アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
十七時五十分、官邸三階、記者会見場に隣接する控室。窓のない小部屋には、演台の袖まで続く廊下の明かりだけが、ドアの隙間から一筋差し込んでいた。長机の上に広げた演説原稿は、A四判、片面刷りで四十四枚。表紙に通し番号はない——どの手にも渡らないことを前提に組まれた紙束だった。三枚目、九枚目、二十一枚目に、赤いボールペンでの修正が残っている。「国民の生命」を「国民の皆様の生命」に。読点の位置を、一文字分だけ後ろへ。二十八枚目、「示威」の二文字にだけ振り仮名が振られていた——官房の担当者が、念のため確認を求めてきた箇所だった。「じい」でよいか。毛利はその一枚をめくる指を止め、振り仮名の上に人差し指を置いた。よい。ここは、これでいい。十七枚目の余白には、鉛筆書きで「間、二秒」とだけ書き添えてある。誰の筆跡かは、毛利にも判じられなかった。束の右上をまとめるゼムクリップは、通常のものより一回り大きい。厚みに合わせて、控室の担当者が朝のうちに替えておいたものだった。長机の端には、予備の原稿が一部、封をされたまま置かれている。使われることのない一部だったが、控室にそれを置かない、という選択肢は最初から検討されていなかった。
整合性が取れた、と毛利は思った。感情の言葉は、どこにも要らなかった。整合性という一語だけが、彼の内側を走り続けている。誰の身にも起きなかったはずの一日が、四十四枚の紙の上で、寸分の狂いもなく閉じようとしていた。
三十八枚目だけは、演説原稿ではなかった。来月上旬に予定されている内閣改造での経済安保担当政務官人事の候補者名。伏せ字ではなく、最初から役職名だけが記されている。さらにその下に、友好国首脳の来日発表の想定タイミング——発表そのものはまだ先だが、発表を「いつ出すか」という工程だけが、来春の一週間に絞られた形で、既に確定した幅として記されていた。法案、人事、対外発表。三本の線が、同じ一枚の紙の上で、寸分の狂いもなく交わっていた。
毛利は特に感慨を持たなかった。整合性が取れている、という一点だけが重要だった。毛利は指先で表の罫線を一本ずつなぞり、交点のひとつひとつに、赤い小さなチェックを入れていった。三箇所、四箇所、五箇所。すべてに印がついたところで、その一枚を折り目をつけずに束の下へ戻した。
これまでの毛利は、振付師だった。誰かが書いた筋書きに、人を、日程を、法案を、寸分違わず割り付けていく役目——それだけで十分に、整合性の取れた仕事だと思っていた。だが今夜、この一枚を見て、毛利は違う言葉を自分の内側で使った。これで、設計図を直接書ける。振付師ではなく、作者として。
赤坂の向こう側にいる人々——衛星と回線を持つ人々、と毛利は理解していた。彼らが誰であるか、正確な輪郭を毛利自身も持っていない。名も、国も、所属も、彼の理解の中では最後まで像を結ばない。ただ、面会予約が本人の把握より先に決まっている感触、番号非表示の着信の後だけ姿勢が深くなる癖、そうした断片の積み重ねだけが、彼らの実在を裏づけていた。会合の場所はいつも赤坂の、看板のない建物の奥だった。名刺は交換されない。議事録も残らない。案内される部屋は毎回違い、前回と同じ部屋に通されたことは一度もなかった。それでも、彼らの資本が、彼の設計をここまで押し上げてきたことだけは、毛利の中で確定した事実として扱われていた。作品の価値を証明し続けること。それだけが、リソースを注がせ続ける唯一の方法だった。証明が止まれば、出資も止まる。毛利はその力学を、感情ではなく数式として理解していた。数式に、疑いを差し挟む余地はなかった。
一瞬、二つの記憶が、内側を通り過ぎた。日比谷のホテルのティールーム、窓際の席。革張りの椅子が、腰を下ろすたびに小さく鳴った。硝子越しに、堀端の松が見えていた。もう一つは、議員会館の喫煙室、細く立ち上る紫煙。換気扇の低い唸りと、赤いランプの点いた「使用中」の表示板。どちらの記憶にも、言葉は付いていなかった。場所と、煙の匂いだけが残った。毛利は、その二つの記憶を、一拍で棄てた。整合性の取れない雑音は、設計図に含めない。それだけのことだった。
懐の端末が鳴った。画面に表示された番号は、東和新聞の直通だった。毛利は席を立たず、原稿の束の上に肘を置いたまま応答した。
「桃の枠の件、履行の確認を」抑揚のない声で、それだけを言った。
電話越しのクロエの声は、いつもと変わらない優雅さを保っていた。「ご心配には及びませんわ。手配は、既に整っております」。中継スケジュール、カメラの配置、照明の指定——分単位で組まれた進行台本の中身を、クロエは淀みなく読み上げた。毛利はそれを、法案の日程を確認するのと同じ温度で聞いた。
「同時接続の見込みは」毛利は尋ねた。数字以外に、確認すべきことはなかった。
「開始十分で三百万、山場で八百万を見込んでおりますわ。系列の地上波五局、配信は十二プラットフォーム。抜けは、ございません」クロエの声に、迷いはなかった。
「屋外ビジョンの手配は」毛利は続けて尋ねた。
「渋谷、新宿、それに主要な家電量販店の系列店舗まで。もれなく差し替えの手続きを終えております」
「結末は、変わりませんね」毛利は確認した。「鎮圧され、燃え尽きて終わる——その筋で」
クロエは一拍だけ間を置いてから答えた。「ええ。悲劇のまま、幕を下ろしますわ」。その一拍の意味を、毛利は特に測らなかった。数字さえ揃っていれば、間の長さは工程に含まれない。
「悲劇の方が数字が取れる」
毛利がそう言い終えた直後、回線が途切れた。ツーコールの音もなく、ただ、通話が切れたことを示す短い電子音だけが鳴った。官邸周辺は電波の状態が悪い——毛利は、それだけを考えて端末をポケットへ戻した。理由を疑う発想そのものが、彼の中には存在しなかった。
十八時ちょうど、係の者が控室のドアをノックした。「お時間です」。毛利は原稿の束を両手で持ち、会見場の袖へ移動した。廊下は控室より二度ほど涼しかった。壁際に並んだSPの列を抜け、暗幕の内側へ入る。遠くから、開会前の雑談のざわめきがまだ聞こえていた。三十秒後、そのざわめきは一斉に止んだ。
袖の暗がりから見る演台は、照明に炙られて白く光っていた。首相が、演台の前に立つ。咳払い一つない。第一声から、原稿の一字一句を、寸分違わずなぞっていく声だった。二十八枚目の「示威」も、その一字一句の中に含まれていた——「じい」。振り仮名の通りだった。毛利はその一音を耳で確認し、指先で原稿の余白に小さく印をつけた。
「本日未明、都心において、特殊な能力を用いたとみられる集団による、計画的な実力行使が発生いたしました」冒頭の一文が、会場の空気を静かに固めていく。首相は続けた。「関係機関の迅速かつ的確な対応により、負傷者はなく、事態は速やかに収束いたしました。この場をお借りして、現場で任務にあたった全ての職員に、深く敬意を表します」。拍手が起きる——原稿の指定通り、四秒間だけ。「なお、本日予定されておりました行事につきましては、態勢が整い次第、改めて執り行う運びとなります」。行事の中身には、一言も触れない。触れないことも、三十六枚目の欄外に、毛利自身の字で「言及不要」と指定されていた。
袖の脇に置かれた中継用モニターの壁——縦横に並んだ十二面——には、この演説を映す先の全てが表示されていた。渋谷スクランブル交差点、四基の屋外ビジョンが、同じ角度で首相の顔を映し出している。信号待ちの人波の傘の上に、雪が積もり始めていた。足を止めて画面を見上げる者、見上げないまま通り過ぎる者、その比率までは数字にならない。新宿駅東口、アルタ前の大型ビジョンにも、同じ映像が一秒に満たない遅延で流れ込んでいた。駅構内のアナウンスが、いつもより一拍長く沈黙する瞬間があった——理由は画面には表示されない。改札前で足を止めた通行人の数を、モニター脇の別の数字が示していた。十八時二十分時点で、平常時の一・四倍。もう一面には、家電量販店の店頭が映っていた。四十インチから八十インチまで、大きさの違うテレビが十数台、壁一面に並び、そのすべてが同じ映像を映している。店員が誰も呼び込みの声を上げていない。買い物客の何人かが、レジへ向かう足を止めたまま、その壁を見上げていた。画面の下、地上波・ネット動画の同時接続数を示す数字が、桁を一つ、また一つと繰り上げていく。中継担当の一人が、タブレット端末を毛利のほうへ差し出した。「家電量販店は、系列の三十二店舗全てで割り込み表示に切り替えました。売り場のテレビ、全部この映像です」。毛利は数字だけを見た。渋谷の交差点、新宿駅前、量販店の売り場——テレビの並ぶ壁という壁が、同じ一人の声で埋まっていく。証明は、進んでいる。毛利はそう思った。それ以上の言葉は、要らなかった。
首相の声は、そこから法案の話へ移った。「政府といたしましては、国民の皆様の生命と安全を守るため全力を尽くしてまいります。特定の能力を有すると見られる者の把握体制を強化し、関係省庁の情報共有を一元化する。今回のような事態を、二度と許さないための備えです」。会場の空気が、拍手ではなく、低いどよめきで応じた——想定の範囲内の反応だった。首相は間を置かず続けた。「あわせて、友好国との連携を一層強化し、この国が、国際社会の中で——」
一拍、間があった。台本の三十四枚目、毛利の手元では「確固たる地位を守り続けるために」と続くはずの一文だった。首相の声が、その先を継いだ。
「——対等な地位を、守り続けるために」
対等な。毛利の指が、原稿の文字の上をなぞる。確固たる、ではなく、対等な。一文字も、一音も、台本には存在しない語だった。マイク越しの声は、その一語だけ、心なしか低く沈んで聞こえた。だが、毛利の意識は、その差異を拾い上げなかった。長い一日の疲労、演台の照明の熱、控室の空気の悪さ——毛利はその違和感を、自分の側の聞き違いとして処理し、次の行へ視線を移した。訂正を入れる欄は、どこにもなかった。原稿は、最後まで四十四枚のままだった。
演説は、なおも続いていく。十二面のモニターの中で、渋谷の交差点も、新宿駅前も、量販店の売り場も、変わらず同じ声で埋まり続けていた。同時接続の数字は、まだ増え続けている。毛利は原稿の束を胸に抱え直し、袖の暗がりに立ったまま、その数字だけを見ていた。
東和新聞ビル最上階、編集局から一段上がった位置にあるガラス張りの個室で、クロエは端末を耳に当てたまま、窓の外の暗さを見ていた。眼下の編集局は、まだ普段どおりの明るさを保っている——降版時刻までの残り時間を示すデジタル時計、原稿を運ぶ足音、電話の呼び出し音が三つ、重ならずに鳴っている。毛利の声は、いつもと同じ抑揚のなさで数字だけを尋ねてくる。「結末は、変わりませんね」「鎮圧され、燃え尽きて終わる——その筋で」。クロエは一拍だけ間を置いた。毛利の耳には、優雅な間として届いたはずだった。実際にその一拍で起きていたのは、口の中で「ええ。悲劇のまま、幕を下ろしますわ」という一文を組み立て、語尾の高さまで決める作業だった——お嬢様口調の慇懃さは、切る直前だけ一段短くなる癖がある。それを自分で知っていて、今夜は敢えて短くしなかった。「悲劇の方が、数字の整合性が取れる」。毛利がそう言い終えるより先に、クロエの親指は、もう切断のアイコンの上にあった。ツーコールを待つ理由は、どこにもなかった。電子音が一つ鳴って、通話は終わった。電波の状態のせいだと、毛利はきっと処理するだろう。処理してくれた方が都合がいい。クロエは端末を机に伏せ、悲劇ありき、と分類した。分類が済んだ案件は、もう毛利のファイルの中で回転するだけでいい。わたくしの時間を、これ以上使う理由はない。
机の上には、毛利向けに読み上げた数字の裏付け資料——同時接続の見込み表、系列五局・配信十二プラットフォームの割り振り一覧、屋外ビジョンの差し替え済み店舗のリスト三十二件——が広げたままになっていた。クロエはそれを一枚ずつ重ね、脇へ寄せた。表紙だけをめくって確認する必要はもうない。あの資料は、毛利のための資料だった。もう一方の紙束へ、クロエは椅子ごと向き直った。
A四判横、六十二枚。表紙だけは印刷ではなく、サインペンの手書きだった。「アテンション・プリンセス」。文字の癖は自分でも分かっている——「ア」の第一画がいつも少し長い。表紙をめくった一枚目に、企画意図の三行だけが書かれている。国家の危機を、姫君が鎮める。中身は分単位で組まれた進行台本だった。二十三時五十分、渋谷上空へのヘリ中継開始。二十四時七分、主要五局の割り込み枠に完全同期。二十五時十九分——深夜の放送業界の暦では、日付をまたいでもまだ「昨日」の続きとして扱われる時刻——山場の照明キュー、C‐7からC‐12まで一斉切り替え。カメラは十四台。うち八台がクレーン付き、二台が望遠特化、残る四台が接写用に温存されている。照明の指定は、色温度まで小数点で振られていた。三千二百ケルビンから五千六百ケルビンへ、九十秒かけて連続的に上げる——夜明けを演出上どこで挟むかという、演出部の書き込みが欄外に鉛筆で残っていた。台本の右下、通し番号の隣に「技術・音響・照明立会い済」の判が三つ並んでいる。今日の午後、局のスタッフを個別に呼び、この一枚一枚に判をもらって回った——その記憶が、判の並びの歪みにそのまま残っていた。
国家の危機を終わらせる救国の姫君。配役表の最上段、主演の欄には、クロエ自身の名が入っていた。舞台中央、照明の交点、カメラの放射のすべてが集まる一点——ポジション・ゼロと自分だけの語で呼んできた、その位置に自分の名を置いたのは、今夜が最初ではない。手帳を引き出しから取り出し、開いたページに、クロエは自分の名前を見つけた。丸は、既についている。ペン先をその輪の上に重ね、もう一度なぞった。インクが重なり、線がわずかに太くなる。舞台に立ってから手に入れる資格のはずだった、その規則を自分の手で先に破った夜のことを、クロエは思い出しはしなかった。思い出す必要のない場所まで、もう来ている。ペン先を紙から離す前に、もう一往復だけ輪をなぞった。三重になった線は、外側の一本だけ、わずかにインクがにじんでいた。
ドアの外、編集局のインターフォンが低く鳴った。受付からの内線ではなく、フロア入口の呼び出しだった。モニターに映った輪郭を見て、クロエは僅かに目を細めた。フジサキ・ユカリ。連絡先には一か月前、クロエの側から一通だけ送ってあった。「あなたは、袖にいらして。幕が落ちる時、わたくしの側に」。既読はついた。返信は、一度も来なかった。既読のまま止まった画面を、クロエは何度か開いては閉じていた。返信の代わりに、本人が来た——それも、悪くない返し方だと分類した。
「ごきげんよう。よくいらっしゃいましたわ」ドアを開けたクロエの声は、いつもの高さのままだった。ユカリは雪の匂いのする上着のまま、黙って一礼だけを返す。挨拶とも言えない浅い一礼——礼儀を知らないのではなく、言葉を確定させる前に体を先に動かす癖だと、クロエは知っていた。肩に積もった雪が、暖かい室内でもうすでに水滴に変わりかけている。髪の先も同じように湿っていた。「連絡は久しぶりですわね」返事はない。数秒の間があってから、ユカリは短く「読んだ」とだけ言った。それだけで、一か月分の説明が済んだつもりらしかった。「一か月、どちらに」クロエが重ねて聞くと、ユカリは視線をわずかに逸らし、「あちこち」とだけ答えた。それ以上を聞いても、答えは同じ短さで返るだけだろう——即答しない、言葉を固定しない、この人の性質はいつも変わらない。面白い、とクロエは分類した。「今夜は、どうしていらしたの」もう一つだけ重ねてみる。「言葉より、来た方が早い気がして」ユカリはそう言ってから、少し遅れて付け足した。「返信、考えすぎて」——その一言だけが、一か月分の沈黙のいちばん正直な理由に近いのだろうと、クロエは受け取った。「お寒かったでしょう。中へどうぞ」
個室に招き入れながら、クロエは進行台本を机の上に広げた。「これが、明日からの舞台の中身ですわ。あなたにも、ご覧いただきたくて」。共闘の誘いとして見せる一部——毛利との取引の外形は伏せたまま、放送の設計図だけを開いて見せる。ユカリは黙って紙をめくった。中継スケジュール、カメラの配置、照明の色温度の数列。数字の並びを一枚ずつ確かめる指の動きに、無駄がない。何か問われるだろうかとクロエは待ったが、ユカリは何も聞かなかった。聞かないこと自体が、確認の一種なのだと分かっていたので、クロエもそれ以上の説明は挟まなかった。「これだけの規模を、いつ準備したの」数枚めくったところで、ようやくユカリが口を開いた。「必要になった時から、少しずつ」クロエは答えをぼかした。全部を明かす段階ではない——今夜見せるのは、あくまで一部でいい。
配役表は一枚の紙にまとまっているようで、実は書き足しの跡が幾重にも重なっていた。桃、救国の姫君——この行だけ、インクの色が他より一段濃い。赤・青・緑・黄、鎮圧対象——四行はまとめて同じ日に書かれたのか、筆圧まで揃っている。黒、主演——クロエ自身の名。そして最後の一行、紫の欄に記された役名を、ユカリは見ていた。「目撃者」。主役の隣に立ち、悲劇の一部始終を見届け、後にそれを語る者。役の説明は、それだけしか書かれていない。ユカリの視線が、その二文字の上で動かなくなった。長い時間ではなかった。数えるほどの秒数だったが、確かに止まっていた。表情は変わらない。呼吸の速さも変わらない。ただ、めくる指が次のページへ進む速度だけが、わずかに遅れた。
クロエはその停止に気づかなかった。台本の別のページ、屋外ビジョンの手配一覧に視線を移していたからで、気づく機会そのものが、この瞬間にはなかった。舞台の完成度を確かめることに、意識のほとんどを使っていた。
「少し、考える」ユカリはそれだけ言って、台本を閉じた。紙の束が重なる、乾いた音が個室に響いた。閉じる速さに、迷いはなかった——決めかねているのではなく、決めるための時間を、今この場では使わないという判断に見えた。「ええ、ぜひ」クロエは優雅に微笑んで見せた。声の温度はいつも通りだった。内心では、保留、と分類していた。手帳のページを、指先で探る。ユカリの名の丸は、ずっと以前からすでについている。今夜、その隣に何かを書き足す必要はない。丸を重ねてなぞるほどの確信も、まだない。何もしないことを選び、クロエは手帳を静かに閉じた。
「またご連絡いたしますわ」「うん」短い返事だけを残し、ユカリは個室を出ていく。ドアの向こうの足音が、編集局の喧騒に紛れて消えた。エレベーターの到着音が、廊下の奥でひとつ鳴った。
一人になった部屋で、クロエは窓の外に目を戻した。渋谷方面、道玄坂の街路灯の帯が一区画分、不意に消えていた。数秒後、宮益坂の側も落ちる。信号機の色が消え、ビルの輪郭だけが夜の中に残る——雪がその境界を、なお静かに覆っていく。明治通り沿いの大型ビジョンも、次々と暗く沈んでいった。編集局のモニターの一つに、電力会社の停電情報がテロップで流れている。「渋谷区・港区・新宿区の一部で停電。復旧見込み、未定」。復旧率の数字は、二十分前の四十二パーセントから、今は三十七パーセントまで下がっていた。増えているのではなく、減っている。東和新聞ビルの窓明かりだけは、変わらず一定の明るさを保っていた。自家発電への切り替えは、無音に近い低い振動として床から伝わってくる。数分おきに一段ずつ強まる振動の周期を、クロエは指先で机を軽く叩いて数えていた。周囲の暗さが広がるほど、この一棟の明るさだけが際立っていく——祝福されているのではなく、孤立しているのだと、クロエは分類した。分類した上で、その孤立を、少しも悪くないと思っている自分にも気づいていた。