星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
討伐レースは、既に終盤に差し掛かっていた。フィールド各所では、両校の生徒たちが最後の追い込みに入っている。得点表示板には、東京校と京都校、僅差の数字が刻まれていた。
その頃、フィールドを覆う結界の制御室――高専本校舎の地下深く。
薄暗い部屋に、無数の術式盤が淡い光を放っている。空調の低い唸りだけが響く静寂の中、アーデンは一人、静かに座していた。目の前の術式盤には、結界の維持状態を示す幾何学模様が淡く光っている。彼の指先が、その一角に触れた。
アーデン「(――さて、と。そろそろ、時間か)」
誰にも聞かれることのない独り言。彼の表情からは、いつもの飄々とした笑みが消えていた。窓一つない部屋の中、彼の周りにだけ、実際の年齢よりもずっと重い時間が流れているように見えた。
アーデン「(すまないな、少年たち。……これも、君たちを守るための布石だと、今は信じてくれ)」
指先が、術式盤の隅に隠された小さな綻びに触れる。それは、彼自身がこの数日をかけて密かに仕込んでおいた細工――結界の強度を、ある一点だけ、極めて微細に緩めるものだった。傍目には気づかれぬほどのその綻びが、今、静かに開き始める。
アーデンは目を閉じ、深く息を吐いた。
アーデン「(不知。君の望む『データ』とやら、好きに取ればいい。だが――一線は、越えさせない)」
胸の奥で、静かな痛みが疼く。羂索の計画に乗る演技を続けるたび、彼の中で何かがすり減っていくような感覚があった。だが、退くわけにはいかない。もし自分がここで離反すれば、羂索は必ず別の手駒を使い、もっと直接的で、もっと無差別な形で牙を剥くだろう。ならば、己が「協力者」の顔を保ったまま、被害を最小限に抑える方が、まだましだ――そう己に言い聞かせながら、彼はこの数日、綻びの強度を何度も調整し直していた。誰にも打ち明けられない孤独な均衡感覚だけが、彼の唯一の武器だった。
アーデン「(せめて――少年たちが、本気を出せるだけの『猶予』だけは、作ってやる)」
決意を胸に、彼は術式盤から手を離し、静かに立ち上がった。制御室の扉へ向かう足取りは、いつもの飄々とした軽さを装いながらも、どこか重かった。
フィールドでは、何も知らぬ生徒たちが、まだ討伐レースに興じていた。
釘崎「――よし、これで五体目! 西宮、まだそっちには負けてないわよ!」
西宮「はぁ? まだまだこれからでしょ!」
言い合いながらも、二人の表情には充実感が滲んでいる。だが、その和やかな空気は、次の瞬間、唐突に凍りついた。
釘崎「――え?」
フィールド全体を覆っていた結界に、ピシリ、と亀裂が走る音がした。誰もが顔を上げる。空――否、頭上を覆う不可視の膜のその向こうに、うっすらと黒い染みのようなものが滲み始めていた。
夜蛾正道は、それにいち早く気づいた一人だった。
夜蛾「――何だ、これは」
彼は即座にマスクの奥で目を細め、術式盤の異常を感知しようと意識を集中させる。
夜蛾「結界に、外部からの干渉がある。……それも、内側からの綻びを突く形で」
その言葉に、近くにいた五条悟の表情からも、いつもの軽薄な笑みが消えた。
五条「――内側から? 誰かが手引きしたってこと?」
夜蛾「分からん。だが、悠長にしている時間はなさそうだ」
二人が同時に動き出そうとした、その時。既に彼らの足元からは、フィールド全体へ広がる異変の気配が、ひたひたと押し寄せ始めていた。
亀裂の走った空の彼方から、じわり、と紫がかった靄が滲み出し、フィールド全体へと緩やかに流れ込み始めた。甘く、しかし嗅ぐ者の肺腑を静かに侵していくような、不気味な香り。
釘崎「――な、なにこの匂い……」
咳き込みながら、釘崎が後ずさる。西宮も箒の上から顔をしかめた。
西宮「うわ、最悪……。なんか、頭がクラクラする……」
離れた場所にいたイグニスが、いち早くその異常性に気づいた。
イグニス「――毒か。それも、尋常の質のものではないな」
彼の視線が、フィールド全体を包み込みつつある紫の靄の出所――結界の亀裂へと向けられる。
イグニス「(この気配……嫌な予感がする)」
プロンプトが銃を構えながら、辺りを見回した。
プロンプト「なあイグニス、これ、さっきまでとは空気がまるで違うぞ……!」
イグニス「ああ。恐らく、討伐レース用に用意された疑似呪霊や低位の相手とは、格が違う。全員に警戒を促すべきだ」
グラウンドの端、生徒たちの控え所付近では、家入硝子がルナフレーナを庇うように前へ出ていた。
家入「――ルナちゃん、下がって! これ、ただ事じゃないよ!」
ルナフレーナ「は、はい……! でも、皆さんは……」
不安げに視線を巡らせるルナフレーナの瞳に、フィールドの中央――紫の靄がひときわ濃く渦巻く一点が映った。その靄の奥で、何か巨大なものが、ゆっくりと、しかし確かな輪郭を持って蠢いているのが見えた。
家入「大丈夫。あんたはここにいて、何かあったらすぐ私の後ろに隠れな」
そう言いながらも、家入自身の額にも、うっすらと汗が滲んでいた。彼女もまた、この気配がただ事ではないと、医療従事者としての勘で悟っていた。
木々の擦れる音とも、獣の唸りとも違う、異質な軋み。まるで、大地そのものが呻いているかのような音が、フィールド全体に反響し始める。
虎杖「――なんだよ、これ……」
先ほどまでの熱気が嘘のように、フィールド中の生徒たちの間に緊張が走った。討伐レースという牧歌的な催しの空気は、この瞬間、完全に凍りついた。
伏黒「――全員、警戒しろ! これは、通常の呪霊じゃない!」
伏黒の鋭い声が響く中、紫の靄の中心から、ゆっくりと巨大な影が姿を現し始めていた。木の枝を思わせる無数の腕、その先端に咲く禍々しい花――特級呪霊・花御の気配が、フィールド全体を圧するように広がっていく。
離れた場所で息を整えていた東堂も、その気配に振り返った。
東堂「――ほう。これはまた、随分と『上等』な客が来たものだ」
好戦的な笑みを浮かべながらも、彼の目には確かな緊張が宿っていた。この気配が、これまでの模擬戦とは次元の異なるものだと、彼の本能が告げていた。
加茂もまた、赤い刃を再び手のひらに滲ませながら、フィールドの中央を睨んでいた。
加茂「――特級か。厄介なことになった」
三輪は刀の柄に手をかけたまま、僅かに後ずさっていた。
三輪「わ、私……こんな相手、想定していませんでした……。皆さん、どうか、お気を付けて……」
震える声で呟きながらも、彼女は逃げ出すことなく、その場に踏みとどまっていた。楽巌寺から下された密命のこと、京都校としての体面のこと――様々な思いが胸をよぎったが、今はただ、目の前の脅威に向き合うことしか考えられなかった。
ノクティスは、剣を握る手に自然と力を込めた。
ノクティス「(――来やがった。ここからが、本当の戦いか)」
彼の視界の端に、控え所で家入に庇われながらも、こちらを見つめるルナフレーナの姿が映った。その瞳に浮かぶ不安を、絶対に現実にはさせない――そう心に誓いながら、ノクティスは花御の巨影を見据えた。
静寂を切り裂くように、花御の咆哮が、フィールドの隅々にまで響き渡った。それは、平穏な交流会という名の日常が、決定的に終わりを告げた瞬間の音でもあった。