アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
十二月二十三日、夕方。渋谷から新宿へ抜ける裏通りの交差点で、信号機がすべて消えていた。青も赤も、点滅するはずの黄色さえも、四隅に立つただの黒い箱になっている。代わりに動いているのは、白手袋の警察官が振る誘導灯の赤い光と、途切れがちな警笛だけだった。誘導灯の光が雪の中を弧を描いて動くたび、その軌跡の上だけ雪片が一瞬明るく浮かび、すぐにまた闇へ溶けていく。歩道の端では、コートの襟を立てた通行人たちが、スマートフォンの画面を懐中電灯代わりに足元へ向けながら、無言で列をなして歩いていた。誰も、隣を歩く人間の顔までは見ていない。車の列は、いつもより車間を空けて、ゆっくりと進んでいた。クラクションを鳴らす者は、一人もいない。誰もが、譲り合うことにだけ神経を使っていた。フロントガラスの内側で、運転手たちの吐く息が白く曇っている。渋谷区役所前の交差点まで、信号の消えた区間は少なくとも五つ数えられた。シャッターを半分だけ下ろした百貨店の通用口の前を、除雪用のスコップを担いだ従業員が一人、無言で通り過ぎていく。
音の質が、いつもと違う。発電機のうなりが、あちこちのビルの裏口や搬入口から低く響いている。すぐ横のコンビニは、自動ドアが半分だけ開いた姿勢で止まったまま、店内の非常灯だけが橙色に灯っていた。レジには誰も立っていない。積もった雪が、街の音をひとまわり低く沈めている——路上生活者の押す台車の車輪の音も、遠くの踏切の音も、雪の層の下でくぐもって届く。二日後に迫っていたはずの聖夜のイルミネーションは、電源を落としたまま、束ねたケーブルを街路樹に巻きつけただけの姿で放置されていた。豆電球の連なりが、灯らないまま雪の重みでたわんでいる。祭りの二日前の街から、祭りの明かりだけが抜け落ちていた。どこかの屋根から、積もった雪の塊が滑り落ちる鈍い音がした。遠くでサイレンが一つ鳴ったが、雪に半分吸われて、方角までは分からなかった。
「サクラ、そっちちゃう」コートのポケットの中から、タマが顔だけ出して言った。「宮益坂の方、十六時四十分から停電しとって、復旧の目処、まだ立っとらん。せやから逆に安全やねん。防犯カメラも一緒に死んどるから」。招き猫の右前足が、ポケットの縁越しに逆方向を示す。「道玄坂の方は、さっき十七時過ぎに電気戻ったばっかりや。あっちは今、もうアカン。カメラ、生き返っとる」。停電している区画の方が、今のサクラには安全だった。電気の来ない街の方が、追われない街だった。この一か月で、体がそういう理屈をひとりでに覚えてしまっている。角に立っていた警官が一人、こちらへ目をやりかけたが、誘導灯を振る手が別の車を止める方に忙しく、視線はすぐに逸れた。「いつまで、こっち通れる?」小声で聞くと、タマは「あと二時間くらいちゃうか。東電の作業車、もう向かっとるらしいから」と、電力会社の巡回連絡そのままの調子で答えた。「復旧したら、はよ移動な。ここに突っ立っとったら、意味あらへんから」。急かす声にも、いつもの数字は混ざらなかった。
「炊き出しやったら、今日は新大久保の方に臨時で出とるらしいで。職安通り沿い、十九時から」タマはそう続けて、人の流れも教えてくれた。「今日はいつもより列、長なると思うで。停電で店開けられへん飲食店の人らも、何人か混じっとるらしいから。出るんはおにぎりと豚汁、あと毛布が二十枚ほどて」。区間名、時刻、人数の見込み、配られる物の内訳——具体的な数字がいくつも並んだが、その合間に、いつもなら必ず混じるはずの別の話が、一つも出てこなかった。稼働率、とか、活躍せな困る、とか、うちが消えてまう、とか——そういう言葉を、タマは今日、まだ一度も口にしていない。サクラは、それを数えていた。区間案内が一つ終わるたび、次はその話が来るだろうかと待って、来ないままそれが終わる。三つ目の情報が終わったところで、数えている自分に気づいて、少しだけおかしくなった。心配する声と、稼がせようとする声が、いつも同じ調子で混ざって届いていたはずなのに。いつもなら、この辺りで「今日の同時接続、昨日よりちょっとええ感じやったで」くらいの一言が入る。今日は、それも来ない。「ちゃんと着とる? 風邪、ひかんとってな」——タマが言ったのは、それだけだった。数字の裏づけのない、ただの心配。
肩にかけた鞄の中身を、歩きながら指で数える。使い捨てカイロは三枚——一枚は教会でもらったまま未開封、二枚は昨日の残り。靴下は替えが一足増えていた。同じ教会の物資箱にあったもので、サイズが少し大きかったが、断る理由もなかった。骨の一本折れた黒い折り畳み傘も、いつの間にか増えていた——どこで拾ったのか、正確には思い出せない。増えたものより、減ったものの方が多かった。小銭入れの中は、一か月前に数えたときは三千円近くあったはずが、今は百八十円しか残っていない。リップクリームは残りわずかで、キャップの内側にわずかに残った分を指先で掻き出して使っている。手袋は右手の人差し指の先だけ穴が広がり、指先が外気に晒されるようになっていた。コインランドリーの共用棚に置いていた替えの下着は、一枚だけ戻ってこなかった。輪ゴムで束ねていた予備の靴紐も、片方だけ見当たらない。誰が持っていったのかは分からない。分からないまま、数だけが減っていく。増えるものと減るもの、どちらが自分にとって必要な変化なのか、サクラにはまだ判断がつかなかった。
ポケットの中で、タマがふいに黙った。二秒か、三秒か。息を止めるような間があって、招き猫の胸のあたりに、文字の形をした光がほんの一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。「……来た」と短く言う。「キヅキとこの黄色から、返事来たで」。タマの声が一段低くなって、事務的な読み上げの調子に変わった。「池袋西口 カラオケ 二十時」。句読点も絵文字も一つもない、その素っ気なさが、かえってキヅキらしいとサクラは思った。潜伏している人間の文体だった。必要な情報だけを、感情の湿りを一切残さずに置いていく——一か月、姿を消していた人間の文字が、それだけで届いた。返信までにかかった時間も、タマは教えてくれた。「送ってから、四十七分。前より、早なっとる。先週なんか、三時間かかっとったのに、ワシびっくりしたわ」。それが何を意味するのか、タマも、サクラも、口にはしなかった。数字だけが、静かに縮まっていく。
言葉が、喉の奥まで来かけた。今夜あったことを——消えた信号のこと、雪の重さのこと、タマが数字の話を一度もしなかったことを——伝えたい衝動が、一瞬だけ輪郭を持ちかけた。だが、まだ何も終わっていない。報告できるだけの結果が、今夜のどこにもなかった。……今夜は、報告することが増えてからにします。声に出したのか、出さなかったのか、自分でもよく分からないまま、サクラはその続きを飲み込んだ。立ち止まっていたわずかな間に、肩に雪がうっすらと積もっていた。振り返っても、誰もいなかった。雪の積もった歩道に、自分の足跡が一列だけ残っている。
方角を、北へ取り直す。池袋——歩けば一時間半はかかる距離だった。電車は、この雪と停電では当てにならない。職安通りを東へ、そこから大久保、高田馬場を抜ける道筋を、タマが先回りして教えてくれる。「大久保の手前でもう一回、停電の切れ目があるから、そこだけ足速めてな」。近くのビルの壁面モニターだけが自家発電で生きていて、区の停電情報のテロップが流れ続けている。復旧率、三十一パーセント。二時間前に見たときより、また少し下がっていた。雪はまだ横殴りに降り続けていて、足先の感覚は半分ほど失われかけている。すれ違う人の数は、大久保に近づくにつれて減っていくだろうとサクラは思った。夜が深くなるほど、この街から人の輪郭が薄くなっていく——その先にだけ、自分の歩ける道がある。サクラは一度だけ靴の中で指を握り直してから、雪の重い一歩を踏み出した。
職安通りから大久保、高田馬場を抜けて池袋に着いた頃には、雪の勢いは弱まっていたが、代わりに風が出ていた。看板の電飾が半分消えたビルの谷間を、指定された時刻ぎりぎりに潜り抜ける。二十時ちょうど、池袋西口の裏路地に面した二十四時間営業のカラオケ店で、サクラはフロントに一言も告げずに、三階の一番奥の個室へ案内された。受付には店員が一人だけで、無人受付機の画面には「フリータイム 21:00まで480円/以降30分ごと290円」という料金表示が出ている。会員証の提示は求められなかった。店員は名前も聞かず、右手の指を二本立てて「あちら」とだけ示した——この一か月ですっかり通用するようになった、無言の合図だった。防犯カメラは受付とエレベーター前にしか見当たらない。三階の廊下にはカメラがないことを、タマが先に確認していたとサクラは後で知ることになる。ドアを開けると、窓のない八畳ほどの部屋に、蛍光灯よりも暗い間接照明が落ちていた。壁際のコンセントには、充電ケーブルが三本、色も規格もばらばらのまま束ねられている。二本はスマートフォン用、もう一本はモバイルバッテリー用だと、見た目だけでサクラにも分かった。結び目の位置が、使われた回数の分だけ緩んでいる。テーブルの隅には、四つ折りにされたコンビニのおにぎりの包装と、空になったペットボトルが六本、ラベルをすべて内側に向けて几帳面に並べられていた。カップ麺の容器はプラスチックの外袋にまとめて押し込まれ、匂いが漏れないよう口が固く結ばれている。備え付けのタッチパネルには、フードメニューの画面が一週間以上前の日付のまま止まっていた——注文をしていない証拠だった。備え付けのマイクは二本ともスタンドに立てられたまま、一度も抜かれた形跡がない。ケーブルの先端に、うっすらと埃が積もっていた。声を出さない一か月——歌うための部屋を、歌わないために使い続けた痕跡が、大きな声で主張することもなく、ただ静かに積もっていた。
部屋の奥、テーブルに片肘をついて座っていたキヅキが、顔を上げた。頬の線が、記憶にあるよりも薄い。唇の端が乾いて、皮が浅く剥けていた。テーブルの下、投げ出された足の爪先には、外に出ていない人間特有の、色の抜けた靴下が覗いている。「久しぶり」キヅキの声は、思ったより低いところから出てきた。「うん」サクラはそれだけ返し、対面の椅子に腰を下ろす。「ここ、何日目?」サクラが聞くと、キヅキは天井を見上げてから「……数えてない」と答えた。壁の隅、テーブルカレンダー代わりに使われていたらしいレシートの裏には、正の字が三本と少しだけ刻まれている——本人が「数えていない」と言ったその手つきの下に、数えた痕跡だけが残っていた。互いの顔の変化には、どちらも触れなかった。キヅキの頬のことも、サクラの右手の人差し指の先が霜焼けで赤黒く変色していることも、口には出さない。誰かがそう決めたわけでもないのに、二人ともその約束を守っていた。指摘しないと決めたこと自体が、もう一つの消耗の証明になっている。
テーブルの上、コートのポケットから、招き猫の意匠をした小さな影が顔を出した。「ほな、あの話、しよか」タマの声が、いつもの調子で切り出す。打ち切り。リソース。演出パッケージ。委員会がデプロイした仕組みのことを、タマは一から語らなかった——語る必要が、もうなかった。「あんたも、あらかた聞いとるやろうけど」と前置きしてから、既に共有された事実の輪郭だけをなぞる速さで言葉を継いでいく。数字が取れなければ話が打ち切られる仕様のこと。委員会が用意した演出パッケージの一つに、妖精である自分たちも組み込まれていること。委員会よりさらに上に、プロバイダーという存在がいること。三つの項目を、タマは指を折るように順番だけ立てて語った——一つひとつの単語に、説明のための間は置かれない。聞く側も、もう説明を必要としていなかった。話し終えるまでにかかった時間は、二分足らずだった。劇場で礼子の口から出たときにはもっと長かった同じ内容が、今は要点だけの早口に圧縮されている。
キヅキは、テーブルに伏せていたスマートフォンを起こし、指を滑らせ始めた。画面を切り替える速さに迷いがない。タマの一文が終わるたび、画面の別の場所に指先で触れ、視線を素早く往復させる——毎朝、複数のアプリを開いて数字を突き合わせていた、あの手順そのものだった。フォロワー数、視聴回数、いいねの伸び方。届く数字と届かない数字の差分を一つも見逃さないよう確認していた十六歳の朝の癖が、今夜は別の対象に向けられている。タマの言葉と、自分が独自に集めていたらしい情報の断片——潜伏中に拾い集めたスクリーンショット、日付だけが残った短いメモ、消される前に保存した誰かの投稿——を、キヅキは画面の上で並べ、指先で一行ずつなぞって照合していった。「うん」「それも、知ってる」「そこは、ちょっと違うかも」——相槌のたびに、画面のどこかへ視線を戻す。三十秒ほど無言で指を動かし続けたあと、キヅキは画面を一度伏せ、また起こした。信じるための手つきではなく、確かめるための手つきだった。
一通り聞き終えたところで、キヅキはスマートフォンを持ったまま黙り、それからポケットの中に向けて短く言った。「ねえ。今の話、合ってる?」誰かに語りかけるというより、確認のためだけに出された声だった。返事はすぐには来ない。数秒の間があって、キヅキの右耳のイヤーカフが小さく光る——それが黄の妖精の応答の合図だと、サクラも見て覚えていた。
「うんうん、その通りだよ。キヅキ、ちゃんと聞けてたね、えらい」黄の妖精の声は、いつもの調子を一つも崩さなかった。褒める。具体的に褒める。どこがどう正しかったのかを、必ず一言添えて肯定する——タマの言葉の内容を裏づけているはずなのに、その裏づけ方そのものが、褒め言葉の形をしていた。「打ち切りの理解、完璧。リソースの説明も、一言一句とまでは言わないけど、大筋は合ってるよ。よく覚えてたね」。続けて、もう一言。「順番も、ちゃんと合ってた。打ち切り、リソース、プロバイダーの順で聞いたの、正解。よく整理できてるね」。正しさの証明が、正しさそのものとしてではなく、正しく覚えていたキヅキへの賞賛として届く。サクラはその不気味さに、名前をつけることができなかった。ただ、聞いていて背中の産毛が薄く立つような感触だけが残った。
「絶対」——黄の妖精がその一語を口にしたのは、話の最後だった。「委員会より上に、プロバイダーがいるっていうのも、絶対に、合ってる」。言葉の前後に、いつもよりわずかに長い間があった。「絶対」という語をこの妖精が使うときは、何かを確かめているときだと、キヅキが以前言っていたのをサクラは思い出す。今夜のそれは、仕様の説明そのものを確かめていた。
同じ内容を語る二つの声が、しばらく部屋の中で並んでいた。タマの「あんたが活躍せんと、話、打ち切られてまうから」という、生き延びるための関西弁の語彙。黄の妖精の「よく頑張ったね、絶対、間違ってないよ」という、褒めるための語彙。片方は自分の消滅を懇願の理由に置き、もう片方は相手の努力を採点の理由に置く。訛りも温度もまるで違う二つの声が、指し示している先は同じ一点だった。サクラはそれを、解説せずにただ聞いていた。
キヅキはスマートフォンをテーブルに伏せ、しばらく黙った。「信じたわけじゃないから」やがて、そう言った。「向こうの言うこと、丸ごと信じたことなんて、一回もない。……ただ、計算が合っただけ」。拡散する側にいた人間の言い方だった——届く数字と、届く理由を、いつも計算してきた人間の。「合わなかったら?」サクラが聞くと、キヅキは肩をすくめた。「合わなかったら、多分、部屋出てない。……ドア開けた時点で、半分は答え出てたのかも」。数字と勘の境目を、キヅキ自身もはっきりとは線引きできていないようだった。信頼という言葉の代わりに、キヅキはその一語を選んだ。サクラは、それでいいと思った。「うん」とだけ返す。
「それで」キヅキが顔を上げた。「ミドリは」「巣鴨に、いる。まだ」サクラは短く答えた。「出頭してから、変わりはない?」「分からない。……でも、動いてる、と思う」「A1は」その問いに、サクラはすぐには答えられなかった。テーブルの木目を、一瞬だけ見つめる。「……分からない。今は」キヅキは追及しなかった。分からないという答えを、そのまま受け取っただけだった。イヤーカフが、もう一度だけ小さく光ったが、今度は何も言葉にならなかった。
時刻を確認したキヅキが、先に立ち上がる。テーブルの上のペットボトルの並びを崩さないまま、部屋の照明を落とす手前で一度だけ振り返り、ドアの隙間から廊下の様子を窺った——潜伏している人間の手つきだった。エレベーターは使わず、非常階段の表示がある方へ、キヅキは迷わず足を向ける。人の気配がないことを確かめてから、キヅキは先に外へ出た。会計はタッチパネルで済ませ、店員と顔を合わせる時間を最小限にする——これも、この一か月で身についた手順の一つだった。サクラも、充電ケーブルの結び目やペットボトルの並びには触れず、来たときと同じ静かさで部屋を後にする。廊下の向こう、別の個室から漏れる誰かの歌声が、二人の足音をわずかに隠していた。二人が去った後の個室には、マイクの上に積もった埃と、誰も歌わなかった一か月の時間だけが残っていた。