スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する   作:スティンガー

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閑話2 彼女がその隣に立つ理由

「由依、葵ちゃん。大人たちのエゴと財力で、やれる準備はすべて整えた。明日からは、いよいよ実践を想定した、本当のトレーニングを始める。……徹底的にやるぞ」

「「はい!」」

 

 二人の少女の声が、夕闇の迫るプレハブ部室に小気味よく響き渡った。

 

 達也の眼鏡の奥の目がギラリと妖しく光り、鉄平もまた、無骨な顔に不敵な笑みを浮かべている。高坂舞という、彼女たちの前に現れた最初の大きな嵐。その少女が逃げるように去っていったあとの室内には、これから始まる激闘の夏に向けた、熱く、どこか狂気じみた興奮がいつまでも渦巻いていた。

 

 マネージャーの紡が涙を拭い、大人たちがこれからの段取りを不敵な面構えで話し合い始める中、葵は小さく息を吐き出し、自身の胸にそっと手を当てた。

 

 由依と声を揃えて力広く返事をしたものの、胸の奥には、まだ鋭い警鐘のような激しい動悸が残っている。

 

 さっき、葵は舞の正面に真っ直ぐに立ち塞がった。そして、彼女の張り詰めた肩の震えを真っ向から受け止めながら、こう言い切ったのだ。

 

『だからこそ、私は由依ちゃんの隣にいるの』

 

 その言葉の余韻が、熱を持って鼓膜の奥で何度もリフレインしている。自分で放った言葉だというのに、あまりの気恥ずかしさと、それに伴う覚悟の重さに、じわじわと指先が痺れるような感覚があった。建付けの悪い引き戸がバシャーンと閉まったときの衝撃の残響が、まだこの狭い空間に満ちているようだった。

 

 葵の視線は自然と、プレハブの隅に立てかけられた、自分の古いキャディバッグへと向かった。

 

 色褪せたターコイズブルーのナイロン生地。ポケットのジッパーは片方が壊れかけていて、随所に黒ずんだ土汚れが染み付いている。地元の練習場で、泥臭く泥臭く球を打ち込んできた、葵のこれまでのゴルフ人生そのもののような相棒。

 

 同時にそれは、葵にとって根深い諦念の象徴でもあった。

 

 風間家は、地元で工務店を営む鉄平のおかげで、世間一般的に見れば普通に裕福な方だった。何不自由なく暮らせていたし、ゴルフの練習代やゴルフクラブだって、鉄平は文句一つ言わずに用意してくれていた。

 

 だけど、同じジュニアアカデミーに通う、舞をはじめとした周囲の子たちの家が持つ圧倒的な資本力とは、比べものにすらならなかった。

 

 あちら側には、親の財力にモノを言わせて湯水のように注ぎ込まれる、最新のワークスインフラがあった。メーカーのフィッティングスタジオを丸ごと借り切り、専属コーチやスタッフにデータ管理されながら、常に最も洗練された環境で育っていく怪物たち。

 もちろん、お父さんに無理を言って、工務店の家計に大きな負担をかければ、私立の強豪校へ進学して同じリソースにアクセスすること自体は不可能ではなかったかもしれない。

 

 だけど、葵には分かってしまっていた。 どれだけ自分が手のひらにマメを作ってスイングを磨いたところで、自分のスタイルは大崩れしないだけの手堅い凡才に過ぎない。舞たちのように、最新の環境を与えられた瞬間に化けるような、圧倒的な爆発力もスター性もないのだ。

 

 そんな自分が、お父さんの人生や風間家の経済を削ってまで、あちら側の贅沢な資本競争のリングに上がる資格があるのだろうか。もし、それだけの無理をさせて結果が出せなかったら――。

 

 一年前、舞から「神奈川の強豪校へ一緒に行こう」と熱っぽく誘われたとき、葵は「もうゴルフなんてやる気がない」と冷たい嘘をついて逃げ出した。本当は、やる気がなかったわけじゃない。ただ、これ以上、お父さんに金銭的な負担をかけるわけにはいかない。そうやって自分を納得させるために、葵は自ら心のシャッターを下ろした。

 

 鉄平は、そんな葵の諦めを薄々察していた。親としてのサポートに限界があることを、どこか申し訳なさそうに、言葉数の少なくなった背中で滲ませることがあった。お互いに不器用な親子だから、面と向かってそんな湿っぽい話を口にしたことはなかったけれど、ガレージで一人、古いクラブのグリップを直している鉄平の無骨な後ろ姿を、葵はいつも複雑な思いで見つめていたのだ。

 

 それなのに。なぜ、今日の自分は、舞の目を真っ直ぐに見据えてあんな大口を叩けたのだろう。

 

 かつて環境の差に絶望し、這い上がることを諦めていたはずの自分が、なぜ今、これほどまでに獰猛な意志を宿してここに立っていられるのか。

 

 葵はただ、己の手の中に残る、大人たちの本気のバックアップの重みだけを噛み締めていた。その裏で、彼らがどれほどの熱量で泥臭く駆け回ってくれていたのか、当時の彼女が知る由もない。

 

 だが確かに、彼女の世界を完全に塗り替えることになる冷徹で熱い歯車は、4月上旬のあの夜から、すでに回り始めていたのだ。

 

 ◇

 

 すべての始まりは、4月の上旬。

 

 達也が、御殿場の夜風が肌を刺すほど冷たかった夜に、風間家のガレージで鉄平と徹底的に話し合い、葵の過去の燻りを知った直後からだった。

 

 達也は、鉄平の職人としての、父親としての矜持を深く尊重していた。風間家が一般的な基準では十分に裕福な家庭であることも、鉄平がどれだけ丁寧に葵の道具をメンテナンスしてきたかも十分に理解できていた。だからこそ、独善的な金銭の援助や、上から目線の施しといった真似は絶対に避けるべきだと考えていた。

 

 すべてを仕事として、ビジネスのロジックとして正当に上乗せする。それが、達也が取るべきと判断したスタンスだった。由依にゴルフの魅力を教えてくれた大恩人である葵に対し、エリートに負けない戦う翼を用意するため、達也はすぐさま自社のリソースを動かす準備を始めた。

 

 そして4月中旬。達也が務める大手スポーツ用品メーカー、静岡拠点のオフィス。その製品開発部の一角で、達也は一人の実務担当者と向き合っていた。

 

「――如月本部長、わざわざ開発のフロアまで直接お越しいただき恐縮です。それで……契約ジュニアのモニター枠の件とお聞きしましたが、何か不備でもございましたか?」

 

 担当者の若手社員は、直属の上司を飛び越えて現れたトップ幹部の姿に緊張を隠せない様子で、慌てて居住まいを正した。幹部である達也が、わざわざ開発部の現場にまで直接足を運ぶこと自体が異例中の異例だった。

 

「我が社が展開する最上位カスタムライン『Absolute(アブソリュート)』。その次世代複合シャフトのテスター枠、今年度はまだ正式に決定していなかったよね?」

 

 達也はスマートに、一枚のプロフィール書類をデスクに置いた。担当者はそれを手取り、記載された名前に目を走らせる。

 

「風間葵……静岡県御殿場市在住の中学一年生、ですか。少々お待ちください。過去のジュニア大会の記録をデータベースで確認します」

 

 カタカタとキーボードを叩く音が響く。やがて担当者は、微妙な表情で画面を達也に向けた。

 

「あの、如月本部長……確かに小学生時代は地元の大会でたまに上位に顔を出していますが、直近の目立った実績はほぼ白紙です。戦績を見る限り、大崩れはしない手堅いタイプですが、全国区のスター候補として看板を背負わせるには、広告効果としてのインパクトがかなり弱いかと……」

 

 その指摘は、ビジネスとしては至極真っ当なものだった。メーカーがジュニアと契約を結ぶ場合、将来の賞金女王候補や、メディア受けする華やかな実績を持つ選手が優先されるのが常識だ。

 

 しかし、達也はフッと口元を綻ばせ、落ち着いたトーンで書類を指差した。

 

「広告用のトロフィーが欲しいなら、本社のマーケティングに他の派手なジュニアを探させればいい。だが、今度の新型複合シャフトに必要なのは何だ? 広告塔としての笑顔かね?」

「え? いえ、それは……正確な計測データですが」

「その通りだ」

 

 達也はデスクを軽く指先で叩いた。

 

「カーボンと特殊繊維を組み合わせた極薄の多層構造。その僅かな挙動の変化をログに落とすために必要なのは、調子の波が激しい一発屋の爆発力ではない。寸分の狂いもなく、同じ軌道を正確にトレースできる、エラーのない綺麗なスイングだ。彼女の技術を見てほしい。動画データを送ってあるはずだ」

 

 担当者は緊張した面持ちのまま、達也から共有された動画ファイルを再生した。

 

 画面の中で、葵がアドレスに入る。無駄な力みが一切ない、教科書のように美しいスクエアな構え。そこから淀みのないバックスイングを経て、トップからダウンへの切り返し。インパクトの瞬間、クラブヘッドは完璧なレベルブローでボールを捉え、フィニッシュまで一気の加速で振り抜かれていた。

 

 スイングの残像が、まるで美しい数式のグラフのように画面上に軌跡を描く。

 

「……これは」

 

 担当者の目が釘付けになる。何度再生しても、スイングの軌道が完全に一本の線に重なるのだ。ロボットが振っているのではないかと錯覚するほどの、圧倒的な再現性。

 

「彼女のヘッドスピードは、女子プロのパワーヒッターほどではない。ドライバーの飛距離で言えば220ヤードから230ヤード程度だ」

 

 達也は画面を指差し、淡々と言葉を継いだ。

 

「だが、この飛距離は我が社の主力製品がターゲットにしている、一般アマチュア男性のボリューム帯と完全に一致する」

「……なるほど」

 

 開発部の担当者はそれだけで全てを察し、小さく頷いた。

 

「……確かにそうですね。これだけ綺麗に振れる子なら、シャフトのしなりや捻じれのデータを、ノイズなしで正確に抽出できそうです。実験室のシミュレーターにかけるより、よっぽど生きたデータが取れます。……分かりました、如月本部長。枠も空いていますし、これだけの素材なら開発部としても文句はありません。すぐに承認の手続きを進めます」

「ありがとう。助かるよ」

 

 達也は静かに腕を組んだ。

 温度感としては、広告塔としてのスター契約ではない、実務的なテスター枠だし、データさえ取れれば別にこの子でもいいか、という割り切りのニュアンスだった。だが、達也はその実務的な割り切りの隙間を完璧に見切っていた。大企業のシステムを利用し、合法的に、そして完璧なロジックで、葵へのインフラ提供の道を切り開いたのだった。

 

 ◇

 

 達也の社内政治が水面下で実を結ぶまでの間、葵に最初にもたらされたのは、あのガレージでの出来事だった。

 

 お父さんと達也さんがガレージで熱く語り合い、グラインダーの火花を散らしたあの夜の翌日。学校から帰ってきた葵に、鉄平は誇らしげな、だがどこかホッとしたような顔で一本のドライバーを手渡した。

 

「ほら、葵。握ってみろ。如月さんが持ってきてくれた最新のサンプルを、お前のスイングに合わせて調整して組んでやったぞ」

「これ……私に?」

 

 差し出されたそのクラブを、葵は両手で包み込むようにして受け取った。

 

 ――その瞬間、ゾクッ、と背筋に電流が走った。

 

 ロゴすら印刷されていない、マットブラックの漆黒のヘッド。そして、独特の怪しい輝きを放つ、カーボンの織り目が美しいプロトタイプのシャフト。

 

 これまで使っていた、型落ちの中古品をお父さんが切り詰めて調整してくれたクラブとは、素材そのものの次元が違っていた。構えてみると、素材の良さと鉄平の丁寧な仕事が相まって、確かな重量感と心地よさが手に伝わった。

 

「お父さん……これ、凄いよ……」

「おう。如月さんが言うには、お前のあのハイドローならこのシャフトの復元力をきっちり活かせるらしい。俺の腕でちゃんと調整できたか分からんが、素材は間違いなく本物だ。これで思いっきり振ってみろ」

 

 鉄平は嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

 これまで指をくわえて見ているしかなかったエリートたちの専用ギアに劣らない、本物の道具が、いま自分の手の中にある。その確かな重量感と、構えた時の圧倒的な安心感だけで、葵の心には久々に熱い火が灯った。

 

 ――そして、それから一週間ほど経った4月中旬のある日、達也は一枚の重々しい書類を持って、再び風間家のリビングを訪れた。

 

「風間葵選手。我が社の『契約ジュニア(テスター選手)』として、正式に用具提供契約を結ばせてほしい」

 

 テーブルの上に広げられたのは、企業の公印が押された本物の契約書だった。

 

「え……っ!? 契約って……私が、メーカーとですか!?」

 

 葵は驚きのあまりソファから身を乗り出した。

 達也は優しく微笑みながら、隣に座る鉄平に向けてペンを差し出した。

 

「ただ、葵ちゃんはまだ未成年だからね。契約にあたっては、当然、保護者である鉄平さんの同意とサインが必要になるけれども」

「如月のおじさん、正気なの……? 私、去年の大会もダメだったし、全国大会で優勝したわけでもないんだよ? こんな大層な契約、私なんかじゃ絶対に釣り合わない……!」

 

 身の丈に合わない光栄に、葵の心は嬉しさよりも戸惑いが勝りかけていた。そんな葵と鉄平に対し、達也は鉄平の父親としての、職人としてのプライドを傷つけないよう、非常に配慮された、合理的で丁寧な説明を始めた。

 

「風間さん。葵ちゃんのあの無駄のない、完璧なスイングは、あなたが手塩にかけて育ててきた最高の結晶だ。だからこそ、これはメーカーとしての純粋なメリットに基づく契約なんですよ。社内でも、彼女の基礎の確かさ、スイングの再現性の高さがあれば、新型シャフトの素晴らしいデータが取れると、開発部が納得してくれましてね。決して施しなどではなく、葵ちゃんの技術そのものに、大企業としての正当な価値を投資させてほしい、ということなんです」

 

 達也のその言葉を聞いたとき、鉄平は、葵に最高のエリート環境を与えきれなかったというこれまでの内なる葛藤を少しだけ目ににじませながらも、達也のどこまでも誠実で合理的な気遣いに、深く頭を下げた。

 

「……ありがてえ話だな。如月さん、あんたのその言葉、職人として、親父として、これ以上ないほど救われるよ」

 

 鉄平は無骨な手でペンを握ると、迷いのない筆跡で『風間鉄平』と保護者欄に署名した。そして、葵を振り返り、頭をぽんと叩いた。

 

「葵。お前自身の技術が認められたんだ。今日からお前はプロのテスターだ。しっかり役に立つんだぞ」

「……お父さん……っ、うん!」

 

 そのとき、達也は書類を受け取りながら、ふっと目を細めた。

 達也の胸にあったのは、ビジネスのロジックを遥かに超えた、一人の父親としての無上の感謝だった。

 

 東京にいた頃の由依は、ゴルフに全く興味を示さなかった。

 休日は友達と都会の華やかな街へ遊びに行く、どこにでもいる普通の少女だった。達也も、嫌がる娘に無理強いするつもりはなかったし、何より、あの子の身体の奥底に、ツアープロすら震撼させるような、規格外の大砲が眠っているなんて、父親である自分を含め、誰も気づいていなかったのだ。

 

 もし、あのまま東京にいたら。

 由依は自分の才能に一生気づくことなく、ただ普通の女の子として成長し、普通の人生を送っていただろう。それも一つの幸福の形には違いないが、あんな凄まじい輝きを秘めたまま眠らせておくのは、ゴルフに狂わされた男の視点からすれば、あまりにも惜しい損失だった。

 

 その眠っていた異次元の才能に火をつけ、ゴルフの魅力を教えてくれたのは、他ならぬ葵だった。あの子が寄り添ってくれたからこそ、由依は今、目を輝かせてゴルフの世界に飛び込もうとしている。

 親として、これ以上の恩返しがどこにあるだろうか。

 

(葵ちゃん、由依にゴルフを教えてくれて、本当にありがとう。君のその美しいスイングは、私たちの宝物だ)

 

 達也は心の中で、深く、深く、その黒髪の少女に感謝を捧げていた。

 

「ありがとう、達也さん……。私、精一杯、頑張ります」

 

 葵の心は、完全に宙へと浮き上がっていた。派手な実績がなくても、自分が手のひらにマメを作って積み上げてきた基礎の確かさそのものが認められた。大手メーカーの公式な看板を背負う栄誉。

 

 そして4月の末、契約手続きを完璧に完了させた達也の案内で、葵はさらなる未知の世界へと足を踏み入れることになる。

 

 ◇

 

 土曜日、葵は達也が勤める会社の開発ラボへ招待された。「来れるなら、鉄平さんもぜひ一緒に来てください。彼女のデータの凄さを確かめてほしいし、実際の振り心地を聞きながら、その場でクラブを極限まで追い込みたい」という達也の熱い勧めもあり、鉄平も同行している。由依は特に用事もないため、今回の開発ラボには同行していない。

 

「うわあ……」

 

 自動ドアをくぐった瞬間、葵は息を呑んだ。

 

 そこは、地元の錆びた練習場とは完全に別世界の、眩いほどの最新鋭テクノロジーが詰め込まれた空間だった。壁一面に配置された高性能ハイスピードカメラ、床面に埋め込まれた足圧センサー、そして打席の背後に佇む最新型のトラックマン。室内は冷暖房が完全に管理され、近未来の実験室のような無機質で洗練された空気が漂っている。

 

「さあ、葵ちゃん。これが今の君のスペックに合わせてビルドアップした、調整済みの『Absolute』だ。まずはこれで数発打ってみて、違和感がないか教えてほしい」

 

 白衣を着た開発部のスタッフから手渡されたのは、葵専用のカスタムクラブだった。

 葵は興奮で上気した顔のまま、慎重に試打ブースの打席へと入る。ボールをセットし、ターゲットラインを見据える。

 

(私のゴルフを……この最新の機械に見せるんだ。そして、このクラブを私の体の一部にする)

 

 静かにアドレスに入り、息を吸い込む。次の瞬間、葵の体は完璧なバネとなって弾けた。

 

 ――パシィィィン!!

 

 室内練習場独特の、心地よい金属音が鼓膜を打つ。放たれた白球は、正面の巨大なスクリーンに向かって一直線に飛び出し、寸分のブレもない完璧な放物線を描いて、画面の奥へと消えていった。

 

 スクリーンに、鮮やかな弾道のログと、膨大な数値が一瞬で表示される。

 

 ヘッドスピードに対するミート率は完璧。放たれた打球の飛距離は、225ヤード。圧倒的な飛距離ではないけれど、中学生としては十分すぎるほどに出ている。何より、スピン量も打ち出し角も、理想値を示す緑色のエリアに完璧に収まっていた。

 

「素晴らしい……!」

 

 開発スタッフが感嘆の声を漏らす。

 打席の少し後ろでモニターを覗き込んでいた達也も、プロの目として深く納得の頷きを見せていた。

 

「うん、実にエラーが少なくて美しいデータだ。葵ちゃん、今の振り心地はどうだい? 左に行きそうな怖さはなかったか?」

「あ、はい! 少しだけ、ほんの少しだけ手元側が遅れてくる感じがしたかも……」

「なるほど。じゃあ、シャフトの手元側の剛性をほんのわずかに上げて、先端の走りを変えずに追従性を高めよう。すぐにBパターンのシャフトにリシャフトして、ウエイトを1グラムヒール寄りに」

「はい、すぐ組み替えます!」

 

 自分の感覚を言葉にするたび、最高峰のプロフェッショナルたちが即座にクラブを分解し、自分のスイングに吸い付くように最適化(フィッティング)していく。その極上のプロセスと、組み替えるたびにさらに跳ね上がっていく完璧な測定データの相乗効果に、葵は完全に圧倒されていた。

 

 葵は興奮を抑えきれず、次々と球を打った。調整を重ねるごとに、放たれる打球はまるで一本の糸を通したかのように、より力強い美しいハイドローへと洗練されていく。画面に表示される異次元のデータが、葵のゴルフのすべてを全肯定していた。

 

 その瞬間、葵の胸の中を満たしたのは、言葉にできないほどの圧倒的な全能感だった。

 

(埋まった……。エリートたちとの環境格差が、完全に埋まったんだ……!)

 

 もう、道具のせいで負けることはない。環境に引け目を感じることもない。最高のテクノロジーと、最高の大人が、自分の背中に完璧な翼を授けてくれた。このラボの光の中にいる限り、自分はどこまでも高く飛べる。そんな歓喜の飽和、猛烈な舞い上がりの絶頂の渦中に、葵は完全に呑み込まれていた。

 

 ――だからこそ、完全に忘れてしまっていたのだ。

 

 あまりにも眩しい全能感の光に目を眩まされ、大会エントリーの締め切りが、すぐ目の前の4月30日にまで迫っていたことなんて、当時の頭からは1ミリも残らず消えてしまっていた。あの手痛いハプニングは、そんな人生最高の浮かれっぷりの裏返しだった。

 

(……本当に、思い出すだけで我ながら大バカ者だと思うけれど)

 

 懐かしいラボの光の残像を脳裏に浮かべながら、葵の意識は自嘲気味に、プレハブ部室の静寂の中へと深く沈み込んでいく。

 

 ◇

 

「――葵ちゃん? どうしたの、急に黙り込んじゃって」

 

 由依ちゃんののんびりとした声が、葵の意識を強制的に現在のプレハブ部室へと引き戻した。

 

「あ、ううん! なんでもないよ、由依ちゃん」

 

 葵は慌てて首を振り、小さく息を吐き出した。

 

 思考が現実に戻る。自分の手続きミスのせいで高ゴ連の夏は失われたけれど、あの夜、ガレージでお父さんたちに『ヤマハCUP』という最高の怪我の功名を提示されて以来、そのポカをいつまでもくよくよ引きずるつもりはなかった。

 

 今、葵の頭を占めていたのは、先ほど襲来した舞の姿だ。由依が叩き出したあの規格外の数値に、かつてない恐怖と絶望を覚えたのだろうということは容易に想像がついた。

 

 けれど、ただ驚いただけでは説明がつかないほど、あの時の舞は激しく取り乱し、涙を浮かべていた。ゴルフから逃げ出したはずの葵が、なぜ別の誰かの隣でそんな強い目をしているのか――舞が最期に見せた、あの剥き出しの困惑と、割り切れない激しい揺らぎの本当の深さまでは、今の葵にはまだ計り知れなかった。

 

 でも――。

 

 葵は、最新の『Absolute』が収められた、色褪せたキャディバッグのフードをそっと撫でた。

 

 かつて自分を縛り付け、ゴルフから逃げ出させる原因となった環境格差への諦めは、もう葵の中には微塵も残っていない。

 

 達也さんがくれた、私のためだけの最高の武器がある。そして、お父さんがその手で叩き込んでくれた、誰にも負けないスイングがある。攻めるための翼は、大人がすべて揃えてくれたのだ。

 

 格差を完全に埋めてもらったからこそ、今度は自分のせいで言い訳を作らない。高ゴ連の大会に出られなくても、別の場所で、私たちのゴルフが本物であることを証明してみせるだけだ。全力で頑張れる。上を向いて、どこまでも強く戦える。

 

「ねえねえ、葵ちゃん。私、さっきからお腹がペコペコで、さっきから頭の中にずーっとハンバーグが浮かんできちゃうんだよね。今日、家はハンバーグじゃないんだけど、葵ちゃん家は何かなあ?」

 

 由依が、お腹のあたりをさすりながら、いつも通りの呑気な笑顔で話しかけてくる。そのあまりの緊張感のなさに、先ほどまで涙を浮かべていた紡も、呆れたようにため息をついた。

 

「もう、由依はそればっかり。さっきの騒ぎの後で、よくそんなにお腹が空くよね。……でも、ウチもちょっと小腹が空いたかも」

「ふふ、何だろうね。昨日、お母さんがお肉を買い込んでたから、もしかしたらハンバーグかもしれないよ」

 

 葵は微笑み、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 

「ええっ、ハンバーグなの? いいなー!」

 

 由依は羨ましそうに声を上げ、それからふっと思い出したように人差し指を顎に当てた。

 

「……あ、ハンバーグで思い出したんだけど、そういえばね。こっちに引っ越してくるとき、道路沿いですごい大行列ができてるお店を見たの。『さわやか』って緑色の看板の……。お父さんが『静岡といえばここだけど、この待ち時間はテーマパーク並みだな』って諦めちゃって、私まだ行ったことないんだよね。やっぱり美味しいの?」

 

 由依が純粋な疑問を投げかけた瞬間、葵と紡の目の色が変わった。

 二人は申し合わせたように、同時にフッと不敵な――そしてこれ以上ないほど勝ち誇ったドヤ顔を浮かべた。

 

「ふふん……。ついにその名を口にしたね、由依ちゃん」

 

 葵が腕を組み、いかにも「待ってました」と言わんばかりに胸を張る。

 

「由依、悪いことは言わないから、静岡に来たなら絶対に行っておかないと。そこを通らずして、静岡のハンバーグは語れないんだから」

 

 紡にいたっては、さっきまでのシリアスな涙目などどこへやら、腰に手を当てて完全に先輩風を吹かせ始めている。

 

「えっ、二人とも急にどうしたの……!? そんなにすごいの?」

 

 由依がその謎の気迫に少し圧倒されていると、紡がさらに身を乗り出した。

 

「すごいなんてレベルじゃないよ! いい、由依? あそこのハンバーグはね、おうちのとは違って、中身が信じられないくらいぎっしり詰まったラグビーボールみたいな塊で出てくるの。それを店員さんが目の前で、大きなナイフを使って容赦なく真っ二つに叩き切って、熱々の鉄板にギューッ!!って押し付けるんだから!」

「そうそう! その瞬間のジュワァァッ!! って音がまた最高でね。肉汁とソースが弾けて、お肉の焼ける香ばしい煙がブワッて立ち上るの。あのパフォーマンスを前にして、平然としていられる人間は静岡にはいないよ」

 

 葵も負けじと、楽しそうに両手で身振り手振りを交えながらドヤ顔で語る。

 

「外は炭火でカリッと香ばしいのに、中はまだ綺麗な赤身が残ってて、もの凄くジューシーなんだよ。ちなみに、通は絶対にオニオンソースね。これだけは譲れません!」

 

 紡がドヤ顔のまま人差し指を突き出すと、葵が「あ、私はデミグラスも好きだけどね」と苦笑しつつ付け加えた。

 

 地元民二人による、あまりにも圧倒的な『さわやか』トークに、由依はゴクリと大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。両手でお腹を押さえ、身悶えするように葵たちを見る。

 

「な、なにそれ……完全な食テロだよ……! 目の前でジュワッて……赤身……? うう、ズルい、めちゃくちゃ羨ましい! 私も食べたい!」

「ふふん、そう簡単に食べられないのが、ここ御殿場のさわやかの恐ろしいところなんだけどね」

 

 紡がフッと不敵に笑う。

 

「御殿場の店舗は全国からお客さんが殺到するから、週末なんて平気で3時間とか4時間待ちになるんだよね。下手なテーマパークのアトラクションより並ぶんだから。東京の人じゃ、並ぶだけで日が暮れちゃう」

「そうなんだよね。地元の私たちは、狙い目のスキマ時間帯を熟知してるんだけど……。まあ、私たちだけで行くのはちょっと難しいから……」

 

 葵が少し困ったように笑い、部屋の隅で達也と話し込んでいた鉄平を振り返った。

 

「ねえ、お父さん。今度さわやかに連れて行ってよ。地元の特権が使える時間帯なら、お父さんの仕事の合間でも行けるでしょ?」

「お、なんだ葵、さわやかか? いいぜ、ハイエースなら全員余裕で乗れるしな。な、達也さん」

 

 鉄平がニカッと笑って同意を求めると、由依もすかさず自分の父親へと視線を向けた。

 

「パパもいいでしょ? 私、さわやかのハンバーグ絶対に食べたい! 明日からの練習、頑張るから!」

 

 娘の真っ直ぐな、そして食欲に満ちたおねだりに、達也は腕を組んだままフッと眼鏡の奥の目を緩めた。

 

「分かった。明日からのメニューは、頭と神経をすり減らす、かなり地味で根気のいる内容になるからな。練習を乗り切るための良いモチベーションになるなら、近いうちに時間を作って皆で行くとしよう」

「やったー!」

 

 由依がパッと表情を輝かせる。

 その嬉しそうな二人のやり取りを少し離れたところで見つめながら、紡は静かにスマートフォンを取り出した。

 

 ネットでの大騒ぎを経て、誰に促されるでもなく、明日からの予定が詰まったカレンダーの片隅に、自発的に『さわやか』の文字を手際よく打ち込んでいく。データや事務の面でチームに貢献しようとする、紡なりの小さな自覚の表れだった。――いや、実際のところは、自分もすっかりげんこつハンバーグの口になってしまっただけの、純粋な食欲だったかもしれない。

 

「葵ちゃん、頑張ろうね!」

「うん……! さわやか、絶対に連れていってもらおうね!」

 

 葵も嬉しそうに頷いた。

 

 他愛のない日常の会話が、夕闇の部室を温かく満たしていく。明日からは、達也さんが宣言した通り、本格的な,そして徹底的なトレーニングが始まる。それがどのようなものになるのか、この時の彼女たちはまだ知る由もなかったが、葵の胸の奥には、静かに、だが決して消えることのない強い闘志が灯り続けていた。

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【おっさん、美少女にTS転生!】▼【15億円の資産 ✕ 大人のズル賢さ ✕ 奇跡の歌声】▼おっさんが「最高の二度目の人生」を全力で謳歌する、最強の青春やり直しエンタメ!▼完結まで執筆済み!エタりません!▼毎日20:11更新中!▼【あらすじ】▼「俺の長年連れ添った相棒(ムスコ)が……ないぃぃっ!?」▼ある朝目覚めると、48歳・独身・ハゲ散らかした総務部長の佐藤…


総合評価:861/評価:8.24/連載:9話/更新日時:2026年07月02日(木) 20:11 小説情報

ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい(作者:高山 虎)(原作:ヒカルの碁)

新作オリジナル連載告知!▼新作の連載始めました!▼全88話執筆済み・絶対エタりません!▼本作の「中身おっさんTS×最強チートで無双」なノリが好きな方は必見!▼15億円と超絶美少女のガワを手に入れた元おっさんが、音楽業界で無双する二度目の青春ストーリー!▼▼『あさおん!〜48歳のハゲ散らかしたおっさんですが、朝起きたら超絶美少女でした〜』▼  【https:…


総合評価:22699/評価:8.66/完結:15話/更新日時:2026年06月07日(日) 20:11 小説情報


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