アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
キヅキが非常階段の表示の方へ姿を消してから、まだ数十秒も経っていなかった。ビルの裏口を出たサクラは、カラオケ店の看板の明かりが届かない路地の奥まで進み、自動販売機の側面に体を寄せた。風が、店に入る前よりも強くなっている。看板の明滅が雪の粒を橙色に浮かび上がらせては、また闇に沈める——路地の奥で動いているのは、その繰り返しだけだった。自動販売機のパネルには「あたたかい飲み物、売り切れ」の表示が三つ並んでいて、缶コーヒーの列だけが空になっている。コートの内ポケットで、古い型の携帯電話が震えた。教会の物資箱に、充電器ごと放り込まれていた先払い式の一台だった。契約者の名前を訊かれたことは一度もない。月々の支払いも要らない。電池の残量は二十二パーセント、電波は一本しか立っていない——この一か月、電源を入れるのは必要なときだけと決めていた。画面に浮かんだのは「非通知」の四文字だけで、発信元を示す情報は何一つない。呼び出し音は三回鳴った。サクラは路地のさらに奥へ一歩下がり、周囲に誰もいないことを確かめてから、通話ボタンに親指を置いた。吐く息が、画面の青白い光に照らされて、一瞬だけ形を持つ。足元には、さっき自分がつけた靴跡が、まだ崩れずに残っていた。
耳に当てた瞬間、まだ言葉が届く前に、誰なのか分かった。息を吸う音の前に、いつもよりわずかに長い間がある——その間の置き方だけで、名乗りを待つ必要がなかった。「……サクラさん」礼子の声だった。語尾が、記憶にあるよりも薄い。糸の先が空気に溶けていくような響き方をしている。受話器の向こうは、静かすぎた。人の声も、物音も、時計の針の音さえもない。広い部屋の中で壁だけが呼吸している——そういう種類の静けさが、声の後ろにずっと貼りついていた。一度だけ、遠く、何かを告げる館内放送のようなものが、言葉の判別できない高さで通り過ぎた気がした。礼子はそれに反応せず、話を続けていた——聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか、サクラには判別がつかない。時折、回線そのものが軽く鳴るような、金属的な微かなノイズも混じった。古い交換設備を経由しているような音の質だった。確かめる術はなかったが、少なくとも、いつも礼子が使っていた滑らかな回線とは違う、と分かるだけの粗さがあった。
「今、少しだけ、よろしいでしょうか」礼子はそう聞いた後、サクラが答えるより先に言葉を継いだ。「皆さま、ご無事です」——その一言に、安堵の色はほとんど乗っていなかった。事実だけを、正確な順番で置いていく声だった。「ただ、どなたも、お出になれません」。数秒の間があって、礼子はもう一言だけ付け足す。「わたくしも、今は、こちらから」。声の届く範囲に他の誰かがいる気配はなかった。受話器を持つ手の位置も、部屋の広さも、サクラには見えない。それでも、礼子が一人で、決まった場所からしか話せずにいることだけは、声の質からはっきりと伝わってきた。
軟禁、という単語を、礼子は一度も使わなかった。使う語彙は、いつも同じ種類のものだった。措置。滞在。お出になれない。ご不便を、お掛けしております。今夜だけで、この四つを、礼子は少なくとも二度ずつ口にした。丁寧に磨かれた敬語の膜で、事実の輪郭を包んでいく——包んだ分だけ、輪郭そのものは見えにくくなる。官邸の発表文と、電話越しの礼子の声が、同じ手つきで同じことを言っていることに、サクラは気づいていた。片方は国民に向けて、正午の会見の形で。もう片方は、今夜、自分一人だけに向けて。「いつまで、そうしてるんですか」サクラが聞くと、礼子は少し間を置いてから「分かりません」とだけ答えた。分からない、を礼子が口にするのは珍しかった。「見通しが立ち次第、と、外へは伝えられているはずです。……見通しは、こちらにもまだ、ございません」。「ご飯とか、ちゃんと出てるんですか」サクラがそう聞くと、礼子は一拍だけ間を置き、「お食事は、決まったお時間に」とだけ答えた。何を、どれだけ、という中身には触れない——量や献立を尋ねられることを、最初から想定していない答え方だった。
「今夜、お伝えしたいことが、ひとつ」礼子の声が、初めてわずかに低くなった。「あの方は、西へ、お還りになります」。西。還る。京都という地名を、礼子は口にしなかった。御所とも、宮とも言わない。方角と、動詞だけを置く。それだけで足りると、最初から分かっている口ぶりだった。「明日の、未明に」と続ける。「陸路で。……他の道は、今夜の雪で、みな止まっておりますので」。新幹線は、始発から午前中いっぱい運転見合わせの見込みだと、礼子は聞いたままの言葉で伝えた。空路も同様——羽田も、その先の空港も、除雪が追いついていない。残るのは、雪に埋もれかけた道路だけだった。選ばれたのではなく、消去法の末に残った一本の道だという言い方を、礼子はした。明日未明の予想最低気温は氷点下二度、路面の凍結が懸念され、主要な峠道にはすでにチェーン規制の呼びかけが出ている——それだけは、天気予報と同じ精度で伝えられた。だが、車列が何台で構成されるのか、休憩をどこで取るのか、正確な出発時刻が何時なのか——そうした数字は、礼子の口から一つも出てこなかった。「未明」より細かい時刻も、「陸路」より詳しい道筋も、礼子は知らないか、知っていても言わないかのどちらかだった。それ以上でも以下でもない情報の渡し方を、礼子はいつもする。
なぜ礼子がそれを知っているのか、なぜ自分に伝えているのか——礼子は語らなかった。所内に留め置かれているはずの身でありながら、電話一本でここまでの情報が届く経路について、礼子は一言も触れない。サクラも、聞かなかった。聞いたところで、答えが返ってこないことは、もう分かっている。「西」「還る」。二つの言葉の選び方そのものが、いつかの黒塗りの車の中で聞いた話と同じ層に属していることに、サクラは気づいていた。柱。勅封。生命を付与するチカラ。あの夜、車窓の外を過ぎていった街灯の連なりと一緒に流れ込んできた言葉たちが、今夜のこの二語の後ろに、静かに立っている。あのとき礼子は「貸したものではなく、預けたもの」と言った。預けたものは、いつか還る、とも。今夜届いた「西へ」「還る」は、あの夜の予告が、ようやく日付と方角を持った形なのだと、サクラは気づいていた。礼子はそれを解説しない。説明する気があれば、最初からもっと別の言葉を選んでいたはずだった。
「……サクラさん」しばらくの沈黙のあと、礼子がもう一度、名前を呼んだ。「お預かりしているものが、おありでしょう」。それだけを言って、続きを言わなかった。何を、どう返せばいいのか、サクラには見当がつかない。だが、その一言こそが今夜の電話の本題なのだということだけは、声の重さで分かった。「……それは」サクラが聞き返しかけると、礼子は静かに遮る。「今夜は、それだけで」。もう一度だけ、同じ言葉が繰り返された。「今夜は、それだけで、よろしいのです」
沈黙が続いた。回線の向こうから、遠く低い駆動音のようなものが一瞬混じった気がしたが、次には消えていた。サクラは、今夜聞くべきことを一つだけ選んだ。「……礼子様は、今、大丈夫なんですか」息を整えてから、続ける。「閉じ込められてる方なのに、こうして、ワタシに電話してきて」。情報をただ受け取るだけの声ではなかった。心配、と呼んでいいのか自分でも分からないまま、言葉が先に出ていた——これまでの自分なら、聞かずに済ませていたはずの一言だった。誰かから与えられる側であることに慣れてきたはずの自分が、今、与える側の言葉を選んでいる。その違和感を、サクラはまだうまく名付けられなかった。
電話の向こうで、礼子が小さく息を吸う気配があった。「……お優しいのですね」その声には、いつもの型どおりの丁寧さとは違う、ほんのわずかな揺らぎが混じっていた。「大丈夫か、と聞かれたのは、久しぶりでございます」。数秒の間があって、礼子は続けた。「わたくしは、慣れております。……こうして、お伝えできることの方が、まだ幸いなのかもしれません」。それ以上の答えはなかった。答えなかったこと自体が、答えのようにサクラの耳に残った。「また、電話、もらえますか」サクラが続けて聞くと、礼子は少しの間のあと「……できる限り」とだけ答えた。約束の形はしていない。だが、拒む言い方でもなかった。「では、また」——礼子の声が、いつもの静けさに戻る。電子音が一つ鳴って、通話は切れた。
画面には「通話時間 00:04:12」とだけ表示され、すぐに待受の暗い画面に切り替わる。バッテリー残量の表示は、二十一パーセントに一つ減っていた。サクラは携帯電話をポケットに戻し、しばらくその場に立ったまま、路地の奥の暗さを見つめていた。西。還る。お預かりしているもの。三つの言葉が、頭の中で順番を変えながら繰り返し巡っている。看板の明滅が、雪の粒をまた橙色に浮かび上がらせた。自動販売機の低いモーター音だけが、変わらずそこにあった。
明日の未明。陸路。それだけの手がかりで、どこへ向かえばいいのかは、まだ分からない。それでも、動かない理由にはならなかった。キヅキに伝えるべきことが、また一つ増えている——数時間前まで何もなかった手の中に、今は言葉が三つ増えていた。サクラはコートの襟を立て直し、路地の入り口へ向けて足を踏み出した。振り返らずに歩く。雪はまだ、静かに降り続けていた。
路地の入り口まで戻ると、キヅキは看板の光の届かない位置、自動販売機の陰に、コートの襟を立てたまま立っていた。「終わった?」とだけ聞かれ、サクラは頷いた。それ以上は言わなかった。礼子の声のことも、西という一語のことも、今はまだ渡せる形になっていない。「こっちも、進展あった」キヅキが画面をこちらへ向ける。表示されていたのは、送信から十分で自動的に消える設定のメッセージアプリだった。潜伏中の界隈の子らが、まだ細々と使っている数少ない連絡手段の一つだと、キヅキは短く説明する。画面の右上には「09:47」というカウントダウンの表示が動いていて、見ている間にも数字は一秒ずつ減っていった。送信元のアイコンはなく、本文は「今夜、ガード下。二十二時」の九文字だけ。差出人の欄には、数字とアルファベットが並ぶだけの符丁があった。既読の通知も、送信済みの二重チェックも表示されない仕様——届いたかどうかさえ、送った側には分からない作りだった。「誰から」サクラが聞くと、キヅキは画面を消しながら「分からない。……でも、この符丁、前に一回だけ見たことある」とだけ答えた。「いつ」「拡散してた頃。誰かの現在地を、フォロワーに流すのに使われてた符丁と、多分同じ」。それ以上は、キヅキも詳しく覚えていないようだった。詮索しないことも、この一か月で身についた手順の一つらしかった。
二十二時までは、まだいくらか時間があった。二人は無言のまま、東口から山手線のガードをくぐる方向へ歩き出す。雪はもう本降りとは言えない強さまで弱まっていたが、風に流されて横殴りに吹きつける瞬間が時折あった。営業を終えた店のシャッターが並ぶ通りを抜けると、頭上を電車の通過音が規則正しく叩いていく区間に入る。ガード下特有の、饐えたコンクリートの匂いと排水口の蒸気が混じり合う空気だった。三本並んだ街灯のうち二本が消えていて、残った一本の明かりだけが、雪の粒を線香花火のように浮かび上がらせている。壁に貼られたライブハウスのポスターは、半分以上が剥がれかけていて、日付はもう三か月前のものだった。路肩には、除雪されないまま踏み固められた雪が黒く汚れて盛り上がり、その上に空き缶が二本、凍りついたように突き刺さっていた。ガードの鉄骨から垂れた氷柱が、頭上で規則的な間隔を空けて並んでいるのが、街灯の光を受けてわずかに光っている。時折、真上を電車が通過するたび、鉄骨全体が低く唸り、氷柱の先から小さな水滴がいくつか落ちてきた。
コンビニの看板の明かりが、ガードの手前まで届いていた。窓越しに見えるレジには店員が一人だけ立ち、退屈そうに雑誌の棚を整えている。その明かりの帯が切れた先から、ガード下の暗がりが始まっていた。
その明かりの端、闇との境目に近い場所に、人影が一つ立っていた。手配書で見た顔と、寸分違わない輪郭だった。あの紙には「身長百六十センチ前後、髪は肩につく程度、右耳にピアス痕」と印字されていたはずで、目の前の姿はその記述と一つも食い違わない。丈の短いパーカーに、薄手のブルゾンを羽織っただけの格好——この気温には明らかに足りない服装だが、身を縮める仕草も、腕を組んで暖を取る動きも見せない。肩に積もった雪が、払われないまま形を保っていた。呼吸の白さも、目を凝らさなければ気づかないほど薄い。
足元の雪だまりに、革靴の跡がくっきりと残っている一方で、靴そのものは雪解け水で濡れているようには見えなかった。普通なら染み込んで色が変わるはずの生地の境目が、乾いたままの色を保っている。彼女の周囲だけ、地面に落ちた雪の融け方がわずかに遅い——そう感じたのは気のせいかもしれない、とサクラは思ったが、確かめる術はなかった。何がそうさせているのか、説明する言葉をサクラは持たない。ただ、寒さという一点にだけ、この身体には及んでいないものがあるように見えた。
「あー、いたいた」先に声を出したのは、その人影の方だった。抑揚も、間延びした語尾も、記憶にあるカノンの声そのものだった。キヅキが数歩前に出て、「久しぶり」と短く返す。「久しぶりって言うほど久しぶりでもないっしょ」——返事は、言い終わるのとほとんど同時に来た。キヅキの視線が、一瞬だけ相手の顔の上で止まる。生前のカノンは、誰かに声をかけられるとまず相手の足元か手元を一度見て、それから顔を見て話し始める癖があった——警戒の名残だと、キヅキは前にそう言っていた。今、目の前の顔は、最初から真っ直ぐにキヅキの目だけを見ている。足元も、手元も、一度も見なかった。
サクラは、生きていた頃のカノンをほとんど知らない。言葉を交わした記憶も、数えるほどしかなかった。だから、この人影のどこがどう違うのか、サクラ自身の目では判断がつかない。分かるのは、キヅキの表情の方だった。強張った頬の線。瞬きの回数がわずかに増えたこと。それから、その強張りをすぐに元へ戻そうとする意志の強さ——ずれを感じ取っているのはキヅキで、サクラはその変化を読むことしかできなかった。二重に間接的な理解の仕方だと、サクラは思う。本人を知らない自分は、本人を知っている誰かの反応を通してしか、本人らしさの欠落に触れられない。
キヅキが、手のひらでサクラを示した。「こっち、桃。多分、知ってると思うけど」「知ってるよ。手配書、色違いで並んでたし」——事務的な返事だった。感情の色はほとんど乗っていない。人影は、それだけ言うと、サクラの方へ視線を移した。値踏みでも、警戒でもない、ただ確認するだけの目だった。「なんか用?」先にそう聞かれ、サクラは一歩前に出た。「ミドリを、迎えに行く。それと、A1も捜す。手を貸してほしい」単刀直入に切り出す。「A1って、あの棒持った人?」「うん」「巣鴨の人は?」「巣鴨に、自分で入った」「ふうん」——相槌のたびに、目線がわずかに宙へ流れる。情報を並べ替えているのか、それとも別の何かを確かめているのか、その区別はつかなかった。
答えは、すぐには返らなかった。一秒、二秒——ガードの上を電車が通過する轟音が、ちょうどその間を塗りつぶすように重なった。連結部の継ぎ目を車輪が拾う音が、等間隔で四回、頭上を過ぎていく。轟音が過ぎ去ってからも、まだ二秒ほどの間があった。合わせて、七秒ほど。理由を考えている様子でも、迷っている様子でもない。表情の筋一つ動かない。ただ、答えを出す前の、決まった手続きのような間だった。氷柱から落ちた水滴が一つ、アスファルトに小さな音を立てて弾けた。
「まあいいか」——それだけだった。理由は続かない。頷きも、笑いも伴わない、事実の報告のような声だった。作った者の脚本には、おそらくこの選択は書かれていない。羽根川クロエが用意した映像の中のカノンは、街を歩くことも、記者の質問に答えることもしたが、誰かのために手を貸すという行を選んだ記録はなかったはずだった。それでも、目の前の顔は「まあいいか」とだけ言って、それ以上の説明を持たなかった。持たないことが、説明できないことなのか、説明する必要を感じていないだけなのか、それすら判別する手がかりはない。
キヅキも、サクラも、それ以上は聞かなかった。何のために、とは誰も言わない。理由を求めないことが、この場では礼儀に近かった。作られた身体がどんな理由でここに立つ選択をしたのかを、本人にすら説明できないかもしれないという可能性ごと、二人はそのまま引き受けることにしていた。
コートのポケットの中で、タマがそっと顔を覗かせたが、何も言わなかった。三人と一匹、ガード下を出て、雪の残る夜の路上を歩き出す。行き先はまだ決めていなかったが、立ち止まっている理由もなくなっていた。
先を歩くカノンの足取りを、キヅキだけが見ていた。一歩の幅が、記憶にあるものよりも、明らかに揃っている。踏み出す速さも、着地の位置も、寸分違わず同じ長さで繰り返されていた。それに気づいたのが自分だけだということを、キヅキは誰にも言わなかった。