From Zero to Zero   作:FTR

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第1話

 古来、人が一番隙を見せる時間というのは夜明け前のあたりなのだそうだ。

 人の睡眠のサイクルや、徹夜してる人の体力の限界などいろいろな条件がそこに重なるのだそうで、それだけに『朝駆け』と言われる早朝の不意打ちは古くから戦争の定石とされているとか何とか。

 これは別に戦争に限った話ではなく、平時においてもこの時間帯はいろいろやばいことが起こる。交通事故も、そんな出来事の一つだ。

 穏やかに終わるはずだった夜勤だったのだが、3時くらいから立て続けに派手な事故を起こした連中が救急車で運ばれて来れば、受け入れるこっちは悪い意味でのお祭り騒ぎとなる。

 救急搬送で、投身自殺と並んで一番見た目がグロいのは交通事故だ。人一人が瞬間的に出せる力はせいぜい1馬力。例え鷹村守や幕之内一歩のパンチを食らっても、その怪我の程度はたかが知れている。しかし、交通事故となるとそうはいかない。いかんせんウン十馬力やウン百馬力で動く重量1トン以上の物体がぶつかってくるのだ、人間なんぞ豆腐と変わらない。これが車同士の正面衝突となると、宮田一郎のカウンターどころの騒ぎではない。

  

 そんな状況なので、その夜の救急外来は戦場となった。

 アメリカのテレビドラマで救急外来を扱った人気番組があったが、実際の日本の救急外来ではあんな悲惨な状況に陥ることは滅多にない。基本的にスタッフは相応にいるし、飽和した場合は受け入れを止める。たらい回しとかいろいろ非難をいただく措置ではあるが、ならば一刻を争う患者を順番待ちで並べるのとどちらがマシかということで、こればかりは患者自身の運不運としか言いようがない。私たちも精一杯やっているし、行政だって一生懸命やっている。それが現代医学の限界だ。

 

「上の受け入れは?」

 

 手を止めずにナースに聞くと、インターホンでやり取りをしていた子が振り返る。

 

「手術室大丈夫です。すぐ行けます」

 

「おっけー。島崎君、そっち終わったら上げるよ」

 

 手早く縫合しながら研修医に指示を出す。研修医……ちょっと前までは、私もあの立場だったのよね。月日の流れは早いものだ。

 

 

 患者をエレベーターに送り込み、インターホンで外科の執刀に状況を説明する。大腿の挫創がひどい患者だが、とりあえず繋げるところは繋いでおいた。アンプタしなくても大丈夫だろうと思う。

 受話器を置き、ようやく私は息を吐いた。

 窓の外が、白々とし始めていた。怒涛の搬送もこれで一段落。まずは一息ついて、コーヒーの一杯も飲めるだろう。

 そう思っていた時期が、私にもありました。

 フェイスマスクとグローブを専用のゴミ箱に放り込んだとき、見ていたようなタイミングで鳴った電話を受けたナースが言った。

 

「救急から、長田で服毒。5分から10分で到着とのことですが、大丈夫ですか?」

 

 私は神様というのが意地悪なやつだという事を久々に思い出した。

 

「了解、引き受ける。何飲んだか聞いといて。島崎君、活性炭」

 

 

 

 

 この夜、というか夜から朝にかけて、私はひたすら神を呪った。

 服毒に続いて今度はまたもや交通事故が来た。さすがに通勤時間帯になると事故が多い。患者のわんこそば、と言うより茹でたトウモロコシを無理やり食べさせられているガチョウになった気分だ。

 徹夜で事にあたり、ようやく日勤の連中に引き継げたのは朝9時のことだった。

 

「お疲れ様です」

 

「お疲れ~」

 

 手術着を脱ぎ、当直室に戻る途中でナースとすれ違う。まだ若い子だ。20代前半か。いいな、若いって。霧の彼方で見えなかったはずの三十路の世界が、徐々に輪郭を帯び始めた年齢の私だ。シャワーを浴びても水を弾くような肌という訳にはいかない。医師の修業にかまけているうちにお肌の曲がり角を幻の多角形コーナリングで走り抜けたことに気付いたのは、研修が明けてだいぶ経ってからのことだった。

 

「おはだのおはだのまがりかど~、にきびがにきびが懐かしや~」

 

 間抜けな歌を歌いながらホールにさしかかった時だった。

 

「先生!」

 

 やけにはきはきした声が後ろから飛んできた。振り向くと、松葉杖を突いた小学校低学年の男の子がひょこひょこと寄ってくる。着ているものはパジャマではなく普通の私服だ。

 

「おお、いつぞやの。退院かい?」

 

 1か月ほど前に交通事故で運び込まれた患者さん。搬送時に受け持ちだったのは私だ。

 意識レベルが落ちていれば楽だったろうに、なまじしっかりしていたばかりに痛みをダイレクトに味わう羽目になった気の毒な子だ。

 痛い痛いと泣き喚くこの子を宥めたり励ましたりしながらまずは眠ってもらい、開放骨折の対処に全力を注いだ。一般的に整形外科医は『骨の大工』と言われるような作業をすることになるが、彼らにバトンを渡すまでは私たち救急医の所掌。そんな短い付き合いだったのに、覚えていてくれるというのは嬉しいものだ。

 ともあれ、こうして杖を突きながらも退院できるという事は予後が良かったという事だろう。

 

「やっと家に帰れるよ」

 

 笑って頷く少年の笑顔が嬉しい。

 医者にとって、元気に退院していってくれる患者さんを見送ることは幸せの一つだ。この達成感があれば、大抵の事は我慢できるというものだ。

 

「それは良かった。もうこんなところに来るんじゃないぞ?」

 

「先生、それ刑務所だよ」

 

 益体もない会話を交わし、会計を済ませた少年の御母堂がやってくると少年はやんちゃっぽい外見に似合わず丁寧に頭を下げてエントランスの外に去って行った。

 ひらひらと手を振って見送った少年の後姿に、何ともほっこりしたものを感じる。

 患者を区分けするつもりはないが、やはり子供が元気に退院していくというのは何にもまして嬉しいものだ。

 生老病死の交差する病院と言う空間において、未来と言う可能性を持つ子供と言う存在を無事に社会に帰せたというのは医師にとっては名誉なことだと私は思う。そのことについては誰も褒めてくれはしないが、自分で自分を褒めるくらいは我が神アスクレピオスも許してくれるだろう。

 

 

 

 

 少しだけ気をよくして住み慣れた宿直室に入り、白衣を椅子に放り出してソファにボスッと横になる。

 そのまま目を閉じると3秒後には夢の世界。今のタイムならのび太君にだって勝てるぜ、と思いながら私は仮眠をとった。

 

 

 

 

 

 変な夢を見た。

 それは、黒い太陽だった。

 何かで見たような記憶があるが、何だったのかは思い出せない。

 その黒い太陽から流れ出た灼熱の何かが、街をなめとっていく様子が見えた。

 阿鼻叫喚。

 一瞬で人の命の火が消えていく様子に、私は言葉が出なかった。

 自然災害、ではないだろう。不気味な、三流ホラー映画のような光景ではあるが、感じる熱気は現実のような痛みを伴い、人が焼けていく臭気も、吐き気を催すようなリアリティがあった。

 地上に現出したこの世の地獄。

 高みから見下ろしながらも、私は我が身が震えるのを確かに感じた。

 

 

 

 

 

 

「杉田先生」

 

 肩を揺すられ、私は一瞬で覚醒した。

 酷い夢を見ていたような気がするが、何の夢だったのかは目を開いた瞬間に忘れていた。

 見回せば、見慣れたいつもの当直室。目の前には、見知った師長がゴミ袋を手に怖い顔をして立っていた。

 

「おおう、これはお袋様」

 

 皆から『お袋様』と言われる師長様。ナースステーションの重鎮だ。若手の医師では頭が上がらない人物でもある。医師不足がどこの病院でも深刻な昨今、現場で覚えることは増える一方。そんな時に頼りになるのは経験豊富な看護師の知識であり、そんな中でもお袋様はヒヨッ子研修医にとっては懇切丁寧に実務を教えてくれる軍曹みたいな方だ。

 

「こんなところで寝ていると風邪をひきますよ」

 

「いや、ちょっと疲れたもんで。今日は日勤ですか?」

 

「救急が続いたと聞きましたので、少々早めに出てきました。それよりも……」

 

「はい?」

 

「忙しいのは判りますが、当直室を散らかさないで下さいとお願いしているでしょう」

 

 お袋様が手にしているゴミ袋には、私が置きっぱなしにしてあったカップ麺の容器やポテチの袋やコーヒーの紙コップなどが入っている。

 

「いや~、申し訳ない。片付けようとしたところに搬送が続いたもんで」

 

 もちろんこれはその場しのぎの嘘だ。

 だが、幸いなことにお袋様はため息をついて深くは突っ込んでこなかった。

 

「昨夜はだいぶひどかったみたいですから今回はあまり細かくは言いませんが……漫画もまた増えてますね」

 

「スラムダンクとバガボンド読みたいってナースたちに言われたんで」

 

「院内で漫画喫茶でも始める気ですか?」

 

「あ、いいな、それ」

 

「皮肉で言っているんです。とにかく、ここは先生の私室ではないんですから、早いところ片付けて下さい」

 

「へ~い」

 

「この辺の玩具もです」

 

「それはこの部屋の守護神なんだけど」

 

「……」

 

「ごめんなさい、すぐ片付けます」

 

 

 

「そんなことばかりにお金を使っていないで、少しはスキンケアに回したらどうですか」

 

「尿素なんかは病院で手に入るからなあ」

 

 漫画本とモビルスーツのプラモを詰めた割と重い段ボールを抱え、お袋様のお説教を聞きながら廊下を歩く。

 何だか学校の先生に絞られている生徒になった気分だ。実はお袋様と私は私が医者になる前からの付き合いだ。医師だった母の下で働いていた関係であると同時に、母の友人でもあったお袋様はしばしば家にも遊びに来た。

 私が医者になってこの病院に勤務するようになってからも何かと気をかけてくれるありがたいお方でもある。

 

「職場の薬品を掠めるとは……」

 

「あはは、まあ、固いこと言わないでよ」

 

「コンプライアンスというものを何だと思って、って階段!」

 

「え?」

 

 ふと、足元の感触が消えた。

 抱えた段ボールのせいで制限された下方視界のせいで、もう一歩先にあると思った階段をあっさりと踏み外した。

 当事者にとっては悲劇。

 見物人にとっては喜劇。

 私は池田屋の階段落ちのように階段を転げ落ちた。

 段ボールを放り出し、頭をかばうことだけを考えて重力の蹂躙が終わるのを待つ。医者にとって両手は大事な商売道具だけど、頭部とどっちが大事かと言えば残念ながら頭の方に天秤は傾く。

 ごろごろと転がり落ちて、ドカッと音を立てて壁にぶつかってようやく私は停止した。

 

「い、痛てて……」

 

 世界がようやく平衡を取り戻してみれば、踊り場に漫画本とプラモがぶちまけられ、それに埋葬されるように私はひっくり返っていた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「な、何とか~」

 

 慌てて駆け下りてくるお袋様だが、幸い頭を打たなかったし、体も上手いこと丸めることができたからダメージはほとんどない。いやはや、スカートじゃなくてよかった。

 

「ああもう、何をやっているんですか」

 

 心底呆れた声を出してお袋様が私の上にのっかった段ボールをどけてくれた。

 

「いや~、失敗失っぱ……あ~っ! 私のベアッガイがっ!!」

 

 哀れにも犠牲になったモビルスーツに悲鳴を上げていると、お袋様が私の手を掴んだ。

 

「玩具なんかほっときなさい。怪我してるじゃないですか」

 

「ありゃ、ひっかいちゃったかな」

 

 見れば、手の甲のあたりに何本かひっかき傷が付いて血が滲んでいた。

 

 

 

「ドジと言うか何と言うか……呆れてものが言えません」

 

 処置室でお袋様にちょいちょいと消毒してもらいながら、ありがたいお説教をいただく。

 

「痛たた、沁みるよこれ!」

 

「効いてる証拠です」

 

 機嫌を損ねたお袋様は割と容赦がない。

 

「手の手入れもしてないわね。これが年頃の娘の手かと思うと……まったく」

 

「だって、忙しいんだもん」

 

「だからと言って、こんなガサガサな手をほったらかしにしている女医はあなたくらいです」

 

 いつの間にか、お袋様が婦長モードから個人的な知り合いモードに切り替わっている。

 

「少しは身だしなみにも気を配りなさい。早くいい人を見つけてくれないと、私もお母様の墓前に胸を張って報告に行けません」

 

「需要がないんだからしょうがないよ」

 

「生活態度を見直せばいくらでも引き合いはあるでしょうに」

 

「あはは、それができればいいんだけどね~」

 

 私にとっては漫画鑑賞は趣味ではなく生き様だ。今更変えるのは無理というものだ。

 

「とにかく、学歴も職業も問題ないんだし、見た目だって欲目を差し引いても悪くないでしょう。ご両親の代わりなら私たち夫婦が立ちますから、早いところ収まるべきところに収まりなさい。近場に好物件がないのなら、主人も他の病院の方にも顔が利きますから」

 

 声音がだんだん説教というより懇願になってきた。このまま苦手な昔話にシフトしそうな勢いだ。

 ここは早々に幕引きを狙った方が賢明だろう。

 

「ご心配おかけしまして」

 

 素直に頭を下げる私に、お袋様は大きくため息をついた。

 

 ともすれば本当の母のように煙たい人だが、当然であるが私はこの人が好きだ。

 口うるさくはあっても、人に心配してもらうというはこうも温かいものだと痛感する。

 いつか彼氏なんて人ができたら、きっとその人にもお袋様を紹介しよう。

 私のもう一人のお母さんは、こういう人です、と。

 

 

 

 

 

 

 徹夜明けはやっぱりきつい。見上げると、昼前の太陽は妙に黄色く輝いている。

 帰宅のために駐輪場で愛車を暖気していると、甲高い声が聞こえた。

  

「さなえ先生!」

 

 振り向くと、私の盟友であるナース1号(仮名)が立っていた。まあ、いわゆるそっち方面の同好の士という奴だ。ただ、私と違って美少年同士の掛け算の世界が大好きな困った奴でもある。『風と木の詩』を初めて読んだ時に全身にさぶいぼが出来て以来、私はどうにもああいう世界がダメなのだ。だってさあ、あそこは出すところであって挿れるところじゃないでしょ。

 

「続き、焼いてきましたよ」

 

「おお、ありがとう!」

 

 受け取ったDVDに、きちんとプリントされた文字でこう書いてあった。

 

『第6話 ケイネス先生のちゅー』

 

「……ちょっと、タイトルおかしくない?」

 

「そういうシーンがあるんですよ。『これは決闘ではなくチューだ。愛の魔術師よ、尋常に立ち会うがいい』って感じで。切嗣受けで一本作品が描けそうです」

 

「どういう空耳だよ……」

 

「先生の御贔屓が大活躍するですよ」

 

「お、無双するの?」

 

「無双はしませんけど、セイバーと共闘しますよ」

 

「ああ、キャスター戦か」

 

 抉れゲイ・ジャルグの辺りか。どういう映像になってるのかな。

 

「まあ、あとは見てのお楽しみです。いいですよ~、緑川ボイス。濡れちゃいます」

 

「そうそう、いいよね、あの声」

 

 御腐人系の発言はスルーするとして、あの声にしびれるというのには同意見だ。

 

「まあ、私としてはヒイロの方がいいんですけど」

 

 ヒイロというとガンダムWだったか。ガンダムは『Zガンダム』のあたりで知識止まってんのよね、私。

 

「う~ん、そっちはまだ見てないんだよね」

 

「あれ、まだだったんですか。今度焼きましょうか?」

 

「いや、たまにはきちんと買うよ。大人なんだし。今はZeroで手いっぱいだわ」

 

 話を合わせていると延々とオタク談義が続きそうなので、トリップしかけている彼女の言葉を適当に流して私はヘルメットを被った。アライのSZ系。これは結構軽くて被り心地がいい。その白いヘルメットを見ながら、ナース1号が呟いた。

 

「うわ~……また凝ったことやってますね」

 

「カッコイイだろう!!!」

 

 ギャキィッという擬音が似合いそうなサムズアップをしながら私は笑った。

 ヘルメットの後頭部にプリントしてあるのは、Fateの魔方陣。カッティングシートをデザインナイフでちまちま切って作った自信作だ。両サイドには令呪もプリントしてある。右は衛宮切嗣風、左はケイネス風だ。知らない人が見ればただのとんがったデザインに過ぎないところがポイントだ。慣れないデザインナイフを使って数回指を切ってまでこしらえた自信作。血を吸った魔法陣と言うのはちとオカルトなニュアンスが漂う気がする。

 

「先生、やっぱり車買ったら痛車とかにするタイプですか?」

 

「しないよ。私ゃ隠れオタクなんだから」

 

 オタク趣味というものはどこまでいっても所詮はサブカルチャーだ。表に出た瞬間、その淫靡な愉悦は薄れてしまう。昨今は日本が誇る文化だと威張っている傾向があるが、私としては嘆かわしい限りだ。

 でも、そんなことを力説する私にナース1号は気の毒な奴を見るような目をしながら首を振った。

 

「先生、隠れてない。全然隠れてないよ」

 

「なにおう」

 

 

 

 

 

 

 快調にアクセルを吹かしながら、ハンドルを自宅方面に向ける。朝のラッシュも終わった時間帯は走りやすいから好きだ。

 ヤマハのセロー。足つきがいいということで中古で買った名機の誉れ高いトレイルバイクで、期待通りに軽くて便利でいいバイクだと思う。現行は250ccに排気量が上がっているけど、私くらいの体格なら、旧式の225ccの方がありがたい。トレッキング性能では、今なおこれに勝るバイクはないという人もいるくらいの傑作なのだとか。神戸界隈で生きていくにはバイクは便利だ。車の方が便利という人もいるけど、神戸は土地が狭いから駐車場代が高いのだ。

 国道428号線、通称有馬街道を自宅のある鈴蘭台方面を目指してとことこ走る。過労運転は飲酒運転並みに罰則が厳しいから事故を起こすわけにはいかないのでアクセルは控えめに。

 いつも通る、山ありのうねうね道。ワインディングロードを飛ばすのは楽しいという人が多いけど、飛ばさなくても楽しいと思うのは私だけだろうか。古くはこの界隈には『裏六甲のウンチーニ』とかいう走り屋がいたそうだけど、セローの馬力じゃのんびり上った方が楽しい道だ。スピードに酔うというのはある意味恐怖を楽しむことだと思うけど、そんなスリルなんかなくても自然を見ながらテロテロ走れれば充分に心が満たされると私は思う。

 

 

 私の自宅は、親が買った古いマンションだ。

 子供の頃から住んでいる家だが、今は一人暮らし。80㎡くらいあるからいささか広すぎて困るくらいだ。

 

「ただいま~」

 

 鍵を開けて中に入る時、答える人がいないことを知りながらも口から出る言葉。

 誰もいない部屋に戻る悲哀は、独り者にしか判らない。

 適当に靴を脱ぎ散らかしてイエローコーンの上着をハンガーにかけ、着ているものをさっさと脱いでポイポイと洗濯機に放り込んでそのまま浴室に入る。仕事帰りはさすがにシャワーでも浴びないと眠れない。

 暖かいお湯を浴びていると、知らぬ間に緊張していた体の各部のスイッチがオフになり、隠れた疲労が顔を出してくる。いやはや、そろそろ歳かね、私も。

 歳はともかく、流れ落ちる水の流れを見るのはいつもながら複雑な気分だ。山岳や丘陵たるべき胸部の起伏が乏しい我が身には、本来渓流のように流れていくべき水流が見当たらない。下着のカップも高校から変わっていないし、脂肪がつかずにどちらかといえば筋肉質な私としては何だかブラジャーというより大胸筋サポーターという言葉がしっくりくる。脂肪がないから寄せて上げてもできない。もうちょっと何とかならないもんかね、これ。ファンタジーで言えばエルフみたいな体つきだ。エルフと言えば、私が好きなラノベに『ゼロの使い魔』というのがあるが、あれに出てくるティファニアというキャラはエルフといっても例外だったな。エルフのくせにとんでもない凶弾を装備したけしからん奴だが、気立てが良くて可愛い子だからルイズより好きだったりする。ともあれ、女性は胸が薄いと同じ服を着ても見栄えが悪いから困る。着飾る楽しみくらいは知っているが、ベースがこれではいささか選択の幅が限られてしまう。DNAに向かってやり直しを要求したいくらいだ。

 閑話休題。

 カラスの行水でさっさとシャワーを済ませ、髪を乾かす傍らコーヒーの準備。ペットボトルの水を使ってケトルでお湯を沸かす。ポットのお湯ではあまり美味しくないからだ。

 お湯が湧いたら棚からカップを二つ取り出す。

 夫婦茶碗といった感じのペアのカップだ。片方は昔私がうっかり割っちゃったので接ぎはぎだらけだけど。

 それぞれにコーヒーを入れて仏壇に供え、お鈴を叩いて手を合わせる。

 ご両親様、不肖の娘は今日も頑張って参りました。

 父は私が幼いころ、母は去年この世を去った。今頃あの世で夫婦水入らずで仲良くやっていることだろう。そうじゃなきゃ私が困る。

 そんな感じに帰宅の報告をしてから自室に入る。

 漫画だらけでベッド以外はろくにスペースもない部屋だけど、私が一番落ち着ける空間でもある。

 いい加減、読まない漫画はまとめてブックオフにでも持っていこうかなあ、と思いながらベッドに潜り込んだ。

 冷たい布団に、独りの寂しさを感じる。

 母子家庭なことに加えて救命医だったことから母はいつも不在がちだった。そんな家庭だっただけに子供のころから孤独は友達だったが、こればかりは幾つになっても慣れることはないと思う。気楽と言えば気楽だが、それでも誰かに傍に欲しいのが人情というものだろう。

 いっそ猫でも飼おうかなあ、でもそれだとふらっと出かけたりとかできないなあ、などと思いながら連荘予定の夜勤に備えて私は眠りに就いた。

 

 

 

 

 

 

 変な夢を見た。

 目の前で、一人の青年が息絶えようとしていた。

 腹部にひどい裂傷を負い、失血性ショックを起こしている。バイタル確認、緊急輸血、気道確保、昇圧剤投与なんて言葉が脳内を流れていく。

 でも、実際には私の体はそこにはなくて、まるでモニターを見るように俯瞰的な視点で死にゆく彼を見下ろしているだけだった。

 そんな彼の傍らにいる、一人の壮年の男。

 手で水をすくい、倒れている彼のところに運ぼうとして、その直前で水をこぼした。

 一目見て、それが故意のものであることが判った。

 脳裏をよぎるのは、先日読んだ神話の一節だ。

 フィン・マックール。美髭を生やした、フィアナ騎士団の英雄。妻となるべき女性に逃げられ、筋違いの黒い復讐の灯でその身を焦がしていた男だ。

 すなわち、倒れている青年はその復讐の対象である大英雄に他ならない。

 ディルムッド・オディナ。2本の剣と2本の槍を振るう無双の騎士。

 ああ、なるほど、これはあの光景か。

 英雄ディルムッドの、無念の最期。

 誓い故に猪を狩れないがために致命傷を受け、フィンにより二度までも命を救えたはずの癒しの水を零され、そして息絶えていく彼。

 私は唸った。

 何とついていない男だろう。何一つ悪くないのに、彼は廻り合せの果てに非業の死を遂げるのだ。

 これでもなお、この男は本当に何かを恨むようなことはなかったというのだろうか。

 その生真面目な性格ゆえに周りに翻弄され、犬死のように死んでいくことを受け入れるというのだろうか。

 哀しい。

 これが大英雄の最後かと思うと、哀しくてならない。

 我ながら、思い入れのしすぎとも思う。だが、目の前で息絶えていく青年の面持ちに、私は感情が移入していくことを抑えきれなかった。

 英霊でも、神話の世界の人物でもない、その高潔な一人の男性の死が、私は無性に哀しかった。

 

 

 

 

 

 目覚めると、窓の外は暗かった。

 既に陽が落ちて久しいらしい。

 芋虫のようにベッドから這い出すと、よく眠っていたはずなのに何だか体が重い。

 

「んあ……だりぃ」

 

 独り言をつぶやきながら、何気なく時計を見る。

 その瞬間、1ミリ秒の早さで私は完全な意味で覚醒した。

 

 やべえ、目覚ましかけるの忘れてた!

 

 ハニーフラッシュな勢いで脱衣と着衣をすませ、玄関に走ってヘルメットを掴む。

 駐輪場からセローを引っ張りだし、暖機30秒で発進した。

 ヘッドライトが夜道を照らし、エンジン音が夜の住宅街に響く。

 今の私の状況は、一言で言えばやばい。二言で言えば超やばい。

 限界まですっ飛ばしても30分は遅刻だ。

 たかが30分、と考えてはいけない。大人の世界は時間厳守が鉄則だ。

 その30分でもしものことがあれば、患者にも迷惑がかかる。プロとして恥ずべき大失態だ。

 

 ああ、患者、患者のために私は、いまこんなに走っているのだ。

 急げ、セロー。おくれてはならぬ。単気筒20馬力の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでも……良くはない。さすがにバイクでまっぱは寒いよ。

 しかし遅いワゴンだな。ちょっと追い抜きかけさせてもらおう。

 気の毒だが私のためだ。

 

 そんな感じに脳内で勝手に改変朗読中の『走れメロス』が、知らぬ間にながいけん閣下の『走れセリヌンティウス』にすり替わった時だった。

 

 差しかかったややキツめのカーブで事件は起きた。

 対向車線のトラックが、中央分離帯を踏み越えて目の前に迫ってきた。

 やたら大きな、8トンクラスのトラックだ。ライトの光量が私の網膜を突く。

 ばっか野郎!

 反射的に右手と右足がブレーキを握り、蹴り、それに応えて車輪がロックした。いかに扱いやすいセローでも、扱うこっちの能力以上の運動性能は発揮してはくれない。かなりのスピードが仇になった。スピードとタイヤのグリップと、そして体重移動のタイミングが微妙にずれた。滑ったタイヤが余計なところでグリップを取り戻す。

 ハイサイド。

 次の瞬間、私の体は宙に浮いた。

 

 引き伸ばされた時間の中を、私は漂った。

 これはやっちゃったかなあ。

 飛ばされた先は谷側だ。

 木にぶつかるかな。

 転げ落ちるような道じゃなかったけど、華奢な私じゃ無事で済む気がしない。

 ぐるぐるとまわる視界の中、一瞬だけ見えたのは小さな祠だった。

 お稲荷様か、道祖神だろうか。

 神様なら、ちょっと助けてくれないかなあ。手を合わせたこともない不信心者な私が言うのも厚かましいけど。

 でも、やっぱり年齢イコール彼氏いない歴は寂しすぎるよ。

 男は三十路まであれなら魔法使いになるそうだけど、そういう意味では女は妖精になるんだそうな。

 高校は女子高だったし、大学は勉強三昧、研修期間は生きているだけで精一杯だったし。医者が晩婚の横綱というのは本当だと思う。

 そういう意味での幸せってなかったよなあ、本当。

 やだなあ、寂しいなあ。

 そんなかわいそうな私だ、せめて全治3か月くらいにおまけしてくれないかなあ。

 それもダメなら、せめて苦しまない程度に一思いに済ませて欲しいよ。

 

 そんなことを考えながら、私は背中に衝撃を感じた。

 鈍い音がする。ぐちゃっとかぼきっとか。これは木が折れる音だろうか。

 祠にぶつかったのかな。

 あるいは私の骨が折れる音か。

 

 許容限度を超える衝撃に、私はあっさり意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 永遠のような刹那。

 私はまた夢を見た。

 何かが裏返り、何かが崩れて再構成されていくイメージ。

 そんな揺らいだ空間の中で、一人の青年が哭いていた。

 自らの槍で、自らの胸を突いて死にゆく青年が、漆黒の呪いを振りまいている。

 

『その夢を我が血で穢すがいい! 聖杯に呪いあれ! その願望に災あれ! いつか地獄に落ちながら、このディルムッドの怒りを思い出せ!』

 

 紡がれる憤怒と絶望と、結晶化しそうなほどの呪い。

 一人の大英霊が、己の存在そのものを呪詛として世界を呪っていた。

 血を吐くような叫びと、まき散らされる怨嗟。

 主人と従者、双方の認識のすれ違いが招いた、必然としての悲劇の結末がそこにあった。

 でも、その慟哭は誰に届くこともなく、静かに虚空に飲み込まれて、消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれだけ寝ていたのは判らない。

 気が付けば、アスファルトの上に仰向けに倒れていた。

 無意味に男前な動きで、私は慌てて起き上がった。こういう場合は本当は体の末端から動くかどうかを確認してから動かなければならないんだそうだけど、今はそれどころではない。幸い、体にひどい痛みはないようだ。

 寒い。見回せば、あたりは山道。下はアスファルト。冬の冷気がジャケット越しに体温を奪っていた。

 冷えきった体を震わせながら携帯を取り出して時間を見ると、時間はそんなには経っていないようだ。

 

「いや~、良く無事だったな、私」

 

 それなりに交通量のある道だ。下手したら後続の車に轢かれていた可能性もあったことだろう。私の悪運も、まだ捨てたものではないらしい。

 意識を失っているだけに頭を打っているかと思ったが、ヘルメットを脱いで確認しても傷はない。一応念のため、後で職場で検査してもらおう。

 急いで倒れているバイクを起こして跨り、スタートボタンを押す。幸いにもセル一発でエンジンは回った。軽快に回るエンジンを確かめるように軽くアクセルを吹かして急いでクラッチを繋いだ。

 ここまで遅刻しては、恐らく落とし前は相当高いものに付くだろう。恐らくは三宮で神戸牛だ。

 来月の給料のどれくらいが飛んでいくかを考えながら、急いで山道を下った。

 でも、そんな来月の心配は必要ないのだと気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 

 

 違和感は2つ目のカーブを曲がった時に訪れた。

 毎日通っている道だと、体は自然とカーブのパターンを覚えているものだ。右が来たら次は左。その次が右、左、インド人を右。

 そんなリズムに違和感を感じた。

 カーブのリズムだけじゃない。アールも違う。

 まるで知らない道を走っている感覚。

 不気味なものを感じて、私はワインディングロードの傍らに一旦バイクを止めた。

 

「……とりあえず、落ち着け」

 

 ラマーズ法の深呼吸をして、自分を落ち着ける。

 きっと何かが自分の中でずれているだけだ。内臓を抜かれているわけじゃないんだ、得体がしれない飛行物体に拉致られた訳ではないだろう。ちょっと勘違いしているだけだ、きっと。

 まずは街まで下りてみよう。そうすればどの辺かは判るはずだ。神戸は南北に走れば必ず2号か43号にぶつかるし。

 でも、その前に見えるはずの山麓バイパスはどこだ?

 いつもくぐるはずのバイパスのインターを、私は通っていないことに気付いた。とっくに通過してなければおかしい距離を走ったはずだ。

 呼吸が早まるのを感じながら山道を下りきり、大きな通りに出て周囲を注意深く見回す。

 この道は国道であるらしく、その道の上に標識の青い案内板を見つけた。

 そこには、こう書いてあった。

 

 

『冬木市役所 400m  海浜公園 2km』

 

 

 ふゆきし?

 冬木市?

 ……冬木市!?

 いろいろな物が脳内をぐるぐる回り、私は呟いた。

 

 

 

「…………どうなってんのよ?」

 

 

 

 

 

 

 

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