星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜   作:いくと

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野球!野球!


chapter.07
白球は、呪いを知らない


シガイ襲撃の翌朝は、拍子抜けするほど静かだった。

 

医療棟の廊下には消毒薬の匂いが薄く残っていたが、そこに寝かされている者はもう数えるほどしかいない。毒に侵された生徒たちは、そのほとんどが夜のうちに快復していた。ルナフレーナの祈りが毒を抜き、家入硝子の反転術式が傷を塞ぐ――内と外から順番に処置を回した結果だった。

 

家入「(――一晩でこの回復率か。うちの医務室、いつからこんな優秀になったんだか)」

 

カルテを繰りながら、家入は小さく息を吐いた。隣の椅子では、ルナフレーナが船を漕いでいる。夜通し祈りを注ぎ続けて、明け方にようやく力尽きたのだ。家入は自分の白衣を脱いで、その肩にそっと掛けてやった。

 

家入「……あんたは、少し寝てなさい」

 

窓の外では、まだ薄い朝の光がグラウンドを撫でていた。

 

生徒たちが食堂に集まったのは、それから二時間後のことだった。

 

空気は重かった。誰も昨日の話をしなかったが、誰の頭からも昨日が離れていなかった。花御の巨躯。際限なく湧いたシガイ。継ぎ接ぎだらけの顔をした男。そして、あの帳。

 

虎杖「……なあ。京都の連中、まだ帰ってないんだな」

 

伏黒「交流会は二日間の日程だ。昨日で終わったわけじゃない」

 

釘崎「終わったも同然でしょ。あんな目に遭って、続きなんてやるわけ――」

 

その時、食堂の扉が景気よく蹴り開けられた。

 

五条「はい注目! 交流会二日目、やるよ!」

 

一瞬、食堂が完全に静まり返った。

 

釘崎「……は?」

 

虎杖「え、いや、あの、五条先生。昨日あんなことがあったのに――」

 

五条「あったから、やるんだよ」

 

軽薄な声だった。だがサングラス越しの視線は、食堂にいる全員を一人ずつ撫でるように動いていた。疲れ切った顔、まだ手の震えが止まっていない者、昨日から一言も喋っていない者。

 

五条「昨日のこと、忘れろとは言わない。忘れられるわけないしね。でもさ、このまま解散して各自の部屋に帰って、一人で天井見上げて『昨日のあれは何だったんだろう』って考える時間、僕は君たちにあげたくないの」

 

夜蛾「……五条」

 

五条「学長も反対しないでしょ。うちは回復役が足りてないんじゃなくて、心の回復役が足りてないんだから」

 

そう言って、五条は懐から一枚の紙を取り出した。

 

五条「というわけで、二日目の種目はくじ引きで決めます。――虎杖、引いて」

 

虎杖「なんで俺!?」

 

五条「昨日一番殴られてたから」

 

理不尽な指名だったが、逆らう空気でもなかった。虎杖が箱に手を突っ込み、折り畳まれた紙を一枚引き抜く。全員の視線が集まる中、彼はそれを広げた。

 

そして、しばらく黙った。

 

虎杖「……野球」

 

食堂が、二度目の沈黙に落ちた。

 

反応が最初に爆発したのは、東京校ではなかった。

 

東堂「――ハッ!」

 

隣の卓から立ち上がった巨躯が、腕を組んだまま天井を仰いだ。

 

東堂「いいだろう。実にいい! 拳を交えるだけが魂のぶつかり合いではない! 白球を挟んで向かい合うこともまた、魂の対話だ!」

 

三輪「東堂さん、昨日あれだけ暴れたのに、どこにそんな体力が……」

 

加茂「……正気か。昨日、我々は死人が出てもおかしくない事態を経験したばかりだぞ」

 

五条「うん。だから野球なんだよ、加茂くん」

 

加茂が言葉に詰まった。五条は続けなかった。ただ、片手をひらひらと振っただけだった。

 

その沈黙を破ったのは、意外にも楽巌寺だった。

 

楽巌寺「……ふん。京都校は、受けて立つ」

 

西宮「学長!?」

 

楽巌寺「昨日、うちの生徒が幾人も助けられた。借りを作ったまま帰るのは、京都の流儀ではない」

 

半ば閉じた目のまま、老人はそれだけ言って湯呑みを傾けた。西宮と三輪が顔を見合わせる。加茂が観念したように息を吐いた。

 

こうして、呪術高専史上まれに見る珍事――両校合同の野球大会は、驚くほどあっさりと成立した。

 

グラウンドに白線が引かれていく。

 

伊地知が半泣きになりながらベースを設置し、パンダが土を均し、狗巻がバットを抱えて運んでいる。昨日まで毒霧と怒号に満ちていた同じ場所が、たった一晩で、間の抜けた土の匂いを取り戻していた。

 

プロンプト「うわ、マジでやるんだ……! なあノクト、俺カメラ持ってきていい?」

 

ノクティス「……好きにしろよ。つーか、野球かよ。だりぃ」

 

その二人の背後から、呆れたような声が飛んだ。

 

グラディオラス「おい、やる前から腐ってんじゃねぇぞノクト」

 

ノクティス「腐ってねぇ。ただ、走るのが多いスポーツは好きじゃねぇだけだ。……つーか、グラディオたちは出ないのかよ」

 

グラディオラス「出られるかよ。俺らは大人枠だ。交流会の本戦には最初から出場資格がねぇ」

 

イグニス「昨日のような非常時ならともかく、今日はただの二日目だからな。我々が混ざったら、それは交流会ではなくなる」

 

言いながら、イグニスは腕に抱えた大きな保冷バッグを近くの長机に置いた。中には冷やした麦茶の水筒と、朝のうちに焼いたらしい菓子が几帳面に並んでいる。

 

プロンプト「イグニス、それ何!?」

 

イグニス「試合後の補給だ。両校分ある。……昨日あれだけ消耗した体で走り回るなら、糖分は必須だからな」

 

グラディオラス「こいつ、朝五時から台所に立ってやがった」

 

イグニス「五時半だ。正確に言え」

 

ノクティス「(――結局、こういうところは変わらねぇんだな)」

 

呆れながらも、ノクティスの口元が僅かに緩んだ。

 

虎杖「え、ノクトたちって普通に野球知ってんの? なんかもっとこう……未知の力の人だから、そういうの知らないのかと」

 

プロンプト「知ってるに決まってんじゃん。普通に高校生だぞ、俺ら」

 

言われてみればその通りだった。彼らは特別な力に覚醒したというだけで、それ以外は虎杖と何も変わらない場所で育ってきた。虎杖は自分の勝手な思い込みが少しおかしくなって、頭を掻いた。

 

イグニス「――ああ、そうだ。記録は私が付ける。後で読み返せるようにな」

 

グラディオラス「誰が読み返すんだよ、そんなもん」

 

イグニス「私が読む。それで十分だろう」

 

ルール説明は、五条がやった。

 

五条「基本は普通の野球。ただし人数の都合と、あと単純に僕が見てて面白くないから、特別ルールを一つ。――呪術の使用は、外野手一名のみ許可」

 

釘崎「一人だけ!? なんでよ!」

 

五条「全員が使えたら野球じゃなくて戦争になるでしょ。昨日やったばっかりじゃん、戦争」

 

軽い口調に、何人かが苦笑した。緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

京都校の呪術使用枠には、迷いなく西宮桃が指名された。箒で空を飛べる彼女が外野に立てば、頭上を越える打球はまず落ちない。

 

西宮「ま、当然の人選よね。あたし以外に誰がいるっての」

 

釘崎「調子乗んじゃないわよ。落としたら笑ってやるから」

 

西宮「落とさないっつーの」

 

昨日、背中を預けて戦った二人の軽口は、以前より遠慮がなくなっていた。

 

一方、東京校の枠でひと悶着があった。

 

伏黒「待て。ノクトたちの魂具術式は、扱いとしてはどうなる」

 

五条「あー。それね」

 

五条が顎に手を当てる。

 

五条「呪術……ではないんだけど、まあ呪力特性の枠には入れてるからね。うん、呪術扱いってことで」

 

ノクティス「じゃあ俺、なんもできねぇのか」

 

五条「そういうこと。君ら、地力だけで勝負ね」

 

プロンプト「えー! じゃあ俺の穿星は!?」

 

五条「野球で標を打ち込むな」

 

至極まっとうな叱責だった。

 

結局、東京校の呪術使用枠はパンダに落ち着いた。呪骸の膂力なら外野の守備範囲が広いという、消去法のような理由だった。

 

パンダ「任せろ! 俺、こう見えて肩は強いぞ!」

 

狗巻「しゃけ」

 

パンダ「そうそう、俺が捕って狗巻が中継な」

 

試合は、驚くほど締まった立ち上がりを見せた。

 

東京校の先発は狗巻棘。呪言が使えない以上ただの投手のはずだったが、これが恐ろしく制球が良かった。無表情のまま、内角低めに黙々と球を集めてくる。

 

狗巻「しゃけ」

 

三輪「(――何を考えているのか、まったく読めません……!)」

 

対する京都校の先発は、東堂葵。こちらは制球という概念を持ち合わせていなかった。

 

東堂「――受け止めろ! 我が魂の熱量を!」

 

轟音とともに投じられた球が、捕手の頭上を大きく越えて後方の金網に突き刺さる。

 

加茂「東堂! ストライクゾーンに入れろ!」

 

東堂「入れようとしている! 白球が俺の魂に追いついてこないだけだ!」

 

釘崎「なにその言い訳!」

 

三回まで、両校とも走者を出せずにいた。片や精密機械のような投球、片や暴風雨のような投球。理由は正反対だったが、結果として誰も打てなかった。

 

グラウンドの土埃と、間の抜けた掛け声と、時折起こる笑い声。昨日ここで何が起きたかを知る者からすれば、信じがたいほど平和な光景だった。

 

ベンチの外に据えた長机で、イグニスが淡々とスコアブックに鉛筆を走らせている。その隣で、グラディオラスが腕を組んだまま試合を眺めていた。

 

グラディオラス「……妙な気分だな」

 

イグニス「同感だ」

 

グラディオラス「昨日はあそこで、あいつらが死ぬかどうかって面してた。今日は同じ場所で、ボール取れなくて笑ってやがる」

 

イグニス「そういうものだろう。……そして、そのために我々は昨日戦った」

 

グラディオラスは何も言い返さなかった。ただ、鼻から短く息を吐いて、グラウンドへ視線を戻した。

 

医療棟の窓からも、その様子を眺めている者がいた。家入の隣には、いつの間にか目を覚ましたルナフレーナが立っている。

 

ルナフレーナ「……皆さん、楽しそうですね」

 

家入「ま、あの馬鹿げた提案も、たまには当たるってことよ」

 

ルナフレーナは何も言わず、ただ小さく微笑んだ。グラウンドの中央で、ノクティスが心底面倒くさそうな顔でバットを担いでいるのが見えた。

 

均衡が破れたのは、四回だった。

 

東堂の一球が、初めてストライクゾーンの真ん中に吸い込まれた。

 

そこに、禪院真希が立っていた。

 

金属音は、鳴らなかった。破裂音に近い、鈍く重い音だけが響いた。白球はライナーのまま上がり続け、そのままグラウンドを囲む林の中へ消えていった。

 

一瞬、誰も声を出せなかった。

 

プロンプト「……えっ」

 

虎杖「あの、今の、フェンス越えてない? っていうかフェンスの向こうの木も越えてない?」

 

パンダ「越えてるな。……真希さん、たまにああなるんだよ」

 

先に塁にいた虎杖が生還し、東京校が一点を先制する。ベンチが沸き返る中、長机の側でグラディオラスが小さく唸った。

 

グラディオラス「……おい。あいつ、呪力使ってねぇぞ」

 

イグニス「使っていないな。そもそも彼女は呪力を持っていない」

 

グラディオラス「天与呪縛、だったか。……そうか」

 

彼はしばらく黙って、ホームを踏む真希の背中を見ていた。

 

呪力を持たない身一つで、呪術師の世界に立ち続けている者。その意味を、グラディオラスは誰よりもよく知っていた。自分もまた、ルナフレーナに命を拾われるまで、己の腕以外に頼れるものを持たなかったからだ。

 

ベンチへ戻る途中、真希が長机の前を通りかかった。

 

真希「……なによ、じろじろ見て」

 

グラディオラス「いや。いい当たりだったと思ってな」

 

真希「当たり前でしょ。あたしは技術で振ってんの」

 

グラディオラス「知ってる。だから見てた」

 

真希が一瞬だけ足を止め、それから「ふん」と鼻を鳴らして歩き去った。

 

だがその背中は、ほんの少しだけ得意げだった。

 

イグニス「……珍しいな。君が女性を褒めるとは」

 

グラディオラス「褒めてねぇよ。同じもん見つけただけだ」

 

京都校の反撃は、八回に来た。

 

きっかけは三輪霞だった。ここまで一度も快音を響かせていなかった彼女が、外角の球に食らいついて、ぼてぼての内野安打をもぎ取ったのだ。

 

三輪「い、行けました……! 私、行けましたよ東堂さん!」

 

東堂「よくやった霞! それでこそ我が同輩だ!」

 

続く加茂が、几帳面なバントで走者を進める。真依が四球を選び、一死一二塁。ここで代打が告げられ、球場の空気が一気に張り詰めた。

 

そして、打球は上がった。

 

右中間――最も深く、最も守備の薄い場所へ。白球は落下点を探すように、ゆっくりと弧を描いていく。走者は二人とも既にスタートを切っていた。落ちれば、逆転だった。

 

ライトを守っていたのは、ノクティスだった。

 

彼は既に走り出していた。だが、間に合う角度ではなかった。落下点は、彼の走路のさらに数歩先にある。

 

ノクティス「(――届かねぇ)」

 

その瞬間だった。

 

視界の端で、センターのプロンプトが動いていた。ノクティスは声をかけていない。プロンプトも何も言っていない。だがプロンプトは、ノクティスが「届かない」と判断したのとまったく同じ瞬間に、落下点へ向かって最短距離で滑り込んでいた。

 

グラブに、白球が収まる。

 

振り向きざま、プロンプトは見もせずに二塁へ送球した。確認する必要すら感じていなかった。そこに誰かがいることを、なぜか知っていたからだ。

 

伏黒恵は、既に二塁ベースの上にいた。

 

自分でも、いつ動いたのか覚えていなかった。打球が上がった瞬間には走り出していて、プロンプトが捕るより前にベースを踏む位置に入っていた。

 

伏黒「(――なんで俺は、あいつが投げる前からここに立ってる)」

 

送球が、寸分の狂いもなくグラブに収まった。

 

飛び出していた走者が、戻れなかった。

 

――併殺。

 

グラウンドが、静まり返った。

 

加茂「……今の」

 

三輪「打った瞬間から……三人とも、もう動いていました。誰も、何も、言っていないのに……」

 

長机の側で、イグニスの鉛筆が止まっていた。

 

イグニス「……グラディオ」

 

グラディオラス「ああ。見てた」

 

イグニス「我々は、あそこにいない」

 

グラディオラス「……ああ」

 

二人はしばらく黙っていた。

 

これまで、あの現象は四人揃った時にだけ起きるものだと思っていた。理由も分からず、条件も分からないまま、それでも「自分たち四人のもの」だという漠然とした認識があった。

 

だが今、グラウンドで起きたそれには、自分たちは混ざっていない。代わりに、昨日会ったばかりと言っていい少年が、当たり前のような顔でその中に立っている。

 

イグニス「(――我々の絆が特別なのではない、ということか。それとも……)」

 

グラディオラス「(――広がってんのか、これ)」

 

答えを出せる材料は、どちらも持っていなかった。

 

グラウンドの中央では、ノクティスが息を切らしながらプロンプトの肩を小突いていた。

 

ノクティス「――お前、なんで俺が届かないって分かった」

 

プロンプト「知らねぇよ。なんとなく、ノクトが『あ、無理だ』って思った気がしたんだよ」

 

ノクティス「……伏黒は」

 

伏黒「聞くな。俺が一番分かってない」

 

三人が、揃って笑った。

 

高台の上から、その一部始終を見下ろしていた男がいた。両手をポケットに突っ込んだまま、アーデンは長いこと黙っていた。

 

アーデン「(――やれやれ。試合中まで見せつけてくれるじゃないか)」

 

昨日、羂索が欲しがっていたデータそのものが、今、白球を追いかけながら無自覚に晒されている。しかも今日は、その輪が一人分広がったところまで。それを止める術は自分にはなく、止めるべきかどうかの答えも持ち合わせていない。

 

ただ一つだけ、彼には分かっていることがあった。

 

アーデン「(――この光景は、悪くない。……本当に、悪くないな)」

 

彼は誰にも聞こえない声でそう呟いて、グラウンドへ視線を戻した。

 

決着は、最終回についた。

 

二死走者一塁。打席に立ったのは、この日ここまで三打数ノーヒット、あくびを二回した男だった。

 

東堂「――来たか、ノクティス。貴様の魂の熱量、この東堂葵が測ってやろう!」

 

ノクティス「……測らなくていいから、早く投げてくれ。腹減った」

 

東堂「ハッ! 良い返事だ!」

 

会話は噛み合っていなかったが、二人とも気にしていなかった。

 

初球、外れる。二球目、外れる。三球目、ようやくストライク。四球目、五球目と外れ、カウントは追い込まれることなく進んでいく。東堂の球は速かったが、どこへ行くか本人にも分かっていなかった。

 

そして六球目。

 

その日、東堂葵が投じた中で二度目の、ど真ん中だった。

 

ノクティスは、大きく振らなかった。バットを短く持ち直し、最短距離で振り抜いた。打球は低いライナーで一二塁間を破り、そのまま右翼線を転がっていく。

 

一塁走者の虎杖が、二塁を蹴り、三塁を回った。

 

ライトの西宮が箒に飛び乗る。呪術使用枠として認められた唯一の力を、彼女は最後の最後で使った。滞空したまま打球を掬い上げ、渾身の返球がホームへ突き刺さる。

 

だが――半歩、遅かった。

 

虎杖の足が、ホームベースを掠めた。

 

東京校ベンチが爆発した。パンダが両手を突き上げ、釘崎が飛び跳ね、伊地知が何故か泣いていた。

 

二対〇。

 

長机の上で、イグニスが静かにスコアブックを閉じた。

 

試合終了の号令がかかっても、しばらく誰もグラウンドから出ていかなかった。

 

東堂が虎杖の背中を叩き、その勢いで虎杖が前のめりに倒れた。西宮と釘崎が、どちらが先に謝るかで揉めていた。三輪が加茂に「私、打てました」と何度も報告し、加茂が「聞いた。三度目だ」と生真面目に返していた。

 

イグニスの長机には、両校の生徒が入り混じって群がっていた。

 

西宮「ちょっと、これめちゃくちゃ美味しいんだけど。あんた何者?」

 

イグニス「ただの引率だ」

 

三輪「引率の方が、こんなものを焼かれるんですか……?」

 

グラディオラス「気にすんな。こいつはそういう生き物だ」

 

昨日、この場所で命を懸けて戦った同じ顔ぶれが、泥だらけになって菓子を奪い合っている。

 

加茂「――高専の諸君」

 

土を払いながら、加茂憲紀が東京校の面々に向き直った。

 

加茂「昨日は、世話になった。……そして今日は、負けた。悔しい」

 

虎杖「あ、いや、こっちこそ――」

 

加茂「言い訳をするつもりはない。だが、次は勝つ」

 

そう言って、彼は手を差し出した。昨日「次に会う時までとは言わないがな」と釘を刺した男の手だった。

 

虎杖が、その手を握った。

 

加茂「……ふん。存外、握力があるな」

 

虎杖「あんたもな!」

 

東堂が二人の肩をまとめて抱え込み、加茂が本気で嫌がった。

 

その光景を、ノクティスは少し離れた場所から眺めていた。隣には、いつの間にかルナフレーナが立っていた。白衣を返しに来たついでに、そのまま試合を最後まで見ていたらしい。

 

ルナフレーナ「お疲れさまでした、ノクト。……最後の一本、素敵でした」

 

ノクティス「見てたのか」

 

ルナフレーナ「はい。ずっと」

 

ノクティス「……そうか」

 

言葉が続かなかった。彼はグラウンドの騒がしさに視線を逃がして、それから、ぽつりと言った。

 

ノクティス「昨日みたいなのが、また来るんだと思う。多分、もっとひどいのが」

 

ルナフレーナ「……はい」

 

ノクティス「でも、こういう日もあるんだな」

 

彼はそれ以上うまく言えなかった。守るために戦っているものの正体を、たった今、目の前で見た気がした。泥まみれで笑っている連中と、隣に立っている少女と、間の抜けた土の匂い。それだけのことだった。それだけのことが、昨日あれほど命懸けで守ろうとしたものの全部だった。

 

ルナフレーナが、そっと彼の袖を摘まんだ。

 

ルナフレーナ「わたくしは、こういう日を、たくさん覚えていたいです」

 

ノクティス「……ああ」

 

夕暮れのグラウンドに、白線の跡が長く伸びていた。

 

誰かが野球道具を片付け始め、誰かが夕飯の話を始め、誰かがもう一試合やろうと言い出して東堂が乗り、加茂が全力で止めた。

 

呪いのない時間が、確かにそこにあった。

 

そしてそれは、この先の彼らが手にする最後の穏やかな季節の、まだ入り口に過ぎなかった。

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