薄暗い裏路地。
湿ったコンクリートの臭いと、澱んだ空気が肌に張り付く。
時刻は早朝であり、人の気配はまるでない。
しかし、その周囲にはとても朝とは思えない不穏な空気が立ち込めるのであった。
朝霧の中によく目を凝らすと、路地裏の間に二人の人影があった。
「……で? 俺には雄英の外壁防御システムをどうにかしてほしいってか。だが、その後はどうするんだ?」
男がもう一人に尋ねる。
その男、死柄木弔は血走った瞳で首元を掻きむしりながら、もう一人を睨みつけていた。
皮膚を引っ掻く不快な音は、静まり返った路地裏に不気味な雰囲気を反響させる。
その風貌はまるで生気を感じられないほど青白く、体つきも不健康なほど痩せていた。
そしてその佇まいは、社会への憎悪と歪んだ狂気そのものだった。
だが、もう一人の人物、青山優雅はそんな雰囲気を全くおくびにも出さない様子で、気品ある笑みを仮面のように貼り付けたまま、冷徹に言葉を返す。
「ああ。俺が指定するタイミングで、お前が『雄英バリア』を破壊してくれればいい。俺のコネを使ってマスコミにはオールマイトが教師になったことを大々的に宣伝しておいたから、雄英の外には大量のマスコミがいるだろうよ。
そいつらが一斉になだれ込み、一時的に雄英内部を混乱させる。
外の喧騒に教師陣の意識が向けられているその隙に、職員室に潜入し目的のデータを回収してきてやるよ」
「ハッ、口だけは達者なキザ野郎だ……。まあいい、先生の言いつけだ。乗ってやるよ」
不気味な笑みを浮かべる死柄木を見つめながら、青山は心の中で静かに息を吐き捨てた。
(――この男も、あの男の手のひらで踊らされている
死柄木の破滅的な狂気の根底に巣食う、AFOという絶対的な毒の存在。
激しい同族嫌悪と、一歩間違えれば自分もこうなっていたという冷ややかな戦慄が、青山の胸を重く締め付けた。
しかし、同情している余裕はない。
相手は人を害すことに何のためらいも持っていないヴィランなのだ。
油断したが最後、喰われるのはこちらである。
あくまで利害関係の繋がりであることを脳に焼き付けつつ、青山は細部まで計画を構築していくのであった……。
場所は移り、雄英高校、1年A組の教室。
「優雅さん、おはようございます。昨日の戦闘訓練の疲れは残っておられませんか?」
朝のホームルーム前、幼馴染の八百万百が清々しい笑みを向けて声をかけてくる。昨日の戦闘訓練での青山の圧倒的な立ち振る舞いが印象に残っているのか、その瞳には隠しきれない尊敬の色が宿っていた。
「おはよう、モモちゃん。問題ないよ、ヒーローを目指す者として万全を期すのは当然さ」
青山は完璧な王子様の笑みで応じる。八百万は「流石ですわね」と安心して席に戻るが、青山はその純粋な視線を受け止めることができず、そっと視線を逸らした。
(やめてくれ……そんな綺麗な目で僕を見るな)
授業は通常通り進行していく。
クラスメイト達は学級委員長を決めることになり、学校らしい行事に盛り上がっているようだ。
だが、青山優雅だけはこれから起こる惨劇に向けて思考を巡らせており、どこか上の空であった。
そして――昼休み。
潜入実行の、その時が訪れる。
「優雅さん、一緒にお昼を食べませんこと? 今日はシェフが作りすぎてしまったみたいで、一人ではお弁当が食べきれなそうですの……」
そう声をかけてくる八百万だったが、あいにく今の青山に他者と向き合う余裕など微塵もなかった。
「ごめん、ちょっと今食欲がなくてさ……今日は遠慮させてもらうよ」
八百万はそこにわずかな不信感を抱いたものの、わざわざプライベートに踏み込むまいと引き下がるのであった。
――もし、ここで彼女の誘いに乗っていたら。
彼女とテーブルを囲んで他愛のない会話を交わしていたなら、のちの結末は少しばかり違ったものになっていたかもしれない。だが、泥にまみれた道を選んだ青山の足が止まることはなかった。
突如として、校内にけたたましい警報が鳴り響いた。
――『避難勧告レベル3。敷地内へ何者かが侵入しました』
死柄木が雄英の門を破壊し、マスコミが一斉に敷地内へ雪崩れ込んだのだ。食堂は一瞬にしてパニックに陥り、生徒たちが押し合いへし合い逃げ惑う。
青山は人ごみに巻き込まれず、かつ不自然な動きをカモフラージュできるトイレへと身を潜めた。
相澤をはじめとする教師陣が混乱の収拾のため現場へ急行するのを「氣」の索敵能力で確認し、青山は個室の便器の上に登り、その真上にあったダクトの蓋を押し上げる。
(今だ……)
青山は気配を完全に殺して跳躍する。誰にも気づかれることなく、闇に包まれたダクト内へと潜入した。
このダクトが職員室にまで直結していることは、事前の建築資料の調査で確認済みだった。
個性のレーザーは光と音で目立つため一切使えない。
頼れるのは、日々の過酷な自重トレで鍛え上げた体幹と、「氣」の索敵能力だけだ。
足音を一切立てず、ダクト内に張り巡らされた防犯カメラの死角を縫うように移動する。途中に設置された赤外線センサーも、青山にとっては障害にならなかった。
AFOから受け取った個性の影響か、青山の瞳は異形型ほどではないにせよ変質しており、今では可視光線のみならず、肉眼では捉えられない不可視光線までもが凝縮すれば看破できるようになっていたのだ。
そうしてたどり着いた、職員室の前。
幸いにも、主要な戦闘・索敵系教師は全員正門の方へ向かっていた。
範囲制圧に優れたミッドナイトやセメントス、対人戦闘特化のイレイザーヘッド、そして人心掌握のプレゼント・マイク。彼らが問題対処の最前線へ向かうことは、最初から計算づくだった。
さらに、昼休みというタイミングもこの上なく好都合だった。教職員も昼食をとる時間帯であり、職員室に残っている者はほとんどいなかったのである。
だが、油断は禁物だ。青山は慎重にダクトの網から這い出し、静まり返った廊下を進む。
極限まで呼吸を沈め、校内に響く警報の重低音に自身の動作を完璧に同期させながら、音もなく職員室のドアの隙間をすり抜けた。
職員室の中は、異様な静寂に包まれていた。
――ただ一人、警戒を絶やしていない雄英高校の番人を除いては。
ハウンドドッグ。
猟犬ヒーローの名に違わず、その優れた嗅覚は遠く離れた人間の人数、移動経路、さらには発汗による精神状態までをも正確に把握する。
その圧倒的な身体能力と合わせて、一度侵入した者を決して逃がさない、まさに学園の番犬だった。
だが、それすらも作戦の範疇内だ。
青山は、食堂から職員室へと通じる経路のダクトの蓋を、あえて開けっ放しにしていた。
昼時の雑多な食堂の強烈な匂いや、パニックに陥った生徒たちが流した大量の汗の匂い。
それらが混ざり合った無数の生活臭がダクトを通じて職員室へと流れ込むことで、ハウンドドッグの鋭敏すぎる嗅覚を完全に乱させる。
それに加え、生徒たちの阿鼻叫喚がもたらす喧噪が、彼の聴覚までをも見事に誤魔化していた。
日頃からその類まれな感覚に頼り切っている雄英の番犬の隙をつくのは、今の青山にとって容易いことだった。
中央の端末へと歩み寄り、指先の精密な動作でセキュリティを解除する。目的のデータ――1年生時における年間授業カリキュラムを抽出し、持参した極小の外部メモリへと書き込んでいく。
画面の上で進む転送メーター。
『転送完了まで、あと数秒……』
その数秒間が、まるで己の魂を煮詰められるような耐え難い拷問に感じられた。
モニターの画面に反射した自分の顔が、醜い悪魔のように歪んで見える。
「……終わった」
抜き取った冷たいメモリをポケットにしまい込み、青山は誰にも気づかれることなく、再び音もなく職員室を脱出した。
後はダクトを元通りに閉めながら自身の指紋を綺麗に拭き取り、トイレへと引き返すだけだ。
一切の痕跡を残さない、完璧なスニークミッションだった。
校舎の裏手、影になった無人の資材置き場。
昼休みはまだ終わっていないようだ。
時間にして10分にも満たない出来事だったのだろうか。
しかし、それには見合わないような疲労感が押し寄せてきてしまい、ふと青山は足を止めた。
ポケットに収まった冷たいメモリの感触を確かめながら、壁に背を預ける。
ミッションは完璧に完遂された。誰も自分を疑う者はいない。
マスコミが入って来たが迅速な教師陣の対応によって大きな問題が発生したりはしなかったようだ。
全て予定通り……だというのに……
「……っ、ふ……っ、く……」
だが次の瞬間、膝の力が抜け、青山はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
喉の奥から激しい吐き気が込み上げ、胸を押し潰すような過呼吸が彼を襲う。
(また、……また、仲間を売った……)
昨日、八百万が見せてくれた純粋な尊敬の瞳。
クラスメイトたちの「頼もしい同級生」という笑顔。
それら全てを欺き、利用し、自分は今、のうのうとAFOへと上納するための餌に変えたのだ。
「俺は……ただの……裏切り者だ……っ! なんの言い訳もしようがない……!」
完璧な優等生の仮面が剥がれ落ち、ボロボロと涙を溢れさせながら地面に拳を叩きつける青山。
その過酷すぎる自責の念に、彼の精神は悲鳴を上げていた。
どんな理由があれそれは明確な裏切りであり、みなを危険にさらしてしまったことは変えようのない事実だった。
いったいあと何度こんな綱渡りをすればいいのだろうか。
覚悟を決めたはずなのに、そんなことを自分に問いてしまう。
涙が、溢れ出してくるのだ。
しかし――彼は気づいていない。
誰もいないはずの資材置き場の隅。
ほんの少しだけ、空間の光が不自然に歪んでいたことに。
透明化して彼の後をつけていた葉隠透が、息を殺してそこに立ち尽くしていた。
(……優雅くん……)
八百万も、緑谷も、誰も知らない。
『完璧で優雅な青山くん』の仮面の裏に隠された、あまりにも痛々しく、いつもの笑顔なんかは一つも面影がない本当の姿。
葉隠は声も出さず、青山にさえ声を掛けることができなかった。
彼女には何もわからなかった。青山が何に、これほどまでに苦しんでいるのか。
かろうじてアナウンスのあった雄英高校への不法侵入と何か関係があるのかもしれない。
しかし、彼女にはどうしても、青山が自分の私利私欲のためにこんな真似をするような人間に思えなかったのだ。
入学試験のあの時、目の前で絶望的な状況の中、迷わず誰かを救おうとしていた、あの気高い少年の姿を思い出してしまう。
だが、今自分の視界に映っている少年は、かつての輝かしい彼とどうしても結びつかなかった。
むしろ彼は、目に見えない何かに怯え、誰かに助けを求めようともがいている「被害者」のようにも見えた。
胸の奥で、ドロリとした熱いものがうごめくのを感じる。
――これが何を意味する感情なのか、葉隠には分からない。
ただ彼女にできたのは、口に手を当て必死に息を殺しながら、ずっと一人で震え続ける青山を、「見えない瞳」でじっと見つめ続けることだけだった。