スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
じっとりとした湿気を含んだ真夏の夜の空気は、昼間の猛烈な酷暑の余熱をそのまま残し、肌にまとわりつくようだった。
標高の高い御殿場とはいえ、8月の上旬ともなれば日中の日差しは容赦なく地面を焼き焦がす。陽が落ちてなお、アスファルトや芝生の奥からは、日中に蓄えられた熱気が陽炎のように立ち上っているのが分かった。
夜の9時。地元の練習場『グリーンヒル御殿場』は、すでに一般の営業時間を終え、周囲の打席の照明はすべて落とされていた。普段はアプローチやパッティングの練習用として使われている天然芝のグリーンエリアにだけ、特別な許可を得て、移動式投光器が放つ青白い光が照射されている。
その光の輪の中に、私たち――御殿場第一中学校ゴルフ部の面々は集まっていた。
「……うう、夜なのに全然涼しくない。ウチ、このままここで干からびちゃいそう……」
マネージャーの紡ちゃんが、ハンディファンを首元に当てながら早くも死にそうな声をあげていた。
手元のスマートフォンで動画の編集をしたり、部活の共有アドレス宛ての連絡を処理したりしてくれているのだろう。画面のバックライトに群がる小さな羽虫を、彼女は「しっ、しっ」と鬱陶しそうに追い払っている。
「ぶつぶつ文句言う割には、めっちゃ真剣に動画撮ってくれてるよね、紡ちゃん」
葵ちゃんが、水滴のついたペットボトルを紡ちゃんの頬にピタッと押し当てた。
「ひゃんっ!? つめたっ! あー、葵ちゃんマジ天使。生き返るわ……。っていうかさ、ウチ、由依のスコアが105って聞いたときは、何かの間違いかと思ったんだからね? 化け物みたいな球打ってるやつがだよ? しかも帰ってきたときの由依、目は真っ赤だったし。ゴルフのことはまだ勉強中だけどさ、このまま由依がシュンとしてるのはなんか違うじゃん。だからウチにできることくらいは、いくらでも付き合ってあげるよ」
紡ちゃんがボトルを受け取り、ごくごくと喉を鳴らして水分を補給する。
陽キャのノリ。だけど、東京からやって来た常識外れの力を持つ私が、初めて味わった深い挫折の暗闇。そこからなんとか引っ張り上げてやりたいという、紡ちゃんなりの不器用な友情とマネージャーとしての責任感が、この過酷な夜間練習に彼女の足を留めさせていたのだろう。
そんな二人の微笑ましいやり取りを横目に、私はといえば、パターを両手で握りしめたまま、足元の芝生をじっと見つめていた。
――通算105。
たった2日前、葛城ゴルフ倶楽部で行われた、ヤマハCUPのスコアボードに刻まれたその数字が、今でも私の網膜の裏側にべっとりと張り付いて剥がれようとしない。
東京にいた頃の私は、体を動かすことであれば、少しコツを教わればすぐに人並み以上にこなすことができた。何をやらせても、最初から涼しい顔でトップ集団に君臨しているのが、私にとっての当たり前だったのだ。
けれど、初めて挑んだ競技ゴルフの公式戦は、そんな私が無意識に持っていた、傲慢なまでの自尊心を、根本から木っ端微塵に打ち砕いた。
10mの強烈な向かい風を切り裂き、同伴競技者やギャラリーの度肝を抜く320ヤードのドライブを打ったときは、胸がすくような快感があった。高坂舞さんが私の弾道を見て、驚愕していた瞬間は、確かに私が主導権を握っているはずだった。
なのに、ひとたびグリーンという迷宮に足を踏み入れた途端、世界のルールは完全に反転した。
私が放ったボールは、まるで意思を持った生き物のように、数ミリ、数センチの差でカップをすり抜け、あるいは傾斜に弄ばれて奈落の底へと転がり落ちていった。打っても、打っても、直径わずか10.8センチメートルの穴は、私のボールを拒絶し続けた。
結果としての、105打。
『由依、お前がプレハブで重ねてきた練習と、本物のコースの芝は、質が違う。データ上のミリ単位の正確性も、あのうねる葛城の高速グリーンを攻略するには……まだ、圧倒的に経験が足りていない』
試合後の夜、お父さんが淡々とそう口にし、隣で鉄平さんが首肯していた。
二人を責める気持ちなんてなかった。彼らが用意してくれた練習環境は、ゴルフを始めたばかりの私にとって、最高の武器だったはずだ。だけど、初めて足を踏み入れた、競技コンディションのグリーンで、あの直径10.8センチメートルの穴にボールを拒絶され続けたあの感覚は、どんなシミュレーションデータにも載っていなかった。
だから私は、あの夜、お父さんと鉄平さんの前で生まれて初めて頭を下げて、ねだったのだ。
――お願い。私に、本物の芝で、生きたグリーンで練習させて、と。
大人たちは、娘の、そして教え子の切実な要求を否定しなかった。
新設されたばかりの弱小ゴルフ部には本来許されない、一般営業終了後の、本物の天然芝グリーンを使った夜間特訓。お父さんと鉄平さんが、会社や地元のツテをフル活用して練習場のオーナーを説得し、奔走して、投光器まで持って来てくれた。
大人たちにそこまでさせておいて、手ぶらで帰るわけにはいかない。本物の芝というリアルな戦場に、私は自分の意志で足を踏み入れたのだ。
「由依、顔が怖いぞ」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返るとお父さんが、手元にいくつかの精密な器具を抱えて立っていた。その隣には、作業着の袖をまくった鉄平さんもいる。
「パパ……」
「悔しいか」
「……うん。すごく、悔しい。私、こんなに悔しいと思ったの、生まれて初めて」
私はパターのグリップを握る手にぐっと力を込めた。手のひらには、ドライバーを振り抜いたときの爆発的な熱ではなく、どこか冷や汗を伴うような、ジリジリとした渇きが残っている。
「がはは! いいじゃねえか、由依ちゃん!」
鉄平さんが、私の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫で回した。
「その悔しさが、ゴルファーを本物にするんだよ。ただの力自慢の素人から、本物の勝負師に変わるための脱皮の瞬間だ。なあ、達也兄ィ?」
「ええ、その通りです、鉄平くん。一度叩き折られたプライドから生まれる渇きは、何よりも強力な燃料になります」
お父さんは眼鏡のブリッジを指先で押し上げると、投光器の光が当たるグリーンの中心へと歩み出た。その手には、ゴルフ用のトレーニングギアが握られている。
「さて、由依。よく聞きなさい」
お父さんの声が、ビジネスのプレゼンテーションのときのような、低く理知的で、一切の妥協を許さないトーンへと切り替わる。
「2日前のヤマハCUPにおいて、由依がグリーン上で大叩きしたのに対して、高坂舞さんが73というスコアを出した理由。それを、お前はどう分析している?」
私は即座に答えた。
「高坂さんのパットは……なんか、魔法みたいだった。狙ったところにすっと吸い込まれて、まるで磁石でも入ってるみたいに外れないの。私はどんなに真っ直ぐ打ったつもりでも、ボールが勝手に右や左に曲がっていっちゃうのに」
「魔法、か。なるほど、初心者らしい情緒的な表現だ」
お父さんはフッと小さく笑い、地面に一本の、
「だが、ゴルフにおいてオカルトは存在しない。高坂舞さんのパッティングがあれほど決まったのは、彼女が魔法使いだからでも、呪いを使っているからでもない。彼女が、グリーンの上で展開される物理現象を、誰よりも精密に計算し、味方に付けているからだ」
「物理現象?」
「そうだ」
お父さんはさらにポケットから一球の白いボールを取り出すと、それを指先で弾いて見せた。
「パッティングとは、極めて単純な算式によって導き出される物理の結晶だ。ボールがカップに入るかどうかを決定づける要素は、大別して二つしかない。一つは
お父さんは、レーザー式のポインターをグリーン上に設置し、スタンドピンに向けた。赤いレーザーの直線が、暗闇の芝生の上に鮮やかに浮かび上がる。
「由依、お前はドライバーでヘッドスピード64を出す。それは素晴らしい天賦の才だが、その強大なエネルギーを出力するための肉体は、パッティングというミリ単位の操作において、現時点ではまだ精度が足りていない」
「精度……?」
「そうだ。トラックマンのデータを確認したが、お前のパッティングストロークは、インパクトの瞬間に手首の微小な痙攣、あるいは無意識の当てにいく操作によって、フェースの面が平均して1度から1.5度、毎回ランダムにズレている」
「たった1度?」
私が首を傾げると、お父さんは鋭い視線で私を射抜いた。
「いいか由依。ゴルフのカップの直径は10.8センチ。ボールは4.27センチだ。……お前はたった1度と言ったが、その1度のズレは、2メートル先のカップに届くまでに、どれだけの誤差を生むか分かるか? 数学上、お前の球はカップの縁を掠めもせず、無慈悲に外側を通り過ぎるんだ。お前が葛城で外しまくったあのパットは、全部その1度に殺されたんだよ」
お父さんの冷徹なロジックに、私は言葉を失った。
370ヤードを飛ばす私のスイングは、ほんの少しのズレも無く、圧倒的なパワーと推進力でねじ伏せてしまう。しかし、この平らで静かなグリーンの上では、そのわずか1度の狂いが、致命的な死の宣告となるのだ。
「だからこそ、まずは徹底的にスクエアなストローク、すなわち、狙った方向へ寸分の狂いもなくボールを打ち出すための機械の身体を作らねばならない」
お父さんはそう言うと、私の足元に二本のスティックを並べ、その間にパターのヘッドがギリギリ通るだけの狭いレールを作り、その後方にトラックマンを設置した。
「手首を使うな。五角形に構えた両腕と肩のラインを固定し、背中の大きな筋肉――腹斜筋と僧帽筋の連動による振り子の動きだけでストロークしろ。由依、お前の余計な出力をすべてカットし、純粋な位置エネルギーの移動だけで球を転がすんだ」
お父さんの指導に続いて、それまで黙って聞いていた葵ちゃんが、一歩前に踏み出してきた。彼女の表情もまた、いつになく真剣だった。
「由依ちゃん。達也さんの言う真っ直ぐ打つ技術がパットの第一歩だとしたら、第二歩目は……その真っ直ぐを、どっちに向けて打つかっていうチェスの世界なんだよ」
「チェス?」
「うん」
葵ちゃんは自分のパターを持ち、グリーン上の、激しく波打っているエリアへと移動した。
「高坂さんのパットが吸い込まれるように見えたのはね、彼女がグリーンの傾斜を完璧に立体として頭の中で計算して、カップの手前でボールがどういう軌道を描いて曲がり落ちるかを、完全に逆算して打っているからなの。ゴルフのグリーンは、ただの平らな芝生じゃない。目に見えない無数の網目が敷き詰められた、立体的なチェス盤なんだよ」
葵ちゃんは、投光器の光の下で、芝生の表面を指差した。
「パッティングでラインを読むときに必要な要素は、主に三つ。1、グリーンの全体的な
「富士山からの目?」
「そう。霊峰富士の裾野にあるゴルフ場はね、山頂がある方向から、麓の方向に向かって、目に見えない巨大な水の流れに沿うように芝生が激しく傾いて生えているの。これを順目って言うんだけど、見た目が上り坂に見えても、富士山から吹き降ろす芝目のせいで、実際はめちゃくちゃ速い下りパットだったりする。高坂さんはジュニアの時から、この複雑な複合ラインを頭に徹底的に叩き込んでる。だからパットに一切の迷いがないの」
葵ちゃんは、スタンドピンから約3メートル離れた、右から左へと大きく傾いているスライスラインの上にボールを置いた。
「いい、由依ちゃん。高坂さんみたいな一級のゴルファーはね、カップを見ない。彼女が見ているのは、ボールが坂を登りきって、スピードを落とし、重力に負けて曲がり始めるポイントなの」
葵ちゃんがアドレスに入る。お父さんの言った通り、手首は完全にロックされ、肩の振り子だけで静かにパターが振られた。
コツンという、小気味よい、けれど驚くほど静かなインパクト音が夜の闇に響く。
放たれたボールは、ピンの右側、およそ30センチメートルも外れた方向へと滑り出していった。一見すると、完全に狙いを外した大ミスのようだった。
紡ちゃんが「あ、外れた――」と声をあげそうになった、その直後だった。
上り傾斜を進んでいたボールが、みるみるうちに速度を落とし、最高点に達したその瞬間、ボールはまるで透明な糸で引っ張られたかのように、ふっと左側へと軌道を変えた。
そこからは、驚くほど滑らかな曲線だった。
速度を失いかけたボールは、傾斜の坂を文字通り、転がり落ちるようにして、じわじわとピンへと近づいていく。そして、あたかも最初からそこに行くことが運命づけられていたかのように、ピンのど真ん中に入り、コン、と根本の足に当たって止まった。
「うそ……今の、あんなに右に打ったのに、入るの!?」
紡ちゃんがスマホのカメラを構えたまま、信じられないというように目をごしごしと擦った。
「これがグリーン上のチェスだよ、由依ちゃん」
葵ちゃんはパターを収め、私に向き直って微笑んだ。
「ボールの速度が速いうちは、傾斜の影響をあまり受けずに真っ直ぐ進む。でも、速度が落ちれば落ちるほど、重力と傾斜に引っ張られて、急激に曲がり始めるの。つまり、どれくらいの強さで打つかによって、ボールが描く曲線の形は、何通りにも変化する。高坂さんは、その無数の曲線の中から、その日のグリーンの速さに合わせて、ただ一つの正解のルートを、頭の中のチェス盤で瞬時に弾き出しているの。……これが、彼女の魔法のパットの正体だよ」
物理ロジック、そして立体的な計算。
お父さんと葵ちゃんから次々と繰り出される未知の概念が、私の脳の中で、激しい火花を散らしながら融解を始めていた。
――なるほど。そういうことだったんだ。
私は、自分の胸の奥で、何かがカチリと噛み合う音がしたのを感じた。
今まで、私にとってゴルフのグリーンとは、ただの運任せの、ややこしい芝生の塊に過ぎなかった。どこに打てばいいのか分からず、何となくの感覚だけで適当に転がしては、外れていくボールにイライラを募らせるだけの場所。
でも、それは違う。
ここには、明確なルールがある。物理の法則がある。幾何学的な設計図が、確かに存在しているのだ。
「由依、次はお前の番だ」
お父さんが、新しいボールを私の足元に転がした。
「パパの教えたスクエアなストロークで、葵ちゃんの教えたラインの頂点へと、正確な速度で球を打ち出してみろ」
「……うん。やってみる」
私は、お父さんが作ったアライメントスティックのレールの間にパターをセットした。
先ほど葵ちゃんが打ったのと同じような、3メートルのスライスライン。
アドレスに入り、前傾姿勢をとる。すうっと深く息を吸い込み、吐き出す。周囲の音が遠のいていく。
投光器の青白い光が、グリーンの芝生の一本一本を鮮明に照らし出している。
私は、じっと目を凝らした。
私の脳が、東京にいた頃から無自覚に発揮していた、天性の空間把握能力が、急速にギアを上げていく。
私は子供の頃から、3Dの立体パズルを解くときや、テニスやバドミントンでシャトルがどこに落ちるかを予測するとき、頭の中で奇妙な映像を見ていた。空間の距離感、物体の速度、そしてそこに働く重力のベクトルが、まるで3次元のCGのグリッド線のように、視界の中に自動的に描かれる感覚。
その空間把握能力が、今、葵ちゃんの授けてくれたロジックという火薬を得て、一気に爆発した。
視界が、変わる。
ただのうねった芝生の塊だったグリーンの表面に、目に見えない無数の細かい
富士山のある方向からの芝目の向きが、矢印の群れとなって脳内を駆け巡る。
右側の傾斜の度合い、芝の摩擦抵抗、そして重力の引っ張る強さ。
「……そこだ」
私の目が、スタンドピンの右側、およそ25センチメートル外れた虚空の、一点にピタリと固定された。
そこが、ボールの速度が落ち、重力に負けて曲がり始めるポイント。
次の瞬間、私の脳内で、ボールの転がるシミュレーションが凄まじい速度で完了した。
ボールの初期速度をこれくらいに設定して、あのポイントを通過させれば、そこから重力のベクトルがこう働いて、ボールはこう落ちる。
ピンから逆算された球が通るべき唯一のルートが、まるで暗闇の中に発光する一本の太い光の帯のように、グリーンの上に鮮やかに幻視された。
うねる複合ラインの中に、空間を切り裂くようにして現れた、一本の、透明な直線。
「ターゲットは、ピンじゃない。あの、光の線の入り口――」
私は手首の力を完全に抜いた。お父さんに言われた通り、五角形に構えた両腕のフレームをガチリとロックする。ヘッドスピード64を出すための筋肉は、今はすべて、そのフレームを寸分違わず静止させるための強固な城壁として使われていた。
使うのは、背中の筋肉だけ。
テークバック。パターヘッドが、スティックのレールの間を、1ミリのブレもなく静かに上昇していく。
トップ。位置エネルギーが最大に達する。
そして――重力に任せるようにして、ダウンストロークへ。
コツン。
それは、私のゴルフ人生の中で、最も小さく、最も肉厚で、そして最も無機質なインパクト音だった。
フェースの向きは、完璧にゼロ度。狙った透明な直線のド真ん中を、パターの芯が狂いなく射抜いていた。
放たれた白球は、レールの隙間から滑り出し、私が脳内で幻視した光の帯の上を、寸分の狂いもなく転がり始めた。
「あ……!」
打席の後ろで、葵ちゃんが短く息を呑む音が聞こえた。
ボールはピンを完全に無視して、右側の何もない空間へと進んでいく。しかし、その速度の減衰具合は、私の脳が計算した通りのパーフェクトな減速Gを描いていた。
ピンの右側、25センチメートルの頂点に達した瞬間――光の道の出口。
ボールの推進力が重力と完全に釣り合い、次の瞬間、ボールはふっと綺麗に左側へと舵を切った。
そこからは、美しい曲線だった。
青白い投光器の光を浴びながら、白い球は、傾斜の坂を滑るようにしてピンへと向かっていく。遮るものは何もない。芝目の抵抗も、私の計算の中にすべて織り込み済みだ。
ボールは、ピンの右側から滑り込むようにして――。
コン。
夜の練習グリーンに、小気味よい音が鳴り響いた。
「やった……!」
私がパターを握ったまま小さく呟くと、後ろの大人たちの空間が、一瞬にして凍りついた。
「おいおいおい……達也兄ィ、今の、見たかよ……?」
鉄平さんが、顎が外れそうなくらいに口を開けて、お父さんの顔を覗き込んだ。
「ええ……見ました、鉄平くん。フェースの管理、ストロークの再現性、そしてなにより……あのラインの読み。由依、お前、今、何を見て打った?」
お父さんが、驚愕を通り越して、どこか恐怖すら感じさせるような目で私を見ていた。
「ええと、パパに言われた通りに真っ直ぐ打っただけだよ? ただ、葵ちゃんが教えてくれたみたいに、頭の中でグリーンの形を計算したら……なんか、ボールが通るべき透明な一本の道が、芝生の上にハッキリ見えた気がしたから、そこに向かって転がしただけ」
「透明な、道だと……?」
お父さんは絶句し、手元のiPadの画面を確認した。そこには、私のストロークデータが表示されていた。フェース角のズレ、0度。驚異的なスクエアストロークの数字が、そこに冷然と浮かび上がっていた。
「マジかよ、由依ちゃん……」
鉄平さんが呻くように声を出した。
ふと見ると、葵ちゃんが自分の両腕をぎゅっと抱え込むようにして、じっと私を見つめていた。青白い投光器の光の下で、彼女の腕にはゾクゾクと鳥肌が立っている。
いつも優しくゴルフを教えてくれる彼女の瞳が、見たこともないくらい力強く、鋭く光っていた。さっき教えてくれた『グリーン上のチェス』の正解を、私がたった一回で打ち抜いて見せたからだろう。自分の教えたロジックを私が完璧に再現できたことが、経験者の葵ちゃんにとっても、息を呑むくらい衝撃的だったのかもしれない。
葵ちゃんは自分の腕を強く抱きしめたまま、言葉を失ったように微動だにしない。
その瞳の奥で青く揺れる熱い光を見て、私は胸の奥が誇らしさでいっぱいになった。葵ちゃんが本気で教えてくれたから、私はこの未知の扉を開くことができたのだ。
「……なんかさ」
静まり返った空気の中で、紡ちゃんがぽつりと呟いた。スマホの画面を見つめながら、彼女はいつになく真剣な表情で、私と、動画の中のボールを見比べていた。
「今の由依のパット、なんか見てて鳥肌たったわ。普通のスポーツのシュートとかとは、全然違うじゃん。なんて言うか……チェスの天才が、何十手も先を全部読み切って、最後にチェックメイトって言って駒を置いたときみたいな……そんな冷たさがあったよ」
「チェスの、チェックメイト……」
私は、自分の右の手のひらを見つめた。
ドライバーを打ったときの、あの世界が弾けるような爆音と、絹豆腐を切り裂くような滑らかな快感。それとは全く違う、静かで、冷徹で、けれど確かに世界の真理を一つ支配したかのような、ゾクりとするような新しい手応えが、私の指先に残っていた。
「よし、由依」
お父さんが、再び真剣な、しかしどこか誇らしげな表情で私の前に立った。
「今の感覚を、偶然で終わらせるな。お前が見たその透明な直線は、まだ脳が作り出した一時的な幻影に過ぎない。肉体が、ストロークの物理に完全に馴染んでいなければ、次の球はまたすぐにブレる。まずはパッティングのストロークの中に、完全に、かつ完璧にコントロールするための土台を叩き込むぞ」
「おうよ! 俺も付き合うぜ! 夜はまだまだこれからだからな!」
鉄平さんがガハハと笑いながら、新しいボールのパッケージを手に取った。
「由依ちゃん、私も、もう一回ラインの読み方、一緒に付き合う。今度は、もっと難しい、2段グリーンのフックライン、やってみよう」
葵ちゃんはどこか自分に言い聞かせるような熱を込めて、いつも以上に力強い笑顔を私に向けてくれた。
「うん、おねがい、葵ちゃん。私……もっと知りたい。このグリーンの上の、チェスの勝ち方を」
私はパターを再び強く握り直し、投光器の青白い光の中、敷き詰められた芝生の海へと視線を落とす。
完璧な直線を目指す私のゴルフに、今、新しい武器が加わろうとしていた。
投光器の青白い光に照らされた暗闇のグリーン。芝生の一本一本の抵抗を脳内で計算し、勝利への一本の道を指先に叩き込んでいく。
来たるべき秋の戦場へ向けて、私のゴルフは今、より深く、より鋭く研ぎ澄まされていくのだった。