スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する   作:スティンガー

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第10話 強豪ジュニア少女、舞の襲来

 春の名残が完全に消え去り、若葉の匂いが色濃くなろうとしていた、ある日の放課後。

 いつものように、部室の中で私がドライバーの快音を響かせ、鉄平さんの特設ネットを激しく揺らしていた、その時だった。

 

 ガラガラガラ、ピシャーンッッ!!!!

 

 古びたプレハブの引き戸が、普段の3倍ほどの勢いと音量で、激しく弾け飛ぶように開け放たれた。

 あまりの勢いに、扉の建付けが外れそうになり、キーッと鋭い金属音が響く。

 

「ひゃいっ!?」

 

 入り口のすぐ近くでスマホをいじっていた紡ちゃんが、短い悲鳴をあげて飛びのいた。

 

 夕暮れの逆光を背に、部室の入り口に立っていたのは、一人の少女だった。

 私たちと同じくらいの年齢に見えたけれど、纏っているオーラが決定的に違っていた。

 

 彼女が着ているのは、どこかの名門私立中学校のものらしき、仕立ての素晴らしい紺色のゴルフウェア。足元は汚れ一つない白いゴルフシューズ。髪はポニーテールにきっちりとまとめられ、その隙から覗く鋭い瞳は、まるで不審者を睨みつける警察官のように、冷徹で、かつ猛烈な怒りに燃え上がっていた。

 

「ちょっと、そこの泥棒猫たち!!!!」

 

 プレハブの狭い空間に、高圧的で、けれどどこか気品のある、凛とした声が響き渡った。

 少女は部室の中にズカズカと土足で踏み込んでくると、打席に立つ私を、細い人差し指でピシッと指差した。

 

「いい度胸じゃない! 合成の詐欺動画でバズろうなんて、ゴルフを、そして真面目に努力しているジュニアゴルファーを愚弄するのも大概にしなさいよ!」

 

 あまりの剣幕に、部室の中の全員が呆然と固まった。

 

「……ええと、どちらさまでしょうか?」

 

 私がドライバーを持ったまま、ぽかんと小首を傾げると、少女はさらに眉を釣り上げて一歩近づいてきた。

 

「とぼけないで! あなたでしょ! SNSに変なフェイク動画を流して、地元のジュニア界の注目を集めようとしてるサギ師は!」

「……あれ?」

 

 その時、私の後ろで固まっていた葵ちゃんが、驚いたように声をあげた。

 

「――舞、さん……?」

 

 少女――高坂(こうさか)(まい)は、葵ちゃんの声にピクリと反応し、鋭い視線を真っ直ぐにそちらへと向けた。その気高そうな瞳が一瞬だけ丸くなり、どこか懐かしむような色が浮かんだ――ように見えた。

 だが次の瞬間には、彼女の表情は氷のように冷たく引き締まっていた。

 

「……やっぱりね。風間葵、あなたが関わっていたわけね」

「詐欺動画って……何のことですか、高坂先輩」

 

 葵ちゃんの声のトーンが、一瞬にして変わった。さっき一瞬だけ漏れた、昔馴染みを呼ぶような柔らかい響きは完全に消え失せている。それは、私には分からない濃密な過去のどこかで、何かが決定的に壊れて離れてしまった相手に対する、ゴルファーとしての硬くて冷たい声だった。

 

「しらばっくれないで! 動画の端に映ったあのターコイズブルーのキャディバッグ、見間違うはずがないわ。あなたの進学先がここだって聞いていたから、まさかと思ったけれど……」

 

 舞さんの視線が、部屋の隅にある葵ちゃんの古いキャディバッグへ一瞬だけ泳ぎ、すぐに弾かれたように葵ちゃん自身へと戻る。まるで、かつての記憶の残骸を直視するのを拒むかのような拒絶感だった。

 

 舞さんはフンと鼻を鳴らし、自分のスマートフォンを私たちの目の前に強く突きつけてきた。画面に映っているのは、紡ちゃんがアップした私のあのスイング動画だ。

 

「一年前、私の誘いを『やる気がない』と逃げて、地元の公立で細々とやるって言った時、私はあなたに本当に失望したの。でも、静かにゴルフを続けるならそれでいいと思ってた。……それなのに、久しぶりにあなたの足取りを掴んだと思ったら、このヘッドスピード64のフェイク動画!?」

 

 ――えっ、私の誘い……?

 

 舞さんの口から溢れ出た激しい言葉に、私は胸を突かれた。

 かつての二人の間にどんなやり取りがあったのか、彼女たちの昔を何も知らない私にはさっぱり分からない。けれど、舞さんの目を見返そうとせず、痛々しそうにぎゅっと拳を握りしめて下を向く葵ちゃんの横顔を見て、舞さんの言う『やる気がない』なんていうのが、葵ちゃんの本心なんかじゃなかったことだけは、なんとなく伝わってきた。

 

 舞さんの語気が一気に強まる。その瞳には、明確な怒りの炎が宿っていた。

 

「私はね、神奈川からわざわざ県境を越えてここまで来たのよ! 風間、あなたがこんなお遊び半分の詐欺動画でお仲間と注目を集めようとしてるなんて、絶対に許せない。ゴルフを、そして真面目に努力しているジュニアを愚弄するのも大概にしなさい!」

 

 最新のデジタル技術ならこれくらいの合成は簡単に作れる、学校のゴルフ部でも大騒ぎになっている、と舞さんは悔しそうにまくしたてた。

 

「…………っ」

 

 それまで黙って聞いていた紡ちゃんが、息を呑んで一歩前に出た。 スマートフォンの画面を凝視するその指先が、かすかに震えている。

 

 紡ちゃんがアップしたあの動画が、画面の向こうで一体どんなことになっているのか私には想像もつかなかった。けれど、紡ちゃんの顔からみるみる血の気が引いていくのを見て、ただごとではないことだけは分かった。自分のせいでとんでもない事態を招いてしまったのだという、彼女の罪悪感が、見ている私にまで痛いほど伝わってきた。

 

 そして、まるで私を背中に隠すようにして、その小さな体を強引に割り込ませると、舞さんの鋭い視線を正面から受け止めた。声が震えてしまわないよう、お腹に思いきり力を込めているのが、後ろ姿からでも伝わってくる。

 

「……高坂、先輩。動画をアップしたのは、マネージャーである私です。由依は何も悪くありません」

「な、何よ……」

「詐欺だとか合成だとか、信じられないのは分かります。でも、私たちは嘘なんて吐いていません。あの数字は、目の前にあるトラックマンが弾き出した本物のデータです。もし納得がいかない、私たちのことが不愉快だと言うなら、私に文句を言ってください。由依をこれ以上、泥棒猫だなんて侮辱するのはやめてください!」

 

 自分の見通しの甘さを激しく悔いながらも、私の前に立ちはだかる紡ちゃんの背中には、何があっても私を守るという悲壮な決意が宿っていた。まだ出会って間もないのに、そこまでして私を庇おうとしてくれる紡ちゃんの姿に、胸が熱くなる。

 

「うるさいわね……! マネージャーのあなたに用はないわ、引っ込んでなさい!」

 

 舞さんは紡ちゃんの必死の剣幕を一蹴すると、その背後にいる私を再び鋭く睨みつけた。

 

「由依って言ったかしら……あなた、神代(かみしろ)玲奈(れいな)を知ってる?」

「ええと……かみしろ、れいな……さん? ごめんなさい、よく知らないです……」

 

 私が正直に答えると、舞さんは「くっ……!」と歯噛みした。

 

「神代さんは、あなたとは生きている次元が違うのよ。ハーフを30台前半、完璧なコースマネジメントと、機械のような精密なパッティングで、ジュニアの大会を完全に支配している絶対の女王。その神代さんだって、ヘッドスピードは45前後よ! それなのに、ゴルフもまともに知らないだろうあなたが、64なんて数字を出して、ネットの注目を集めようようなんて……不愉快極まりないわ!」

 

 部室の中に、重苦しい空気が流れる。

 

 舞さんの怒りは、単なる嫌がらせや嫉妬ではなかった。自分の愛するスポーツに対する、そして自分が人生をかけて追いかける目標に対する、あまりにも純粋で、真摯なプライドゆえの怒りだった。

 

 だからこそ、その言葉には、不思議なほどの重みがあった。

 けれど、その張り詰めた空気を、二人の大人の声が、あっさりと撃ち破った。

 

「お嬢さん。お怒りはもっともだ」

 

 それまで後ろで腕を組んで静観していたお父さんが、ゆっくりと前に歩み出てきた。

 

「確かに、常識的なゴルファーの視点から見れば、あの動画は最新のディープフェイクにしか見えないだろう。大学時代にハンデ3まで登り詰めた私だって、初手は完全に君と同じリアクションをした。物理の法則を無視している、とね」

「な、何よ、あなた……」

 

 舞さんはお父さんの放つオーラに、わずかに気圧されて一歩身を引く。お父さんは眼鏡の奥の瞳を、エリートビジネスマンの冷徹な、かつ深い確信に満ちた光で輝かせながら、iPadの画面を舞さんに向けて差し出した。

 

「だがね、これはフェイクではない。我が如月家の最新鋭の計測器『トラックマン』と、ハイスピードカメラが捉えた、純然たる事実だ。娘の骨格、肉体の連動性、そしてこの特注の硬派なスペックのクラブが噛み合った時、このバグのような数値が現実のものとなる。父親として、そして一人のゴルファーとして、私はこれを100%本物であると保証しよう」

「そうだぜ、お嬢ちゃん!」

 

 鉄平さんも、太い腕を組んでニカッと笑った。

 

「俺がこの手で設営した特注ネットの揺れ方を見りゃ、合成か本物かなんて一発で分かる。由依ちゃんのあの一撃は、現場の空気を物理的に爆破してんだよ。嘘だと思うなら……」

 

 鉄平さんは、私が持っているドライバーを親指で指差した。

 

「今ここで、お嬢ちゃんのその肥えたお目々で、直接見届けていきな」

「な……っ!」

 

 舞さんは、大人の、それも明らかに自分よりゴルフに深い二人の男たちから堂々と宣言され、言葉を詰まらせた。彼女の視線が、iPadの画面に表示されている、63.8m/sという異常な数字と、私が持っている男子プロ仕様の漆黒のドライバーへと交互に動く。

 

 ゴルフを真剣にやってきたからこそ、お父さんの佇まいや、鉄平さんの言葉の重み、そして私の持っているクラブのスペックがただのハッタリではないことが、彼女の脳内でじわじわと理解され始めていた。

 

「……いいわよ」

 

 舞さんは、拳を強く握り締め、涙目になりそうなのを必死に堪えながら、私を激しく睨みつけた。

 

「そこまで言うなら、見せてもらおうじゃない。その物理的に爆破とやらが、本物なのか、それともただの大人たちの身内贔屓のハッタリなのかを!」

 

 彼女は部室の壁際に背中を預け、腕を組んで、値踏みするような視線を私に固定した。

 

「打ちなさいよ、如月由依。私の目の前で、その世界最高峰の弾道とやらを、もう一回再現してみせなさい!」

「ええ〜……なんか、すっごく見られてる」

 

 葵ちゃんはさっきまでの痛々しさを振り払うように、小さく、けれど私の背中をそっと支えてくれるような温かい笑みを浮かべて頷いた。その瞳は、ただの悪戯っぽさなんかじゃなくて、どこか静かな覚悟に満ちている。

 

「いいよ、由依ちゃん。いつも通り、思いっきりひっぱたいてあげて。ゴルフを真面目にやってきた人が、由依ちゃんのあの一撃を見たとき、どんな顔をするか……私はもう知ってるから」

「うん、わかった。じゃあ、もう一回打つね、高坂先輩」

 

 私はもう一度、打席マットの上に立ち、ドライバーを持った。

 足元にティーアップされた、白い球。

 部室の中の温度が、一気に数度下がったかのような、張り詰めた緊張感。舞さんの、刺すような視線が私の背中に突き刺さる。

 

 けれど、私はただ、あの気持ちいい感覚を再現することだけを考えていた。

 すうっと息を吸い、体をねじる。

 

 プレハブのボロい部室の中で、私の運命が、そしてこのチートな弱小ゴルフ部の夏が、本格的に暴れ出すための導火線に、火がつけられた。

 

 ――バチィィィィィンッッッ!!!!

 

 一発目をさらに凌駕する、もはや肉厚な破壊音としか形容できない爆音が、ボロプレハブの空間を激しく震わせた。

 

 風圧が、打席の後ろで見つめていた舞さんのポニーテールを不自然に揺らす。至近距離の二重ネットは、まるで猛獣の突撃を喰らったかのように激しくのけぞり、ギチチッと鉄骨の悲鳴をあげた。

 

 あまりの衝撃に、舞さんは言葉を失ったまま、ただ目を丸くしてネットの跳ね返りを見つめていた。

 彼女の鍛え上げられたゴルファーとしての動体視力をもってしても、放たれた白球の軌道は完全に消失していた。ただ、打撃の瞬間に空気そのものが爆発したような錯覚と、目の前のネットが引きちぎれんばかりに歪んだという事実だけが、そこに残されていた。

 

 静寂を破ったのは、iPadを持つ手を小刻みに震わせた、紡ちゃんの張り詰めた声だった。

 

「……表示、変わりました……。ヘッドスピード、64.3」

 

 紡ちゃんは、自分が差し出したiPadの画面から、どうしても目を逸らすことができなかった。 画面に躍る鮮やかな緑色の文字。

 

【Head Speed : 64.3 m/s】

【Ball Speed : 96.5 m/s】

【Smash Factor : 1.5】

 

「き、きゅうじゅう……ろく……っ!?」

 

 ゴルフを誰よりも真剣に、科学的に学んできた舞さんだからこそ、その数字が持つ絶望的な意味が、脳裏に鋭い痛みとなって突き刺さる。

 

 バグではない。エラーコードすら出ていない。トラックマンの精密なレーダーシステムは、今目の前で起きた物理現象を、極めて冷静に、かつ残酷に肯定していた。

 

「嘘……嘘よ……こんなの、あり得ない……っ!」

 

 舞さんの細い指先が、iPadのベゼルを壊さんとばかりに強く握りしめ、小刻みに震えだす。彼女の顔から完全に血の気が引き、陶器のように真っ白になっていく。

 

「中一の……女子なのよ……? なんで、こんな……大男の外国人プロみたいな数字が、こんな普通の女の子から出るのよ……っ!」

「だから言ったろ、お嬢ちゃん」

 

 鉄平さんが、ニカッと白い歯を見せながら、腕を組んで一歩前に出た。

 

「ウチの由依ちゃんは、理屈じゃねえんだ。体の中に、とんでもねえ超大型のエンジンが眠ってやがる。それを葵が見つけて、俺がこの打席を作った。フェイクでも何でもねえ、これが俺たちのゴルフ部の現実さ」

「信じられないのも無理はない、高坂さん」

 

 お父さんも眼鏡の位置を正し、ビジネスライクでありながらも、どこか誇らしげな声で語りかける。

 

「由依のスイングは、一般的なレッスン書に書いてあるような形からは大きく逸脱している。だが、彼女の関節の可動域、筋肉の瞬間的な収縮速度、そしてダウンスイングでの位置エネルギーの変換効率が、このトラックマンのデータ上、完璧なまでに噛み合っているんだ。これは、努力で手に入る領域ではない。天が彼女に与えた、純然たる暴力だよ」

 

 努力で手に入る領域ではない――。

 その言葉は、舞さんの心を、もっとも深く、もっとも残酷に抉り抜いた。

 

 毎日、手のひらにマメを作り、血を流しながら、完璧なスイングプレーンを追い求めてきた。絶対女王・神代玲奈の背中に少しでも近づくために、一打のミスも許されない緻密なマネジメントを叩き込んできた。

 

 それなのに、目の前にいる、ルールすらおぼつかない天然な初心者の女の子が、ただ気持ちいいからという理由で振り抜いた一撃が、自分が一生をかけても絶対に届かない領域の数字を、いとも簡単に叩き出している。

 

「こんなの……っ、こんなの、ゴルフじゃないわ!」

 

 舞さんは叫んだ。その瞳には、悔しさと、理解を超えた怪物に対する恐怖から、大粒の涙がじんわりと浮かび上がっていた。

 

「ゴルフは、もっと繊細で、もっと美しくて……地道な努力を積み重ねた人だけが、一打を削り取れるスポーツのはずよ! 神代さんのゴルフは、機械のように正確で、完璧な芸術なの! それを、こんな……こんな不格好な力任せの暴力で、全部めちゃくちゃにするなんて……っ!」

「あの……高坂先輩」

 

 私はドライバーをそっと床に置き、戸惑いながら舞さんに一歩近づいた。

 

「ごめんなさい、私、変な音させちゃって……。高坂先輩の言っていること、私にはまだよく分からないけど……でも、葵ちゃんに教わったゴルフは、すごく楽しかったです。球が綺麗に当たると、すごく気持ちよくて……」

「気安く呼ばないで!」

 

 舞さんは私の言葉を遮るように、激しく拒絶の声をあげた。

 彼女は、自分がこれ以上この場所にいたら、これまで信じてきたゴルフのすべてが、自分の積み重ねてきた努力のすべてが、跡形もなく崩壊してしまうという強烈な恐怖に襲われていた。

 

「風間、あなたもよ……!」

 

 舞さんは、静かに自分を見つめる葵を睨みつけた。

 

「そんな力任せのまやかしに加担して、本気で競技ゴルフを、ジュニアの大会を荒らせると思っているの!? ゴルフは、飛距離だけで勝てるほど甘いスポーツじゃないわ! もし大会に出てくると言うなら……コースの上で、本当のゴルフが何なのか、あなたたちに思い知らせてあげる!」

「高坂先輩」

 

 葵が、一歩前に出て、真っ直ぐに舞さんの目を見返した。

 

「私たちは、大会を荒らすつもりなんてないよ。ただ、由依ちゃんと一緒に、大好きなゴルフをやりたいだけ。……でも、高坂先輩の言う通り、ゴルフは飛距離だけじゃない。それは、私もよく分かっているつもり」

「だったら――!」

「だからこそ、私は由依ちゃんの隣にいるの」

 

 葵の言葉には、確固たる決意が満ちていた。

 

「由依ちゃんの大砲が、コースの上で本当の武器になるように、私が支える。……大会、楽しみにしてる。私たちのゴルフが、どこまで通用するか……そこで確かめてみるから」

「くっ……!」

 

 舞さんはそれ以上、言葉を返すことができなかった。

 葵ちゃんを見つめる舞さんの瞳が、激しい困惑と、言葉にならないショックで小さく震えている。そこに宿っていたのは、ただの怒りじゃない。自分を拒絶したはずの相手が、なぜ別の誰かの隣でそんなに強い目をしているのかという、割り切れない激しい揺らぎだった。

 

 目の前にいるのは、圧倒的な規格外の怪物と、その大砲の生かし方を完全に理解して寄り添う、かつての特別なライバル。そして、彼女たちを全肯定してバックアップする、異常な大人たち。

 このボロプレハブ小屋は、自分が足を踏み入れていい場所ではなかったのだ。

 

「覚えておきなさい……! 本番のグリーン上で、泣きを見るのはあなたたちよ!」

 

 それだけを捨て台詞のように吐き捨てると、まだ開いたままになっていたプレハブの引き戸を、すり抜けるようにして、文字通り逃げるような足取りで飛び出した。

 

 建付けの悪い扉が、ガラガラガラ、バシャーンッ! と閉まり、再び部室の中に静寂が戻る。

 

「…………っ」

 

 舞さんが去った扉を、紡ちゃんは青ざめた顔で見つめ続けていた。 ギュッと握りしめた拳が、怒りと悔しさと、自分への不甲斐なさで震えている。

 

「……ウチの、せいだ」

 

 ぽつりと、紡ちゃんの口から消え入るような声が漏れた。

 

「ウチが……部の知名度を上げたいなんて、軽い気持ちで動画を上げたから。由依の凄いところを、自慢したいなんて思ったから……っ。だから、あんな風に、由依が努力を汚す化け物みたいに言われて……っ!」

 

 溢れそうになる涙を必死に堪えながら、紡ちゃんは私に振り返った。その瞳には、親友を深く傷つけてしまったという強い罪悪感と、もう二度とこんな真似はさせない、という悲壮なまでの覚悟が宿っていた。

 

「ごめんね、由依……。ウチが、もっとちゃんと考えなきゃいけなかったのに。でも、もう絶対に、外の雑音は部室に入らせないから。ネットの変な書き込みも、今日みたいな急な襲撃も、マネージャーのウチが、全部、全部跳ね返すから……!」

「紡ちゃん……」

 

 私が戸惑ったように目を丸くする中、その緊迫した空気を破るように、鉄平さんがハハハと豪快に笑いながら紡ちゃんの頭をガシガシと撫で回した。

 

「おいおい紡ちゃん、そんなに背負い込むんじゃねえよ。動画のことは、俺たち大人がやれって言ったようなもんだ。お前が悪いはずねえだろ」

「……その通りだ、紡さん」

 

 お父さんも眼鏡の位置を正し、紡ちゃんに向けて優しく、だが確かな信頼を込めて頷いた。

 

「君が部のために動いてくれた結果だ。それに、遅かれ早かれ由依が表の舞台に出れば、高坂さんのようなリアクションをする人間は山ほど現れる。むしろ本番前に、由依たちの周囲を守るチームとしての課題が見えて良かった。君のその責任感は、これからのゴルフ部にとって、間違いなく最大の武器になる」

 

 大人の言葉に、紡ちゃんは涙を拭い、小さくコクンと頷いた。

 お父さんは、舞さんが去っていった扉へと視線を戻し、不敵な笑みを浮かべる。

 

「ただ、高坂さんの言うことも一理ある。ゴルフは、飛距離だけで勝てるほど甘いゲームじゃない。……だがね、だからこそ面白い。この圧倒的な大砲に、完璧なショートゲームとマネジメントを乗せたら一体どうなるか。……ゴルフに狂わされてきた一人の男として、その先にある景色を、私はどうしても見てみたいんだよ」

 

 お父さんの目が、ギラリと妖しく光る。

 

「由依、葵ちゃん。大人たちのエゴと財力で、やれる準備はすべて整えた。明日からは、いよいよ実践を想定した、本当のトレーニングを始める。……徹底的にやるぞ」

「「はい!」」

 

 私と葵ちゃんは、声を揃えて返事をした。

 

 夕闇が迫る御殿場のボロ部室。高坂舞という最初の嵐が去ったあとの空間には、これから始まる激闘の夏に向けた、熱く、どこか狂気じみた興奮だけが、いつまでも渦巻いていた。

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