From Zero to Zero   作:FTR

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第2話

 翌日の午前中、大きな橋の下にある公園で私は項垂れていた。

 私の上には、赤い、神戸大橋みたいな外見の橋。hollow ataraxiaで黒い変なのがわらわら渡って凛とアーチャーにぷちぷちやられていたあれだ。名前は思い出せない。冬木ビッグブリッジだっけ?

 ビッグブリッジと言えばギルガメッシュ。ギルガメッシュかあ、エクスカリパーとか思い出すなあ、英雄王としてあれが召喚されたらトッキーどんな顔したのかなあ、などと、ともすれば現実から逃避したくなるくらい私は疲れ果てていた。

 体が重い。気持ちも重い。

 どうなっているんだ、これは。

 本当に。

 

 

 あれから、パニックになりそうな自分を押さえつけ、何とか現状を把握しようと動き回った。

 

 見える範囲の地理は、私の知るそれとは全然違っていた。そこには三宮も元町も中華街もポーアイも、六甲アイランドもなかった。神戸大橋のようなでっかい橋はあるにはあったが、そもそも橋のかかり方が違う。何で東西に橋が架かっているのやら。神戸大橋なら南北だろう。街を分断するようにでかい川が流れているのも予想外だ。都賀川はもっと謙虚な川だったはずだぞ。

 

 そんな状況の中、調べが進むに従って一番困ったことは、何と言っても自分のことだ。

 まず、勤め先の病院がなかった。心当たりに電話をかけても、どこも不通か間違い電話。携帯が通じないからどれも昔懐かしい公衆電話からかけた。だが、財布の中に長逗留していた『銀魂』の銀さんのテレカに穴をあけてまで手に入れた情報は、私の知っている人とは連絡が取れないという事実だけだった。

 次いで、まず一回現場に戻った。

 壊れた祠の場所に行ったが、特に収穫はなかった。街灯とヘッドライトの明かりの中に見えるのは、スリップの跡や祠の残骸だけ。祠の御神体は何だったのか判らない。よくあるパターンだとここに封じられた何かが云々ということかと思ったけど、そういうわけでもないらしい。バイクで自宅に戻ろうともしたが、自宅に繋がるはずの道がなかった。

 この時の絶望感は、筆舌に尽くしがたい。

 

 次に駆け込んだ先は、コンビニだ。

 地図を買おうと思ったが、これには別の問題が立ちはだかった。

 お金だ。

 地図を手に掴んでレジに向かった時、前の人の会計を見て私は目を疑った。

 千円札だった。

 その肖像は夏目漱石。

 古いお札だった。総毛立つ思いで踵を返し、新聞の棚から新聞を手に取る。

 スポニチだ。虎びいきのデイリーがないのがそもそもおかしいと感じるべきだったが、そこまで頭が回っていなかった。スポーツ紙はいろいろアレなところもあるが、日付だけは正確だろうと目を走らせる。紙面に踊る『野茂』の文字に嫌な予感を感じながらその日付を見て、私は絶句した。

 

 199*年。

 

 私は6つかそこらだよ。

 明らかになったことは時間のずれだけではない。最大の問題は、流通しているお金を持っていないことだ。お財布には、常に3万円くらいのお金は入れてあるけど、そのお金は紙くずだということだ。

 私の手持ちのお札は諭吉に一葉に英世だ。だが、コンビニで見た範囲では、流通しているお札の人物像は漱石に稲造だった。一万円札は同じ諭吉ではあるけれど、裏面が違っているだろう。天は人の上にも下にも人を作らないと諭吉は言っていたが、斜め上に弾き飛ばされた身としてはどうコメントしたものだろう。

 クレジットカードもキャッシュカードもダメだった。街角の看板を見るに、みずほ銀行はこの時代にはまだ第一勧業銀行だったようだ。ハートのマークなんて私の世代じゃ記憶の彼方だよ。

 つまり、ニアリーイコール文無しだ。

 私の持てる経済力は、小銭として持っていた2千円ばかり。今どき、小学生でももっと持っているだろう。原始的な手段でお金を稼ごうと手ぬぐい被ってゴザ持って柳の下に立って『お兄さん、こっちこっち~』とやろうにも、そのゴザを買う事もできないと思う。その硬貨すらも、実際には製造された年号的に問題があるものばかりだが。

 

 あれこれと考えながら朝まで町中を駆けずり回り、現状を抜け出す一縷の望みを探し続けた。

 それがいずれも不首尾に終わり、朝になって開くと同時に私は『中央図書館』と銘打たれた図書館に駆け込んだ。何しろインターネットがまだほとんどない時代だ。Windows95すらもないし、当然ネットカフェなんかないから情報入手の手段は限られてくる。そんな時代では、図書館の存在価値は私がいた時代とは比較にならない。

 入り口のあたりで何やら派手に工事しており、派手にひしゃげたシャッターが現場の端に撤去されていたが、営業の方は普段通りに行われているらしい。

 欲しいのは何をおいても地図だ。まずは地理を押さえなければならない。血走った目で地図を漁ると、冬木市の立地が俯瞰的に理解できてきた。日本全図の中で、ちょうど私が知る神戸市にすり替わるように存在しているようだ。

 新幹線は微妙に違うところを走り、JR、阪急もまた少しずつ違うところを走っているが阪神がない。駅名ももちろん違っていた。

 まるで、日本地図の中でこのエリアだけが不気味な変質を起こしたがん細胞のような感じだ。

 私が知る地理のそれと異なり、柳洞寺、冬木ハイアットホテル、私立穂群原学園、冬木市民会館の文字が見える。

 なけなしの硬貨を使って地図のコピーを取り、私はそのまま市役所に向かった。

 最後の望みとして、この世界に私が存在しているかどうかを確認するためだ。

 縋る思いで住民票請求の書類を書き窓口に出して待つこと数分。呼ばれて出向いた窓口のお姉ちゃんの事務的な声が、まだ耳に残っている。

 

『そのような方は市内には在住されておりません』

 

 

 

 さて、どうしたものか。

 生まれてからずっと神戸在住の私だ。つまり、この世界では私は存在していない人間と位置づけられているらしい。

 現状で並べられたカードを見る限りにおいて、そのことが私は受け入れねばならない最もきつい事実だった。

 実際、これならいろいろルーズな中世ファンタジーの世界の方がまだましだ。

 管理が行き届き、個人を特定するインフラが発達した世界においては、パーソナルデータが存在しない私は幽霊のような頼りない存在に成り果てている。

 友人も知人もいない世界に、ただ一人放り出された事実。まるで宇宙に命綱なしで放り出された宇宙飛行士のような気分だった。

 

 一番最初に思い浮かんだのは、記憶喪失ということで警察に駆け込み、法の保護を求めることだ。

 全生活史健忘扱いということなら仮の戸籍を得ることができたはずだし、医師の資格は役に立たないにしても医療機関への就職なら知識や経験が活かせるだろう。そこで夜学にでも通いながら資格を取っていく生き方が一番リアリティがあるように思う。

 だが、記憶喪失というものはこれでなかなか実証が難しいものだ。この制度は、もともとは捨て子などの救済のための制度を拡大したものであり、とぼけた奴が『僕、記憶喪失です』と言えば誰でも戸籍がもらえるわけではない。下手な芝居が通じるほど、警察の目は節穴ではないと思う。

 真正直に自分の正体を詳らかに話し、狂人扱いされてしばらくその手の施設に放り込まれるのならそれもそれでいいが、自立までには時間が掛かりそうだし、何より医師免許はもらえなくなるだろう。

 これでも、医者であることには多少の誇りがある。それ以外の生き方を模索しなければならないとなると、人生設計を一から練り直すくらいの覚悟が要る。

 

 ベンチに座ったまま、私は頭を抱えこんだ。

 目先のことと同時に、オタク趣味人なりの不安もあった。

 冬木市という言葉は、私が知る範囲では一種の死亡フラグだ。

 TYPE-MOON社の生み出した世界観にある地名で、その地では血で血を洗う抗争が日常茶飯事だったはず。魔震後の新宿よりはマシかもしれないが、それでもいつ何時物騒な連中が得体がしれない手法でドンドンパチパチやらかすか知れたものではない。

 199*年という時間がその世界観だとどのあたりかを思い浮かべてみれば、明確なところは判らないが、恐らく第4次聖杯戦争のあたりだろうか。

 手元の地図に目を落とせば、目を引くひとつの施設の名前があった。

 冬木市民会館。

 記憶が確かなら、これは確か第4次聖杯戦争の決着の地だったはずだ。7体のサーヴァントが武威や秘奥、権謀や詐術の限りを尽くして潰し合い、最後にこの場所に小聖杯が降臨して、その挙句に周辺がひどい目に遭うという話だったはずだ。

 その大災厄の渦中に放り込まれなかったあたりは助かったが、いつその悲劇が起こるか知れたものではない。

 そこで怖いのが、SFなんかでよくあるいわゆる世界の修正力だ。そんな物騒な世界であるからには、もしこの世界に修正力なんてものがあるのなら、私は無事には済まないだろう。漫画やSFで語られる異世界分子の辿る末路は、大抵悲惨な結末に終わっている。

 私が好きな漫画であるかわぐちかいじの『ジパング』では、紛れ込んだ異分子たちは矛盾のない形での死という結末を迎えることとなっていた。まるで世界の免疫が働くように。

 そういう点で、平行世界を矛盾なく移動する概念をテーマにした漫画が古い作品にあった。

 『神星記ヴァグランツ』と言う作品だが、その中ではヴァグランツと言われる能力者はシフトと言われる転移能力を使って世界を渡るのだが、汎世界におけるそれぞれの世界の固有の資質を手に入れながら世界を渡るので異物扱いにはならないとか何とか。近未来の人物が光線銃を持って中世風の世界に渡ったら、その銃が火縄銃のようないかつい銃に変わっているという描写は興味深かった。

 冬木市という言葉と平行世界というお題があれば、想像できるものは第2魔法というやつだ。ゼルレッチというおっさんが使う異世界を渡り歩く魔法だったと思ったが、きのこワールドもこの辺になってくると設定がややこしすぎて広く浅くがモットーの私にはついていけなかった記憶がある。

 ともあれ、魔法使いでもヴァグランツでもない私がこの世界の一部にきれいに収まれるのか自信はないし、どうすれば自分がこの世界にとって異物にならずに済むのかもさっぱり判らない。そう言えばヴァグランツの世界観では自分の意思で世界を渡れない平行世界の漂流者のことをビオサバールと呼んでいて、粛清の対象になっていたっけな。今の私は、まさにそのビオサバールだ。そのことが妙なことにつながらなければいいのだが。

 ともあれ、こんな目に遭わせてくれたのがどこのどいつか知らないが、見つけ次第ひっぱたいてやりたかった。

 

 そんなこんなのあれこれを必死に考えるが、思考が今ひとつクリアにならない。恐らく、ろくに物を食べていないからだろう。グルコースが充分に脳みそに回っていない感じがする。

 手持ちのお金が小銭ばかりでは、あんぱんと牛乳だけの支出でも大ダメージだ。摂取カロリーが絶対的に足りていない。腹の虫は鳴り続けているが、それでも先が読めないからには考えなしに無駄遣いは出来ない。ジリ貧だ。

 

 

 そんな私の前に、人の気配を感じだ。

 顔を上げると、興味津々という感じのがきんちょが数名、私を動物園の生き物のように見つめていた。

 

「おばちゃん、こんなとこで何しとう?」

 

 がきんちょ諸氏の代表と思しき少年が言った。負けん気が強そうな連中だ。命知らずな言葉は聞かなかったことにしてやろう。今の私には、そんなことに振り向けるリソースはないのだ。

 それをきっかけに、がきどもが適当なことを言い始める。

 

「お財布落としたん?」

 

「男にふられたん?」

 

 黙れがきども、ブタに変えるぞ。そんなにひどい顔をしているのだろうか。だからと言って傷口に塩を塗るような真似はやめて欲しいぞ。

 初対面のくせにやけになれなれしいがきんちょ共だが、まあ、こういうことは今に始まったことではない。昔から、私は妙に子供に懐かれることが多い。恐らくは体格が小柄なせいでがきんちょ諸君も接しやすいのだろう。なめられているという可能性もあるが、私も子供は嫌いではない。無駄に元気な彼らと接するとこっちもエネルギーがわいてくる気がするし。

 そんな彼らの足元には汚いサッカーボール。そうか、もう学校も終わる時間帯か。やや離れたところにランドセルが置かれているところを見ると、学校帰りにみんなでサッカーでもしているのだろう。そう言えば、がきんちょ諸君とセイバーが一緒にサッカーして遊んでいるシーンが何かであったっけね。元気があれば私もそれくらいのことはしたいところだが、残念ながらそんな余力は今の私にはない。

 

「……おなかが空いたんだよ」

 

 正直に言うと、がきんちょ諸君が驚いたような顔をした。

 

「おばちゃん、文無しなん?」

 

 どこで覚えて来るんだ、そんな言葉。

 

「そういうことだ。だから君たちの相手をしている元気がないんだよ。ほら、あっち行きな。知らないおばちゃんに話しかけちゃいけないって学校で言われてるだろう」

 

 適当に流して追い払おうとした時だった。

 

「ん」

 

 一番年かさの男の子が、握った手を伸ばしてきた。何事かと手で受けると、ぽとりと小さな塊が手のひらに落ちてきた。

 何かのいたずらかと思ったら、手のひらに載っていたのは、一個のキャラメルだった。

 

「元気出しい」

 

 ニカッと笑った少年の笑顔が、眩しかった。

 恐らくは、この少年のおやつなのだろ。大人が茶菓子がわりにくれるのとは意味が違う。彼にとっては、それなりに大事なお菓子なはずだ。

 そう思ったとき、思わず純粋な厚意が胸に染みて目頭が熱くなった。

 

「ありがとう、恩に着るよ」

 

 年端もいかぬがきんちょの思いやりに、ささくれていた私の心が少しだけ軽くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、私は公園の端っこで野宿を選択した。

 風が冷たく、気温も低い。バイク用の上着を着ていても体の震えが止まらなかった。

 宿を取ろうにもお金はないし、行くあてももちろんない。

 ゴミ箱から取り出した新聞紙を体に巻いて、ただ朝が来るのを待ち続けた。気温はかなり冷え込んでいる。うっかり眠ったら、恐らく低体温症になってしまうだろう。

 私なりに考えて整理がついた打開策は、やはり法の保護を求めることだった。

 ただし、行き先は警察ではなく市役所だ。

 ソーシャルワーカーを紹介してもらい、そこで自分の問題を素直に話すべきだと考えた。

 いきなり警察ではどうしても事件性を疑われるだろうから、ここは民事的な側面から切り込んだほうが穏やかに事が進むと思うからだ。

 『自分でもおかしなことを言ってると思うけど』として話をしていけば、いきなり窓に格子の付いた病室に放り込まれることはないと思う。

 とにかく、法的に幽霊な今の状況をなんとかしなければ明日が見えない。保護を受ければ、ご飯にありつけるかもしれないし。免許やお金は、行く前に全部処分しよう。偽造罪とか言われると厄介だし。

 鳴り止まないお腹を抱えて、明日のことだけを考えて私は時間を潰した。

 

 

 深夜になるとますます気温が下がる。

 空腹を紛らわせるために水栓の水ばかり飲んでいたので、どうしてもトイレが近い。

 この公園に公衆トイレがあったのはありがたかった。

 

 意地悪な神様が、さらに下の世界に私を招待してくれたのは、2回目のトイレに行った時だった。

 深夜、ヘルメットだけを手に持って公衆トイレに向かう。

 バイクのヘルメットホルダーというのは、実はヘルメット泥棒にとっては都合がいいものなのだそうだ。刃物でヘルメットのストラップをじょきんと切ればヘルメットをかっぱらうことができるのだ。ストラップが無くても1000円で捌ければ元手ゼロで1000円の儲け。タチの悪い高校生あたりはよくやるらしい。たまにフルフェイスのヘルメットをワイヤーロックでバイクに固定しているのを見かけるが、あれはそういう輩への対策なのだそうだ。

 用事を済ませ、仮設の寝床に戻った時、ぽつんと頬に雨が落ちてきたのに気付いた。

 最低の状況の時には、追い討ちというものがあるのが世の中であるらしい。

 

「ちぇ、雨か」

 

 呟いて空を見上げた。

 そこに綺麗な星空を見て、私の思考が止まった。

 妙だ。雨雲などどこにも見えない。

 代わりに、数個の黒い何かが礫のように落ちてきた。大きいものでは小ぶりなスイカくらいなそれが、私からやや離れたところに落着する。

 聞こえてくるぼとぼとという湿った音。

 

 なんじゃ? と思って頬っぺたを触ったとき、背筋に冷たいものが走った。

 ぬるりとした感触。職業柄嗅ぎ慣れた、鉄のような匂いがする。

 恐る恐る指を見たとき、そこに見るんじゃなかったと心底思う赤い液体が付着していた。

 どこかで、妙な音が聞こえた。それが自分が生唾を飲み込む音だと気づいたとき、風に乗ってどこか狂的な愉悦の声が耳に聞こえてきた。

 

「ほら~、やっぱ夜じゃよく見えないじゃん」

 

「それは狭い考え方ですよリュウノスケ。闇に降る血の雨というものは、音と芳香を楽しむものなのです」

 

 男の物と思われる、2人分の声。

 悲しいことだが、私にはそれが何の声なのか判った。判りたくないのに判ってしまった。

 およそ想像できる中で、最も聞きたくない類の声だ。

 思考より先に体がそのことを理解し、筋肉が痙攣を始める。恐怖のあまり、私は震えた。失禁しなかったのは、たまたま膀胱が空だったからにすぎない。

 逃げないと。

 私は足音を殺してその場を離れようとしたが、この時ばかりは相手が悪かった。 

 

「おや、こんな時間に通行人がいたようですね」

 

 どこか間延びした、甲高い声が耳に届く。

 ああいう存在の対人レーダーは、およそ人のそれからかけ離れていることは知っている。彼が言うその通行人というのが、私のことを指していることは明らかだ。

 逃げよう。

 そう思ってはいても、足が動かなかった。生まれたての子鹿のように、足が震えて立っているだけで精一杯だ。

 暗がりから滲み出るように、街灯の下に二つの影が現れる。

 一つは一見イケてる青年、もう一つは異貌の巨漢だった。

 

「お姉さ~ん、こんな時間になにやってんの~?」

 

 癇に障る声だった。チャラ男っぽい、人を舐めた声。でも、今の私にとってはそれは私の生殺与奪の権利を握る絶対者の声だった。大声を出したくても声が出ない。恐怖に思考が支配され、頭蓋骨の中に響くカチカチという音が、自分の歯が鳴っている音だということにすら気づかなかった。

 私は知っている。こいつらの正体を。

 そして、こいつらの趣味嗜好の異常さを。

 震えるな私を見ながら、巨漢が悲しそうに首を振った。

 

「おお、お気の毒な御嬢さんですね。通りがかった場所が悪かった」

 

「そうだねえ。見られちゃったみたいだし~」

 

 自分に向けられたその視線のあまりのおぞましさに、全身に鳥肌が立った。セクハラい目で見られる方がまだいい。これは、人を物だと思って見る目だ。私を壊して遊ぶことを楽しみとする目だ。

 それを理解した瞬間、本能が体を支配し、うまく繋がらなかった回路がようやく機能した。それは生死の際という原始的な恐怖から逃走するという本能だ。

 私は、身をひるがえして走った。

 運動神経はあまり自信がある方じゃない。運動会の徒競走でも遅くはないが1位にはなれないくらいの走力しかない。

 それでも、今はその走力だけが頼りだった。

 目の前の、人の形をした死と絶望の権化からの逃走。もって生まれた二本の足に全力を込めてこの場から遠ざかる。

 だが、そんな必死の逃走は、3歩目を踏み出す前にあっさりと終了した。

 飛来した何かが私の左足をからめ捕り、私は派手に転んだ。したたかに顔面を打ち、鼻の奥に金臭い臭いがこもった。慌てて立ち上がろうと地についた右手にも、何だかぬるりとしたものが次々に絡み付いて来て私の自由を奪った。

 ちょっと待てこら、触手枠はセイバーの担当だろ。

 必死にもがいても、締め付ける力はちっとも緩みはしない。

 声にならない悲鳴を上げながらもがく私に向かって、二人分の足跡が近寄ってくる。

 

「ねえ旦那、最近子供ばっかだったから、たまには大人で遊びたいんだけど」

 

「いいでしょうリュウノスケ。あなたの流儀を尊重します」

 

「やり~。このカミソリ、研いだばっかなんだよね」

 

 来るなと悲鳴を上げたくても、口の中が乾き切っていて声が出ない。

 目の前で光る鈍い光。

 今にも失神しそうな恐怖の中、あんちゃんの楽しそうな顔が妙に醜悪に見え、それが私の中の火薬庫に火を付けた。

 爆発するエネルギーの名は、憤怒。

 これでも元から口より先に手が出る右ストレートな性格だ。

 あんちゃんが勝利者の足取りで私の前に屈み込んだとき、私は自由になる右足で、思い切りその両足の真ん中を蹴った。

 こういう時はスナップを効かせるのがコツだが、今度ばかりは恥骨も砕けよとばかりに思い切り蹴り込んだ。

 絵に描いたような直撃を受け、悲鳴を上げてあんちゃんがのたうち回った。

 ただの痴漢だったら、ここで逃げの一手だったことだろう。だが、私の体を縛る得体がしれない触手は緩む気配もなく、今しがたまで自由だった右足も触手が絡みついてその自由を奪ってしまった。

 手詰まりだ。尚も必死にもがく私の前で、あんちゃんがダメージから回復しつつあった。

 状況は最悪だった。あんちゃんの目に、怒りが満ちていた。

 

「やってくれんじゃん」

 

 禍々しい笑顔を浮かべながら、あんちゃんがぎらりと光る刃物を横薙ぎに一閃した。

 咄嗟に顔を背けたので『赤い目隠し』をされることはなかったが、頬に痛痒い感触が走り、赤い飛沫が散った。かなり鋭利なカミソリだ。だらだらと喉に落ちてくる血の生暖かい感触に、私は憤死しそうな怒りに駆られた。

 

 女の顔に刃物を立てるとは!

 

 私の中の恐怖が、その事実に朝露のように消えた。 

 今、私を支配しているのは純粋な怒りだ。

 いくら敵が強大でも、最後は噛みついてでも反抗してやろうと決意した。

 ただじゃ死なないぞ、お前ら。歯には雑菌がいっぱいいいるんだ。動物咬傷とは言わないが、人に噛まれても簡単に蜂窩織炎くらいにはなると知れ。

 そんな見当違いの覚悟を決めた時だった。

 

 

 何がきっかけだったのかは判らない。

 周囲で、唐突な風の渦が巻いた。

 それに応えるように、青白い光の爆発が起こる。

 

 

 な、何ぞ!?

 すぐ傍に落ちていた私のヘルメットの辺りから、夜闇を切り裂くような燐光が奔流のように迸った。

 目を焼くそれは、まるでSF映画でUFOが降りてきた時みたいな派手な光だ。

 同時に、左手の傷に鈍い痛みが走った。どういう仕掛けか、甲にある痣のような引っかき傷が鈍く光っていた。

 こいつらが何かやったのかと思ったが、目の前の二人の表情にも驚愕が見て取れる。

 

「いけません、リュウノスケ」

 

 巨漢の声が響き、あんちゃんを抱えて巨体に似合わぬ軽快な動きでその場から飛び退った。そう言えばジル・ド・レェも元は軍人だっけね。

 間髪を入れず、今まであんちゃんが立っていた場所に轟音と共に突き立ったのは真紅の槍。

 

「な、何者!」

 

「それは俺の台詞だ、外道」

 

 私のすぐ隣から聞こえて来たのは、深いトーンの男の人の声。

 今まで誰もいなかったその場所に、翡翠色の長身の人影があった。

 凡人の私にも、その身が纏う神気が判るほどの神々しさ。太陽神のような美丈夫は私を庇うように立ちふさがり、その両目に怒りを湛えて私を虐めていた両名と相対した。

 

「我が主に対する無礼、断じて許さん。覚悟はできていような」

 

 凛としたその声に、巨漢は慌てたようにあんちゃんを抱えてそのマントのような衣を翻した。

 それを逃がさじとばかりに、美丈夫の手が一閃する。

 黄金色の光が走り、短槍が放たれた。

 しかし敵もさるもの、どういう手品か知らないが、その投げられた槍の先で巨漢が煙のように消えた。それと同時に、私を捕えていた触手も消えた。

 縛めが解けたものの、私はあまりに唐突な出来事に身動き一つできなかった。

 

「……逃がしたか」

 

 苦々しく表情を歪ませたのもつかの間、地面にへたり込む私に美丈夫が向き直った。

 

「参上が遅れまして申し訳ありません」

 

 優しい、労りに満ちた面持ち。

 慇懃に跪く美丈夫のそんな様子に、極限まで緊張していた私の中のスイッチが次々にオフに切り替わっていく。

 助かった。

 その事実を認識した瞬間、だだ漏れになっていたアドレナリンの余韻に体が痺れ、猛烈な震えが体を支配した。怒りに塗りつぶされていた恐怖が、その利息を取立てにやってきたように。

 殺される、という恐怖。

 殺されたかも知れない、という恐怖。

 人が生命体であるからには不可避な恐怖が、幽鬼のように心を覆って私を塗りつぶしていた。

 

「わ、わ、わた……こ、殺さ……」

 

 口元が震えて言葉が紡げなかった。

 そんな私の肩に、美丈夫が手を置いた。

 

「ご安心ください。もう、大丈夫です」

 

 その言葉がするりと心に染み込み、闇を打ち消す光のように私の中に充満した恐怖をかき消していく。

 恐怖のあまりに止まっていた様々なものが動き出した。涙腺も、そんなもののひとつだった。

 滂沱たる涙が、私の両目から溢れた。

 怖かった。

 本当に、怖かった。

 恐らく一生涯夢に見るほどの恐怖を味わった。

 その恐怖を洗い流そうとせんばかりに、私の頬を涙が伝った。

 ただ、子供のように泣きわめく私は、さぞみっともなかったことだろう。

 

 

 それでも、私は堪えきれずに声を上げて泣き続けた。

 

 

 

 

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