星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
寮の厨房に、焼き菓子の匂いが充ちていた。
午後四時を回ったところだった。窓の外ではグラウンドの白線がまだ薄く残っていて、その上を風が乾いた土を転がしている。野球の日から、もう数日が経っていた。
イグニスは天板を覗き込んでいる。生地の縁が持ち上がり、中央の果実が透き通り始めたところだった。あと四分、と彼は判断した。理由を説明しろと言われても困る。焼き色と、匂いと、天板から立ち上る音の変化。その三つが揃った時に、彼の手はいつも同じ答えを出す。
グラディオラス「おい」
背後から声がした。振り返るまでもなく誰か分かる。
イグニス「まだだ」
グラディオラス「何も言ってねぇだろ」
イグニス「顔を出した理由が他にあるとは思えないな」
グラディオラス「……味見だ」
イグニス「だから、まだだと言っている」
グラディオラスは不服そうに鼻を鳴らして、調理台に寄りかかった。腕を組み、しばらく黙って天板を眺めている。
グラディオラス「なあ。なんで今日焼いてんだ」
イグニス「材料が余った」
グラディオラス「先週も同じこと言ってなかったか」
イグニス「余ることが多いんだ」
グラディオラス「……ふーん」
それ以上は追及しなかった。この男はそういう嘘の付き方をする、ということを、グラディオラスは何年も前から知っている――正確には、何年前からなのかも自分では分からないのだが、そんなことを気にしたことは一度もなかった。
食堂の扉が控えめに叩かれたのは、その少し後だった。
伊地知「あの、失礼します。郵便物なんですが……」
抱えていた紙束を、伊地知潔高が申し訳なさそうにテーブルへ置いた。
伊地知「京都校さんから、まとめて届いてまして」
虎杖「え、まとめて?」
伊地知「ええ。その、封筒の一つが……厚くて……」
言いながら、伊地知は一通を摘まみ上げた。他の封筒の三倍はある。宛名の字が、封筒からはみ出しそうな勢いで書かれていた。
『東京都立呪術高等専門学校 虎杖悠仁 殿』
虎杖「……嫌な予感がする」
釘崎「開けなさいよ」
虎杖「開けるけど! 開けるけどさ!」
封を切ると、便箋が七枚出てきた。
虎杖「なっが!」
プロンプト「見せて見せて!」
覗き込んだ数人が、揃って沈黙した。
一枚目は挨拶だった。二枚目から四枚目までは、東堂葵という男が理想とする女性像についての詳細な考察だった。五枚目でようやく交流会の話に戻り、六枚目では虎杖の打席での重心移動について長々と論評され、七枚目にこう書かれていた。
『貴様の魂は、あの日確かに燃えていた。俺はそれを見た。 次に会う時、俺はさらに燃えている。備えておけ。 東堂葵』
虎杖「……なんか、感動しかけたけど、四枚分が好みの話だったんだよな」
釘崎「そこが本題だったんじゃないの」
プロンプト「あの人らしいわ」
言いながら、虎杖はその七枚を丁寧に折り直して、封筒に戻した。捨てる気は、どうやら最初からなかったらしい。
伏黒宛の封筒は、対照的に薄かった。
開くと便箋が一枚、それも半分ほどしか埋まっていない。角の揃った、几帳面すぎる字だった。
『先日は世話になった。 あの状況で私が最後まで立てていたのは、君が式神を割いて背後を潰していたからだ。礼を言う。 借りは返す。次はこちらから出向く。 加茂憲紀』
伏黒はそれを二度読んで、黙って畳んだ。
釘崎「なによ、なんて書いてあったわけ」
伏黒「……別に」
釘崎「読ませなさいよ」
伏黒「嫌だ」
釘崎「絶対いいこと書いてあるじゃない、それ」
伏黒は答えずに、封筒を制服の内ポケットへ滑り込ませた。耳がわずかに赤かったが、指摘する者はいなかった――正確には、指摘しようとした釘崎の手が、その時ちょうど携帯の通知に塞がれていたからだった。
釘崎「……は?」
画面を見た彼女が、露骨に眉を寄せた。
虎杖「どうした」
釘崎「西宮」
プロンプト「なんて?」
釘崎「『生きてる?』」
虎杖「それだけ?」
釘崎「それだけ」
しばらく、彼女は画面を睨んでいた。
釘崎「……別に嬉しくないから」
プロンプト「まだ何も言ってないけど」
釘崎「言おうとしたでしょ、今」
そう言い捨てて、釘崎は素早く親指を動かした。送信までに三秒もかからなかった。
そして、既読が付くまでにも、三秒とかからなかった。
釘崎「……向こうも暇なんじゃないの」
誰も何も言わなかった。
最後の一通には、宛名がなかった。
正確には『東京都立呪術高等専門学校 皆様』と書かれていた。四通の中で最も長く、最も丁寧で、そして最も謝っていた。
シガイ襲撃の際に助けられたこと、二日目の野球で不慣れなまま参加してしまったこと、帰りのバスで東堂が長く引き止めてしまったこと、そのすべてについて、三輪霞は順番に頭を下げていた。末尾に、こう添えられていた。
『あの二日間のことを、私はきっと長く覚えていると思います。 ……こういうことを書くのは、少し恥ずかしいのですが。 三輪霞』
プロンプト「……いい人だ」
虎杖「いい人だな」
釘崎「あんたたち、語彙」
湯呑みが配られた。
ルナフレーナが盆を抱えて回っている。厨房から茶を運んできたのは彼女だった。イグニスが両手を塞いでいたので、自然とそうなった。
ルナフレーナ「熱いので、気をつけてください」
虎杖「あ、すんません」
ルナフレーナ「いいえ」
彼女はテーブルの端に腰を下ろして、手紙を回し読みしている輪をただ眺めていた。混ざろうとはしなかった。混ざる必要を感じていない、という顔だった。
その時、食堂の入口を禪院真希が横切った。竹刀袋を担いだまま、一度立ち止まって、テーブルの上の紙束を一瞥する。
真希「なに、それ」
虎杖「京都から手紙が」
真希「ふーん。あたしには来てないけど」
グラディオラス「来たら困るだろ、お前の場合」
真希「どういう意味よ」
グラディオラス「妹だろ」
真希の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
真希「……余計なお世話」
グラディオラス「そうだな」
それだけだった。グラディオラスは謝りもしなければ、取り繕いもしなかった。真希もそれ以上何も言わず、竹刀袋を担ぎ直して歩き去った。
だが去り際、彼女は一言だけ落としていった。
真希「……あんた、あの日いい球見てたわね」
グラディオラス「技術で振ってたんだろ」
真希「そう言ったでしょ」
イグニス「(――ふむ)」
厨房から出てきたところでその会話を聞いていたイグニスは、何も言わずにタルトの型を調理台へ置いた。
粗熱を取る間に、プロンプトが自室から封筒を持って戻ってきた。
プロンプト「はい、これ」
虎杖「なにこれ」
プロンプト「写真。野球の。現像してきた」
テーブルの上に、二十枚ほどの写真が広げられた。
歓声が上がった。バットを担いで欠伸をしているノクティス。フェンスの遥か向こうへ消えていく打球を見送る全員の後頭部。泥だらけで笑っている虎杖と、その背中を叩いて前のめりに倒している東堂。西宮の箒が空を横切る一瞬。長机の菓子に群がる両校の生徒たち。
釘崎「ちょっと、あたしの写り、変じゃない?」
プロンプト「跳んでるとこだからね」
釘崎「消して」
プロンプト「やだ」
虎杖「あ、これ最後の場面じゃん! 加茂さんと握手してるやつ!」
プロンプト「それ、俺の自信作」
ノクティス「……お前、守備どうした」
プロンプト「やったって! ちゃんとやったって!」
騒がしくなった輪の外から、イグニスが一冊のノートを差し出した。
イグニス「なら、これも並べておこう」
虎杖「え、なんすかそれ」
イグニス「スコアブックだ。当日、私が付けていた」
開かれたページには、細い鉛筆の線が几帳面に走っていた。回ごとの投球数。打順。誰がどこを守っていたか。四回に真希が放った一打には、小さく丸が打たれている。そして八回の欄には、三つの名前が並んで書き込まれていた。
ノクティス。プロンプト。伏黒。
伏黒の指が、その行の上で止まった。
伏黒「……」
彼はしばらく、そこを見ていた。あの時、自分がなぜ二塁ベースの上に立っていたのか、未だに説明がつかない。誰にも聞いていないし、誰にも聞かれていない。ただ、こうして誰かの字で記録として残されてしまうと、あれが本当に起きたことなのだと、否応なく突きつけられる。
伏黒「(――記録は、残るのか)」
顔には出さなかった。ページを繰る手が、少しだけ遅くなっただけだった。
プロンプト「なあイグニス」
写真とスコアブックが並んだテーブルを見下ろして、プロンプトが言った。
プロンプト「なんでこんなの付けてんの? 俺、あの時ちょっと不思議だったんだよな」
イグニス「必要だからだ」
プロンプト「誰に?」
イグニス「私に」
彼は湯呑みを置いて、少し考えた。それから、こう言った。
イグニス「料理と同じだ。同じものをもう一度作れるように、手順を残す。分量、火加減、順番。書いておけば、次も同じ味が出せる」
プロンプト「……いや、野球は再現しなくないか?」
イグニス「そうだな」
イグニス「そうなんだ」
彼は自分で言って、自分で頷いた。妙な間があった。
イグニス「……習慣というのは厄介なものでな。手が勝手に記録を取る。取ってから、これは何のために取ったのだろうと考える」
グラディオラス「お前がそんな順番で物を考えるの、珍しいな」
イグニス「私も驚いている」
彼は開かれたページに視線を落とした。四回の丸印。八回の三つの名前。誰がどこにいて、何をしたか。それだけの、なんの役にも立たない情報。
イグニス「レシピは、あれば同じものが作れる。だが今日のこれは――何度読み返しても、同じ日は二度と焼き上がらない」
食堂が、少しだけ静かになった。
プロンプト「……それって」
イグニス「作れないものの手順を書き留めているわけだ。合理的ではないな」
そう言って、彼は本当に少しだけ、困ったような顔をした。
プロンプト「……俺も、それだわ」
彼はカメラのストラップを指で弄んだ。
プロンプト「後で見返したくて撮ってるんだけどさ。見返したところで、戻れるわけじゃないんだよな」
イグニス「そうだな」
プロンプト「なのに撮るんだよ」
イグニス「……同感だ」
二人はそれきり黙った。理屈で説明のつかない癖をまた一つ抱えた男たちが、写真と鉛筆の線を挟んで向かい合っていた。
この日の記録が、いつか誰かの手で何度も繰り返し開かれることになるとは、この場の誰一人として思っていなかった。
虎杖「あの、めっちゃいい話っぽいとこ悪いんすけど」
イグニス「なんだ」
虎杖「タルト、食っていいすか」
一斉に笑いが起こって、空気が元の温度に戻った。
切り分けたタルトは、あっという間になくなった。
釘崎が二切れ確保し、虎杖がそれを見て慌てて手を伸ばし、プロンプトが一番大きい欠片を巡ってグラディオラスと本気で揉めた。ノクティスは一切れを黙って食べ終えると、椅子に沈み込んで動かなくなった。
ルナフレーナ「……おいしいです」
イグニス「それは何よりだ」
ルナフレーナ「イグニスさんは、召し上がらないのですか」
イグニス「私は焼いている間に味を見ている。作る側の特権だ」
ルナフレーナは小さく笑って、それ以上は聞かなかった。
賑やかな声の中で、イグニスは天板の隅から一切れを取り分け、小さな皿に載せて、布巾をかけた。
グラディオラス「おい、それ」
イグニス「取っておく」
グラディオラス「誰の分だ」
イグニス「……さあな」
彼はそれを調理台の端へ置いた。特に理由があるようには見えなかった。誰かが後から来るかもしれない。あるいは、明日誰かが食べたがるかもしれない。その程度の、ごく当たり前の所作だった。
明日も明後日も、この食堂には誰かがいる。イグニスはそれを疑ったことがない。
窓の外では、グラウンドの白線がもう見えなくなっていた。
食堂には、笑い声と、茶の匂いと、四通の手紙が散らばっていた。
投稿頻度についてぜひアンケートで教えてほしいです。
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