいなかった。一晩かけて坂を上ってきた足の裏が、今になって鈍く痛み始めている。それでも、立っていられないほどではなかった。

「潜ってる子に、連絡を取りたい」

「潜ってる子……キヅキのことか」

「あの子の力は、拡散させる力でしょう。今、必要なのは、多分それだから」

戦うための力ではない。物語の奪い合いの中で、サクラたちに不利な形で流布している話を、もう一度、違う向きへ流し直せる力。それが今、誰よりも要る、という直感だけが、サクラの中で先に固まっていた。理由を後から言葉にすれば、そういうことになる。

「電話は繋がらへんやろな、あの子」

「うん。だから、界隈の掲示板を使う」

界隈の子たちの間で回っている、外向けには何の意味も持たない書き込みの列。ミドリが連絡を取ったという噂を、サクラは風の噂で聞いていた。管理をしている年長の男の子に、それとなく分かる形の一文だけを残せば、いずれ本人の目に触れる。合言葉のようなものではない。ただ、キヅキとミドリだけが分かる、金曜の夜のイベント名を一つ、日付と一緒に書き込むだけでいい。円山町の店の名前と、二人が毎週その店で顔を合わせていたという事実なら、サクラも一度、遠くから見たことがあった。夏の終わり、別件の見回りの帰りに、A1と二人でその店の前を通りかかったことがある。窓の外まで漏れていた拍手と歓声の中に、キヅキの声だけが一段高く響いていて、その隣、壁際の席で腕を組んで聞いていたミドリの横顔を、サクラは通り過ぎる一瞬だけ見た。二人が並んでいる場面を見たのは、後にも先にもその一度きりだった。掲示板の書き込みには署名を残さない。読んだ側にだけ意味が通じる一文であればいい。

タマは、しばらく黙っていた。前足を持ち上げて、いつものように毛づくろいをしようとした仕草が、途中で止まる。爪の先が、宙に浮いたまま動かなくなった。丸い目が、坂の下の門をしばらく見つめてから、ゆっくりとサクラの方へ戻ってきた。

「……手伝うわ」

ようやく出てきた声は、いつもより低かった。

「数字の話やない。ワシが、そうしたいねん」

理由の後半に、仕様の言葉は一つも混ざっていなかった。トラヒックも、リソースも、打ち切りも、その一言にはついていない。サクラも、それ以上は何も聞かなかった。

規制線の向こうで、バンの去った門はまだ開いたままだった。裸の欅が、その奥に立っている。葉を落とし切った枝の輪郭が、朝の白い空を背景に、細かく震えていた。サクラは、その光景に背を向けた。歩き出す方角は、坂を下りる方でも、上る方でもない。これまで一度も選んだことのない、脇道の方だった。

タマが、少し遅れてついてくる。二つの輪郭が、朝の坂道を並んで歩いていく。振り返ることは、なかった。

 

 


 

 

十二月二十二日、冬至の夜。一年でいちばん夜が長い日だと、社会科の授業で習った記憶だけが、今更のようにサクラの中へ戻ってきた。南平台から永田町までは、歩けば二時間近い距離だった。タマは資材置き場を出てからずっと無言で並んでいた――手伝うと言った時の低い声のまま、道すがら一度も数字の話をしなかった。青山通りを抜ける頃には、擦り切れかけていたかかとの皮が完全に破れ、靴下に血の滲みが広がっていたが、足を止める理由にはならなかった。

議員会館の通用口は、面会受付の掲示された時間をとうに過ぎていた。守衛は、学生証さえ持たないサクラの顔を一瞥し、来訪者名簿の空欄に目を落としてから、内線で二言三言確認を取った。「勝先生から、いつでも通すようにと聞いておりますので」とだけ言って、名前を訊かずに通す。入館証の代わりに、シールタイプの通行証を一枚、無言で差し出しただけだった。タマは、ロビーの観葉植物の陰で待つと言い残し、エレベーターには乗らなかった。

エレベーターを降りた廊下の奥、灯りの点いた部屋は一つだけだった。段ボールの積まれたままの、新人議員の部屋。扉には、まだ仮のラベルが貼られている。廊下の突き当たりの窓から、本館の常夜灯だけが見えていた。ノックの作法を、サクラは誰にも教わったことがなかった。拳を握り、扉を二度叩く。それだけの動作だった。

「入って」

驚いた様子はなかった。勝は机の脇の段ボールを一つ、足先でずらしてから、来客用の椅子を引いた。

「A1のことは、聞いている」先に切り出したのは勝だった。「札の形式のことも。あれを止められる立場に、自分はもう、いない。元Kという肩書きは、こういう時には何の役にも立たない――人脈の限界だ」

誤魔化す気配のない声だった。

「先生は――ワタシたちのこと、何だと思ってるんですか。魔法少女って、結局、何なんですか」

勝は一拍置いてから、椅子に座り直した。窓の外、本館の灯りが遠くに見えている。

「呼び方はいくつもある。だが、自分の見立てを言えば――あれは、診断名に近い」

「診断」

「この国は、いちばん古い時代から、たった一人の姫君に、この国じゅうの注目を集めることで回ってきた。式典も、祭祀も、崩御の日の号泣まで、全部、その仕組みの上に乗っている。魔法少女という仕組みは――たぶん、それの大量頒布版に過ぎない」

サクラは何も言えなかった。

「宮中で実物を見た時――感嘆したんじゃない。聴いたんだ」勝は続けた。「和音に聞こえる時もあれば、雑音に聞こえる時もある。あの日は、静寂に近かった。誰も声を上げていないのに、部屋全体が、一つの音に合わせて鳴っていた。セカイを制する力を持ち、このセカイ全ての注目(アテンション)を集める姫君の如き存在、それは魔法少女の枠を超えた、言うなれば『アテンション・プリンセス』とでも言うべきか――あの時、頭の中に浮かんだのは、それだけだった」

沈黙が落ちた。廊下の空調の音だけが、一定の高さで鳴り続けていた。

「聴診、って、お医者さんの言葉ですよね」

「外事にいた頃の癖だ。盗聴の記録を延々と聞かされているうちに、言葉より先に、声の質で相手の嘘を測るようになった。政治の会場も、結局は同じだ――内容より先に、鳴り方で分かることがある」

「今の日本の音は、どうなんですか」

「乱れている。誰も指揮者がいないまま、それぞれが自分の音だけを大きくしようとしている――君たちが、その乱れの中で一番大きな音を出す羽目になっているだけだ」

「なんで、政治家になったんですか」

「姫君を必要としない国の設計図は、警察手帳では書けない」勝は言った。「議席でなら、書けるかもしれない――降りたんじゃない。書き換えるために、場所を移しただけだ」

「書き換えるって、具体的には」

「時間がかかる。法形式の候補は、まだ一つか二つしかない――対等な契約、という形だ。君たちと、この国との。あの子を返させるのも、たぶん、その形の中でだ」

サクラは、しばらく黙っていた。それから、これまで一度も使ったことのない声で訊いた。

「対等っていうのは、誰が決めるんですか。先生が決めるんですか、それとも」

勝は答えなかった。ただ、その問いを聞いた表情に、初めて何かが揺れた。

「――まだ、決まっていない」

それが答えだった。サクラは椅子を立った。段ボールの角を避けて、扉へ向かう。振り返らずに、部屋を出た。

 

 

 


 

 

議員会館を出た後、サクラは待っていたタマと合流し、そのまま北へ向かった。行き先を口にしたわけではなかったが、タマも何も訊かなかった。青山から表参道、明治通りを経て、代々木公園までは一時間半ほどの距離だった。

十二月二十三日、まだ夜は明けきっていなかった。代々木公園のイルミネーションは、消灯した後の裸電球の連なりとして、木々の間に垂れ下がっている。小田急線の始発にはまだ間があり、参宮橋の方角から届くはずの線路の音も、今はまだ完全な静けさの中にあった。環状の道路を走る車の音もまばらで、遠くで、清掃車の回転ブラシの音が一度、二度と響いては消えた。

サクラは、あのベンチの前に来ていた。座るためではなかった。ただ、何かを始める前に、ここへ寄っておきたかっただけだった。座面は乾いている。あの雨の夜とは違う。街灯は消えたまま、白でも橙でもない、夜明け前の薄い灰色だけが辺りを覆っていた。近くのブランコが、風もないのに一度だけ、乾いた音で軋んだ。二日後には、この街で年末の祭りが始まる。だが今はまだ、街全体が、今日が何の日かを知らない顔をしていた。

手配は続いている。仲間集めはこれからで、A1は還っていない。何一つ、解決してはいなかった。それでも、体の向きだけは、もう迷わなくなっている。

「今日くらい、休んでもええんちゃう」

隣で丸くなっていたタマが言った。数字の話でも、活躍の話でもなかった。前足を組み直し、顎を乗せたまま、それだけを言う。言ってからしばらくして、タマ自身、自分の言葉に小さく首をかしげた。なんでそんなこと言うたんやろ、というつぶやきが、ほとんど声にならない大きさで、もう一度漏れた。今日が何の日か、末端の装置には知らされていない――その無知だけが、この一言を可能にしていた。

サクラは、公園の入口の方――かつて藍色の少女が座っていた場所へ、目を向けた。「向こう」ではなく、そこへ向けて、声に出す。

「借りてた傘、まだ返せてないんです」

応答は来なかった。来ないことを、今は知っている。それでも、言うのをやめなかった。打ち切られた側に向かって話し続けることが、今のワタシにできる、いちばん最初の抵抗だったから。

サクラは立ち上がった。東の空が、少しずつ明るさを増していく。長かった夜が、ようやく端から溶け始めていた。

 

 

 

 

 

 

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