アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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7.ネロリ36-Neroli 36-

ポケットの中で、携帯電話が短く震えた。木箱に手をついたまま数十秒動かずにいたサクラは、画面を見ないまま、それが誰からの着信かを知っていた。三人から少し離れ、雪壁の切れ目まで数歩戻る。距離にして、目算でおよそ十メートル。振り返らなくても、カノンたちがまだ木箱のそばに立ったままでいることは、雪を踏む音の途切れ方で分かった。画面を点けると、バッテリー残量は七パーセント、電波は一本のうち半分だけが点いていた。この一週間、充電のできる場所を選ぶ余裕はほとんどなかった——それでも、電源を切ることだけは一度もしなかった。「非通知」の四文字が画面に浮かぶ。呼び出し音は、いつもどおり三回で切り替わった。通話ボタンに親指を置く前に、サクラは一度だけ、木箱の中の輪郭を振り返った。開いたままの蓋の縁に、雪がまた薄く積もり始めている。遠くで、除雪車のブレードが路面を擦る音が、途切れながら近づいては、また遠ざかっていく。風向きが変わるたび、路肩の雪壁の上を、細かい粉雪が薄く舞い上がった。手袋を外した指先は、もう感覚のほとんどを失いかけている。通話ボタンに触れる瞬間だけ、画面の光がその指先を青白く照らした。

 

襲撃から確保までの数分間、張り詰めていたものが、通話ボタンに触れる指先から少しずつ抜けていくのが分かった。肩の筋肉が、今になって強張っていることに気づく。息を吸うたび、喉の奥が乾いた雪の匂いでちりちりと痛んだ。

 

「……サクラさん」礼子の声だった。いつもより、さらに一段、語尾が薄い。「お預かりしているものが、おありでしょう、と、以前に申し上げました」「はい」「あの方が、まだ、お目覚めにならないのですね」問いではなく、確認だった。答える前から知っているような口ぶりだった。サクラは、雪を踏む足の感触だけを頼りに、聞くべきことを選んだ。「お預かりしているもの、って、なんですか」。しばらく、回線の向こうは沈黙した。金属的な微かなノイズが一度混じり、それも消える。「あの方が、あなたにお貸ししたのではなく」礼子は、そこで一拍置いた。「お預けになったもの、でございます。……お返しなさい」。それだけだった。方法までは続かない。「どうやって、返せばいいんですか」サクラが聞くと、礼子はまた同じだけの間を置いてから答えた。「それは、お預かりした方にしか、分かりません」。教える気がないのではなく、教える言葉を持っていないのだと、声の重さで分かった。「いつまでに、返せばいいんですか」サクラが重ねて聞くと、礼子は初めて、即答した。「今夜のうちに、と申し上げます」。期限を示す数字は、それ以上出てこなかった。「返したら、ワタシは、どうなるんですか」サクラは続けて聞いた。礼子は、今度はさらに長く黙った。回線の向こうで、遠く、何かを告げる館内放送のようなものが、言葉の判別できない高さで一度だけ通り過ぎた気がした。「……それも、わたくしには、分かりかねます」「分からないのに、返せって言うんですか」「分かった上でお伝えできることの方が、少のうございます、今夜は」——礼子の声に、初めて言い訳めいた色が混じった。「一つだけ、申し上げられることがございます」少しの間を置いて、礼子は続けた。「これは、あなた様がお決めになることでございます。わたくしにも、他のどなたにも、決められることではございません」。それが慰めなのか、それとも念を押しているだけなのか、サクラには判断がつかなかった。「今夜は、それだけで」礼子はもう一度、同じ言葉を繰り返す。「今夜は、それだけで、よろしいのです」。電子音が一つ鳴って、通話が切れた。画面には「通話時間 00:02:14」とだけ表示され、バッテリー残量は六パーセントに落ちていた。

 

サクラは、しばらく画面の暗くなった携帯電話を見つめていたが、やがてコートの内ポケットへ戻した。指先はもう、画面の輪郭さえおぼつかないほど冷え切っている。相談する相手は、思いつかなかった。カノンにもキヅキにもミドリにも、この電話の中身を話すつもりはない。それは臆病さではなかった。話せば、誰かが止めるかもしれない、あるいは止めないまでも、何かを言うかもしれない——そのどちらも、今のサクラには要らなかった。頭の中では、すでに計算が進んでいる。預かった生命を還せば、自分の側が保たない。その見積もりは、電話が切れる前から、もうほとんど終わっていた。確かめるべき数字はどこにもない。アオネなら期待値を出すところだろうし、Qなら分離できるかどうかを問うところだろう。サクラの計算には、そのどちらの手続きもなかった。共有されている命の重みを、今度は自分の側から差し出す。差し出した分だけ、自分の中に残る分は減る——それだけの、単純な引き算だった。答えが出た後で、それを誰かに検算してもらう必要は感じなかった。空は、まだ暗いままだった。

 

手袋を戻し、コートの裾についた雪を一度だけ払う。動作そのものは、いつもと変わらない朝の支度と同じだった——出かける前に、上着の乱れを直す仕草に近い。それが、これから起きることの重さと釣り合っていないことに、サクラ自身も気づいていたが、他にどう体を動かせばいいのか分からなかった。振り返る、という動作を、サクラは自分に許さなかった。振り返れば、雪だまりの向こうに立つ三人の顔を見てしまう。見れば、何か言われるかもしれない。言われれば、迷いが差し込む隙間ができる。手順だけが、静かに前へ進んでいく。

 

一章前の夜のことを、サクラはふいに思い出していた。廃ビルの三階、崩れかけた床の上で、A1に「続く方」を選ぶか、選ばないかを問われた夜。床に散った埃と、崩れたコンクリートの粉の匂い。血の温度が指先から抜けていく感覚。あのとき、自分は迷わなかった。迷う理由が、そもそもなかった。今夜も、同じだった。ただし、あのときとは選ぶものが逆になっている。あのとき自分は「続く方」を選んだ。今夜は「還す方」を選ぶ。理由は、声にしなかった。声にする必要も感じなかった。ただ、木箱の方へ向き直る足の運びだけが、その理由をすでに語っていた。

 

カノンとキヅキとミドリは、少し離れた雪だまりのそばで、まだ何も言わずに立っている。サクラが木箱の前まで戻ると、三人の視線が一斉にこちらへ向いた。誰も、何をするのか、と聞かなかった。カノンだけが、道の先の暗がりから視線を戻し、そのまま黙って腕を組み直す。サクラは、コートの襟元に手をかけ、スマートフォンを取り出した。胸の前にかざし、液晶面を外側へ向けて、サイドボタンを押す。待機音が、一拍の無音のあとに、柔らかい和音を結んだ。腕を胸の前でゆっくりと広げる——花開くのではなく、蓋が開く感触だった。周りの雪の白さの中に、胸の中心から桃色の光が広がっていく。演出を張るつもりはなかった。いつもより、幾分か速度が遅いだけの、日常と変わらない変身だった。桃色の光が雪面に反射し、木箱の白布にもわずかに映り込む。三人は、目を細めることもせず、ただそれを見ていた。キヅキが、何か言いかけて口を開いたが、結局は何も言わずに閉じた。

 

変身が終わると、サクラは左肩のポーチに手を入れた。指先が触れたのは、丸みを帯びた輪郭がいくつか並ぶ中の、一番小さな一つだった。他の四つには触れず、それだけを取り出す。右手の杖ではなく、小さなプラスチックのカップだった。内側には、いつも決まった量だけ満たされている透明な液体があった。中身を確かめる必要はない。見なくても、その重さと揺れ方だけで、どれくらい入っているかが分かった。指先に伝わる温度は、外気よりわずかに高い程度で、湯気を立てるほどではない。膝をつき、木箱の縁に手をかけて、A1の顔の高さまで身をかがめる。霜のついた前髪の先が、頬に触れた。カップの縁を、動かない唇にそっと当てた。少しずつ、液体を流し込んでいく。減っていく速さは、サクラ自身が加減できるものではなかった——傾けた分だけ、決まった速さで減っていく。誰かが最初からそう決めたような、揺るぎのない速さだった。カップの側面を伝う一滴が、雪の上に落ちて、小さな窪みを作った。喉が動く気配は、まだない。それでも、液体は確かに、口の中へと収まっていった。

 

液体が減っていくのと同じ速さで、サクラの胸の奥にあった何かが、軽くなっていくのが分かった。最初は、深く息を吸ったあとのような、わずかな浮遊感だった。次に、両腕の先から、重さが少しずつ引いていく感触が来た。指先で雪をつかんでも、その重みがいつもより頼りなく感じられる。膝についた雪の冷たさだけは、変わらずそこにあった——痛みに似た感覚だけが、体に残っている最後の錘のようだった。カップの中身が半分を切ったあたりから、その軽さは足の裏にまで広がり始めた。膝をついた雪の感触が、だんだんと遠くなっていく。視界の端、雪だまりの白さの輪郭が、心なしかぼやけて見えた。カップが空に近づくにつれ、軽さは限界のすぐ手前まで来ていることを、サクラは自分の内側の感触ではっきりと知った。ここから先へ進めば、自分の輪郭ごと、どこかへ薄れていくのかもしれない——そう思う手前の一線まで、サクラは進んだ。周囲の音が、一瞬だけ遠くなる。雪の匂いも、除雪車の音も、薄い膜の向こうにあるように感じられた。カップの底に、最後の一滴が残っている。それを傾けるかどうかを、サクラはほんの一瞬だけ迷い、そのまま傾けた。

 

サクラは、消えなかった。

 

雪だまりに落としていた両手の感覚が、少し遅れて戻ってくる。指先はまだ冷たいままだったが、その冷たさを、確かに自分のものとして感じ取れた。膝の下の雪の重みも、さっきと同じ場所に、同じだけあった。輪郭が薄れる一線の手前で、何かが引き返したのだと、サクラは頭で理解するより先に、体でそれを知った。

 

空いたはずの場所に、外から与えられたのではない何かが、内側から、言葉の速さで湧いてくる。何かとしか言いようのないそれを、サクラは名づけなかった。名づける言葉を探そうとする前に、口の方が先に動いていた。

 

サクラは、木箱の縁に置いていた手を、A1の肩のあたりまで進めた。制服越しに伝わる感触は、まだ冷たい。冷たいまま、そこにある。「A1のこと、話します」誰に向けた言葉でもなかった。木箱の中の顔に向けて、サクラは静かに語り始める。「初めて南平台に来た夜、雨が降ってて。玄関先で、傘、差し出されたんです。何も言わずに。傘立てから一本抜いて、こっちに向けて突き出しただけ。……あのときのA1の声、今でも覚えてます。『濡れたままでいる理由がない』って、それだけ。ワタシ、何て返したか覚えてないんですけど、多分、何も言えなかったと思います」——声にした瞬間、空気がわずかに動いたような気がした。木箱の中、閉じたままの喉のあたりに、色の薄い赤みが一瞬だけ差したように見えた。見間違いかもしれない、とサクラは思ったが、続きを話す手を止めなかった。「発注書の、発注理由の欄。九回、空欄のまま出してましたよね。備品も、生活用品も、理由なんて書かなくてもいいはずなのに、書かなかった。……書き方を知らなかったんじゃなくて、書く必要を感じなかったんだと思う」。庭の欅の下に立つA1の姿を、サクラは思い出しながら語った。「あの木の下で、A1、いつも同じ場所に立つんです。二階の書斎の窓から見える位置に。木のところまで、いつも十七歩。数えたことあるんです、こっそり」——喉の赤みが引くのと入れ替わるように、木箱の底、動かないままの足先に、わずかな温度が戻り始めた気がした。「報告書、いつも『異状なし』って書いてましたよね。本当は、そうじゃない夜もあったはずなのに。それでも、そう書いてた」。先月、深夜に一度だけ、書斎の灯りが消えないまま朝を迎えた夜があった。回転デスクに突っ伏したA1の背中を、サクラは廊下からそっと確かめただけで、声はかけなかった。翌朝の提出書類にも、いつもと同じ二文字が並んでいたことを、サクラは今でも覚えている。

 

語る記憶の順番に合わせて、A1の輪郭に、少しずつ気配が戻っていく。声にまつわる記憶を語れば喉のあたりから、歩幅にまつわる記憶を語れば足先から——映像のアーカイブから像が結ばれていくのではなく、サクラの語りそのものが、結ばれる順番を決めているようだった。サクラはそれ以上、意味を探そうとしなかった。ただ、思い出す端から声にしていく。木箱の脇に立つキヅキが、一度だけ小さく息を呑んだが、何も言わなかった。ミドリも、カノンも、動かなかった。三人とも、口を挟む隙を、最初から探していないようだった。

 

雪はまだ、木箱の縁に降り積もっている。だが、その積もり方が、さっきまでよりわずかに緩やかになっていることに、サクラは気づいていた。東の空、雪雲の切れ間の向こうで、灰色が少しずつ薄い色に変わり始めている。遠くの国道を走るタイヤの音が、いつもより一段はっきりと届くようになった気がした。除雪車のブレードの音も、心なしか近づいたまま止まっている。ミドリが、雪だまりの縁に積もった粉雪を一度だけ払い、それ以上は動かなかった。カノンは、腕を組んだまま、道の先の暗がりではなく、木箱の方をずっと見ていた。誰も、時計を確かめなかった。木箱の中の輪郭に語りかけ続けるサクラの声だけが、路肩の静けさの中に残っている。夜が、明け始めていた。

 

 

 

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