スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
1番ホールのティーイングエリア。ギャラリーたちの驚愕のどよめきと、遠くで唖然と立ち尽くす高坂舞先輩の姿を背に受けながら、私は軽快な足取りでフェアウェイへと歩き出した。
私の放ったスティンガーは、文字通り凶暴なアゲインストの風を引きちぎり、乾いた大地を転がり続けて、驚異の320ヤードを叩き出していた。同伴競技者の女の子たちのボールは、風に押し戻されて160ヤードそこそこの手前のラフやフェアウェイにポツンと寂しそうに転がっている。彼女たちが重苦しい足取りで2打目の地点へと向かう中、私は一人、遥か彼方の地平線を目指すようにして進んでいった。
遥か後ろのスタートハウス側を見返すと、お父さんと鉄平さんが小さく頷くのが見えた。私はそれに応えるように、無邪気に笑ってみせた。
しかし、自分のボールの真横にたどり着いたその瞬間から、世界の空気は徐々にその密度を変え始めていた。
残りわずか50ヤード。普通の中学生女子の感覚でもウェッジを軽く振る距離であり、上手な子ならピンそばにピタリと止めるシチュエーションのはずだった。私は、ずっしりと重い特注の
遠州灘からの風は、相変わらずゴォォォと音を立てて激しく吹きつけている。そして、目の前のグリーンは、私がこれまで葵ちゃんと一緒に回ったどんな練習コースとも違っていた。夏の強烈な太陽光を浴びてカチカチに乾燥し、ミリ単位で極限まで短く刈り込まれた、葛城名物の超高速ベントグリーン。それは芝生というよりも、まるで緑色に塗装されたコンクリートの床のように、怪しくギラギラと光を反射していた。
「よし、練習通りにふわっと上げて、ピンの根元にドスン、だよね」
私は部室での練習を思い出しながら、体幹の力だけでウェッジを軽く振り抜いた。
――シュパッ。
インパクトの音が響き、真っ白な球は夏の青空へと舞い上がった。完璧な打感。
だが、最高到達点に達した瞬間、10mの凶暴なアゲインストが牙を剥いた。高く上がった球は、まるで見えない壁に正面からぶつかったかのように、空中でピタリと前進を止められてしまったのだ。
(え……うそ、進まない!?)
トラックマンのシミュレーターや、風の穏やかな練習ラウンドではあり得なかった光景。SWのロフトが生み出した強いバックスピンが、猛烈な向かい風を巻き込んでさらに異常な揚力を生み、球は前へ進む代わりに、ただ真上へと吹き上がっていく。
そして風に完全に押し潰されたボールは、ピンまで遥か手前、グリーンにすら届かない20ヤードも手前のフェアフェイと、力なく垂直にポトリと落ちた。
トントン、と2回小さく跳ねて、ボールはそのままピタリと止まる。
「嘘……今の、すごく綺麗に打てたのに……」
呆然と立ち尽くす私に、同伴競技者の女の子たちが、どこかホッとしたような視線を投げかけていた。これが、競技ゴルフの洗礼だった。私の天性のパワーによるドライバーショットは、確かに誰もが驚嘆するチート能力だった。けれど、そこから先にあるショートゲームのマネジメントという領域において、私は圧倒的な経験不足という壁にぶち当たっていた。
ぽつんとフェアウェイの手前に止まったボールへと向かう。グリーンまでは、まだ残り20ヤード。しかも、ピンフラッグは10mの爆風アゲインストに煽られて、引きちぎれんばかりに逆方向へと激しくなびいていた。
「これ、どうやって打てばいいの……?」
一瞬、パニックになりかけながら、私は遥か後方――遠く霞む1番ホールのティグラウンドへと視線を戻した。ここから380ヤード以上先、スタート地点のロープ際に、小さな黒い粒のような人だかりが見える。
ジュニア大会のルール。保護者はコース内への立ち入りを一切禁じられ、発着ホールの周辺から見守ることしか許されていない。
あの点にしか見えない人だかりのどこかで、お父さん――達也が、iPadのカメラなんかを最大ズームにして私を凝視しているのかもしれない。けれど、私からはお父さんの顔も、どんな表情をしているかも、何一つ分かりはしない。当然、アドバイスが届くはずもなかった。
誰も助けてくれない。すべては、私のこの両腕の中にゆだねられている。
『由依、いいか。アゲインストの風の中では、アプローチでも球を高く上げてはいけない。風に押し戻されて距離感が完全に狂う。フェースを立てて低く打ち出し、地面を転がして寄せるんだ。お前には天性の強靭な体幹がある。手首をこねずに、型通りに押し出せば、低く鋭い転がりの球が打てる』
お父さんの言葉を思い出し、ハッとした私はアドレスを深く構え直した。今度はさっきの失敗を繰り返さない。ウェッジを右足寄りに置き、フェースをグッと立てる。すうっと息を吸い込み、筋肉を緊張させる。大きくは振れない。風の抵抗を受けない地を這うような弾道をイメージして、コンパクトに、でも、インパクトの瞬間だけは、あのプレハブで鉄平さんの特製ネットを歪ませた時のように、シャープに――。
――カン。
短いスイング。低く放たれた真っ白なボールは、猛烈な突風の下を潜り抜けるようにして、グリーン手前の花道を滑り上がっていく。
この音は、あの380ヤード先のティーグラウンドまで届いただろうか。突進エネルギーを維持したままグリーンに乗ったボールは、夏の太陽を浴びてカチカチに乾燥した超高速ベントグリーンの上を、トトトッと滑るように転がっていく。アゲインストの風がブレーキの役割を果たし、ピンの手前2メートルで見事に静止した。
「よしっ……! 寄った!」
付け焼き刃とはいえ、学んだ技術が逆境でピタリとはまった。私は小さくガッツポーズを浮かべ、パターを握ってグリーンへと上がった。
しかし、本当の難関はここからだった。カップまでは2メートル。見た目には、わずかに右から左へと曲がる、なだらかな上り坂に見えた。
(上り坂……だったら、ちょっと強めに打てばいいんだよね?)
そう判断し、ボールの後ろにパターをセットした。その時、先日葵ちゃんが部室のホワイトボードの前で、必死の表情で教えてくれた言葉が脳裏をよぎった。
『由依ちゃん、これだけは絶対に忘れないで! 葛城のグリーンはね、周囲の山並みのせいで視覚が完全に狂わされるの。自分の目を信じちゃダメ。一見するとしっかりした上り坂に見えても、全体の地形に対しては、実は下っている錯覚のラインがいくつもあるんだから!』
私は周囲のなだらかな遠州の丘陵を見回した。どこを基準にしても、自分の水平感覚が信じられなくなるような、名門コース特有のうねりがそこにあった。
(見た目は上りだけど、本当は平坦か、それとも下りなの? でも、どう見ても坂道だよ?)
目の前の視覚情報と、葵ちゃんの言葉が、私の脳内で激しく衝突する。経験のない私の感覚は、どうしても目の前の坂道という見た目の情報を優先してしまった。
「ちょっと……気持ち弱めに打てばいいのかな?」
アドレスの瞬間、迷いが指先に伝わった。等速で振るべきパターの軌道が、インパクトの瞬間、迷いが過剰な出力となり、ほんのわずかにボールを押し出してしまった。
その瞬間、私は自分の目が信じられなくなった。
上り坂を登っているはずの白球が、まるで見えない重力に引っ張られるかのように、着実に、そして異様な滑らかさで加速を始めたのだ。葛城の完璧に仕上がったベントグリーンは、迷った私のタッチを一切許してくれなかった。転がりは一向に衰えない。カップの横をサラリと通り過ぎ、そこからさらに1メートルほど滑り続けてようやく止まった。
「嘘……止まらない! あんなに弱く打ったのに!」
これが、お父さんと鉄平さんがプレハブの中に特注のグリーンを作って、練習の6割の時間をパッティングに割かせた理由だった。ドライバーでどれだけ異次元の初速を出そうが、大人たちが狂わされるほどの数字を叩き出そうが、この僅かな狂いがすべてを無に還す。
返しのパットは、今度は完全な見た目は下り、実際は上りのライン。狂った感覚のまま放ったパットは、今度は完全に打ち切れずにカップの手前でボールが力なく止まってしまった。結局、3パットを叩き、私はこのスターティングホールをダブルボギーとした。
ティーショットで320ヤードを飛ばし、ギャラリーをあれほど沸かせたのに、結果はダブルボギー。ゴルフというスポーツにおける、ショットとショートゲームのアンバランスさが、私の胸にじわりと冷たい教訓を残していった。
◇
2番ホールは、山名コースの洗礼とも言える、短いながらも罠の張り巡らされたパー4だった。距離は私の使うティーからだと当日のピン配置も含めて290ヤード。ティーイングエリアに立った瞬間、お父さんとの事前ミーティングが頭に浮かんだ。
『由依、あの2番は短い。ドライバーでは飛びすぎるから1番アイアンを持て。そしてグリーンは周囲より一段高い位置にある砲台グリーンだ。縦の距離はトラックマンで計測した通り、1番アイアンと同じだ。絶対にピンはデッドに狙うな。いいな、グリーンの真ん中の、一番広いエリアにきっちり乗せることだけを考えろ。葛城の硬いグリーンでも、真ん中の受け傾斜がしっかり球を受け止めてくれるはずだ』
プレハブでの作戦会議で、お父さんはホワイトボードのコース図に力強く矢印を書き込んでいた。
ここでは1番ホールでの猛烈な10mのアゲインストとは打って変わり、ティーイングエリアには左斜め前方への追い風――フォローが吹き抜けていた。しかし直前の1番ホールで、完璧に打ったはずのアプローチで大ショートする悪夢を経験したばかりの私の頭は、その状況認識が歪んでしまっていた。
(1番はアゲインストのせいで全然届かなかった。今度はフォローだけど……。アプローチと違って、私のスティンガーなら、風の影響を受けずに低く真っ直ぐ飛ぶんだから、風のことを気にしすぎるとまた届かなくなるかもしれない。ピンがあるのも少し奥だから、狙って打てば、多少風に吹かれてもグリーンが球を受け止めて、近くで綺麗に止まるんじゃないかな?)
1ホールでの失敗を引きずる、初心者特有の歪んた判断。私はバッグから異質な輝きを放つクラブを引き抜いた。ロフトが絶望的なまでに立った、ただの鉄の塊。肉厚マッスルバックの
その瞬間、後ろの組でティーを待っていた高坂舞さんが「え……?」と短く息を漏らしたのが分かった。1番ホールで私の320ヤードスティンガーを見て唖然としていた彼女だったが、今度は私が手にした番手を見て、自分の目を疑っているようだった。
同伴競技者たちも、甘えを一切許さない、鬼のようなスペックのアイアンを平然と取り出した私を見て、目を見開いて慄いた。
(女子中学生が、ガチのマッスル1番アイアン……?)
そんな周囲の凍りついた空気を置き去りに、私はアドレスに入り、迷わずその鉄塊を強振した。
バシィィィン!!
とてもアイアンとは思えない、鼓膜を震わせる爆音が山名の森に木霊した。放たれた打球は、中1の女子が放ったとは到底信じられない超高速のライナーとなり、手前のバンカーの遥か上空を突き抜けて、一直線にグリーン方向へと向かった。
「アイアンで、290ワンオン狙い……っ!?」
舞さんの、驚愕を通り越して戦慄に近い呟きが背中に届く。打球は私の狙い通り、290ヤード先の砲台グリーンへと寸分の狂いもなく正確に――向かっていった。
受け傾斜に落とせば、グリーンが球を受け止めてピンそばに止まるはず――そう目論んでいた私を、自分自身の規格外のパワーと、葛城の物理が嘲笑う。
空気を切り裂く低空ライナーと言えど、猛烈なフォローのせいで想定よりも遥かにキャリーが伸びてしまったのだ。受け傾斜で勢いを殺すはずが、その斜面を飛び越え、夏の太陽でカチカチに引き締まったグリーン奥へとダイレクトに着弾してしまった。
白球は止まるどころか、硬い床に投げつけられたスーパーボールのように低く鋭く跳ね、球足を一切死なせないままグリーンを猛然と縦断。そのままカラーを飛び越え、奥へと転がり落ちてしまった。
砲台の裏側は、顎の高さが私の腰ほどもある急斜面だった。そこからのアプローチは、力加減の全く分からない私にとって地獄だった。ウェッジを軽く振ったつもりでも、球は砲台グリーンの急坂を登りきった途端、カチカチのベントの上を滑るように通り過ぎ、今度は手前のエッジへと転がり落ちる。そこから慌てて打ち返せば、また元の崖下へ。
結局、グリーンを何度も往復する羽目になり、このホールは痛恨のトリプルボギー。1番アイアンで290ヤードのグリーンを飛び越えるほどのパワーで同伴競技者を絶望させながら、その後のショートゲームの未熟さで自滅する。付け焼き刃の力加減では通用しない、名門・山名コースの本当の恐ろしさを、私はその身で味わっていた。
さらに、続く3番ホール、パー5。ここでも私のスティンガーは火を噴き、360ヤード先のフェアウェイど真ん中をとらえた。残り距離は、ロングホールであるにもかかわらず、わずか80ヤード。
まだ2打目地点――残り240ヤード付近にいる同伴競技者たちが打つのを待つ間、足を止めた私は、すでにバッグからSWを抜いて握りしめていた。
「う、嘘でしょ……パー5で、中一の女の子がセカンドをサンドウェッジで狙うなんて……」
隣で2打目の準備をしていた女の子が、絞り出すような驚愕を隠せない様子で呟いた。ゴルフの常識を完全にへし折るような異次元の光景を前に、彼女たちが呆然と立ち尽くしているのが分かった。
(……ダメだ。風の影響が読めなくて、1番ホールみたいに高く上げて戻されたり、2番ホールみたいに低く打っても球の勢いが強すぎて裏まで突き抜けちゃう。もう、私の初心者頭じゃ分からない。パパの言う通りに、ど真ん中を狙って低く打とう)
手痛い失敗を経て、私はようやく自分の浅知恵を捨てた。ピンや風のことは一旦無視して、お父さんが、とにかく一番広くて安全なグリーンの真ん中を狙え、と教えてくれた通りに、素直に低く抑えるショットを選択した。
私のヘッドスピードでウェッジをフルスイングすれば、スピンがかかりすぎて真上に吹き上がってしまう。だから私のウェッジショットの基準は、お父さんに叩き込まれた、弾道を低く抑え込むノックダウンショットだ。SWでグリーンの真ん中を狙って低くラインを出せば、風に流されてもグリーン内には落とせるはずだった。
――けれど、じわじわと募る焦りが、私のスイングの出力を狂わせた。
抑え込む意識が強すぎたせいで、インパクトの瞬間に必要以上にロフトが立ってボールに激突したのだ。
放たれた白球は、80ヤードの距離をあざ笑うかのように突き抜けていった。グリーンの真ん中を狙ったキャリーはそのままグリーンを丸ごと飛び越え、奥のラフへダイレクトに着弾してしまった。
(なんで……!? パパの言う通りに、一番安全な真ん中を狙ったのに、加減が効かなくて飛びすぎちゃうよ……っ!!)
一人きりのコースの中で、じわじわとパニックが膨れ上がっていく。そこからなんとかグリーンに乗せたものの、今度は山名コース特有の、複雑怪奇なポテトチップス状のうねりの前に完全に立ち往生した。
右に曲がると思えばコブに弾かれて左に流れ、上りだと思って打てば、目に見えない傾斜で果てしなく下っていってしまう。カチ、コン、カチ……と、気がつけばプレハブの特訓が嘘のような、まさかの4パット。大チャンスのはずのロングホールで、私は結局、ダブルボギーを叩いていた。
もちろん、苦難はそれだけでは終わらなかった。6番ホールでは、ティーショットがわずかに右に流されて、顎の深いガードバンカーへと捕まってしまった。サラサラとした白い砂の中に、ボールが半分ほど埋まっている。
私は部室での鉄平さんの熱い指導を思い出した。
『由依ちゃん、砂の抵抗っていうのは、球を直接打つんじゃなくて、球の周りの砂ごとホームランさせるつもりで、思いっきり振ればいい! お前のパワーなら、少々砂を多く取ったって、ヘッドが砂に負けて止まることなんて絶対ねえからな!』
感覚派の鉄平さんらしいアドバイス。私はスタンスを広く取り、足を砂に深く埋めて体を安定させた。そして、ウェッジを大きくバックスイングし、ボールの少し手前の砂を目がけて、思いっきり腕を振り下ろした。
エクスプロージョンショット。
バシィンッ! と激しい砂煙が舞い上がり、砂の塊と共にボールが空へと飛び出した。私の圧倒的なパワーは、砂の強烈な抵抗をものともせず、ヘッドを綺麗に振り抜かせていた。ボールはバンカーの顎を軽々と超えた。
――が、力任せに振り抜いた打球はあまりにも勢いが良すぎた。ボール自体はバンカーを抜けたが、高速グリーンの上を猛スピードで転がり、そのまま反対側にある別のバンカーへと吸い込まれていった。
「うそ、またバンカー……!?」
次のバンカーからは慎重に出したものの、そこからのパットも葛城の目に見えない複雑な傾斜に完全に裏切られ、結局このホールだけで+4のクアドラプルボギーを叩いてしまった。付け焼き刃の技術と規格外のパワーは、制御できなければただの凶器にしかならない。冷酷な現実が、私のスコアカードを真っ赤に染めていく。
その後も、遠州灘から吹き付ける強烈な横風にラインごと押し流されてのOBや、あるいは強烈な追い風に乗って信じられないほどランが伸びすぎての突き抜けOB、そして高速グリーンでの4パットを連発。信じられないほどの飛距離で周りを震撼させる瞬間はあっても、その後のショートゲームで自滅するという最悪のサイクルを繰り返した。
前半のアウトコースを終えた時点でのスコアは、大叩きがズラリと並び、終わってみれば、54。
初めての本番、しかもこの猛烈な風と難セッティングを考えれば、ゴルフを始めて数ヶ月の初心者としてはこれでも大健闘と言える数字なのかもしれない。しかし、ここが全国を見据えるジュニアたちが集う、競技ゴルフの世界である以上、その数字はあまりにもお話にならない冷徹な現実を、ジワジワと私に突きつけ始めていた。
◇
後半のインコースに入っても、私の苦戦は続いていた。
370ヤードのビッグドライブで誰もが届かないフェアウェイへと球を運んでも、次の一打で距離感が合わずにグリーンを大オーバーし、深いラフからのアプローチでミスを重ねてボギーやダブルボギーを叩く。どれだけ飛ばそうと、次の一打のミスが致命傷になるというゴルフの罠に、私は完全に嵌まっていた。大叩きを必死に食い止めようとするものの、技術のなさは隠しようがなく、スコアは無情にも膨らんでいった。自分の無力さが、私の心を少しずつ摩耗させていった。
そんな中、15番ホールで前の組を待つ間、私はひとつ手前の、14番グリーンでプレーしている高坂舞先輩の姿を、ティーグラウンドの上から見つけた。私は思わず、足を止めて彼女のプレーを凝視した。
舞先輩は、まさにゴルフの教科書そのもののスタイルで、この凶暴な山名コースと美しく戦っていた。彼女のティーショットの飛距離は、私よりも100ヤード以上も手前の、わずか220ヤードそこそこだ。中学生女子としては十分に飛んでいる方だが、私の大砲を見た後では、どこかささやかで、慎重な球に見える。
しかし、彼女のゴルフには、一切の無駄と、一切の迷いがなかった。
強烈なアゲインストが吹くホールでは、決して無理をして距離を稼ごうとはせず、フェアウェイの中で最も風の影響を受けにくい、安全なルートへと確実に球を刻んでいく。深いラフやバンカーといった、スコアを崩す致命的な罠を、事前の
そして何より、私が何度も手を焼いたグリーン上において、彼女は完全にその場を支配していた。舞先輩はグリーンの上に立つと、まず周囲の山並みとグリーンの傾斜を立体的に見比べ、それからボールの後ろに静かにしゃがみ込んで、指を立てて風の強さと芝の傾きを測る。その表情には、一切の焦りも動揺もない。
一定の、機械のように正確なパッティングルーティン。アドレスに入り、2回、静かに、メトロノームのような一定のリズムで素振りを繰り返す。そして、呼吸を完全に同調させ、パターを振り抜く。
――コン。
静かで、肉厚な、気品のある打球音。
放たれたボールは、目の錯覚を誘うマウンテンエフェクトをあらかじめ完璧に計算に入れられた、完璧な
「ナイスバーディ」
舞先輩の同伴競技者から思わず声が漏れる。舞先輩は表情を一つも変えることなく、優雅な動作でカップからボールを拾い上げ、次のホールへと歩き出していった。
それは、幼い頃から手のひらの皮を何度も剥き、毎日何百球、何千球と地道な練習を積み重ね、スコアカードの数字を削り出すことだけに全神経を注いできた者だけが持つ、圧倒的な職人としての格の違いだった。ただ遠くへ飛ばすだけの、私の大雑把なゴルフとは、生きている次元が違う。
舞先輩は、ティーイングエリアで立ち尽くしている私に向けて、キリッと冷徹な、しかし一人のゴルファーとしての誇りに満ちた視線を投げかけてきた。
(これが、本物の競技ゴルフよ。思い知りなさい、如月由依)
彼女の視線が、無言のままそう語っているようで、私は悔しさに唇を強く噛み締めるしかなかった。同時に、私の胸の中に、ただ遠くへ飛ばせて楽しいというだけではない、この緻密なゲームを完全に攻略してみたいという、新しい種類の高揚感が芽生え始めていた。
◇
18ホールがすべて終了し、容赦ない真夏の日差しがようやく西の空へと傾き始めた頃。アテストエリアの横にある、巨大なスコアボードの前に、私たちは集まっていた。
私の体は、これまでに経験したことのないような疲労感でクタクタになっており、クラブを握り締め続けた手のひらには、鈍い、脈打つような痛みが残っていた。ボードの前に立つと、すでに多くの選手や保護者が集まり、一喜一憂の声をあげていた。
私は、自分の名前が書かれた白い紙を探し、その横に刻まれた数字を目にした。
【如月由依 OUT 54 / IN 51 / TOTAL 105】
全ホールダボペース――108切りこそなんとか達成したものの、ゴルフ初心者の実力をそのまま突きつけられたような数字。 私たちの出場した、中学女子B(中学1年生の部)のボードの上位にズラリと並ぶ、70台や80台前半の数字の群れを見た瞬間、私の胸にはただ一つの冷徹な現実だけが突き刺さっていた。
勝ち上がりも、上位入賞特典もない、ただの一発決勝の地方大会。だから次のステージに進むためのカットラインなんてものは、この数字の横には存在しない。
――けれど、もしこれが、全国へ繋がる本物の予選会だったとしたら。
(……予選落ちだ、私)
全国を見据えて戦う本物のジュニアたちのハイレベルな世界において、この105という数字は、箸にも棒にもかからない、戦いのスタートラインにすら立たせてもらえない無惨な脱落を意味していた。どんなにドライバーで飛ばし、ギャラリーの度肝を抜こうとも、ショートゲームの技術が皆無で、グリーン上での小さな読みのミスや大叩きが、そのアドバンテージをすべて、それ以上に吹き飛ばしていたのだ。数字という冷酷な現実の前に、私の大砲は、まだ完全な無力だった。
「……ごめんね、由依ちゃん。不甲斐ない結果になっちゃった……」
隣で総合スコアボードを見上げていた葵ちゃんの声が、小さく震えていた。私はハッとして葵ちゃんの顔を見た。いつも天真爛漫で、どんな時も私を引っ張ってくれた最高の相棒。そんな葵ちゃんは、スコアボードの数字を見つめたまま、その大きな瞳から涙が零れそうになるのを、必死に堪えていた。
カットラインが存在しないこの大会では、純粋に今日の1ラウンドのスコアがそのまま結果として刻まれる。だからこそ、そこに突きつけられた現実の数字は、あまりにも冷酷だった。
葵ちゃんの名前の横に刻まれていた数字は――82。
強烈なアゲインストに耐え、泥臭くパーを拾い続けた、中一としては十分に立派な数字だ。しかし、そのすぐ上に張り出されていた、別部門である中学女子A(中学2・3年生の部)のスコアは、生きる次元が違っていた。
私たちに格の違いを宣言していった高坂舞先輩が73。そして、そのさらに頂点、ジュニア界の絶対女王として君臨する神代玲奈先輩の名前の横には――プロ顔負けの67という異次元の数字が、不敵に刻まれていたのだ。
そして、私の名前の横にあるのは、ギャラリーをどよめかせた320ヤードのドライブとは裏腹に、グリーン周りの往復と高速グリーンに翻弄され、大叩きを繰り返した結果の数字――105。
「部室でお父さんたちに、私がトップレベルのゴルフを見せて引っ張っていくって約束したのに……。達也さんに最高のクラブを、言い訳のできない環境をもらったのに、私、結局こんなスコアしか出せなかった」
彼女の手は、最新の、特別仕様のクラブの重みを思い出すように硬く握りしめられていた。舞先輩との差は、9打。ラウンド前に、経験者として私に格好よく、一打の重みを説いたはずの彼女が、今はその重みに押し潰されそうになっている。
その姿を見て、自分の105という無様な数字と、頂点の67という圧倒的な数字を交互に見つめた瞬間、私の胸の奥が、今までに一度も感じたことのないような、得体の知れない強烈な感情でギチギチと締め付けられた。
悲しいんじゃない。ただ、猛烈に、狂おしいほどに悔しいのだ。あんなに頑張ってきた葵ちゃんが、自分の不甲斐なさとトップ層との圧倒的な実力差に泣いている。そして私自身も、その高い壁の遥か下に沈んでいる。
「……素晴らしいショットだったわよ、如月由依」
不意に、私たちの後ろに長い影が差し込んだ。振り返ると、そこには見事に中学女子Aのリーダーボード上位に、その名を堂々と刻んだ高坂舞先輩が立っていた。
彼女の表情には、もう部室の時のようなどこか棘のある怒りはなかった。……けれど、最初のティーショットを見た時の怯えが完全に消え去ったわけでもない。そこにあるのは、一人の正統派のゴルファーとして、自分の聖域を侵しかねない異分子を冷徹に見据える、余裕のないプライドだった。
「あなたの放ったあの物理的な暴力には、正直、私のこれまでのゴルフ人生のすべてを否定されたような恐怖を覚えたわ。他の子が160ヤードそこそこまで戻されるあのアゲインストの中、1番ホールであの300ヤードをはるかに超える弾道を見た時、私は自分の努力がバカらしくなって、涙が出そうになった……本当に、不愉快極まりないわ」
舞先輩は、自分の綺麗な指先を強く握り締めながら、静かに告白した。
「でも、ゴルフというスポーツの神様は、ただ球を遠くへ飛ばすだけの人間には、絶対に微笑まないの。緻密なマネジメントなきショットも、山名特有の巧妙なうねりを読めないパッティングも、この高速グリーンの前ではただの無謀な行為でしかない。それを、今日の18ホールで十分に思い知ったでしょう? あなたのゴルフは、確かに粗削りで強烈だけど、まだこのゲームの本当の深さに達していないわ。基礎すらまともに出来ていない、ただの、……ただの未熟者よ」
先輩の言葉には、どこか早口で、必死に何かをまくし立てるような余裕のなさが混ざっていた。その頑なな態度は、私への決別というより、彼女自身が自分はまだ負けていない、あんなものはまだゴルファーですらないと、己のプライドを繋ぎ止めるための、必死の防壁のように見えた。
「風間も、今回は残念だったわね。でも、あなたの実力はそんなものじゃないはずよ。次、また私と同じステージに上がってくるのを待っているわ」
舞先輩は葵ちゃんの肩を優しく、けれど力強く一度だけ叩くと、再び私に視線を戻した。その瞳には、ギラリとした拒絶と、それ以上の焦燥が混ざり合っている。
「如月。もしあなたが本当に悔しいと思うなら、その大砲のトリガーを引くだけの頭を鍛えなさい。精度も何もない105なんて数字を出しているうちは、私と同じ場所に立っているなんて絶対に認めない。お話にならないわ。本当の頂点がどれほどの高さにあるのか、あの数字を見て、その目に焼き付けておくことね」
舞先輩が美しい指で指し示したのは、スコアボードの最上段。文字通り、他のジュニア選手たちとは完全に切り離された、雲の上の聖域に君臨する、たった一つの名前と数字だった。
【神代玲奈 OUT 33 / IN 34 / TOTAL 67】
2位の選手(通算72)に、影すら踏ませない圧倒的な5打差。
この凶暴なアゲインストの突風を完全にいなし、ガラスのようにカチカチの高速グリーンと視覚を狂わせる複雑怪奇なアンジュレーションを、まるで最初から答えを知っているかのように完璧に攻略してみせた、絶対的な女王のスコアが、そこには冷然と輝いていた。
「神代さんは……あなたたちとは、いいえ、私とも、生きている次元が違うのよ」
舞先輩の声には、深い諦念と、それでもなお、いつかあの絶対的な壁を打ち破るのだという、ゴルファーとしての狂気にも似た執念が混ざり合っていた。
「機械のような精密なゴルフ、長年の経験に裏打ちされた完璧なマネジメント。あの領域に辿り着けない限り、どんなに球を遠くへ飛ばそうが、私たちはあの人の足元に泥をかけることすらできないわ。……じゃあね。私は先に失礼するわ」
舞先輩はそれだけを言い残すと、夕暮れのクラブハウスの向こうへと、足早に去っていった。