スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
「明日からは、いよいよ実践を想定した、本当のトレーニングを始める」
お父さんがそう宣言した翌日の放課後。私は、いつものようにボロプレハブの部室へとやってきた。
昨日、強豪校の高坂舞先輩が怒鳴り込んできたときのピリピリした空気はどこへやら、部室の中はすでに、お父さんと鉄平さんという二人の大人によって、またしても妙な熱気に包まれていた。
「よし、全員揃ったな」
お父さんは、新しく持ち込んだらしいホワイトボードの前に立ち、眼鏡をクイと押し上げた。その横では、鉄平さんが腕を組んで、フムフムと大きく頷いている。
私と葵ちゃんはパイプ椅子に並んで座り、マネージャーの紡ちゃんはスマホを片手に、足をぶらつかせていた。
「パパ、本当のトレーニングって、何をやるの? 今日もあの黒いドライバーをたくさん振っていい?」
私が無邪気に尋ねると、お父さんは途端に真面目な、どこか冷徹なビジネスマンのような顔になって首を振った。
「いや、由依。お前に告げる最初のメニューはこうだ。――本日をもって、お前のフルショットの練習を、基本的には全面禁止とする」
「……えっ?」
私はぽかんと口を開けた。けれど、隣の葵ちゃんは驚かなかった。それどころか、「やっぱりね」とでも言うように、静かに口元を綻びさせている。
「理由は二つある」
お父さんはホワイトボードに、黒いマーカーで大きく『1.物理的限界』と書いた。
「まず一つ目は、非常に現実的な問題だ。鉄平さん、説明をお願いします」
「おう」
鉄平さんが苦笑いしながら、打席の後ろにある頑丈な防球ネットの支柱をポンポンと叩いた。
「ネットの繊維こそ無事だったが、支柱の根元が悲鳴を上げてやがった。お前の放つ、時速350キロ超えの弾丸のエネルギーを毎日至近距離で喰らい続けたら、一週間でこのプレハブの骨組みごと引っ張られて、建物自体がひん曲がっちまう。打つたびに窓ガラスがビリビリ鳴るのも心臓に悪い。部室を立ち退きにされる前に、ここでブン回すのはストップだ」
「う、うそ……。私のせいで、秘密基地が壊れちゃうの……?」
「プレハブが壊れるって……どんな部活よ」
紡ちゃんが呆れたように突っ込むが、鉄平さんは「マジなんだから笑えねえよ」と肩をすくめた。
「そして二つ目が、ゴルファーとしての本質的な理由だ」
お父さんはホワイトボードに、今度は『2.出力を殺す技術』と書き足した。
「由依、お前の飛距離はすでに世界レベルだ。もはや狭いプレハブでフルショットを繰り返すメリットはない。お前にとって最大の課題は、その強大なパワーをミリ単位でコントロールする技術だ」
「コントロール?」
「――アプローチと、パッティングだよ、由依ちゃん」
葵ちゃんが、お父さんの言葉を引き継ぐように言った。その瞳には、すでにこれからの練習メニューが見えているような、確かな光が宿っている。
「どれだけ遠くに飛ばしても、最後のカップに入れなきゃスコアにならないの。300ヤードのショットも、ほんの数メートルのアプローチも、同じ一打だから」
「そう、スコアの大半はグリーン周りのショートゲームで決まる」
お父さんが葵の言葉を補強するように告げる。
「今の由依は、あまりにも出力が高すぎて力を抜く、という行為が全くできていないんだ」
「力を抜く……」
私は自分の両手を見つめた。
特別なスポーツを習ってきたわけではない。ただ、昔から体育の授業や遊びのとき、いつも全力の出しすぎで周囲を困惑させていた記憶がある。キックベースで力任せに蹴り飛ばしたボールが誰も捕れない位置まで飛んでいったり、加減がわからずに強すぎるパスを投げてしまったり。
けれど、それはいつも100%の出力の解放でしかなかったのだ。 何かをそっと置くような、あるいは自分の力を器用にコントロールして寸止めするような動きを、私は今までの人生で一度もやったことがなかった。
「お前が持っているのは、すべてを破壊する大砲だ」
お父さんはホワイトボードをドスンと叩いた。
「だが、夏の大会でスコアを出すためには、その大砲を、時には高級なガラス細工を扱うような精密兵器へと変貌させなければならない。だから由依、お前の今日からの練習比率は、アプローチが4割、パッティングが6割だ。フルショットは一発も打たせない!」
「……はーい」
私はちょっと残念に思いながらも、お父さんと鉄平さんの真剣な目に気圧されて、コクンと頷いた。
「よし! そうと決まればの俺の出番だな!」
鉄平さんがハイエースの鍵をジャラジャラと鳴らしながら、部室の外から、何やら巨大なカーペットのような塊をいくつも運び込んできた。
「ほらよ、由依ちゃん。今日のために、俺の仕事仲間から、色んな種類の人工芝の端切れをかき集めてきてやったぜ!」
鉄平さんが床に広げたのは、それぞれ長さや毛並みが全く異なる、四枚の人工芝のマットだった。
一枚は、ゴルフ場の刈り込まれたフェアウェイのようにツルツルとした短い芝。もう一枚は、球がすっぽりと埋まってしまうほど毛足が長く、ゴワゴワとしたラフのような芝。さらに、砂が少し混じった目の粗いグレーのマットや、順目と逆目が極端に分かれている特殊なグリーンの芝まである。
鉄平さんは、その中からフェアウェイ用のツルツルとした短い芝のマットを打席にセットし、ゴルフボールをポンと置いた。
「まずはアプローチの基礎、キャリー20ヤードだ。コースで一番よく使う、花道からピンに寄せる王道の距離だな。正面のネットにポコンと当てて、後ろのトラックマンの画面で20ヤードの数字をきっちり出す練習だ。クラブは、これを使え」
お父さんがキャディバッグから一本のウェッジを抜き出し、私に手渡した。
ずしり、と重い。一見すると普通の
「キャリー20ヤード……」
私は打席マットに敷かれた、フェアウェイ用の人工芝の前に立った。
足元には、綺麗な短い芝の上にちょこんと乗った白い球。目の前にある防球ネットまではほんの数メートルしかないけれど、20ヤード先にあるはずのピンを思い浮かべる。
「よし、やってみるね」
私はいつも通り、アドレスに入った。
力を抜いて、そっと打つ。私は自分の中で、限界まで出力を抑えたつもりだった。スイングの幅も、右の腰から左の腰までの、ほんの小さな往復のつもりだった。
テークバックを上げ、球に向けてクラブを振り下ろす。
その瞬間――私の天性のインパクトで球を引っ叩くという反射神経が、無意識にピクリと作動してしまった。
――ピシィィィンッッ!
部室の中に、とてもアプローチ練習とは思えない、鋭く硬い破裂音が響いた。
人工芝に置かれていた白球は、ポコンと浮き上がるどころか、地を這うような猛烈なライナーとなって飛び出し、防球ネットの地面近くの鉄骨へと直撃した。
カツゥゥゥーーンッッ!!
跳ね返ったボールが、ものすごい勢いで部室の床を転がっていく。
「ひゃああっ!?」
「うおっ、危ねえ!」
入り口の近くでスマホを見ていた紡ちゃんが、慌てて頭を抱えてしゃがみ込んだ。球は紡ちゃんの椅子の脚を直撃し、カンカンと音を立てて隅っこでようやく止まった。
「ちょっと由依! 今、完全にウチを狙い打ったでしょ! 殺す気!?」
「ご、ごめんね紡ちゃん……! わざとじゃないの、わざとじゃないの!」
私は慌ててウェッジを抱え直して謝った。
鉄平さんがすっ飛んできて、紡ちゃんの肩を抱き起こしながら、真っ青な顔で転がったボールとネットの足元を見比べた。
「すまねぇ、完全に俺のチョンボだ! ネットの組み方が甘かった。まさかあそこまで強烈なトップボールが鉄骨に直撃するとは考えてなかったわ。危ねえからちょっと待ってろ、今すぐ直す!」
鉄平さんは部屋の隅から緩衝材のウレタンを持ってくると、手際よく剥き出しの鉄骨部分に巻き付けて固定する補強を施し始めた。
「よし、これで次は
鉄平さんが手際よく作業を終えるまで、お父さんはずっとトラックマンの画面に表示された複雑な数値を厳しい目で見つめ、腕を組んで考え込んでいた。
そしてようやく、作業を終えた鉄平さんに応えるように、痛ましそうに頭を抱えながら口を開いた。
「データを確認していたが……。スイングの振り幅は確かに小さい。しかし、インパクトの瞬間のクラブの加速スピードが尋常じゃないんだ。由依、お前は無意識に、球に当たる瞬間に手首のスナップで、ヘッドを急加速させている。だから球が弾丸のように飛び出してしまうんだ」
「うーん、やっぱりそうか」
葵ちゃんは、パター練習をしていた手を止め、自分のキャディバッグからウェッジを一本持って、私の打席へと歩み寄ってきた。
「由依ちゃん、力を抜こうとすると、かえって当たる瞬間に不安になって、手首がパチン! って動いちゃうんだよね。それだと、ゴルフの神様は怒っちゃうんだ」
「ゴルフの神様?」
「そう。アプローチの基本はね、力を抜くことじゃないの。――クラブの重さを、ただ球の上に落としてあげるだけ」
葵ちゃんは、私の正面で綺麗なアドレスをとると、お手本を見せてくれた。
彼女のウェッジは、まるで振り子の時計のように、一定の、とても心地よいリズムでゆったりと動く。当たる瞬間も、一切の力みがなく、ヘッドが芝の上をするりと滑っていくようだった。
「トーン……」
乾いた、優しい音がして、球はふわりと上品な弧を描いて舞い上がった。目の前のネットをポコンと心地よく揺らすと、すぐ背後でピピッ、とトラックマンの電子音が響く。
お父さんが手元の画面を見て、深く感心したように声を漏らした。
「さすがだな、葵ちゃん。打ち出し角35度、スピン量3500回転、キャリー14ヤードのトータル20ヤード。完璧なお手本データだ」
「すごーい! 葵ちゃん、今のどうやったの? 全然音が違った!」
私が目を輝かせると、葵ちゃんはニコッと笑ってウェッジの
「この、ヘッドの底の出っ張っている部分を、バウンスって言うんだけどね。アプローチは、
「チク、タク……」
私はもう一度、マットの前に立った。
新しいボールをセットする。紡ちゃんは、いつでも物陰に飛び退けるように椅子から半分腰を浮かせて身構え、お父さんと鉄平さんも固唾を呑んで私の手元を見守っている。
「手首を固めて……体の中に、古い時計……」
私は頭の中で、おじいちゃんの家にある大きな柱時計の音を思い浮かべた。
チク、でクラブを上げ、タク、で下ろす。
けれど、いざ球が目の前に迫ると、どうしてもちゃんと当てなきゃ、という私の超人的な運動神経が邪魔をする。ダウンスイングの途中で、肉体が勝手にトップスピードへとギヤを上げようとしてしまうのだ。
「あ、ダメ、速くなっちゃう……!」
私は必死でその加速を抑え込もうとした。結果として、今度はクラブの刃が球の手前の人工芝にドスッ、と突き刺さり、完全に動きを止めてしまった。球は、ほんの少しだけゴロゴロと転がって、マットからこぼれて止まった。
いつでも物陰に飛び退けるように身構えていた紡ちゃんが、力なく転がったボールを見て、呆れたように、はぁーとお腹の底からため息をつき、脱力した様子でへなへなと椅子に座り直した。
「あはは……今度はダフっちゃった」
私が頭を掻くと、鉄平さんが腕を組んだまま、ガハハと豪快に笑った。
「いいぞ由依ちゃん! それでいいんだ! 今までお前がやってきたのは、時速200キロで突っ走る新幹線の運転だ。それを今、初めてミリ単位でバックさせる練習をしてるんだからな。脳みそがパニックを起こして当然さ」
「そうだよ、由依ちゃん。ショートゲームは感覚の引き出しをいくつ持ってるかの勝負なんだから、最初は仕方ないよ」
葵ちゃんが、優しく次のボールを置いてくれる。
「よし、もう一度だ、由依」
お父さんがiPadを手に、具体的な数字を示した。
「今のミスは、減速させようとするあまり、クラブの軌道が完全に停止してしまったからだ。加速も減速もしない。時速10キロなら、始点から終点まで、ずうっと時速10キロのままで等速運動を維持するんだ。トラックマンのキャリーの数値を、葵ちゃんのデータと同じ20ヤードに少しずつ近づけていくぞ」
それからの2時間、私はひたすら、トラックマンの前で20ヤードのアプローチ練習を繰り返した。
打ってはネットに、打っては芝に突き刺さり、部室には私の悲鳴が何度も響いた。最初は打球音にビクビクしていた紡ちゃんだったが、設置された記録用カメラが回り始めてからしばらく、1時間を過ぎる頃には慣れたようで、後半は呆れ顔であくびを噛み殺しながらも、文句一つ言わずに手元のiPadで送られてくる動画データをチェックし続けてくれていた。
その間、葵ちゃんはといえば、部室の隅に用意された特製のパッティンググリーンの上で、まるで精密機械のように一定のリズムで黙々とパターを転がし続けていた。自分の練習の手を緩めない彼女のストイックな横顔に、私は格好いいな、と密かに刺激を受けながらウェッジを握り直す。
でも、何十球、何百球と打っているうちに、私の手のひらに、ほんの少しずつだけど新しい感覚が芽生え始めていた。
インパクトの瞬間に、クラブを自分の力で引っ叩くのではなく、葵ちゃんの言う通り、ヘッドの重みだけで芝の上を滑らせる感覚。
それがうまくいったとき、あのドライバーの時のような大爆音ではなく、パツッという、お豆腐を柔らかいスプーンですくい上げたかのような、ひどく繊細で、静かな手応えが手のひらに返ってくるのだ。
「――パツッ」
本日、およそ250球目の一打。
放たれた白球は、これまでで一番綺麗な放物線を描き、正面のネットへ、吸い込まれるようにポンと当たった。
「あ、今の、すごく気持ちよかった……!」
私が自分の両手を見つめると、お父さんがiPadの画面を見て、よしっ、と小さく拳を握り締めた。
「打ち出し角35度、スピン量3000回転。葵ちゃんのデータとほぼ同等の、完璧なピッチ&ランの軌道だ。由依、お前の肉体は、この極小の等速運動のリズムすらも、少しずつ学習し始めているぞ」
「やったー!」
私が葵ちゃんとハイタッチを交わすと、それまでずっとiPadの画面を見つめていた紡ちゃんが、ふう、と大きなため息をついてタブレットを膝の上に置いた。
「……うん、今日のアプローチ動画は全部ばっちり保存。由依、お疲れ様」
紡ちゃんは手際よく画面をタップし、記録カメラから転送されたデータをマネジメント用のフォルダへと手際よく仕分けた。
ネットでの炎上、そして高坂舞の襲撃を経て、紡ちゃんの広報としての意識は大きく変わっていた。今の彼女にとっての動画撮影は、ただバズるためのネタ探しではない。由依の成長を正確に記録し、お父さんたちのデータ分析を支えるための、マネージャーとしての重要な任務だ。
「ねえ紡ちゃん、それ、今日のSNSにアップするの?」
葵ちゃんが冷たい麦茶の入ったペットボトルをみんなに配りながら尋ねると、紡ちゃんはきっぱりと首を横に振った。
「いやー、これは絶対に非公開。……だって、世界一の爆飛び女子中学生が、20ヤードのアプローチを百回以上失敗する動画なんてネットに上げたら、またアンチの人たちにやっぱり一発屋のペテン師じゃんって、格好の叩きネタにされちゃうもん。由依ちゃんが完璧にコースを回れるようになるまで、外の雑音は一切シャットアウト。それが今のウチのメディア戦略だから!」
小さな胸を張ってフンスと鼻を鳴らす紡ちゃんに、鉄平さんがガハハと豪快に笑いながらその頭を撫で回した。
「がはは! さすがウチの敏腕マネージャー、ガードが固くて頼もしいじゃねえか。だがな紡ちゃん……」
鉄平さんが、葵ちゃんから受け取ったばかりの麦茶を喉に流し込みながら笑った。
「ゴルフのガチ勢が見たら、この動画こそが一番恐ろしいんだよ。あの怪物が、ショートゲームのタッチを覚え始めたってな。さあ、水分補給が終わったら、今日のメインディッシュだ。特製のパッティンググリーンへ移動するぞ!」
「メインディッシュ……パッティングって、さっきまで葵ちゃんがずうっとやってた、あの球を転がすやつだよね?」
私が麦茶をゴクゴクと飲みながら尋ねると、お父さんの目が、本日一番の、怪しいまでの輝きを放ち始めた。
「そうだ、由依。これまではグリーン周りの話をしてきたが、ここからは本当の『迷宮』の話だ。さっきまで葵ちゃんが黙々とストロークを繰り返していた、あの場所へ移動するぞ」
お父さんが指差したのは、部室の隅に鎮座している、幅2メートル、長さがなんと5メートルもある特製のパッティンググリーンだ。
やけに高級感のある緑色の絨毯のようなマットが貼り付けられた、頑丈なアルミフレームの台座。さっきまで葵ちゃんが使っていたそれの前に立つと、お父さんは、マットの上に設置された、これまた見たこともないような仰々しい機械のスイッチを入れた。
ピッと電子音が響き、マットの端から端まで、一本の細い、鮮やかな赤色のレーザー光線が、一直線に照射される。
「パパ、これ、何?」
私が恐る恐る覗き込むと、お父さんはフッ、と不敵に笑った。
「これは、パッティングのフェース面と、球の打ち出しラインを完全に視覚化するレーザーガイドシステムだ。そして、この鉄平さんが用意してくれた特製マットは、日本の最高峰のトーナメントが開催されるゴルフ場と同等……すなわち、グリーンの速さを示す値が11フィートを超える、超高速のツアー仕様グリーンを再現している」
「じゅういちふぃーと?」
私が首を傾げると、葵ちゃんが、ゴクリと唾を飲み込みながら説明してくれた。
「あのね、由依ちゃん。普通の練習場とかにあるパターマットは、だいたい8フィートくらいで、重くてあんまり転がらないの。でも、11フィートっていうのは、テレビのプロの試合で使われるような、信じられないくらいツルツルで、ピカピカに磨かれた氷の上みたいなグリーンなの。球の頭をちょっと触っただけで、どこまでも、どこまでも転がっていっちゃうの……」
「触っただけで、どこまでも……」
私はお父さんから、独特の形状をした、ずっしりと重いパターを受け取った。ヘッドの後ろに、お父さんがこだわって選んだという、真っ直ぐな白い一本のラインが刻まれている。
「いいか、由依」
お父さんは、レーザー光線の始点に、真っ白なボールをそっと置いた。わずか1メートル半先には、カップと同じ大きさの、小さな穴がデザインされている。
「グリーン上は十センチの迷宮だ。あの小さなカップに沈めない限り、次のホールへは行けない。この高速グリーンでは、わずか1度の狂いも許されない。お前の持つ強大なパワーを、今度はほぼゼロにまで抑え込むんだ。距離は一メートル半。打ってみなさい」
「うん……わかった。1メートル半なら、届かないってことはないよね」
私はパターを両手で握り、レーザー光線の前に立った。
足元の一本の赤い線が、私のパターの真ん中を通り、真っ直ぐに1メートル半先のカップへと伸びている。
こんなの、狙いようがないくらい真っ直ぐだ。ちょっとコツン、と当てるだけで、簡単に穴に入るはず――そう思っていた。
私は、さっきのアプローチの時計のリズムを意識しながら、パターをほんの数センチだけ後ろに引き、球に向けてそっと押し出した。
――パコッ
軽い、乾いた音がした。
その瞬間、私の手のひらに、心臓が跳ね上がるような妙な感覚が走った。
ほんの、ほんの少しだけ、当たる瞬間に右手の親指に力が入ってしまったのだ。
放たれた白球は、レーザーの赤い線から、ほんの数ミリだけ右にズレて転がり出した。
超高速の11フィートのマットの上を、球はまるで滑るように、猛烈なスピードで進んでいく。1メートル半先のカップの右縁に激突したかと思うと、球は沈むどころか、カップの淵でクルン! と激しく弾かれ、そのままマットを飛び出して、プレハブの壁際まで転がっていってしまった。
「あ、あれ……? すごく転がった……」
私が呆然としていると、お父さんが静かにトラックマンと連動したiPadの数字を読み上げた。
「フェース角、インパクト時に右へ2.5度。そして何より、ヘッドスピードが速すぎる。今のタッチでは、1メートル半の距離に対して、実際には8メートル転がる強さで打っている。もしこれが実際のコースなら、カップをオーバーしたあと、グリーンを飛び出して反対側のバンカーまで転がっていっているだろうね」
「そうなんだ……」
私は目を丸くした。わずか1メートル半のパットを打っただけなのに、そんなに大変なことになるなんて。
「由依ちゃん、パターはね、球を打つんじゃないんだよ」
葵ちゃんが、私の横に膝をついて、パターの動きをじっと見つめながら言った。
「パターはね、球を運ぶの。自分の手じゃなくて、パターのヘッドの重さだけで、球を後ろからそっと押してあげるだけ。特にこの速いグリーンでは、打とうとしたら負け。ただ、ヘッドの重みを球に『伝える』だけなの」
「打つんじゃなくて、運ぶ……伝える……」
私はもう一度、レーザーの前に立った。
お父さんが新しい球を置く。赤い線が、冷徹に私の足元を照らしている。
さっきのは強すぎた。だったら、もっと、もっと弱くだ。
私はパターのグリップを、まるで壊れやすい小鳥の卵を握るように、そっと優しく持った。そして、テークバックをほとんど上げずに、球の真後ろをそっ……と触るように動かした。
しかし、今度は当たる瞬間に、私の脳がこれじゃ届かない! と勝手に判断し、またしても右手がピクリと反応してしまった。
――パコン
球は、今度はレーザーの線の左側を転がり、カップの左側を大きくすり抜けて、またしてもマットの奥へと消えていった。
「あっ、また外れた! なんで? こんなに近くに目標があるのに、真っ直ぐ転がってくれない……」
私が苦労しながらパッティングを続けていると、後ろでiPadのスコア管理アプリを入力していた紡ちゃんが、クスクスと笑い声をあげた。
「ねえ由依、これ、動画で見ると超シュールなんだけど。あの、ヘッドスピード64で大人たちを大騒ぎさせた世界の怪物が、わずか1メートルのパットを右に左に外してポカンとしてるの。ま、このギャップが可愛いんだけどねー」
「紡ちゃん、笑わないでよー! 私、すっごく真面目にやってるんだから!」
私が顔を真っ赤にして抗議すると、紡ちゃんはアプリの画面をこちらに見せながら、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「分かってるってば、由依がガチでやってるのは。ほら、データの数字、最初よりは格段にブレが少なくなってるよ。……今はまだ、ネットの冷やかし連中にはこの地味な努力は見せてあげないけどさ。夏の大会でみんなの度肝を抜くための秘密兵器の仕込みだと思えば、ウチ、この地味な撮影に付き合うの、全然苦じゃないし!」
「紡ちゃん……!」
私の目がパッと輝くと、横で見ていた鉄平さんがガハハと豪快に笑って、私の肩をポンと頼もしく叩いた。
「いいマネージャーじゃねえか! ――ま、それはそれとして由依ちゃん、パターが入らねえからってそう凹むなよ。ゴルフのスコアの半分はパッティングだからな。すぐどうにかなるもんじゃない」
鉄平さんは打席のパターマットに視線を落とし、少しだけ勝負師の鋭い目を覗かせる。
「どんなに300ヤードぶっ飛ばすツアープロでもな、この、たった1メートルのパットの怖さに負けて手が震えたり、頭がおかしくなりそうになるんだ。高坂のお嬢ちゃんが昨日本番のグリーン上で泣きを見るのはあなたたちよって言ったのは、マジでこのことなんだよ。あいつは、恐ろしさを身を以て知ってんだろうな」
高坂舞先輩の、あの悔しそうな、涙目の顔が脳裏をよぎった。
彼女は、毎日何百球も、この地味で、張り詰めたような練習を繰り返してきたのだ。ミリ単位の狂いも許されない、この迷宮の中で、自分の心と戦いながら。
ゴルフは、ただ気持ちよく球をぶっ飛ばすだけのスポーツじゃない。
そのことが、この11フィートの特製マットの上で、ようやく私の心に、本当の意味で染み込んでき始めていた。
「由依」
お父さんが、私の前に立って、優しく私の両肩に手を置いた。
「お前には、誰にも真似できない最強の大砲がある。だが、それだけでは勝てない。この1メートルのパットを、沈められるようになって初めて、お前の大砲は、相手にとっての真の絶望になるんだ。パパのデータ分析と、鉄平さんの現場の知恵、そして葵ちゃんの感覚を、すべてお前のその体に叩き込むんだ」
「……うん。パパ、私、やる」
私は深く息を吐き出し、胸の奥のざわつきを沈めた。
もう一度、パターを握る。
赤いレーザー光線が、真っ直ぐにカップへと伸びている。
ルールも、マネジメントも、私はまだほとんど知らない。けれど、この小さな穴に、球を一番静かに届けるためのタッチを、私は私の体で見つけ出さなきゃいけない。
プレハブの部室の外では、御殿場の夕暮れが本格的に始まり、富士山の巨大な影が、学校の校庭を包み込もうとしていた。
トタン屋根の下、蛍光灯の光に照らされた緑のマットの上で、私は何度も、何度もパターを動かした。
お父さんの「強い」「右だ」「今度は左だ」と冷静な声が響き、そのたびに葵ちゃんが「今の、惜しい!」「手首が動かなければ入ってたよ!」と声を張り上げる。鉄平さんは腕を組んで、私の足元のわずかな重心のブレを見守り、紡ちゃんは文句を言いながらも、私の手元の動画を記者のような真剣な目で撮り続けていた。
フルショットの快音はいっさい響かない、ひどく地味で、けれど息が詰まるほど緻密な、私たちのチートトレーニング。
すべてを破壊する大砲が、十センチの迷宮を支配するための精密な鍵へと進化を始める、そんな狂気じみた、けれど愛に満ちた放課後が、じわじわと、熱を帯びながら過ぎていった。