星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
京都校が高専を発ったのは、野球の翌朝だった。
バスの前で東堂が虎杖を捕まえて長々と何かを語り、加茂が「時間だ」と三度告げても解放せず、最終的に真依が本気で東堂の背中を蹴った。三輪が全員に頭を下げて回り、西宮が釘崎に「連絡先くらい寄越しなさいよ」と言い捨てて箒を担いだ。
見送りが終わって門が閉まると、グラウンドは急に広くなったように感じられた。
そして翌々日、高専に土曜日が来た。
プロンプト「ノクトー! 起きろー! 休みだぞー!」
ノクティス「…………」
プロンプト「おい、生きてるか。呼吸してるか」
ノクティス「……してる。うるせぇ」
布団の中から辛うじて聞こえた声に、プロンプトが遠慮なくカーテンを開け放った。十月の午前十時の光が、容赦なく部屋に流れ込んでくる。
ノクティス「……眩しい」
プロンプト「十時だぞ。半日終わってるって」
ノクティス「まだ半分残ってんだろ」
プロンプト「その理屈は認めない」
引きずり出されるようにして起こされたノクティスは、洗面所で顔を洗いながら、ようやく今日が休みだということを思い出した。夜蛾からは「二日間は完全休養とする」と通達が出ていた。交流会とシガイ襲撃の後始末は大人が引き受けるから、生徒は何もするなという意味だった。
食堂には誰もいなかった。テーブルの上に、ラップのかかった皿と書き置きが一枚。
『二人分置いておく。イグニス 追伸:グラディオと物資の買い出しに出る。夕方まで戻らない』
プロンプト「うわ、朝飯まで用意してある。イグニスって俺らの母親か何かなの?」
ノクティス「あいつ、休みの日でも五時半に起きてんだろ」
プロンプト「絶対そう。賭けてもいい」
二人は黙って食べた。冷めても美味かった。
行き先は、駅前のゲームセンターだった。
理由は特になかった。プロンプトが「行こうぜ」と言い、ノクティスが「まあ」と答えた。それだけで決まった。
平日の昼にはまばらだった店内も、土曜となると人でごった返している。制服姿の高校生、家族連れ、一人で黙々とレバーを叩く常連。呪術も呪霊も何ひとつ関係のない、当たり前の休日の音がそこにあった。
プロンプト「よっしゃ、まずは対戦格闘な!」
ノクティス「……お前、前回それで五連敗しただろ」
プロンプト「今日の俺は違う。昨日、動画を見た」
結果として、プロンプトは七連敗した。
プロンプト「おかしい! 動画通りにやってるのに!」
ノクティス「動画の奴と同じ指の速さがねぇんだろ」
プロンプト「うるさい! 次! 次はレースな!」
ノクティスはレースで勝ち、太鼓のゲームで負け、クレーンゲームでは二人とも惨敗した。三千円を溶かした末に、プロンプトが最後の百円で掴み取ったのは、目当てだった大きなぬいぐるみではなく、その手前に転がっていた小さなキーホルダーだった。
プロンプト「……いや、これはこれで悪くないだろ」
ノクティス「負け惜しみだろ、それ」
プロンプト「違う。狙ってた」
言いながら、プロンプトはそのキーホルダーをカメラのストラップに括りつけた。
彼が首から下げているのは、いつものコンパクトカメラだった。高価なものではない。編入する前から使っている、少し傷の入った型落ちの機種だ。
プロンプト「よし、記念な。ノクト、そこ立って」
ノクティス「……なんでいちいち撮るんだよ」
プロンプト「いいから」
シャッター音が鳴った。液晶を覗き込んだプロンプトが、満足そうに頷く。
プロンプト「うん、いい顔してる。すげぇ不機嫌な顔」
ノクティス「消せ」
プロンプト「やだ」
昼を過ぎて、二人は電車に乗った。
行き先を決めたのはノクティスだった。プロンプトが「どこ行く?」と聞いた時、彼は少し考えてから「釣り」と答えた。
プロンプト「え、釣り? 道具は?」
ノクティス「貸してくれるとこがある」
多摩川沿いの管理釣り場は、休日にもかかわらず閑散としていた。受付の老人から竿と餌を借り、二人は水辺に並んで腰を下ろした。
十月の川面は、光を細かく砕いて揺れている。
プロンプトが最初の三十分で音を上げた。
プロンプト「……なあ、これ、動かなくない?」
ノクティス「動くと逃げる」
プロンプト「じゃあ何すんの、この時間」
ノクティス「待つ」
プロンプト「……哲学かよ」
そう言いながらも、プロンプトは隣で大人しく竿を握っていた。時々思い出したようにカメラを構えて、川面や、対岸の木や、隣で微動だにしないノクティスの横顔を撮っていた。
一時間ほど経って、ノクティスの竿がしなった。
危なげない手つきだった。合わせを入れ、糸の張りを一定に保ち、水面まで浮かせてから慎重に寄せる。無駄な動きが一つもなかった。二十センチほどの魚が網に収まるまで、彼は一度も焦らなかった。
プロンプト「……えっ、うま。ノクト、うますぎない?」
ノクティス「そうか?」
プロンプト「そうかじゃないって。今の、完全に慣れてる人の動きだったぞ」
ノクティスは自分の手を見た。竿を握った時、どこにどれだけ力を入れるかを、考える前に手が知っていた。
ノクティス「……分かんねぇ」
プロンプト「は?」
ノクティス「別に、誰かに教わった覚えもねぇんだよな。親父と行った記憶もねぇし。なのに、握ると分かる」
プロンプト「……」
プロンプトは、しばらく自分のカメラを見下ろしていた。
プロンプト「……それ、俺も同じかも」
ノクティス「カメラか」
プロンプト「うん。なんで撮ってんのか、自分でもよく分かってねぇんだよな。最初に買った時も、なんか手が『これだ』って言った感じで」
彼はレンズの縁を親指で撫でた。
プロンプト「シャッター切る時の指の動きとか、誰にも習ってねぇのに、なんか知ってんの。変だろ?」
ノクティス「……変だな」
プロンプト「だろ?」
二人はそれきり黙った。
川の音だけがあった。理由の説明できない癖を二つ抱えたまま、彼らはただ、水面を眺めていた。魂の底に何が沈んでいるのか、二人とも知らなかったし、知ろうともしていなかった。
ノクティスの竿が、もう一度しなった。
夕方、帰りの電車の中で、プロンプトが不意に口を開いた。
プロンプト「なあノクト」
ノクティス「あ?」
プロンプト「昨日の野球さ。あれ、写真いっぱい撮ったんだよ」
ノクティス「知ってる。試合中ずっとファインダー覗いてただろ。守備どうした」
プロンプト「ちゃんとやったって! ……いや、まあ、二回くらい見逃したけど」
窓の外を、夕暮れの街が流れていた。
プロンプト「あれ、なんで撮ってるかっていうとさ」
彼は珍しく、言葉を選ぶように間を空けた。
プロンプト「後で、見返したいからなんだよな」
ノクティス「……ふーん」
プロンプト「なんかさ、俺たちってこの先も色々あるじゃん。昨日みたいなのとか、その前みたいなのとか。多分もっとヤバいのも来るんだろうし」
ノクティス「……だろうな」
プロンプト「そういう時にさ。あー、こんな日もあったなーって思い出せるやつが、手元にあるといいなって」
彼は膝の上のカメラを、両手で軽く握った。
プロンプト「記憶って、あんまり当てになんないだろ。何年かしたら、昨日誰がどこ守ってたかとか、絶対忘れるじゃん。でも写真は残るからさ」
ノクティスは何も言わなかった。
プロンプト「……あ、なんかちょっとキモいこと言った? 忘れて」
ノクティス「いや」
短く、それだけだった。
ノクティス「……いいんじゃねぇの。撮っとけよ」
プロンプト「……おう」
プロンプトが笑った。電車が緩やかにカーブを曲がり、二人の影が座席の上で一緒に傾いた。
新宿で降りたのは、完全な気まぐれだった。
プロンプトが「腹減った」と言い、ノクティスが「どっかで食うか」と答え、駅を出てから二人とも行き先を決めていないことに気づいた。適当に歩いた路地の先に、その店はあった。
古い雑居ビルの一階。木の看板に、店名が小さく彫ってあるだけの構えだった。
プロンプト「……カフェ、かな。入る?」
ノクティス「腹に溜まるもんあるならな」
扉を押すと、豆を挽く匂いと、低い音量のレコードが二人を迎えた。
席は半分ほど埋まっていた。奥のカウンター席に、見覚えのある後ろ姿があった。
プロンプト「……あれ。アーデン先生?」
赤紫色の髪の男が、振り返った。黒いコートは椅子の背にかけられ、彼はカップを片手に、いつもより幾分だらしない姿勢で座っていた。
アーデン「おや。これは奇遇だね」
ノクティス「……なんで先生がこんなとこに」
アーデン「なんでとは失礼な。僕はここの常連だよ。もう何年も通ってる」
その時、カウンターの内側から声がした。
エイラ「あら、お知り合い?」
顔を上げたのは、店の主らしい女性だった。年の頃は三十前後だろうか。長い髪をゆるくまとめ、袖をまくった腕でドリッパーを支えている。柔らかい声だった。
アーデン「ああ。うちの学校の生徒だ。……悪い子たちじゃない」
エイラ「悪い子だなんて、そんな顔してないでしょう」
彼女は少し笑って、ノクティスとプロンプトの方を見た。
エイラ「いらっしゃい。空いてる席、どこでもどうぞ。……サンドイッチなら、まだ出せますよ」
プロンプト「あ、じゃあそれで! 二人分!」
ノクティス「勝手に決めんな」
プロンプト「腹減ってるだろ」
ノクティス「……まあ」
エイラが小さく吹き出した。
二人がカウンターの端に腰を下ろすと、アーデンは特に会話を続けようとはせず、自分のカップに視線を戻した。
だが、プロンプトはその横顔に、僅かな違和感を覚えた。
普段の彼は、いつも半歩引いたところから世界を眺めているような、芝居がかった余裕を纏っている。生徒に対しても、五条に対しても、どこか一枚の膜を挟んで話している男だった。
その膜が、今はなかった。
エイラがカップを下げに来て「今日は遅かったですね」と言い、アーデンが「少し野暮用があってね」と答える。それだけのやり取りだった。だがその時の彼の声は、教師のものでも、あの飄々とした男のものでもなかった。
プロンプト「(――なんか、普通のおっさんみたいだな)」
失礼な感想だと自分でも思ったが、他に言い表しようがなかった。
ノクティス「(……なんだ、あの顔)」
ノクティスも同じものを見ていた。だが二人とも、それが何を意味するのかは分からなかったし、分かる必要も感じなかった。
サンドイッチは美味かった。プロンプトが二皿目を頼み、ノクティスがコーヒーのおかわりをもらった。
帰り際、扉に手をかけたところで、エイラが声をかけてきた。
エイラ「またどうぞ。……ここ、分かりにくい場所にあるでしょう。一度来た人は、なぜか戻ってきてくれるんですけどね」
プロンプト「あ、じゃあ俺ら常連コース入ってます?」
エイラ「入ってると思いますよ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
外に出ると、新宿の空はもう暗かった。ネオンと人混みの中を、二人は並んで歩いた。
プロンプト「あの店、また行こうぜ」
ノクティス「……ああ」
プロンプト「あ、写真撮っときゃよかった」
ノクティス「次でいいだろ」
プロンプト「そうだな。次でいいや」
次があると、二人とも当たり前のように思っていた。
店の中では、アーデンがまだカウンターに座っていた。
客はもう彼一人だった。エイラが閉店の準備をしながら、時折こちらに話しかけてくる。天気のこと、豆の入荷が遅れていること、近所の花屋が店じまいするらしいこと。何の意味もない話だった。
アーデンは相槌を打ちながら、自分がこの椅子に座るためだけに新宿を担当区域に選び続けていることを、誰にも言ったことがないな、と思った。
エイラ「……アーデンさん」
アーデン「うん?」
エイラ「変なことを聞きますけど」
彼女はカップを拭く手を止めて、少しだけ首を傾げた。
エイラ「わたし、あなたと初めて会った時に、なんだか懐かしい感じがしたんですよ。ずっと前にどこかで会ったような。……そんなこと、ありました?」
アーデンの指が、カップの取っ手の上で止まった。
一秒か、二秒か。
それから彼は、いつもの調子で肩をすくめた。
アーデン「さあ。僕みたいな顔は、どこにでもいるんじゃないかな」
エイラ「そうですかねえ。かなり目立つと思いますけど」
アーデン「これでも人混みに紛れるのは得意なんだよ」
エイラが笑って、また手を動かし始めた。
アーデンはカップの中の黒い水面を見下ろしていた。そこに映っているのは、自分でも見飽きた男の顔だけだった。
彼にも、分からなかった。
なぜこの店が潰れると困るのか。なぜ新宿でなければならなかったのか。なぜ、この女性の何気ない一言が、こんなにも胸の奥を掻くのか。
理由を説明できる材料は、彼の中のどこにもなかった。ただ、魂のずっと底の方で、何かが静かに軋んでいた。
アーデン「(――やれやれ。僕らしくもない)」
彼は残りのコーヒーを飲み干して、席を立った。
アーデン「ご馳走さま。また来るよ」
エイラ「はい。お待ちしてます」
扉が閉まり、鈴が小さく鳴った。
秋の夜風の中を歩きながら、アーデンは高専の方角へ足を向けた。数日のうちに、羂索から次の連絡が来るはずだった。あの男が交流会で何を得たのか、そしてそれを次に何へ使うつもりなのか、確かめなければならない。
守るべきものが、また一つ増えてしまった気がした。
それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、彼にはやはり、分からなかった。