星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
帳が屹立した、その直後のことだった。
五条たちが陣取る場所からは遠く離れたフィールドの反対側で、家入硝子は目の前の見えない壁を睨みつけていた。向こう側では、生徒たちが特級と対峙している。倒れる者が出るのは、時間の問題だった。
家入「(――五条ですら弾かれたんでしょ。私が触ったところで、同じよ)」
分かっていた。分かっていて、それでも彼女は拳を叩きつけた。医者として、何もせず見ているという選択肢だけは、持ち合わせていなかったからだ。
だが。
拳は、何の抵抗もなく、水のように向こう側へ抜けた。
家入「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。五条悟の無下限呪術を拒んだ壁が、自分の腕は素通りさせる。手を引き戻し、もう一度差し入れる。やはり、何も起こらない。
家入「(――選んでる。この帳、弾く相手を選んでるんだ)」
背筋が冷えた。最強格だけを締め出し、それ以外は通す。中の子供たちには好きなだけ手を出させて、止められる大人だけを外に置き去りにする――そういう設計だ。悪意の質が、想像していたより遥かに悪い。
だが、考えている時間はなかった。帳の向こうで、最初の一人が膝から崩れるのが見えた。
家入「――ルナちゃん。あんたはここで待ってな」
そう言い残して踏み出しかけた背に、静かな声がかかった。
ルナフレーナ「いいえ。――ご一緒します」
家入が振り返る。ルナフレーナの瞳から、怯えが消えていたわけではない。それでも彼女は、既に一歩を踏み出していた。
ルナフレーナ「わたくしは非術師です。ですが、だからこそ、あの壁はわたくしを拒みません。……家入さんお一人では、きっと手が足りなくなります」
家入「……はぁ。言うようになったじゃない」
反論に費やす時間すら惜しかった。二人は帳を抜け、フィールドの外れ――戦場から最も遠い一角に、即席の救護所を設けた。
そして、それから幾らも経たないうちに、その場所は野戦病院と化した。花御の毒霧に触れ、意識を朦朧とさせる生徒。蝕環との戦闘で深手を負った生徒――両校の垣根なく、傷ついた者たちが次々と運び込まれてくる。担架がひっきりなしに行き交い、呻き声があちこちから漏れ聞こえた。
家入「――くっ、次から次へと……! 手が足りない!」
家入硝子が、包帯を巻きながら焦燥の声を漏らす。彼女の医療の腕をもってしても、シガイの毒は通常の治療では対処しきれない厄介な性質を持っていた。周囲では、他の術師たちも懸命に負傷者の運搬や応急処置に追われ、慌ただしい空気が救護所全体を包んでいた。
家入「(――このままじゃ、間に合わない子が出てくる……!)」
苛立ちと焦りが、彼女の指先を震わせる。だが、それを表には出さず、彼女は次々と運ばれてくる負傷者の処置に追われていた。
その傍らで、ルナフレーナは震える手を握りしめながら、運ばれてくる負傷者たちを見つめていた。
ルナフレーナ「――家入さん。わたくしにも、何か、お手伝いできることは……」
家入「……ダメよ。あんたの力のことは、私が一番よく知ってる。でも、グラディオ君を癒やした時、たった一人で倒れかけたのを忘れたの? この数の負傷者を相手にしたら、今度はあんたが潰れる」
ルナフレーナ「でも……! このままでは、皆さんが……」
そう言いかけた時、担架に乗せられて運ばれてきた京都校の生徒――三輪と共に戦っていた下級生の一人が、苦悶の声を上げた。全身に紫がかった斑点が広がり、呼吸が浅くなっている。
家入「――くっ、この子、毒の回りが早い……! 通常の解毒剤じゃ、間に合わない!」
その光景を見た瞬間、ルナフレーナの中で、何かが決壊した。
ルナフレーナ「――わたくしに、やらせてください」
家入が驚いた表情で振り返る。ルナフレーナは、既に負傷者の傍らに膝をつき、両手をそっとかざしていた。彼女の瞳には、迷いよりも、確かな覚悟の色が浮かんでいた。
ルナフレーナ「……お願い、届いて」
彼女の掌から、淡い光が溢れ出した。それは、呪力とは全く異質な、純白の光――負の感情を一切含まない、純粋な祈りから生まれる正のエネルギーだった。
光が負傷者の体を包み込むと、紫の斑点が見る間に薄れていく。荒かった呼吸が、次第に穏やかさを取り戻していった。
家入「――中和した……。それも、グラディオ君の時より、ずっと速い……!」
家入が目を見開く。医務室で一度目にしたはずの光景――だが、その練度は、あの時とは比べものにならなかった。祈りの光は迷いなく毒だけを選び取り、退けていく。
ルナフレーナ「……間に合い、ました」
安堵の息を吐きながら、ルナフレーナは次の負傷者へと視線を向けた。だが、既に彼女の顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。
家入「――大丈夫? 無理はしないで」
ルナフレーナ「いいえ。まだ、続けます。皆さんが、あちらで戦ってくださっている間、わたくしにできることは、これしかありませんから」
その静かな決意に、家入は思わず言葉を失った。非術師であるはずの彼女が、誰よりも強い意志で、この戦場に立ち続けようとしている。
決意を込めた声で、ルナフレーナは次々と運ばれてくる負傷者たちへ、祈りの光を注ぎ続けた。一人、また一人と、毒に侵された生徒たちが快方に向かっていく。
京都校の生徒も、東京校の生徒も、彼女にとっては分け隔てのない救済の対象だった。誰かがぽつりと呟いた。
呪術師の一人「――あの子、非術師なのに……。俺たち以上に、この場を支えてる」
その呟きは、次第に周囲に広がっていく感謝と驚嘆の声となって、救護所の空気を静かに変えていった。
家入もまた、次々と快復していく生徒たちの姿を見ながら、自身の中に芽生えた新たな認識を噛み締めていた。
家入「(――医務室で一人を癒やすのがやっとだった子が、戦場の真ん中で、これだけの数を……。この子は、私の想像よりずっと速く、強くなってる)」
その静かな確信が、彼女の胸の中で確かな重みを持ち始めていた。
その光景は、次第に救護所の外にも伝わり始めた。
イグニス「――あれは」
戦場の合間、負傷した仲間を運んできたイグニスが、救護所の光景に目を見張った。
イグニス「彼女の祈りか。……グラディオを救った時とは、規模が違うな」
家入「ええ。彼女がいなかったら、何人か危なかった」
イグニスは、静かに頷いた。
イグニス「――ノクトには、まだ伝えていない方がいいだろう。彼が今、それを知れば、戦いに集中できなくなるかもしれない」
家入「……そうね。今は、目の前のことに専念してもらった方がいい」
イグニスは踵を返しながら、内心で静かに感嘆していた。あの祈りがグラディオ一人を救った奇跡であることは、身をもって知っていた。だが今、彼女はその力で、戦場全体を裏から支えている。その事実は、彼にとっても小さくない驚きだった。
イグニス「(――彼女の力は、我々の想像以上に、この戦いの鍵を握っているのかもしれない)」
そんな考えを巡らせながら、彼は再び戦場へと戻っていった。負傷者を運ぶ役目を終えた彼の足取りには、僅かながら新たな確信が加わっていた。
ルナフレーナは、疲労を押して尚も祈りを紡ぎ続けていた。彼女の姿は、もはや守られるだけの存在ではなく、この戦場を裏から支える、確かな戦力の一つへと変わりつつあった。
家入は、そんな彼女の横顔を見つめながら、静かに呟いた。
家入「――ルナちゃん。あんた、本当にすごいわ」
ルナフレーナ「――いいえ。わたくしは、ただ、皆さんの無事を祈っているだけです」
謙虚に微笑みながらも、彼女の瞳には、確かな覚悟の光が宿っていた。誰かのために祈り、誰かのために力を尽くす――それが、彼女なりの戦い方だった。
家入は、そんな彼女の姿を見つめながら、静かに己の中の認識を新たにしていた。医務室で見たあの奇跡は、始まりに過ぎなかったのかもしれない――そう思いながら、彼女は次の負傷者の処置へと向き直った。
そして、その光は――遥か上空、フィールド全体を見下ろす場所からも、確かに見えていた。
継ぎ接ぎだらけの顔を持つ男が、うっとりとした表情でその光を見つめている。
真人「……ああ、やっぱり。すごく、綺麗だなぁ」
無邪気な呟きが、誰にも届かぬまま、風に溶けて消えていった。