そんな風に思うことはよくあるかもしれない。けど、じゃあそこで終わりというのはなんとも辛い物語ではないか?
やがて自分にもいい人がまた見つかって、その人と共に過ごすことにして、子どもまで作った。
それでも忘れられない、消えない想いだってあると思うんです。
どうか忘れないで。その初心は、一番大事なものだから。
いつもの朝。いつもの景色。俺は家の中、寝室のベッドの上で目覚める。隣には妻がいて、少し遠い部屋には息子がいる。
おはようと伝える。愛しの家族と朝食食べるのはこれが何度目かはわからないが、普通の観点で見れば幸せなのだろう。
あぁ、幸せだとも。そう思って思い込んできた。
だがこの胸の奥はいつも空白があった。求めていた物が手に入らず、空けていたスペースが埋まらない空虚と焦燥感がだんだんと広がってくる。
「…お父さん、どうかしたの?」
息子が心配する声でハッと気づいた。そうだ、まだ朝食の最中だった。
息子の心配そうな目が胸にチクリと刺さる。
「…大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけ」
「そっか…うん、わかった!」
きっと息子にはバレているのだろう。この気持ちも、あいつへの思いも全部。いや、それは妻も気づいてるはず。今はただ見逃してもらっているだけなのだろう。
朝食を食べ終えて、スーツを着る。日常のルーティンをしていると何も考えなくて良いのが好きだ。限度はあるのだが。
通勤の満員電車の中で、今日のスケジュールを思い出す。確か今日中に会議の資料を作って、通常業務をして……と、自分の世界に浸る。
オフィスビルは今日も太陽に照らされてキラキラと眩しいほどに輝いていた。それに加えて外は暑い。この時期は湿気も多い分体毛に湿度と温度が溜まりやすくてたまったもんじゃない。
自分のデスクに着くと、既にあいつはいた。
「よっ笹野! おはよ!」
今日も今日とて陽の権化なレッサーパンダの彼、縞本が元気に挨拶してきた。
汗でシャツが湿って中の景色が薄く見える。とても眼福で挨拶を忘れそうになった。
「…おはよ、縞本」
なんとかひねり出した挨拶がこれだ。我ながらもうちょっとなんとかならなかったのかと反省している。
「ん…今日は一段と元気がねーじゃん。どうした?」
純粋なクリクリの目で心配してくるその姿は、とても愛らしくて元気がもらえる。いや、そんなことを考えている場合ではないのだが。
「大丈夫だって…ちょっと寝不足なだけ」
「本当か? オレを訝しんだ…」
全くもって可愛らしいなこいつ。手は荷物を置いて身体は椅子に座って準備万端なのに頭だけが彼を捉えて離してくれない。
「大丈夫だってば。ほら、早くしないと朝礼の時間だぞ」
そう、時刻は朝礼の5分前であり、隣の席とはいえそろそろ前を向かねば怒の雷が降ってくるのは間違いないだろう。
「あ、マジか! わりぃわりぃ…」
へへへと笑う彼はきちんと姿勢を正して前に向いた。横顔が視界の端にチラつく。レッサーパンダにしては凛々しく可愛らしいまさにパーフェクトな顔面凶器。俺でなければ即死だろう。
…いかん、のろけている場合ではない。気を取り直して今日の業務を始めるとしよう。
窓から刺さる光がオレンジ色になってきた頃。姿勢が悪かったのか腰と背中が痛い。肩も疲れが溜まっているのがよくわかる。
ごきごきと肩を回していると、隣からなんとも間抜けなあくび声が聞こえた。
「…はーっ…つかれたなー…」
「俺も疲れた…」
彼がこちらを見る。この顔が俺を狂わせる。自分の尻尾がピコピコと小さいなりに激しく動いている。まあこの角度からは見えないだろう。
「今日どっか飲みに行かねー?」
「いつもの居酒屋にする?」
「だなー。うーし、定時まで頑張るぞー!」
むんとした顔で気合を入れている。とてもかわいい。こちらも頑張らねばという気持ちにさせてくれる。
ふと、彼の手を握りたくなった。なぜかは分からない、けれど手を握りたい。でもここは会社で、俺たちはそんな関係じゃない。
「…なぁ、どうかしたか?」
びっくりした。顔に出ていたのだろうか。
「あぁ…いや、別に…」
「いやさ、なんかめっちゃ物欲しそうな目してるからさ」
目は口より物を言うとはまさにこのこと。バレていた。少しショックである。本当にかなわないな、この男には。
「……手、握りたくなっちゃった」
言ってしまった。このあとが怖い。
「なんだ、そんなことかよ!」
彼はそう言って、左手を差し出してきた。ぷにぷにで太くて大きな抱擁力のある、手。
俺は迷わず握った。両手で。とても温かくて、もちもちしていて、少し筋肉があるのがわかる。
「…へへ、そんな嬉しそうにされるとオレも照れるな…」
この時間が好きだ。彼と触れ合える時間が、とても好きだ。永遠になってほしいとさえ思う、そんな刹那の時間。手汗が滲んできて、それでもやめたくなくて。
でも、胸の穴は埋まらない。埋まってくれない。身体が足りないと訴えていた。もっと彼を感じていたいと、そう言っている。
「…どうした? 苦しそうだぞ?」
「……あ」
いつの間にそんな顔になっていたのか。全く気づかなかった。
「ううん…大丈夫。ありがとな」
そう言って手を離す。名残惜しいが、まだ仕事が終わっていないから。
「おう…なんかあったら言えよ?」
「わかってる」
もう夕日が海に落ちかけている頃、一緒に退社する。
疲れが溜まったこの身体は、早く休みたいと訴えていた。俺も休みたい。
縞本は早く妻と息子に会いたいと愚痴っていた。ジェラシー。
「飲みに行くんだろ」
「行くけどさー…連絡いれなきゃ」
2人で歩く道は、同じようで違うもののような気がした。
いつもの居酒屋に着くと、畳の席に座ることにした。真正面に縞本がいる。酒すら入っていないのに胸がドキドキする。
「生2つで!」
「あと串カツも」
「かしこまりました」
店員は注文を受け取ると厨房に向かっていった。それを見届けて顔を縞本に向ける。やはり可愛らしい。
「…なぁなぁ、やっぱなんか隠してるだろ」
「…そんなことないって、疑り深いな」
「だって朝からちょっと様子が変だったしよ、どこか具合が悪いってわけでもなさそうだし…」
こいつ、よく観察している。こういう所は感がいいのはいつものことだが。
「…言っても嫌いにならない?」
「…?なるわけねぇだろ、笹野」
…なんとも、こんな言葉がスラスラと出るものなんだな。そりゃ色んな人からモテるのもわかる。
「お待たせしましたー」
ちょうど酒と串カツがやってきた。ぐびっと一杯飲んで、心を落ち着かせる。
「…あのさ、縞本」
「おう」
「…俺、やっぱりお前が欲しい。
わかってるよ、縞本は妻も子どもも大事にしてるって。俺も大事だ。けど、やっぱり満たされないんだ」
言った。言ってしまった。途方もない後悔が早速襲ってきた。そもそもの話、縞本とは一度折り合いを付けてるはずだ。あの時、一度限りの交わりをもってこれからも親友の距離感でいようって。覚えている。でも、やっぱりだめだった。
「…ごめん、やっぱり」
「笹野」
止められた。思考が止まる。
「…前も言っただろ? オレには妻も息子もいて、お前にもいる。だから気持ちには応えてやれねぇって」
「…うん」
「……それでも、なんだな」
「………うん」
居酒屋のはずなのに周りがとても静かだ。まるで2人だけの世界に入ったみたい。縞本は長い時間の中、思考を巡らせているようだった。串カツの味がしない。
「…悪い、やっぱり応えられねぇや」
知っていたし、わかっていた。そんな結末になることぐらいこんな頭でもわかっていたのに、やっぱり胸がズキズキする。
酒を一気に飲んで、頭をアルコールで麻痺させた。
「…縞本」
「なんだ?」
その手をぎゅっと握りしめる。普段は泣き上戸な俺も、今だけは泣かなかった。
「…笹野?」
そんな俺を見て少し怯えている縞本。
…ダメだ、もっと取り返しのつかないことを口走りそう。でも、でも。
「…頼む。俺と一緒に逃げよう」
「……………は?」
「俺と、妻も息子も捨てて…一緒にどこかに行こう」
口が止まらない。やっぱり涙は溢れ、それでも手は離さなかった。
「…な、何言って…飲みすぎだぞ笹野」
そう言って俺の手を振り放そうとした。力を入れてぎゅっと握る。離したくない。
「…笹野…ダメだってば…」
「…頼む……もう、限界なんだよッ…」
涙で視界がにじむ。今縞本がどんな顔をしているのかさえわからなかった。わからないまま、手を握っていた。
「いつまでも埋まらないんだ、この胸が。お前が傍にいないと、ずっとモノクロなんだよ…」
「………」
「…うぅ…うああああ…」
酒が回ってきたのか、その後はずっと泣いていた気がした。
気がつくと夜の公園にいて、ベンチに座っていた。隣には縞本がいて、手を握られていた。
「…ん…縞本…?」
「よ、目が覚めたか?」
「うん…」
目を伏せた。少しだけ気まずくて、でも居心地が良かった。隣に彼がいてくれるのが、とても嬉しい。
「…笹野」
「……何?」
苗字だけを呼ぶ時は、いつだって真剣な話をしたい時のものだった。
「オレさ、ちょっと考えてみた」
「…聞かせて」
縞本はひと息ついてから、話始めた。
「最初、やっぱり妻たちが大事だって思ってた。でも、オレはお前の気持ちを知っていて、それでも妻たちを優先していたせいで今日お前がそうなっちまったんなら…責任、取らなきゃなって。
…いや、それじゃあきっとダメなんだ。オレもお前のことちゃんと好きにならねぇと不公平だろ? だから…さ。」
そこで止まった。出したい言葉がつっかえているのか、それとも探しているのか。握った手には熱が籠もってきたが、それでも離さなかった。
「…だから?」
「……だから、オレちゃんと好きになりたい。お前のこと、もっと知りたい。…それからで、いいか?」
ちゃんとした妥協案のようなものだった。まず先にあんたのことをよく知りたいと、そう言っている。わかっているよ、いきなりあんな提案を受け入れられないって。
「…うん。俺のこと、もっと知ってくれ」
「良かった。断られるかもしれねぇって思ってたから、なんかちょっと安心した」
「じゃあ…縞本。今日はもう帰ろう」
「へへ…そうだな。帰ろ」
こうして、俺と縞本の終わったはずの物語は再び開演された。この先、どこに行き着くのかは…まだわからない。
それでも俺は信じている。あいつと…縞本と、生涯を共にできる日がやってくると。
好きな絵師の好きな漫画のキャラで二次創作をやるのは多分これが初めてです。
レッパパさんとパンダパパさんの物語にはいつも面白さともどかしさ、悲しさがあって好きです。因果関係で見れば、彼らが別々に結婚しなければレッサーくんもパンダくんも生まれなかったわけで、その2人が生まれなければあのシリーズすら無かった可能性もあります。そこはまあ、仕方ないといえば仕方ないんだけどね。
でもやっぱりレッパパさんとパンダパパさんの恋路は結ばれてほしいのです!!!!
これはいわゆる第一章的なものなので、そのうち第二章書きます。
その時が来るまで…さようなら〜