スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
「あ……」
放課後の部室――とは名ばかりの、使われていない旧校舎の倉庫。埃っぽい空気の中に響いた葵ちゃんの声は、いつもの弾けるような明るさを完全に失っていた。
パイプ椅子の背にもたれ、スマートフォンを片手に頭を抱えているのは、私たちのゴルフ部の顧問を引き受けてくれた数学の小林先生だ。
体育会系ですらない、眼鏡をかけた温厚で地味な先生で、ゴルフに関しては、テレビでサイガー・オッズの名前を聞いたことがあるというレベルの、完全な名前貸しの顧問である。部活を新設するにあたり、手続き上の責任者として名前を置いてもらったに過ぎない。
「……先生、やっぱり、ログインしても『入金確認待ち期限超過・自動キャンセル』って表示のままですか?」
「いや、それがな、風間……」
小林先生は申し訳なさそうに、あるいはシステムのエラー画面に困惑したように、スマートフォンの画面を葵ちゃんに見せた。
「どこをどうタップしても、画面が進まないんだよ。高ゴ連の管理画面には、君たち二人の学校承認のチェックは確かに入っているんだが……肝心の大会エントリーのところが、グレーアウトしていて変更できないんだ。ほら、ここを見てくれ」
「……あ。本当だ……」
葵ちゃんが、スマートフォンの小さな画面を覗き込みながら、青ざめていく。
「期日までに参加費の振込が確認できなかったため、申し込みは無効となりました……って。今日が、その4月30日の……締め切りを過ぎたところだから、オンライン決済の受付自体が、完全に閉まっちゃったんだ……」
「すまない、風間。君から、ネットで選手登録をしたので、先生の管理画面から承認ボタンを押してください、と言われて、それは確かにやったんだが……。その後のエントリー手続きや、参加費の支払い期日まで僕が把握していなくてね。学校の部費から落ちるものだとばかり思い込んでいて、事務への掛け合いを後回しにしていたんだ」
「違います、先生のせいじゃありません……。私の、私のミスです……」
葵ちゃんは、自分のスマートフォンを握りしめたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。いつもは快活で、どんな強風の中でもケラケラと笑っている葵ちゃんが、これほど激しく落ち込む姿を、私は初めて見た。
「私が……お母さんにちゃんと頼んでなかったからだ……」
私は、葵ちゃんの隣で、彼女の震える肩をじっと見つめることしかできなかった。
ゴルフという世界に足を踏み入れて、まだ一ヶ月も経っていない私には、高ゴ連(高等学校ゴルフ連盟・中学校の部)の夏の予選大会がどれほど重い意味を持つのか、正確には理解できていなかったのかもしれない。だけど、手続きのミスで試合に出られなくなってしまったことの重大さは、痛いほどによく分かった。
「葵ちゃん……」
私がそっと名前を呼ぶと、葵ちゃんは机の上に両手をつき、涙を拭おうともせず俯いてしまった。長い前髪が彼女の表情を隠す。
「由依ちゃん、ごめんなさい……。高ゴ連の夏の予選は、5月の
今回のエントリー漏れには、複数のうっかりが重なっていた。高ゴ連の大会に出るためには、まず選手個人がネットでマイページを作り、所属中学校とリンクさせる。その後、顧問の先生が管理画面から学校承認をすることで、初めて公式戦へのエントリー資格が得られる。ここまでは、4月22日の部活始動と同時に、葵ちゃんが小林先生にお願いしてクリアしていた。
問題は、その後だった。
個人戦のエントリー申し込み自体は、選手本人のマイページから行う。葵ちゃんは自分の分と、初心者である私の分の手続きを、ネット上で済ませていた。しかし、その後に保護者が
ここ数日、新しいクラブや、本格的な練習環境が整ったことで、葵ちゃんは完全に舞い上がっていた。由依へのスイング指導や、トラックマンのデータ分析に夢中になるあまり、頭の中からエントリー費の入金という事務作業がすっぽりと抜け落ちていたのだ。
そして今日、鉄平さんから「おい葵、そう言えば大会予選の参加費の支払いはどうなってる?
「私の……完全な油断だ。由依ちゃんが、あんなに凄い球を打ってくれて……如月のおじさんが、私たちのために完璧な環境を用意してくれて。これで何も言い訳できなくなったって、私、自分でそう言ったのに……。戦う前に、自分のせいで言い訳を作っちゃった……」
葵ちゃんの拳が、膝の上でぎゅっと握り締められる。
環境への諦めから、主要大会である、KGA(関東ゴルフ連盟)関東ジュニア選手権・静岡県予選の申し込みを自らスルーしていた葵ちゃん。しかし、4月半ばに最高のギアと環境を手に入れた瞬間、彼女の瞳には本物の闘志が灯っていた。自分はもう一度、ガチのゴルフをやれる。そして、初心者とはいえ規格外のポテンシャルを持つ私に、試合という公式の舞台の空気を見せてあげたい。自分の背中を追わせて、いつか一緒に上へ行きたい――そう願っていた、最初のステップが、自身の事務ミスによって完全に消滅してしまったのだ。
「風間、本当にすまない……。僕がもう少し、高ゴ連の規約や入金期日を気にかけていれば……」
小林先生が、教壇で見せることのない困り果てた顔で頭を下げる。だけど、学校にゴルフのノウハウが全くない弱小部において、すべての段取りを名前貸しの顧問に依存すること自体が、そもそも無理な話だったのだ。
倉庫の中に、重苦しい沈黙が降りてくる。夕方の西日が、埃の舞う古い窓から差し込み、葵ちゃんの小さな背中を虚しく照らしていた。
◇
「――なるほどな。事情は分かった」
その日の夜、風間家のガレージ兼作業場。蛍光灯の青白い光の下、ハイエースの荷台に腰掛けた鉄平さんは、事の顛末を苦笑いしながら聞き終えると、手元にある缶コーヒーを一口煽った。
ガレージの片隅には、自身の過失に激しく打ちのめされ、ゴルフバッグのフードを弄んだまま一言も喋らない葵ちゃんが座っている。その横では、仕事帰りに急遽こちらへ立ち寄ったお父さん――達也が、スーツのネクタイを少し緩め、腕を組んで静かに佇んでいた。
「風間さん、私からもお詫びしなければならない。ゴルフ部の立ち上げや外部指導員としての登録手続きばかりに気を取られ、肝心の夏季予選のエントリー状況について、私から小林先生や葵ちゃんへの進捗確認を怠ってしまった。大企業の人間として、スケジュール管理の甘さを恥じるばかりだ」
お父さんは本当に申し訳なさそうに、鉄平さんに向かって頭を下げた。
とは言え、お父さんとしては、私はまだゴルフを始めてからわずか数日の完全な初心者で、今回の初夏の大会については、ルールやマナー、試合の雰囲気を勉強するための記念出場、くらいの軽い認識しか持っていなかった。だからこそ、そこまで目くじらを立てて進捗を管理していなかった、というのもまた、リアルな現実だった。
「いやいや、如月さん、頭を上げてくださいよ。大人が謝るようなことじゃねえですって」
鉄平さんはハイエースからひょいと飛び降りると、お父さんの肩をポンと叩いた。
「元はと言えば、うちの葵が最初のKGAの予選を、自分のモチベーションの低さのせいでスルーしちまったのがケチのつき始めだ。それに、高ゴ連のネット登録だの学校承認だの、今時のシステムはややこしすぎますよ。中1のガキが、自分でエントリーから入金の手配まで全部完璧にこなせって方が無理がある。おい、葵」
鉄平さんは、ガレージの奥から使い古された古いパターを取り出し、コンクリートの床の上で素振りをしながら、娘に声をかけた。
「いつまでそうやって、借りてきた猫みたいに丸まってんだよ。お前らしくねえな」
「……だって、私のせいで、由依ちゃんの初めての試合がなくなっちゃったんだよ」
葵ちゃんが、消え入るような声で呟く。
「由依ちゃんに、試合の緊張感とか、芝生の上でスコアカードを書く楽しさとか、早く教えてあげたかったのに。秋の大会まで、あと半年も公式戦がないなんて……」
「終わっちまったことを、いつまでもクヨクヨしててもしょうがねえぞ」
鉄平さんは素振りを止め、パターのシャフトを杖のようにして床につき、不敵にニカッと笑った。
「秋の関東中学校ゴルフ選手権が本番なのは、最初から変わらねえだろ。あそこが、お前たちが本当に上を狙うためのメインステージだ。今回の初夏の大会なんてのは、言ってみりゃただの小手調べ、前哨戦に過ぎねえよ」
「それはそうだけど……でも、秋まで、何の目標もなしにただ練習するだけなんて、由依ちゃんだってモチベーションが続かないよ……」
「高ゴ連の公式戦だけが、中学生のゴルフじゃねえだろ。なあ、如月さん?」
鉄平さんはパターを放り投げると、仕事帰りのスーツのネクタイを少し緩めて佇んでいた達也パパを振り返った。
ギアオタクであり、大学時代までガチの体育会系でゴルフをやっていたお父さんの脳内に、夏のタイムラインが鮮明に浮かび上がる。
「風間さん……まさか、夏の『ヤマハCUP』を狙うというのか?」
「それしかないでしょう!」
鉄平さんはガハハ! と、ようやくいつもの豪快な声を上げて笑った。
「ヤマハCUP……」
葵ちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に、わずかな光が戻ってくる。
「でもお父さん、ヤマハCUPは最初からカテゴリーが細かく分かれてるよ。中学生の部は、2、3年生の中学女子Aと、私たち1年生が出る中学女子Bの二つだし……。私たちが出られるのはBの部だから、上の学年の、本当のトップレベルの人たちと直接同じ条件でスコアを競い合えるわけじゃないよ?」
「直接の対決にはならねえ。だがな、葵」
鉄平さんはニヤリと不敵に笑い、指を三本立てた。
「中1の中学女子Bの部からそこに殴り込むメリットってのが、三つもあるんだよ。……おい、お前が小学生の時に出た時、どっちのコースを回った?」
「え? 小学生の部は……『
言いかけて、葵ちゃんが「あ!」と短く声を上げた。スマートフォンの画面に表示されている中学生の部の使用コースを二度見して、その綺麗な目を限界まで見開く。
「……気づいたようだね、葵ちゃん」
その言葉を引き継ぐように、お父さんが腕を組んで深く頷いた。
「そう、中学生になると、舞台はあの葛城ゴルフ倶楽部『
「山名コース……!
「その通りだ」
お父さんが、ゴルファーなら誰もが憧れる名門コースの価値を、少し声を弾ませて説明し始めた。
「葛城は厳格な
お父さんは、手元のメモ用紙にペンを走らせる。
「年齢と地域、JGAのジュニア会員登録さえ満たしていれば、厳しいハンディキャップ制限なしにエントリーできる。ジュニア特別料金のわずか数千円程度で、あの山名コースを回らせてもらえるんだ。これだけでも、ゴルファー人生において計り知れない財産になる」
「数千円で……山名が回れる……!」
葵ちゃんはゴクリと唾を呑み込んだ。小学生の時に回った宇刈コースも素晴らしかったが、テレビの向こう側にある戦略性の塊のような山名を、自分のクラブで攻められるとなれば、話は完全に別だ、と、一人のジュニアゴルファーとして、一気に血が騒ぎ出したのが見て取れた。
「それに、メリットはそれだけじゃねえぞ」
鉄平さんがガシガシと自分の頭を掻きながら、残りの指を突き出した。
「二つ目は爆発的なスコアを出せば国体の県代表候補に載ること。三つ目は、県内の名門高校のスカウトが目を光らせてることだ。中学女子Bの部だとしても、上位に食い込んでみろ。特待生の話が飛び込んでくる足がかりになる。派手なご褒美はねえが、国体、超名門コース、そして将来のスカウトの目……挑戦する価値としては、これ以上ねえほど美味いステージだぜ」
「……」
葵ちゃんは、自分のスマートフォンに表示されたままのエラー画面を、そっと消した。そして、私の手を強く握り返した。いつもの、太陽みたいな快活な笑顔が、彼女の顔に完全に戻ってくる。
「私のうっかりのせいで、三ヶ月の特訓期間をもらうことになっちゃったけど……。由依ちゃん、怪我の功名、むしろ大チャンスってことにさせてね! 覚悟してね、私のゴルフの指導、明日からめちゃくちゃ厳しくなるから!」
「望むところだよ! 私、どこまででもついていく!」
「ガハハハ! よし、言うようになったじゃねえか、由依ちゃん!」
鉄平さんが私の背中をドカンと叩き、私が「ふぎゃっ」と変な声を上げる。その様子を見て、お父さんもようやくホッとしたように、けれど実にスマートな、頼もしい笑みを浮かべた。
「よし。舞台の裏方は、引き続き私と風間さんで引き受けよう。由依がただの記念出場ではなく、秋の公式戦で本当に戦えるレベルになれるよう、データ分析とシミュレーションの環境は完璧に整えておく。二人が8月の大会を良い形で迎えられるようにね」
「頼むぜ、理論派のコーチ!」
鉄平さんがグラインダーのスイッチを入れると、ガレージの闇の中に、鮮烈な火花が再び激しく飛び散った。その眩い光の中で、私と葵ちゃんは顔を見合わせ、声を合わせて笑った。
初夏の
それは、弱小ゴルフ部にとっては手痛い事務ミスによるハプニングだったけれど、私たちの歩みを止める理由にはならなかった。地に足をつけ、まずは同世代の中での自分たちの実力を確認する。そのための、真夏のヤマハCUP。
富士の裾野から吹き下ろす、まだどこか冷涼さを残した初夏の風の中、秋の本番を見据えた、私たちの本当の地獄の基礎特訓が、今、静かに幕を開けようとしていた。