スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
御殿場の初夏が過ぎ、季節は本格的な夏へと移り変わっていった。
富士山の山頂を覆っていた白い雪は完全に消え去り、荒々しい山肌がじりじりと照りつける太陽の光を浴びて黒々と輝いている。
学校の敷地の端にある我がゴルフ部のボロプレハブは、この時期になると文字通りの地獄と化していた。トタンの屋根が直射日光を吸収し、室内の温度はサウナのように跳ね上がる。
そんな過酷な環境の中で、鉄平さんが持ってきたという、工事用の巨大な黄色い工業用扇風機が、ブォォォォォン!! と凄まじい爆音を立てて生温かい風をかき回していた。
「これだけ暑いなら、屋根も扇風機もあるいつもの練習場に行けばいいのに……」
なんて私の弱音を見透かしたように、仕事の都合をつけて平日の放課後に強襲してきた二人のボス――ネクタイを緩めたお父さんと、作業着姿の鉄平さんは、プレハブの長机に大きなコースマップを広げながら首を振った。
「勘違いするな由依、今日はただの打ち込みではない。来月頭に控えている『ヤマハCUP』の
なるほど、と私は心の中で納得する。わざわざこんなサウナ地獄に二人が集まった理由が分かった。
5月下旬に葵ちゃんたちと行った初めての練習ラウンドで、私はアプローチの力を緩められない病を発症し、グリーン周りで大失態を演じていた。その後、練習ラウンドを何度も重ね、私の悪癖はようやく影を潜めつつある。ここからは次のフェーズ、夏の公式戦に向けた、より実戦的な戦略構築が始まろうとしているのだ。
「――パツッ」
その思考を指先に込めるようにして、プレハブの打席マットから、ひときわ静かで心地よい音が響いた。
放たれた白球は、ふわりと上品な放物線を描き、正面のネットに貼り付けられた赤い丸の布へ、吸い込まれるようにポンと当たって真下に落ちた。
わずか数メートル先で球は遮られるけれど、お父さんが持つiPadの画面には、高性能センサーが弾き出したバーチャルな弾道がリアルタイムで描かれている。
「よし! キャリー25ヤード、ランが3ヤードでトータル28ヤード。打ち出し角34度、スピン量3200回転。由依、今のスイングは完璧だ。完全に等速運動のリズムが肉体に染み込んでいるぞ」
iPadの画面を凝視していたお父さんが、嬉しそうに声を張り上げた。お父さんのポロシャツはすでに汗で色が変わっているけれど、その目の輝きは衰えるどころか、日を追うごとに増している。
「ふぅ……。パパ、今の、大きな古時計のチク、タクの感じで打てたよ」
私は額の汗をずっしり重くなったタオルで拭いながら、サンドウェッジをそっと構え直した。
あの日、高坂舞先輩が嵐のように怒鳴り込んできてからの二ヶ月間。お父さんと鉄平さんから言い渡されたフルショット全面禁止の命令を、私は実を言うと、最初は少し寂しく思っていた。月に数回の練習ラウンドでしか思い切り球をひっぱたけないから、私の体は、あの空気が爆発するような感触をもっと味わいたい、と物足りなさを訴えていたのだ。
けれど、毎日、毎日、この暑いプレハブで地味なアプローチとパッティングを繰り返し、時には練習場やコースでリアルな距離感や球の転がりを確かめる機会を挟んでいくうちに、私はゴルフの別の面白さに気づき始めていた。
私の体は、昔から動かせば動かすほど出力が上がってしまう性質だった。あえて出力を1割以下に抑え、最初から最後まで同じスピードで動かすという作業は、まるで細い針の穴に、顕微鏡を覗きながら糸を通すような、ひどく繊細なゲームだった。
幸いにも、私の筋肉や関節のパニックは、数週間もすると収まっていった。お父さんのデータ分析による軌道の修正、鉄平さんの用意してくれた色んな種類の人工芝での実践、見えないバーチャルなグリーンを脳内に描き、それを実際のアプローチで再現する訓練。何より、葵ちゃんのクラブの重さを伝えるだけという優しい言葉が、私の感覚を驚くほどのスピードで書き換えていったのだ。
今では、30ヤード以内のアプローチなら、最初の頃のように手首を悪戯にパチンと弾かせることなく、ヘッドの
「よし、次はパッティングだ。クラブを持ち替えろ。アプローチの後にパッティングをする流れをおさらいして、そのあと全体のブリーフィングに入る」
お父さんの指示に従い、私はウェッジをキャディバッグに戻してパターを抜き取ると、打席マットから数歩歩いて、プレハブの床に敷き詰められた11フィートの超高速パターマットの横へと移動した。
「パッティングの方も、見違えるようになったな」
鉄平さんが、マットの終端でタオルを首に巻きながら頷いた。
レーザーガイドシステムが真っ直ぐな赤い線を照射する中、私はパターを握ってアドレスに入る。壊れやすい卵を握るような優しいグリップ。体の中の振り子が、静かに1往復する。
――パコッ
球はレーザーの線の上をなぞるように転がり、1メートル半先にある、カップを模した小さな穴のど真ん中から、コロンと音を立てて吸い込まれた。
「うん、1メートル半のまっすぐなラインなら、ガイドがなくても8割以上は沈められるようになったね。由依ちゃん、本当にすごいよ。普通の人が何年もかけて覚える手首のロックを、たった二ヶ月で自分のものにしちゃうんだもん」
葵ちゃんが、まるで自分のことのように嬉しそうに拍手をしてくれた。葵ちゃんは自分のパッティング練習の合間に、私のフォームをずっと熱心にチェックしてくれていたのだ。
「ありがと、葵ちゃん。でも、これってまっすぐなラインだけだし、やっぱり付け焼刃なのかな……」
私が不安げに言うと、お父さんが頷いた。
「そうだ。実際のグリーンは複雑に傾斜している。お前の技術は、何年も蓄積してきた選手たちに比べればペラペラだ。……だが、何も持たずにコースへ出るよりは遥かにいい。お前の武器を活かすための、最低限の守りは形になった」
「よーし! 形になったってことは、いよいよアレの出番だね!」
それまで部室のパイプ椅子に座って、スマホのインカメラで涼しい顔をして前髪を気にしていた紡が、弾かれたように立ち上がった。彼女は手にしたスマホの画面を、私たちの目の前にジャジャーン! と突き出してきた。
「ほら、見て見て! ウチがマネージャーの権限で、キッチリ手続きを完了させておきましたー!」
画面に表示されていたのは、どこか厳格なデザインの、ウェブサイトのエントリー完了画面だった。
【第25回 ヤマハCUP(中学女子B)】
【出場選手:風間 葵、如月 由依】
【所属:御殿場市立第一中学校ゴルフ部】
「大会へのエントリー……!」
その文字を目にした瞬間、私の胸の奥が、ドクンと大きく跳ね上がった。
頭のどこかで分かってはいたけれど、こうして正式な画面として突きつけられると、自分が本当にゴルフの試合、という未知の世界に飛び込むのだという実感が、凄まじいリアリティを伴って押し寄せてくる。
「ついに、エントリーしちゃったんだね……」
葵ちゃんが、画面を見つめながら、小さく、けれど芯のある声で呟いた。彼女の瞳には、静かで熱い闘志の炎がゆらりと灯っているのが見えた。
「よっしゃあ! 公立の弱小ゴルフ部が、いよいよ表舞台に殴り込みだ!」
鉄平さんが自分の太ももをバチンと叩いて破顔した。
「よし、そうと決まれば達也兄ィ。二人が本番でパニックを起こさねえように、しっかりとブリーフィングを始めようじゃねえか!」
「ああ、始めましょう」
お父さんは頷くと、部室の奥から、何枚もの大きな紙を取り出した。それは、今回の予選会場となるゴルフ場――『葛城ゴルフ倶楽部:山名コース』の、詳細なコースレイアウトが描かれたコースマップだった。
お父さんはそれをセロハンテープでホワイトボードにペタペタと貼り付け、手元に黒と赤のマーカーを用意した。その姿は、まるで重要なプレゼンを控えた大企業の幹部そのもので、部室の中の空気が一瞬にしてピリッと張り詰めた。
「全員、ホワイトボードの前に集まってくれ。これから、夏の大会を勝ち抜くための、我がゴルフ部のマネジメントの作戦会議を行う」
私と葵ちゃんは、自然と背筋を伸ばしてホワイトボードの前に並んだ。紡も、動画の撮影を一時的に止めて、真面目な顔で画面越しにお父さんの動きを追っている。
「まず、今回の舞台となる『葛城ゴルフ倶楽部:山名コース』の全体像から説明する」
お父さんは黒いマーカーで、コース全体の起伏をなぞるように線を引いた。
「葛城は罠が張り巡らされた難コースだ。吹き荒れる海風は、全選手に残酷な障害として立ちはだかる」
「風……」
私が呟くと、鉄平さんが横から口を挟んだ。
「おうよ、葛城の風をナメちゃいけねえ。猛烈なアゲインストのせいで、並の選手は球を高く煽られてフェアウェイにすら届かなくなる。下手をすりゃ深い林へ一直線さ」
お父さんが眼鏡の奥の目をギラリと光らせた。
「……だが、由依。お前には、地を這うような超低空の弾道――スティンガーがある」
「私の、あの低い弾道……?」
「そうだ。空気抵抗を極限まで切り裂くお前の球は、葛城の風すら突き抜ける。周りが風に怯えて距離を落とす中、お前だけが本来のゴルフをできる。これこそが葛城の罠に対抗できる、お前の最大の『
お父さんは赤マーカーで、由依の弾道をイメージした直線を描いた。
「……うん。初めてのラウンドのときも、風をぶち抜いて真っ直ぐ飛んでくれた。風に邪魔されないの、すごく気持ちよかった!」
練習ラウンドで味わった、アゲインストを物ともしない快感が脳裏に蘇る。私のスティンガーは、広いコースでも確かに通用していた。私が目を輝かせると、葵ちゃんが少し心配そうな顔で私を見た。
「うん、由依ちゃんのスティンガーは、本当に風の日の最強の武器になると思う。……でもね、由依ちゃん。問題は、その凄まじいショットでグリーンの近くまで行った、その後なの」
「そう、葵ちゃんの言う通りだ。ここからが本題だ、由依」
お父さんの表情が、一転して冷徹なデータサイエンティストのそれに変わった。お父さんはホワイトボードのグリーンの絵を、赤マーカーでぐるぐると激しく囲った。
「由依、最近の練習ラウンドでは80台前半あたりで安定してきたな。だがお前がこれまで出してきたスコアは、すべて私たちが用意したマネジメントという特大の下駄を履いていたからこその数字だ」
「……下駄?」
「そうだ。今までは番手も狙う方向も風の読みも、すべて私たちが教えていた。お前はただ振るだけでよかったんだ。だが公式戦のコースの中は完全な孤独だ。判断ミスの一つひとつがすべてスコアになる。誰も助けてはくれないんだぞ」
「う、うん。……でも、狙った場所に真っ直ぐ打つだけなら、一人でもできると思うけどな……」
怒られちゃったけれど、心の中では少しだけ、なんとかなるでしょ、なんて甘い気持ちがあった。だって、私のショットの精度は、最初から自分でも怖いくらいに狙った場所へ真っ直ぐ飛ぶのだから。
「だからこそ、今回の作戦は徹底的なセーフティ・マネジメントだ」
お父さんはホワイトボードのグリーンの真ん中に、大きく黒いバツ印をつけた。
「由依、お前に与える指令はただ一つ。――ピンがグリーンの端のどれだけ難しい場所に切られていようとも、お前は絶対にピンを見るな。常にグリーンの真ん中の、一番広くて平らな場所だけを狙って球を乗せるんだ」
「グリーンの、真ん中……」
「そうだ」
お父さんは力強く頷いた。
「お前の飛距離ならセカンドを短いクラブで打てる。だから常にグリーンの真ん中だけを狙え。そこからのファーストパットを確実に一メートル以内に寄せて、安全にパーを拾うか、最悪でもボギーでしのぐんだ。これが大叩きを防ぐ唯一のルートだ」
「なるほどな……ピンを狙わずに徹底的に安全な真ん中狙いか。大叩きを完全に防ぐ、達也兄ィの理詰め作戦だな」
鉄平さんが納得したように腕を組んだ。
「さらに、本番までに私の目を全部由依ちゃんに伝授するからね!」
葵ちゃんが、私の手をぎゅっと握って微笑んだ。
「試合中はアドバイス禁止でペナルティになっちゃうから、今のうちに葛城のグリーンの罠を全部頭に叩き込んであげる。周囲の木のせいで上りに見えるのに、実は下り坂、みたいな目の錯覚の読み方。本番は、人のパットの転がりもしっかり見て盗んでね!」
「葵ちゃん……!」
私は胸の奥が、じわっと熱くなるのを感じた。
お父さんの冷徹なデータ分析と作戦。鉄平さんの頼もしいサポート。厳しいルールの中でも、全力で知恵を共有して一緒に戦おうとしてくれる、最高の相棒。
ルールもろくに知らず、ただ体が強いだけだった私が、この頼もしすぎるチームのみんなに支えられて、今、本当に戦いの舞台に立とうとしている。
「あ、そうだ。二人とも、これだけは忘れないでね」
それまで静かに聞いていた紡が、スマホをホワイトボードに向けながら、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「今回の夏の大会……当然だけど、あの高坂舞先輩もエントリーしてるからね。ウチ、SNSの裏アカウントで向こうの学校のゴルフ部の動向をチェックしてるんだけど、高坂先輩、あの日から毎日、執念深いくらい居残り練習してるらしいよ。目がマジになってるって噂」
高坂舞先輩。
あの時、悔し涙を流しながら「本番のグリーン上で、泣きを見るのはあなたたちよ!」と言い残して去っていった、あの正統派の、努力の天才。
「……望むところだよ」
葵ちゃんが、小さく、けれど誰もが聞き取れるはっきりとした声で言った。彼女の横顔には、弱小部の部員としての甘えは一切なかった。一人の本物のジュニアゴルファーとしての、凛としたプライドがそこにあった。
「高坂先輩はね、昔同じアカデミーで、ずっと一緒に競い合ってた人なんだ。……途中でいろいろあって、私の方が追いつけなくなって背中を見送っちゃったけどね。あの人のゴルフが完璧な芸術なら……私たちは、由依ちゃんの大砲と、このチートな部室で積み上げてきた付け焼刃の技術で、その完璧な芸術に真っ向から挑戦するだけ。――ね、由依ちゃん?」
「うん……!」
私は力強く頷き、自分の両手をぎゅっと握り締めた。
手のひらには、二ヶ月間、重いパターとウェッジを握り続けたことでできた、小さな、けれど確かな新しいマメの感触があった。
「私、ゴルフのこと、まだ全然分かってないかもしれない。でも……みんなで作ったこの付け焼刃が、大会のコースでどこまで通用するのか、すっごくワクワクする。高坂先輩にも、私たちのゴルフをちゃんと見てもらいたい!」
「よし! 全員、いい面構えだ!」
鉄平さんがガハハと豪快に笑い、工業用扇風機の風を浴びながら全員の背中をポンポンと叩いた。
「泣いても笑っても、本番は来月だ! 御殿場一中弱小ゴルフ部、大会を思いっ切り引っかき回してやろうじゃねえか!」
「「「おおおっ!!」」」
部室の中に、私たちの威勢のいい勝ち鬨が響き渡った。
じりじりと照りつける御殿場の太陽の下、錆びついたプレハブ小屋の中に渦巻く熱気は、もう誰にも止められないほどに膨れ上がっていた。すべてを破壊する大砲と、十センチの迷宮に挑むための付け焼刃の鍵を携えて、私たちの、初めての激闘の夏が、いよいよ幕を開けようとしていた。