星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
朝の医務室は、薬品の匂いがいちばん濃い。
窓を開けて空気を入れ替えるのが、ルナフレーナの一日の最初の仕事だった。十月の朝の風は冷たく、その冷たさが消毒液の匂いを窓の外へ押し出していく。それが済むと、彼女は白衣を羽織って、棚の前に立つ。
ルナフレーナ「……ガーゼ、大判が十二、小判が三十四」
手元の用紙に数字を書き込む。次の段。
ルナフレーナ「伸縮包帯、七。……六です」
一つ、床に落ちていた。拾って棚に戻し、書き直す。
在庫の確認は週に一度と決まっている。決まっているが、実際には彼女がほぼ毎朝やっていた。誰に頼まれたわけでもない。数えておくと、必要になった時に探さずに済む。それだけの理由だった。
家入硝子が出勤してきたのは、彼女が三つ目の棚に取りかかっている頃だった。
家入「おはよ」
ルナフレーナ「おはようございます」
家入「……あんた、何時に来たの」
ルナフレーナ「七時です」
家入「早すぎでしょ」
ルナフレーナ「目が覚めてしまったので」
家入は返事をせずに、椅子に座って白衣の袖を通した。そして煙草を一本咥え、火をつけずに口の端に留めたまま、机の上のカルテを繰り始めた。医務室では吸わない、と彼女は決めているらしい。咥えるだけは決めていないらしかった。
家入「消毒液、足りてる?」
ルナフレーナ「二本あります。ですが、一本は開封済みで、あまり残っていません」
家入「発注書、そこ」
ルナフレーナ「はい」
会話はそれで終わった。ルナフレーナは発注書を引き寄せて、必要な数を書き込んでいく。家入は何も言わない。確認もしない。
――ここが好きだ、と彼女は思う。
この人は、わたくしを客人として扱わない。
最初の患者が来たのは、九時を少し過ぎた頃だった。
二年の男子生徒が、膝を擦りむいて入ってきた。朝の走り込みで転んだのだという。血は既に止まりかけていて、大した怪我ではなかった。
ルナフレーナ「座ってください」
生徒「あ、ルナさん、大丈夫っすよ、これくらい」
ルナフレーナ「土が入っています。洗いますので」
生徒「はい……」
彼女は傷口を洗い、砂を落とし、それから膝の上に手をかざした。
淡い光が滲む。呪力ではない。呪力の逆にあるもの――彼女自身にもうまく説明できない、ただ祈るという行為から生まれる何かが、傷の縁をゆっくりと閉じていく。
三十秒ほどで終わった。
生徒「あざっす! 助かりました!」
ルナフレーナ「いいえ」
生徒「じゃ、俺行くんで!」
言うが早いか、彼は駆け出していった。廊下を走るなと注意する暇もなかった。
ルナフレーナは椅子に座り直して、手を見下ろした。
誰も、驚かなくなった。
去年の今頃なら――いや、この学校に来た当初なら、この光を見て息を呑む人がいた。家入は最初に見た時、しばらく何も言わなかった。五条は面白がった。夜蛾は難しい顔をした。虎杖は「すげー!」と叫んだ。
今は、擦り傷を治しても「あざっす」で終わる。
それが少し寂しい、とは思わなかった。むしろ逆だった。当たり前になったということは、この場所に自分の居場所ができたということだと、彼女は理解している。
家入「ルナ」
ルナフレーナ「はい」
家入「十時から、三年の子が来るから。骨」
ルナフレーナ「……骨、ですか」
家入「ヒビ。訓練中にやったって」
ルナフレーナ「わたくしには」
家入「無理でしょ。あんたのは治癒と浄化。骨は私」
ルナフレーナ「はい」
家入「見てなさい。手が足りない時に頼むことになるから」
ルナフレーナ「はい」
十時に来た三年生の処置を、彼女は横で見ていた。家入の反転術式は速く、無駄がなく、そして本人はずっと退屈そうな顔をしていた。
自分にできないことを、この人はできる。自分にできることを、この人はできない。
ただそれだけの分担が、なぜかありがたかった。
昼、中庭を横切った時に、言い争う声が聞こえた。
釘崎「だから、あんたが最後に食べたんでしょ」
虎杖「いや食ってねぇって! 一個残しとくって言ったの俺だぞ!?」
釘崎「言った本人が食べるのがいちばん怪しいのよ」
虎杖「その理屈はおかしい!」
ルナフレーナが通りかかると、二人が同時に振り向いた。
虎杖「あ、ルナさん」
ルナフレーナ「……こんにちは」
釘崎「ねえ、聞いてよ。イグニスが取っといてくれたタルト、消えたの」
ルナフレーナ「まあ」
虎杖「俺じゃないからな! 俺じゃないから!」
ルナフレーナ「……プロンプトさんが、昨日の夜、厨房にいらっしゃいましたが」
沈黙が落ちた。
釘崎「……」
虎杖「……」
釘崎「行くわよ」
虎杖「おう」
二人は連れ立って歩き去った。おそらくプロンプトのもとへ向かったのだろう。ルナフレーナは少しの間その背中を見送って、それから自分も歩き出した。
会話はそれだけだった。呼び止められて、少し話して、また離れる。
それだけのことが、一日に何度か起きる。
午後は、洗濯物を畳んだ。
自室の窓を開けると、グラウンドの音が入ってくる。誰かが走っている。誰かが号令をかけている。時折、破裂するような音が混じるのは、術式の訓練だろう。
シーツを畳み、白衣を畳み、靴下を対にして丸める。単純な作業だった。手が勝手に動くので、頭の方が空く。
空いた頭で考えるのは、たいていどうでもいいことだった。夕飯は何だろうか。今日は誰が当番だっただろうか。イグニスの当番の日は、なぜか全員の食べる速度が遅くなる。味わっているからだ。
ルナフレーナ「(――昨日、ノクトは二回おかわりをしていました)」
思い出して、少し笑った。
畳み終えた洗濯物を棚に仕舞い、彼女は窓辺に立った。グラウンドでは、遠すぎて誰なのか分からない人影が、いくつも動いていた。
自分はあそこには立てない。呪力がないからだ。
それを寂しいと思わなくなったのは、いつからだっただろうかと考えて、思い出せないことに気づいた。思い出せないくらい前から、そう思っていない。
面会の連絡が入ったのは、四時過ぎだった。
面会室に入った時、そこに立っていた男を見て、ルナフレーナは一瞬、言葉を失った。
ルナフレーナ「……兄様」
レイヴス「よう」
半年ぶりだった。
コートを腕にかけ、旅行鞄を足元に置いて、彼は所在なさげに立っていた。この建物の空気が自分に合っていないことを、明らかに自覚している立ち方だった。
ルナフレーナ「どうして、連絡もなさらずに」
レイヴス「したぞ。三回」
ルナフレーナ「……あ」
携帯を確認すると、確かに着信が残っていた。医務室に置いたままにしていたのだ。
レイヴス「相変わらずだな」
ルナフレーナ「……申し訳ありません」
二人は向かい合って座った。出された茶に、レイヴスはしばらく手をつけなかった。
彼はまず、仕事の話をした。向こうでの生活のこと、時差のこと、覚えた言葉のこと。ルナフレーナは知っていることばかりだったので、黙って聞いていた。兄が本題を先延ばしにしているのは、昔からの癖だった。
そして、五分ほどしてから、彼は湯呑みを置いた。
レイヴス「ルナ」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「ここで、何をしてる」
ルナフレーナ「……お仕事です」
レイヴス「仕事」
ルナフレーナ「はい。医務室のお手伝いを」
レイヴス「手伝い」
ルナフレーナ「……今朝は、在庫を数えました。ガーゼと包帯と消毒液を。それから、擦り傷の手当てをして、家入先生の処置を見学して、お昼を挟んで、洗濯物を畳みました」
レイヴスは黙って聞いていた。
ルナフレーナ「あとは、お茶を淹れます。よく淹れます」
レイヴス「……ルナ」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「それは、お前でなくてもできることだろう」
短い沈黙があった。
彼女は怒らなかった。反論もしなかった。兄の言っていることが正しいと、彼女自身が知っていたからだ。
ルナフレーナ「はい。ほとんどは、そうです」
レイヴス「なら」
ルナフレーナ「ですが」
彼女は湯呑みを両手で包んだ。
ルナフレーナ「わたくしがいなくなったら、困る人がいます」
レイヴス「……」
ルナフレーナ「困る顔を、わたくしは知っています」
レイヴスは何も言い返さなかった。言い返せる形の言葉ではなかったからだ。それは理屈ではなく、ただの事実の報告だった。
彼はしばらく、テーブルの木目を睨んでいた。それから、ようやく口を開いた。
レイヴス「危ないんだろう、ここは」
ルナフレーナ「……はい」
レイヴス「隠さないんだな」
ルナフレーナ「兄様に嘘をつくのは、下手なので」
レイヴス「昔からな」
彼は笑わなかった。笑おうとして、失敗したように見えた。
レイヴス「俺はな、ルナ」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「何もできないんだ」
彼は自分の手を見下ろした。何の変哲もない、事務仕事で少し荒れただけの、普通の男の手だった。
レイヴス「この学校が何をしてるのか、俺には分からん。お前が何と戦ってるのかも、正直、半分も理解できてない。話を聞いても、実感が湧かない」
ルナフレーナ「……」
レイヴス「何かあった時に、駆けつけることもできない。俺は向こうにいる」
ルナフレーナ「……はい」
レイヴス「だから帰ってこいって言ってる。俺の手の届くところにいてくれと。それが正しいかどうかじゃなくてな。俺が、そうしたいんだ」
正直な言葉だった。彼女を説得するための言葉ですらなかった。
ルナフレーナは、それに答えられなかった。答えたら、兄を否定することになる。否定したくなかった。
だから、彼女はこう言った。
ルナフレーナ「……ごめんなさい」
レイヴス「謝るな。俺が困る」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「……ああ、くそ」
彼は前髪を掻き上げて、天井を仰いだ。この兄がこういう仕草をする時、それは負けを認めている時だと、彼女は知っていた。
決着はつかなかった。つける気が、最初からどちらにもなかった。
帰り際、玄関で。
レイヴス「次はいつになるか分からん。たぶん、春だ」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「……電話くらいしろよ」
ルナフレーナ「します」
レイヴス「本当か」
ルナフレーナ「……気をつけます」
レイヴス「気をつけるな。しろ」
ルナフレーナ「はい」
その時、廊下の奥から足音がした。
ノクティスが通りかかったところだった。片手にコンビニの袋を提げている。明らかに何かの用事の途中で、こちらに用があって来たわけではない。
彼はルナフレーナを見て、それからその隣の男を見た。
ノクティス「……あ」
短く頭を下げて、そのまま行こうとする。
レイヴス「おい」
ノクティスが足を止めた。
レイヴス「覚えてるか」
ノクティス「……ルナの、兄貴だろ」
レイヴス「……ああ」
ノクティス「昔、家に行った」
レイヴス「そうだ」
ノクティス「……どうも」
もう一度、今度は少しだけ丁寧に頭を下げて、ノクティスは歩いていった。廊下の角を曲がって、足音が遠ざかっていく。
レイヴスは、その背中が見えなくなるまで黙っていた。
レイヴス「……変わってないな、あいつ」
ルナフレーナ「そうですか?」
レイヴス「昔から、必要なことしか喋らん」
ルナフレーナ「……はい」
彼女が少し笑ったのを、レイヴスは横目で見た。
そして、視線を廊下の奥へ戻したまま、ぽつりと聞いた。
レイヴス「……あいつは、強いのか」
ルナフレーナ「……はい」
レイヴス「そうか」
それだけだった。彼にはその答えを測る物差しがない。強いと言われても、どれくらい強ければ足りるのかが分からない。分からないものについては、それ以上聞かないことにしているらしかった。
彼は旅行鞄を持ち上げ、それから思い出したように振り返った。
レイヴス「ルナ」
ルナフレーナ「はい」
レイヴス「何かあったら連絡しろ。何でもいい。夜中でもいい。時差なんか気にするな」
ルナフレーナ「……はい」
レイヴス「約束だぞ」
ルナフレーナ「はい。約束します」
兄は頷いて、門の方へ歩いていった。一度も振り返らなかった。振り返ると決心が鈍る人だということを、彼女は昔から知っていた。
門が閉まる音を聞いてから、ルナフレーナはしばらくそこに立っていた。
夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていった。
夕食の食堂は、いつも通り騒がしかった。
プロンプト「だから俺じゃないって! 何回言えば!」
釘崎「じゃあ誰よ」
グラディオラス「俺だ」
一同「え」
グラディオラス「夜中に腹減った。悪いか」
イグニス「悪い」
グラディオラス「なんでだよ」
イグニス「あれは翌日に食べる想定で取り分けたものだ。冷えてからの方が生地が締まる」
グラディオラス「知るかそんなもん」
虎杖「いや俺、めっちゃ疑われたんですけど」
釘崎「あんたが怪しい顔してるのが悪い」
虎杖「顔は関係ないだろ!」
ルナフレーナは、輪の端の席で味噌汁を飲んでいた。
会話に加わってはいなかった。加わろうとも思っていなかった。この距離が、彼女にはちょうどよかった。全部聞こえて、全部見えて、そして自分は静かにしていられる。
隣の椅子が引かれた。
ノクティス「……なんかあったのか」
ルナフレーナ「え」
ノクティス「顔」
ルナフレーナ「……顔、ですか」
ノクティス「いつもと違う」
彼は食器を持ったまま、面倒くさそうに座った。それ以上は聞かなかった。聞かないまま、隣で黙って食べ始めた。
ルナフレーナ「……兄が、参りました」
ノクティス「へえ」
ルナフレーナ「帰ってこいと言われました」
ノクティス「……で?」
ルナフレーナ「断りました」
ノクティス「そうか」
それだけだった。良かったとも、大変だったなとも、彼は言わなかった。ただ「そうか」と言って、味噌汁に口をつけた。
その素っ気なさが、今日はいちばん楽だった。
プロンプト「あー! そうだ!」
突然、テーブルの向こうでプロンプトが立ち上がった。
プロンプト「ルナちゃん、写ってないじゃん」
ルナフレーナ「……はい?」
プロンプト「野球の写真。ルナちゃん、あの日は医務室にいたから、一枚も写ってないんだよ。さっき見返してて気づいた」
ルナフレーナ「そう、でしょうか」
プロンプト「そう。だから撮る」
ルナフレーナ「今、ですか」
プロンプト「今」
ノクティス「飯食ってるだろ」
プロンプト「食ってるとこがいいんだって」
反論する間もなく、シャッター音が鳴った。
液晶を覗き込んだプロンプトが、満足そうに頷く。
プロンプト「うん、いい。困ってる顔」
ルナフレーナ「……あの」
プロンプト「消さないよ」
ノクティス「そいつ、消さねぇぞ」
ルナフレーナ「……そうですか」
彼女は少し困った顔のまま、それでも笑った。
部屋に戻ったのは、九時を回ってからだった。
洗面所で顔を洗い、髪を梳かし、机の上を片付ける。明日の予定を確認する。明日は木曜日で、午後に消毒液が届くはずだった。届いたら棚に補充して、また数え直さなければならない。
面倒な作業だと思った。思ってから、それが少し嬉しいことに気づいた。
明日やることがある。
携帯を手に取って、着信履歴を見た。三件。すべて同じ番号だった。
少し迷ってから、彼女は短い文面を打った。
『無事に着きましたか』
返事は、すぐには来なかった。時差を考えれば当然だった。
ルナフレーナは携帯を枕元に置いて、灯りに手を伸ばした。
窓の外で、誰かが廊下を走っていく音がした。こんな時間に、と思ったが、注意しに行く気にはならなかった。明日でいい。
灯りを消すと、部屋は静かになった。
今日一日で起きたことを、彼女は順番に思い返した。ガーゼが十二枚あったこと。膝を擦りむいた生徒が廊下を走っていったこと。タルトの犯人がグラディオラスだったこと。兄の手が少し荒れていたこと。ノクトが何も聞かなかったこと。困った顔の写真を撮られたこと。
どれも、明日には忘れてしまいそうなことばかりだった。
それでいい、と彼女は思った。忘れてしまうくらい、たくさんあればいい。
ルナフレーナ「(――おやすみなさい)」
誰にともなくそう思って、彼女は目を閉じた。
現在の投稿頻度についてどのくらいがいいのか教えてほしい…
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一個一個できたら出す(一日一話)
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自由にやって