アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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6.ソレイユ・ブリュラン-Soleil Brûlant-

未明、東名高速——横浜町田インターチェンジを過ぎてしばらくの下り線、雪に埋もれかけた法面の上。降り始めてから十八時間が経ち、路肩に積まれた雪壁の高さは、目測で腰のあたりまで達していた。除雪車の巡回間隔は、平常時のおよそ三十分から二時間へと延びている——アオネは自分の腕時計と、公開されている道路交通情報の更新時刻を突き合わせ、その数字を出した。本線の追い越し車線にはうっすらとチェーンの跡が残るだけで、走行車線は圧雪のまま白く沈んでいる。「チェーン規制」の看板の文字が、通過するヘッドライトのたびに一瞬だけ浮かび上がっては、また闇に戻った。国土交通省が公開する規制情報によれば、規制区間の中心は御殿場から裾野にかけての上り坂で、アオネのいる横浜町田以西はまだ本格的な規制の手前にあたる——それでも、路面に積もった圧雪の厚みは、規制区間の数値とすでに大差ないところまで進んでいた。新幹線は始発から全区間で運転を見合わせ、羽田をはじめとする空路も除雪が追いつかず欠航が相次いでいる——礼子の電話で伝えられた内容と、道路交通情報センターの発表が、陸路だけがまだ動いているという一点で揃っていた。風はほとんどない。それでも、雪はあらゆる音を薄く覆っていく。遠くの国道を走るタイヤの音も、法面の下を流れる沢の水音も、いつもより一段低く、丸みを帯びて届く。

 

アオネがこの法面に上がったのは、車列が横浜町田インターを通過する一時間十二分前だった。都心からの移動に、足のつく確率を少しでも上げる手段は使わない——深夜バスの最終便で町田までを移動し、そこから先は徒歩だった。歩いた距離、およそ六キロ。雪道での想定歩行速度は時速三キロ強、余裕を見て二時間を確保していたが、実際は一時間五十分で到着している。到着後、候補地を三箇所歩いて確認し、視界の抜けと身を隠せる灌木の密度から、この一点を観測点に決めた。気温は氷点下二度、この十分でさらに〇・三度下がっている——アオネはそれも、頭の中の表に打ち込んでおく。

 

アオネは、法面の雪をかぶった灌木の陰に、腹這いのまま伏せていた。双眼鏡は使わない。使えば視野が狭まり、周辺の動きを同時に追えなくなる——裸眼で数える方が、結果として速い。数日前、京浜島の倉庫を見張ったときと同じ姿勢だった。あのときは味方の突入を数え、今夜は護送する側を数えている。数える対象が入れ替わっただけで、姿勢そのものは変わらなかった。指先はまだ完全には温まっていない。潜伏の四日間、外気にさらされていた時間の蓄積が、今もかすかに残っている感触だった。それでも、双眼鏡を持たない手の動きに支障は出ない。伏せた頬の下で、雪が体温にわずかに溶け、薄い水膜を作っている。溶けた分だけ沈み、また凍る——その繰り返しが、動かずにいる時間の長さを教えてくれた。

 

下り線の先、遠くのヘッドライトの連なりが、規則正しい間隔で近づいてくる。編成は九台——先導車二台、本隊五台、後衛車二台。車間は平均して十八メートル前後、雪面でスリップしても追突しない距離を機械的に保ったまま、速度は時速四十キロで揃っている。交代要員を乗せているとおぼしき車両は三台目と七台目——ヘッドライトの点灯パターンが数分おきにわずかに揺れる。ハンドルを持ち替える瞬間の、癖の違いだった。この区間に入るまでに、サービスエリアでの七分間の停止が一度、路肩での三分間の停止が一度、公開されている交通カメラの映像から確認できている。休憩に規則性はなく、除雪状況に応じて随時取られているようだった。車列が首都高速を経由して東名に入ったのは、およそ五十五分前——高速道路会社が公開する渋滞・所要時間の情報サービスに、この編成に一致する速度低下の波形が記録されている。厚木を過ぎたあたりで一度、渋滞情報が不自然に途切れている区間があった。情報が意図的に伏せられたのか、単なる更新遅延なのか、判別する材料は今のところない——この一点だけは、保留のまま表の余白に残してある。次の交代地点の候補は、三箇所に絞り込んである——足柄、由比、そしてこの先の路肩そのもの。速度と車間の数字を、アオネは頭の中の表に打ち込み直す。表に感情の欄はない。

 

編成の中央、五台のうち三番目にあたる一台だけ、荷室の後部に見慣れない突起がない。他の車両にはある、温度管理設備の排気口——それが、この一台にだけ見当たらなかった。生体を輸送する車両であれば、真冬の陸路でこの排気が欠けることはまずない。消去法で導ける結論は一つだった。この車両は、生きて呼吸をする何かを運んではいない。荷台の隙間から覗く輪郭は、長持ちに似た木箱の形をしている。白い布が箱全体に巻かれ、結び目のあたりに、小さな紙片のようなものが貼りつけられていた。距離があり、色や文字までは判別できない。箱の縁からは、白布の織り目に沿ってうっすらと霜が張っているのが見て取れた——荷室の中も外気とほとんど変わらない温度に保たれている、という傍証だった。箱の寸法は、目測でおよそ縦一メートル八十、幅六十センチ前後。中身を断定できる材料は、まだ何もなかった。アオネは、その一点だけを表に書き加える。「排気なし・木箱様・布・紙片(不明)」。それ以上の言葉は要らなかった。

 

アオネは、腕の中でスマートフォンの画面を最小の明るさに落としたまま、退路の図を頭の中で組み直す。地形は、法面と反対側にガードレール、その先は雪に埋もれた斜面——逃げ場は限られている。北と南、車列の前後を塞ぐ形に組み、要員が退避できる一箇所だけを南東に残す——本線から法面へ抜ける、除雪されていない斜面の切れ目だった。以前、退路を断つために組んだ布陣と、形はまったく同じになる。あのときは、開けた一箇所から誰かを逃がすためだった。今夜は逆だった。要員を、その一箇所からだけ退かせるための穴だった。追いつめて拘束するのではなく、傷つけずに場を明け渡させる——目的が違えば、同じ形の布陣でも、意味はまったく別のものになる。アオネは、この逆転を面白いとも皮肉だとも思わなかった。ただ、条件式が一つ入れ替わっただけのことだった。

 

役割の割り振りも、この地形の上に重ねる。北、車列の進行方向そのものを塞ぐのはカノン。中央、目標車両——編成三番目の一台の車軸を止めるのはミドリ、要員の空間認知を数十秒奪うのはキヅキ。三色の連携で、車列そのものを完全に停止させることができる。

 

襲撃地点の候補は、当初もう一つあった——由比の路肩、上り線と下り線が近接する区間。追跡側の増援が入りにくい代わりに、要員が退避できる斜面がなく、傷つけずに制圧する条件を満たせない。試算した期待値は〇・三一、この地点の〇・六八には遠く及ばなかった。候補から外すのに、迷いはなかった。

 

北の持ち場、車列の進行方向のさらに先、雪に埋もれた分離帯の陰にカノンがいる。中央、法面の中腹、目標車両の停止位置を見下ろす茂みの中にキヅキとミドリ——ミドリは、要員の視線が集まりきる前に、車軸のある位置まで詰められる距離を選んでいる。三人の位置は、アオネが候補地を三箇所ずつ提示し、各人の間合いに合わせて割り振った——キヅキの声が届く範囲は車二台分ぎりぎりだという制約を軸に、残り二人の距離を逆算した配置だった。サクラは、この場にいない。木箱の確保は、要員が完全に無力化されたあとの役目として、少し離れた場所で待機している。

 

制圧の順番も、数字で組み立てる。要員は確認できている限り四名、車外に立つ機会があるのは先頭二名と後尾二名の計四名——うち同時に動ける範囲にいるのは、車列停止直後でおよそ二名に絞られる。無力化の手段はキヅキの声一つで足り、必要な時間は過去の実例から平均十八秒、最長でも四十秒を超えたことはない。要員数四、手段一、所要秒数の見積もりを掛け合わせても、失敗の確率は無視できる水準に収まった。誤差を見込んでも、失敗率は五パーセントを下回る。京浜島での成功率が体感で八割前後だったことと比べても、遜色のない数字だった。誰も傷つけない、という条件を満たしたまま、期待値は十分に高い側へ振れている。数字がそう言っている以上、迷う理由はなかった。

 

布陣と手順をまとめた短い文面を、タマ経由で三人に送る。北と中央——役割の割り振りだけを箇条書きにした、装飾のない指示だった。数十秒のうちに、了解の一文字だけが三つ、順番に画面へ返ってくる。それ以上のやり取りは要らなかった。画面を暗くし、ポケットの奥へ戻す。もう一度、遠くのヘッドライトの連なりを数え直す。九台、変わりない。速度も、車間も、これまでの観測値の範囲に収まっている。

 

合図は、音にすると決めていた。雪はあらゆる音を吸う——足音も、声も、無線機の呼び出し音さえも、いつもより早く空気の中へ溶けていく。それでも、周波数の高い指笛の一音だけは、その吸収を抜けて届くことを、アオネは以前の観測で確かめていた。無線機は使わない——電波が第三者に傍受される確率をゼロにできない以上、音のほうが確実だった。口笛では音量が不安定になる。指先の角度と息の強さだけで音程を作る指笛は、道具を持たない分、雪や湿気で不調になることもなかった。息を吸い、指を口の端に当てる。短く、一度。数秒の間を置いて、もう一度、今度は長く。北で、中央で、それぞれの持ち場についていた三つの気配が、同時に動き出すのが分かった。車列の先頭が、法面の陰から見えてくる。エンジン音は、雪に吸われて実際の距離より遠く聞こえる——目視した距離との誤差は、これまでの観測で常におよそ二十メートル前後だった。ヘッドライトの光が、伏せたままのアオネの頬を、一瞬だけ白く照らして通り過ぎた。アオネは伏せていた姿勢のまま、最後にもう一度だけ、腕時計に目を落とす。作戦開始、〇四時十七分。路肩の静止が、そこで初めて、動きに変わった。

 

 

 

 

サクラは、法面から少し下がった雪の窪みに身を伏せ、指笛の合図が二度鳴るのを待っていた。合図はアオネの計画どおり、思っていたより近くから届いた——木箱を積んだ車両が停止する見込みの位置は、南東に開けた退避口から数えておよそ三十メートル手前と算出されていて、サクラの待機場所は、そこからさらに数十メートル引いた雪だまりの陰だった。タマ経由で届いた布陣の一枚には、北にカノン、中央の茂みにキヅキとミドリ、そしてサクラの位置には「木箱・確保役」とだけ書かれている。要員の無力化が終わるまで動かない、その一点だけが、この作戦でサクラに与えられた役目だった。武器は持っていない。変身もしていない。手袋の中の指先は、もう感覚のほとんどを失いかけていて、頬に張りついた雪の粒が溶ける気配もなかった。息を殺し、雪の匂いを吸い込みながら、下り線の先で速度を落としていくヘッドライトの連なりを、サクラは目だけで追う。エンジン音が近づくにつれ、雪を踏みしめる自分の心臓の音の方が、かえって大きく聞こえた。何もせず待つ役目の方が、動く役目より長く感じられることを、サクラはこの一か月で覚えていた。アオネの計算では、要員の無力化に要する時間は最長でも四十秒、この地点から木箱の車両まで移動するのに十数秒——合わせても一分に満たない見込みだった。誤差を見込んでも失敗率は五パーセントを下回る、とタマ経由のメモには書かれていたが、数字の正しさが、待つ時間の長さの感じ方まで変えてくれるわけではなかった。路肩の雪壁は、腰の高さを超えるところまで積もっていて、窪みに伏せたサクラの視界は、その白い壁に半分遮られている。壁の隙間から覗く車列の光だけを頼りに、サクラは自分の呼吸のリズムを、なるべく車列の速度に合わせて数えていた。

 

先頭から数えて三台目、荷室に排気口を持たない目標車両が、法面の真下にさしかかった瞬間だった。除雪の届かない路肩の継ぎ目、圧雪の下に隠れたアスファルトの割れ目——そこから、樹木の根に似た帯が幾筋も同時に這い出し、車軸へ絡みつく。地面に向けて短く落ちた声が、風に流されて途切れがちにサクラの耳へ届いた。「ここにいて」。それだけだった。持ち上がった帯は、車体の重みごと路面へ引き戻すように締まり、前輪が十数センチ浮いたところで完全に静止する。運転席の要員が反射的にアクセルを踏み込む音がしたが、車体はびくとも動かず、エンジンだけが、噛み合わない歯車のような空転音を立て続けた。ヘッドライトの光軸だけが、宙に浮いたまま雪を照らし続けている。

 

同時に、黄色い声が夜の空間を満たした。建物のない高速の路肩には跳ね返る壁がなく、音はただ広がって、消える場所を持たないまま夜の中に伸びていく。運転席から飛び出そうとしていた要員が、ドアの取っ手に手をかけたまま動きを止めた。もう一人、後続車の窓を叩こうとしていた要員は、腕を上げた姿勢のまま、自分が今どちらを向いているのか分からなくなったように、体をゆっくり半回転させる。三台目の後方に控えていた交代要員の二人も、無線機を耳に当てかけた姿勢のまま、互いに背を向け合う方向へふらつき出した。無線機からは、応答のノイズだけが漏れていた。四人とも、膝から崩れることはない。ただ、自分の立っている場所が路上のどこなのか、しばらく分からなくなるだけだった。

 

先頭の護衛車が、この混乱を追い越して発進しようとした一瞬、赤い光が路面の上で弾けた。両手に纏った炎の覆いが、車両の数メートル手前のアスファルトを雪ごと薙ぎ払う。焼けた雪の匂いが、凍った空気の中に一拍だけ混じって、すぐに消えた。護衛車は急ブレーキで横滑りし、路肩の雪壁に軽く前部をぶつけて止まる。車内で運転していた要員が、ハンドルに額を押しつけたまま、しばらく顔を上げなかった。誰も、それより前へは進めなかった。

 

根が絡みついてから、声が満ちるまで、光が弾けるまで——最初の一手から最後の一手まで、体感でおよそ八秒。誰かが誰かの合図を待つ間も、動きが遅れる瞬間もなかった。三人の連携がこれほど滑らかに噛み合うのを、サクラは見たことがなかった。反比例の法則は、力を持つ者が二人以上同時に動けば、それぞれの出力が緩やかに目減りしていくはずの法則だった。京浜島の強襲でも、巣鴨の護送車襲撃でも、連携の終わりには必ず、能力の輪郭がわずかに薄くなる感触があったはずだった——声がわずかに掠れる、根の伸びる速さが最後の一本だけ鈍る、炎の高さが二撃目で少し低くなる。今夜は、それが一つもなかった。声を出すキヅキも、根を這わせるミドリも、炎を纏うカノンも、能力を使い切った直後にいつも見せる小さな乱れ——肩で息をする仕草や、次の一手までのわずかな遅れ——を、誰一人見せなかった。気づいたのはサクラだけで、誰もそれを言葉にしなかった。三人とも、いつもと変わらない足取りで、雪の上を歩いていた。

 

要員の確認は、手早く済んだ。運転席の二人はシートベルトに守られて無傷のまま、方向感覚を失ったまま座り込んでいる。護衛車の要員も、雪壁に体をぶつけただけで、外傷らしい外傷はどこにも見当たらない。後方の交代要員二人も、雪の上に座り込んだきり、互いの肩を借りて起き上がろうとしていた。倒れたままの者は、一人もいなかった。ミドリが、要員の腰から無線機を一つずつ抜き取ってポケットに沈め、キヅキは座り込んだ要員の一人に肩を貸して、雪の吹き溜まりの浅い場所へ座らせ直している。カノンだけは、すでに興味を失ったような顔で、道の先の暗がりに視線を投げていた。「終わり?」カノンが短く聞き、ミドリが頷く。「うん、全員、動けない状態で確保」「んじゃ、次」——それだけの確認で、三人は木箱の車両の方へ向き直った。キヅキが、座らせ直した要員の一人の首元に、自分のマフラーをほどいて軽くかけてやりながら、「凍傷になるほどじゃないと思うけど」と誰にともなく言う。ミドリは、車軸に絡みついた根をゆっくりとほどきながら、地面に向けてもう一言、「もういいよ」と短く声をかけていた。誰に向けた言葉かは、サクラにも分からなかった。

 

サクラは、雪だまりから体を起こし、他の三人と入れ替わるように木箱の載った車両へ近づいた。荷室の観音扉はすでに開け放たれていて、内側から白い布に包まれた木箱の輪郭が覗いている。長持ちに似た形、縦一メートル八十ほど、幅は六十センチに満たない。持ち上げようとしたキヅキとミドリが両側から手をかけ、思ったより軽い、と声を揃えて言いながら車外の雪の上へ下ろした。木箱の底が路面に触れる鈍い音が一つ響く。白布は結び目のところどころに霜が張り、指先が触れると薄い氷の粒がぱらぱらと落ちた。結び目そのものは、解いた端からほどけて二度と同じ形には戻らない、一度きりの結び方だった——誰かが確認のために結び直すことを、最初から想定していない結び方だった。サクラは、それを一つずつ解いていく。手つきに迷いはなかった。迷う理由が、そもそもなかった。

 

布の下から現れたのは、蓋の中央に貼りつけられた小さな紙片だった。縦十二センチ、横八センチほど、和紙特有の粗い繊維が、街灯の乏しい光の中でもはっきりと分かる質感で浮いている。中央には一字、崩し方の分からない古い墨書きが、滲むでも掠れるでもなく、そこだけ時間から取り残されたような濃さで残っていた。指先で持ち上げてみると、紙は驚くほど軽い——重みのなさが、かえって不自然に感じられるほどだった。この一枚が、命令系統の照会を、発令者の明示要求を、適用条項の提示を、すべて黙らせたのだと、サクラは聞いていた。書式の内側にいる者たちには、二百回を超えて一度も破られなかったものだと。誰の許可も、サクラは持っていない。それでも、指をかけると、札は何の抵抗もなく、蓋の縁からあっさりと剥がれた。書式の内側にいる者たちには破れなかったものが、書式の外にいる少女には、ただの紙切れだった。剥がれた札を、サクラは白布の切れ端に包み、コートのポケットの奥深くへしまった。捨てる、という選択肢は浮かばなかった。理由を言葉にできないまま、それだけは確かだった。

 

蓋を開ける。中に、A1がいた。

 

制服のまま、両手を体の脇に揃えられ、木箱の内側にちょうど収まる姿勢で横たえられている。ヘルメットは外され、頬にかかった前髪の先に、細かい霜がびっしりと張りついていた。息は、ある。胸がゆっくりと上下しているのが、街灯の乏しい光の中でも見て取れた。サクラは名前を呼んだ。「A1」。返事はない。数秒待ってから、もう一度、今度は肩に手をかけて揺すりながら呼んだ。「A1、聞こえてますか」。まぶたは動かない。さらに数秒置いて、腰のホルスターから細い棒を抜き取り、指の間に押しつけるように握らせてみる——反射で握り返すことを、どこかで期待していた。指は、ただ力なく開いたままだった。棒は、その手の上に乗ったまま、重みだけを預けて止まっている。

 

呼吸の周期は正しい。体温も、指先に触れた限りでは冷えすぎていない。手首の脈も、いつもと変わらない間隔で打っている。装備の位置も、ホルスターも、ヘルメットの留め具も、報告書に書くならどこにも「異状」とは書けない状態のまま、すべて揃っている。制服の袖口に付いた泥の跳ねの位置さえ、いつも右側にだけ付く癖の通りに右側にあった。それなのに、目が開かない。

 

サクラの側にあるはずの重みが、還ってこなかった。これまで、南平台の廊下ですれ違うだけでも、深夜の書斎の灯りだけでも、確かに感じ取れていた何か——命の共有と呼ばれるものの手触りが、今はどこにも見当たらない。線が切れたのではなく、線をつなぐ先そのものが、空になっている感触だった。胸のあたりに、いつもならあるはずの重みの座があって、そこに今は何もない。回線はつながっているのに、向こうの部屋に誰もいない——そういう種類の空白だった。

 

雪が、開いたままの木箱の縁に、静かに積もっていく。指で払ってもすぐにまた薄く覆う、その速度だけが、この場に流れる時間の唯一の目盛りだった。遠くで、除雪車のブレードが路面を擦る音が、途切れながら近づいては、また遠ざかっていく。風向きが変わるたび、その音の高さがわずかに揺れた。カノンとキヅキとミドリは、少し離れた場所に立ったまま、何も言わずにこちらを見ている。誰も近づいてこなかった。木箱の側面に手をついたまま、サクラは自分の吐く息の白さと、A1の胸の上下する幅を、同じリズムで数え続けた。数えても、数えても、答えらしいものは近づいてこない。木箱を降ろしたときの雪の重さと、今この胸の下にある重さの軽さが、うまく釣り合わない。誰も、次にすべきことを言い出さなかった。

 

 

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