スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
8月の夕暮れ。富士の裾野に位置する御殿場の空は、都会のそれとは比べものにならないほど広く、そして燃えるような茜色の残光を引いていた。
日中の猛烈な暑さが嘘のように、高原を吹き抜ける風には涼しさが混ざり始めている。ここグリーンヒル御殿場の贅沢な屋外アプローチエリアからは、遠くそびえる富士山の雄大なシルエットが影絵のように浮かび上がっていた。
「よし、この距離からのアプローチ動画の撮影はこれくらいにしとこ。由依、葵、夕方になって風も変わってきたし、一回水分補給しなよ」
ウチ――小野寺紡が、達也おじさんから頼まれたデータを記録していたiPadを、トントンと叩きながら声をかけた。
すると、瑞々しい天然芝の上でウェッジを構えていた如月由依と、少し離れたバンカーの縁で風を読んでいた風間葵が、同時にびくりと肩を揺らした。
「あ……うん。ありがとう、紡ちゃん」
由依はボトルを受け取って喉を潤すと、すぐにまた愛用のウェッジを持って、また別のポジションからアプローチ練習を始めた。まだ練習をやめる気はさらさらないようだ。
夏休み真っ真っただ中の今、彼女たちは、各自が家から直接このグリーンヒルに集まり、自主的な特訓を重ねていた。大人の目が届かないからこそ、自分たちの意志で時間を忘れ、ひたすらにボールを追いかける彼女たちの熱量は、どこまでも純粋で、そして圧倒的だった。
本来なら、由依の最大の武器はその異次元の飛距離だ。ヘッドスピード64m/sという、男子トッププロすら凌駕するパワー。すぐ横には、広大な220ヤードのドライビングレンジが広がっており、あそこに立てばいつでも周囲の度肝を抜くようなフルスイングができる環境だった。
しかし、今の由依はドライバーには目もくれず、ただひたすらにウェッジを短く持っている。
その理由は、先日に行われた、ヤマハCUP――静岡県ジュニアゴルフ選手権大会での挫折だった。
1番ホールのティーイングエリア、他の中学生たちがアゲインストの突風に翻弄される中で由依が放った320ヤードの超低空ライナーは、間違いなく現地のギャラリーとジュニア界の度肝を抜いた。あの瞬間、葛城の風は確かに由依によって切り裂かれていた。
けれど、ゴルフという競技は、一発の飛距離だけで勝てるほど甘くはない。
名門コースが仕掛けた冷酷な罠、氷のようなグリーン、探り探りのアプローチ。それらの前に、由依はなす術なく崩れ落ちた。
リザルトに残されたスコアは、無惨極まりない105。大叩きという言葉すら生ぬるい、文字通りの大惨敗だった。
試合後、クラブハウスの隅で、由依が手をギュッと握り締め、目を真っ赤にして今にもボロ泣きしそうな顔で立ち尽くしていた姿が、ウチの脳裏から離れない。
由依は悔しかったのだ。あの日、自分自身の不甲斐なさに、競技ゴルフのルールの中で何もできなかった己の無力さに、本気で胸を焦がしていた。
トスン。また一球、十数ヤード先のグリーンを目指して、ボールが放たれる。
ここグリーンヒル御殿場は、天然芝のフェアウェイや深いラフ、バンカーまでが美しく手入れされたプレミアムな練習施設だ。アプローチ練習では本番用のコースボールを使用することが出来る。由依は、数球のボールをセットしては打ち、グリーンへ歩いてそれを拾い集め、また元の位置に戻って構える――という地道な作業を延々と繰り返していた。
今の由依の腕前では、まだ狙った場所にきちんと球が集まるわけじゃない。距離感が合わずにピンをオーバーしたりショートしたりする。けれど、ミスをするたびに彼女は悔しそうに眉をひそめ、寸分の狂いもないアドレスを再現しようと愚直に体を動かしていた。
何セット目になるかも分からないその気の遠くなるような反復量は、すっかり汗で色を変えた由依のポロシャツの背中が、何よりも雄弁に物語っていた。
すっかり茜色の残光も薄れ、あたりに夜の帳が下りようとしていた。
「由依、きついなら、今日の練習はここまでにする? もうボールの落ちどころも見えづらくなってきただし」
ウチが改めて尋ねると、由依はウェッジを杖のようにして小さく息を吐き、首を振った。
「ううん、大丈夫。……私、もっと上手くならなきゃダメなんだ。飛ばすだけじゃ、コースの罠にすぐ捕まっちゃうから。アプローチもパットも全部覚えて、ちゃんと……普通のゴルフで、スコアを出せるようになりたいの」
その真っ直ぐな瞳の奥にある執念を、ウチは痛いほど感じ取っていた。由依は、あの完璧な女王の背中に無意識のうちに手を伸ばし、自分の未熟さと戦おうとしている。
そのひたむきな姿を見て、ウチは胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。由依は前を向いて、必死に牙を研ごうとしている。
だったら。
(マネージャーであるウチが、由依の足を引っ張るわけにはいかないじゃん……!)
ウチは胸元で、きつく拳を握りしめた。
◇
事の始まりは、8月のヤマハCUPに出場するための登録手続きだった。
KGA(関東ゴルフ連盟)への書類提出や、今後の外部からの連絡用として、ウチは『御殿場某所の中学ゴルフ部・公式窓口』という共有のメールアドレスを作成した。TikTokやInstagramのアカウント『【公式】御殿場某所の中学ゴルフ部広報』宛てに届くメッセージに対応するため、プロフィール欄にも、お問い合わせはこちら、としてそのアドレスを記載しておいたのだ。
春に軽い気持ちでアップした由依のスイング動画がバズって以来、ウチはSNSに届く怪しいDMや心ないアンチコメントを、由依の目に触れないよう必死に裏で消してブロックし続けてきた。引っ越してきたばかりの純粋な由依を、ネットの悪意から隠し通して守る。それが、勝手に動画を上げてしまったウチの責任だと思っていたからだ。
けれど――大会が終わって2日後のこと。新しく設置した公式アドレス宛てに届いたものは、ワケが違った。
(どうしよう……。SNSのDMならウチの独断でハネられたけど、これは由依個人への正式なオファーメールだし、マネージャーのウチが勝手に削除して捨てるわけにはいかないよね……?)
画面に並ぶのは、匿名住民の悪口ではなく、企業や団体を名乗る大人たちからの本気の熱量を帯びたビジネスメールだった。由依を守りたい一心で隠し通してきたが、部活の窓口を開いた以上、これ以上一人で抱え込むのは無理だと悟った。
「由依、最近由依宛に、なんかこんなメールが届いているけどどうする?」
ウチが意を決してスマホの画面を由依に向けると、アドレスの姿勢を解いた由依が、不思議そうにこちらを振り向いた。
「私宛て?……どんなメール?」
「うーん、なんかドラコンの大会に招待したいとか、特注のクラブを使ってみてほしいとか、そういう大人の人たちからの連絡がいっぱい」
由依は小さく小首を傾げ、少しだけ考え込むような表情を見せた。
「私宛てがそんなに届くなら、私も見れるように出来るかな? 何が来ているのか、一応知っておきたいから」
「あ、そっか。じゃあ、部活の共有アドレスだから、由依のスマホからでもアプリでログインすれば、同じメールボックスを見れるように設定するね。……でもさ、結構怪しいスパムとか、適当な勧誘も混ざってるから」
ウチは、由依の生真面目な性格をよく知っている。一通一通に真面目に対応して、今の貴重な練習時間を奪われるのは避けたかった。何より、かつて掲示板で見たようなコースじゃ通用しない、といった無責任な雑音メールを、傷ついている今の由依には絶対に読ませたくない。
だからこそ、ウチはマネージャーとして、新たな仕分けルールをその場で提案した。
「わかった、変なメールはウチが先に確認して消しとくから、整理済のところだけ見て」
「うん。ありがとう、紡ちゃん。じゃあそうするね」
由依はそう言って微笑み、自分のスマートフォンに共有アドレスの閲覧アプリを導入した。さっそくアプリを起動し、ウチが仕分けた整理済のフォルダを確認した由依の目に飛び込んできたのは、尋常ではない熱量を帯びて送られてきた件名の羅列だった。
『件名:【特別招待】〇〇ジュニアドラコン選手権・特待生枠のご案内』
『件名:【取材依頼】〇〇ドラコンマガジン・次号巻頭インタビューについて』
『件名:【製品提供】LD専用・超高弾性シャフトのご紹介』
『件名:【機材選定】ロフト角5度・ディープフェースヘッドのご提案』
由依は画面に並ぶ文字をしばらく見つめていた。
ドラコン。ドライビングコンテスト。ただ一発の飛距離だけを競う世界。
ヤマハCUPの一番ホールで、アゲインストの中320ヤードを飛ばした由依の実在が証明された瞬間から、その業界の大合唱が始まっていた。
けれど、その件名をスクロールしていく由依の表情は、どこまでも静かだった。嬉しそうな色は微塵もなく、むしろ困惑と、どこか冷めたような寂しさが混ざり合っている。
「……紡ちゃん」
由依はスマートフォンを胸の前に引き寄せ、ウチを見た。
「一応、これからも自分宛てにどんな連絡が来ているのかは確認するけど……。でも、今の私はこんなことしている場合じゃない、もっとゴルフが上手くなりたい」
由依は、まっすぐにウチの目を見つめて言った。
「……だから、こういう私のやりたいこととは違うようなメールは、紡ちゃんからお断りの連絡をお願いしてもいい?」
「……! うん、もちろん! 任せときなさいって!」
ウチは弾むような声で答えた。由依は自分でもメールを確認すると言ったけれど、彼女がアプリを開いたとき、怪しい勧誘に直接触れて、悩まされたり練習の邪魔をされたりするのは絶対に避けたかった。
だからこそ、ウチが事前にフォルダを綺麗に仕分けておいて、由依がいらないと判断したものは、ウチがすべて矢面に立って不参加の返信を打てばいい。それが、この弱小ゴルフ部の有能マネージャーとしての、ウチのプライドだった。
その時、由依のスマートフォンが短く震えた。ポップアップ通知の最初の数行に目を落とした由依の瞳が、パッと明るくなる。
「あ、お父さんからだ……! 今日の練習、場所が確保できたみたい!」
「今日の練習? 今朝早くから達也おじさんと鉄平おじさんが出かけてたのって、その場所探しの交渉だったの?」
「うん、そうみたい」
由依はメッセージアプリの長文を指先でスクロールしながら読み進めた。
「二人でグリーンヒル御殿場っていう練習場のオーナーさんのところに行ってくれてたんだって。私が葛城でルールもセオリーも知らないまま大叩きしちゃったから……一から本物の芝の上で練習させてもらえませんか、って」
「え? そのグリーンヒルって何? いつもの練習場と何が違うの?」
ウチが素朴な疑問を口にすると、由依はスマートフォンの画面に視線を戻し、そこに書かれている内容をなぞるように教えてくれた。
「ええとね……ただ打席が並んでるだけの練習場じゃないんだって。本物のコースと同じ天然芝のフェアウェイや深いラフ、バンカーまで手入れされた専用エリアがあるらしくて。しかも、本番と同じコースボールを使ってショートゲームの特訓ができるって書いてある」
「へー! 練習場なのに本物の芝生のグリーンがあるんだ! じゃあ、そこでアプローチとかパターを徹底的にやり直すってこと?」
「うん。……あ、ちょっと待って、まだ続きがある」
由依はさらに画面を下に送ると、驚いたように小さく息を呑んだ。
「お父さんたちが相談したらね、オーナーさんがすごく親切な人で……それなら他の一般のお客さんに気兼ねすることなく、じっくりルールを覚えながら練習してはどうですかって、今日の夜9時から、営業終了後の施設を丸ごと貸し切りで使わせてくれるって提案してくれたんだって」
「えっ、夜9時から貸し切り!? オーナーさん、めちゃくちゃ粋なことしてくれるじゃん!」
「本当に……!」
由依は嬉しそうに顔を上げ、確かな決意を秘めた目でウチを見た。
「お父さんが夜のグリーンで、私に一から全部叩き込むんだって。やることは山積みだけど、すごく楽しみ」
飛ばすだけの怪物じゃない。スコアを出すための普通のゴルフを、大人の温かい応援を受けながら身につけていくための夜間特訓。その記念すべき初特訓の、わずか数時間前。
ドラコン界からの猛烈なラブコールをウチという防波堤がすべてシャットアウトし、由依は本物のゴルフプレイヤーとしての第一歩を、静かに踏み出そうとしていた。
◇
数日後の夜、ウチの部屋。
ベッドの上に寝転がって、ノートPCとスマートフォンの二画面を交互に睨みつけていた。画面の青白い光が、不機嫌に歪んだウチの顔を照らしている。
スマートフォンに表示されているのは、いくつかのネット掲示板のログだ。
『現地で見たけど、如月由依とかいう奴、一番ホールだけ飛ばしてドヤ顔してたな。なおスコアは105www』
『動画でHS64とかイキってたから期待したけど、ただの一発屋じゃん。ゴルフなめてんの?』
「今に見てなよ、ネット弁慶の有象無象ども」
ウチは鼻で笑うと、画面をスワイプして容赦なくブラウザを閉じた。
4月に初めて動画がバズった時は、自分の見通しの甘さに恐怖して、由依への罪悪感で夜も眠れずに泣き明かした。けれど、今のウチは違う。葛城の難コースでボロ泣きするほど悔しがり、夜のグリーンで、一からショートゲームを叩き込んでいる由依の本気を特等席で見ているのだ。外野の無責任な雑音なんて、今のウチの心を1ミリも揺らせはしなかった。
だが――ノートPCの画面に目を移した瞬間、ウチの眉が、怒りでピキリと跳ね上がった。
画面にあるのは、今後の外部対応のために新設した部公式の共有メールアドレスの受信トレイ。そこには、由依の頑張りを根底から踏みにじるような、ドラコン業界からのあまりにも身勝手なスカウトメールが何通も届いていた。
『如月由依様。ツアーの未練など捨て、ドラコンの舞台へ羽ばたきませんか? パッティングやアプローチなどというちまちましたものは、貴女の才能の無駄遣いです』
『スコアが105であろうと一切気にする必要はありません。ゴルフのスコアなど凡人の計算です。飛距離こそが正義です』
「なんなの、この人たち……」
ウチの口から、低く冷たい声が漏れた。
ネットの住民が一発屋と叩く中で、彼らは由依の飛距離を全肯定してくれているように見える。けれど、それは由依の悔しさを完全に無視した、あまりにも失礼な言葉だった。
由依は今、105を叩いた自分の未熟さに涙して、普通のゴルフがもっと上手くなりたいと、夜のグリーンでパターを握りしめているのだ。それをちまちましたパットなんて無駄とは何事か。由依が前を向いて歩もうとしている泥臭い努力の道を、外側から勝手に否定しているのと何も変わらない。
「由依が本気で普通のゴルフを頑張るって言ってるんだから。大人の都合で勝手にジャンルを縛ろうとすんな……!」
激しい怒りと共に、ウチの目からすっと涙がこぼれ落ちた。けれど、これは後悔の涙じゃない。由依の本気を笑う大人たちへの、猛烈な憤りの涙だ。
ウチはパジャマの袖で力任せに涙を拭うと、キーボードを叩く指に力を込めた。
「由依には、前だけ向いて、もっと上手くなりたいってことだけ考えて欲しい……」
メールソフトの設定画面を開き、受信フィルターの構築を始めた。
件名に、「パットは無駄」「スコアなんて気にするな」といったような、由依の心を折るような言葉が含まれていた場合、即座に専用の保留・仕分けフォルダに自動格納され、由依のスマホには通知すら行かないようにシステムを書き換えていく。
「ウチが、絶対に余計な雑音なんか近寄らせない。良いものも悪いものも、由依に届く言葉は、まず全部ウチが検閲して、有能な盾になって守ってあげるから」
タチの悪いアンチコメントも、ズレまくったドラコン業界からの誘惑も、すべてウチがこの防波堤でシャットアウトする。
「よし、仕分けルールの構築完了……!」
エンターキーを強く叩き、ウチは不敵に微笑んだ。
マネージャーとしての、本当の実務的な戦いはここから始まるのだと、暗闇の中で確かな覚悟を決めていた。
◇
翌日、ゴルフ部の部室。
今日も由依と葵は、鉄平おじさんのハイエースでグリーンヒル御殿場へと向かい、パットとアプローチの特訓に励んでいる。達也おじさんも仕事の合間を縫ってそちらに合流し、パッティングラインの攻略を叩き込んでいるはずだった。
ウチはあえてグリーンヒルには行かず、一人で学校のプレハブ部室に残り、ノートパソコンの画面と格闘していた。
受信トレイの未仕分けフォルダには、今日もドラコン関連の団体や、マニアックなシャフトメーカーからのメールが数十件も溜まっている。
由依が自発的にフォルダを開いた時に、一瞬でも嫌な気持ちにさせないために。未読の件数が溜まって、精神的なプレッシャーにならないように。
ウチの任務は、メールが届いた瞬間に、中身を確認し、誹謗中傷や悪質な勧誘は由依の目に触れる前にゴミ箱へ叩き込み、正式なお誘いに関しては、由依が件名を見た後、一秒でも早く完璧な内容の拒絶メールを返信してアーカイブにぶち込むことだった。
「ウチのビジネスメール、舐めないでよね……」
ウチはふう、と息を吐くと、キーボードを叩き始めた。
まずは、あるドラコン団体からの、熱苦しい勧誘メールに対する返信。
『拝啓
〇〇協会 御中
平素より大変お世話になっております。
御殿場第一中学ゴルフ部マネージャーの小野寺です。
この度は、当部所属の如月由依に対し、大変熱烈なご提案および、ジュニアドラコン選手権への特別招待の打診をいただき、誠にありがとうございます。メッセージを拝見し、如月の飛距離に対して過大なるご評価をいただきましたこと、大変恐縮しております。
しかしながら、本人とも慎重に協議いたしました結果、誠に勝手ながら今回の素晴らしいご提案はお見送りさせていただきたく存じます。
如月は現在、先日の公式戦での結果を真摯に受け止め、自身に足りない基礎を習得することに、一分一秒の猶予もなく全身全霊を捧げております。アプローチやパッティングといった、地道なショートゲームの攻略こそが、現在の如月の進むべき道であり、本人も、もっとゴルフが上手くなりたいと強く願っております。
そのため、ドラコン競技への出場、ならびに普通のゴルフから離れるような選択肢は、私どもの目指す方針とは明確に異なっております。
貴協会が提唱される、飛距離至上主義の素晴らしさは理解しておりますが、私どもの目指す頂は、あくまで18ホールを最も少ない打数で回る、競技ゴルフのマスターでございます。
重ねて、機材提供のお申し出につきましても、現在は如月由依の父による厳密な物理計算に基づいたスペック選定を行っており、長尺シャフトなどは現状のスイングバランスを崩すリスクが高いため、受け取りを辞退させていただきます。
今後は、公式窓口へのこれ以上の勧誘、ならびに本人への直接のアプローチはお控えいただけますよう、切にお願い申し上げます。
末筆ながら、貴協会の今後の益々のご発展をお祈り申し上げます。
敬具
御殿場第一中学ゴルフ部マネージャー
小野寺紡』
「……よし! これで文句ナシ!」
ウチはエンターキーを強く叩き、送信ボタンを押した。
内容は、達也おじさんから教わった大人のビジネスマナーをベースにしつつも、後半部分には、普通のゴルフの基礎を舐めるな、達也おじさんの物理計算のほうが信頼できる、二度と送ってくるな、という強烈な拒絶を、これでもかと詰め込んである。
これを、届くメールすべてに対して、一通一通、内容をカスタマイズして打ち返していく。
ネットの掲示板に対しては、さらに泥臭い作業だった。一発屋といった、悪質な誹謗中傷の書き込みを見つけるたびに、運営に対して片っ端から削除申請と通報の処理を行う。
プレハブの部室の中は、冷房をつけているはずなのに、ウチの額からはじっとりとした汗が流れていた。
「ウチが動画を上げちゃったから……。だから、これくらいやらなきゃ、マネージャー失格だよね……」
キーボードを叩く音が、静かな部室に規則正しく響く。
それは、華やかなゴルフの表舞台からは決して見えない、けれど、一人の少女の夢を守るための、絶対に譲れない防波堤の構築だった。
「がんばるねえ、紡ちゃん」
不意に、部室の入り口から野太い声がして、ウチはびくりと肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこにはハイエースの鍵を指先で弄びながら、ニカッと豪快に笑う鉄平おじさんが立っていた。グリーンヒルでのアプローチ練習から、一足先に戻ってきたらしい。
「あ、鉄平おじさん……! びっくりしたじゃん、もう!」
「わりぃわりぃ。あまりにも集中してたからさ。ほら、差し入れ」
鉄平おじさんは、冷えたスポーツドリンクの缶をウチの机の上にコトッと置いた。缶の表面についた水滴が、ウチの熱を持った手のひらに心地よい。
「ありがと……。由依たちは? まだ練習?」
「おう、達也兄ィが付きっきりでパットの基本を叩き込んでるよ。葵の奴も、由依ちゃんに負けじとムキになって球打ってたわ。……で、紡ちゃんは何をそんなにバチバチにやってんだ?」
鉄平おじさんがPCの画面を覗き込もうとしたので、ウチは慌てて画面を腕で隠した。
「見ちゃダメ! マネージャーの仕事だから!」
「仕事って、紡ちゃんまだ中1だろ」
鉄平おじさんは苦笑しながらも、画面の端に見えた、お断り申し上げますの文字を見逃さなかった。地元の叩き上げゴルファーであり、フットワークの軽い彼は、ウチが何を背負い込んでいるのかを、瞬時に察したようだった。
「……ドラコンの連中か?」
鉄平おじさんの声から、いつもの冗談めかしたトーンが消え、少しだけ低くなった。
ウチは視線をそちらに向け、小さく、うんとうなずいた。
「……すごい送ってくるの。由依のスコアが105だったから、普通のゴルフは向いてないとか、ドラコンなら今すぐ世界に行けるとか。親切なフリして、由依の頑張りをバカにしてるみたいで、ウチ、どうしても許せなくて」
鉄平おじさんはパイプ椅子を引っ張ってきて、ウチの前にどさりと座った。そして、大きな手で自分の頭をがしがしと掻いた。
「なるほどな。あのなぁ、紡ちゃん。ドラコンの連中ってのはさ、基本、飛ばしに変態的な情熱を捧げてる奴らなんだ。だから、中1の女の子が葛城でアゲインストの中320ヤード飛ばしたってだけで、脳みそが沸騰しちまって周りが見えなくなってんだよ。悪気はないんだろうが……今の由依の心境にしてみりゃ、最高に空気の読めないお門違いだな」
「そう、それ! マジで空気読めてないの!」
ウチは、自分の悔しさを理解してくれる大人が目の前に現れたことで、堰を切ったように言葉をこぼした。
「由依はね、あんなに悔しがって、もっと普通のゴルフが上手くなりたいって頑張ってる。それなのに、スコアなんてどうでもいいとか、パットなんて地味なことしなくていいとか……そんな失礼な言葉、絶対に由依の目に入れたくないの。ウチが、あの動画を上げちゃったから……ウチのせいで、由依に変な雑音が届いちゃう……!」
ウチの瞳に、再び涙が溜まっていく。
そんなウチに、鉄平おじさんが少し呆れたような声で慰めの言葉をかけてきた。
「あのなぁ、紡ちゃん。ちょっと勘違いしてねえか?」
「え……?」
「動画を上げたのが紡ちゃんだからって、自分を責める必要は1ミリもねえよ。遅かれ早かれ、あの如月由依って怪物は、公式の試合に出た時点で、嫌でも世界に見つかってたんだ。初戦のヤマハCUPで、あの一番ホールの音を聴いた奴全員の脳みそが焼かれたんだからな。マスコミは良識があるから静かに見守ってくれてるが、ネットの連中やドラコンの奴らが黙ってるわけがねえ」
鉄平おじさんは、真面目な目でウチを見つめた。
「お前が動画を上げたから見つかったんじゃない。お前が動画を上げて、マネージャーとしてそこにいて、変なメールを仕分けてくれてるから、由依は今、あのドラコンの熱苦しい勧誘の長文を自分で読まされずに、練習だけに集中できてるんだよ」
「あ……」
「選手が前だけを向いて、余計な雑音に惑わされずに自分のゴルフを磨ける環境を作る。それが、本物のマネージャーの仕事だろ。紡ちゃん、お前が裏でその丁寧なお断りメールを送り続けて、防波堤になってくれてるおかげで、由依のゴルフは今、守られてんだよ。……大したもんだ。俺は、お前を最高のマネージャーだと思うぜ」
鉄平おじさんの言葉が、ウチの胸の奥に、じわじわと温かい熱となって染み渡っていった。
自分がやっていることは、ただの罪悪感からの泥縄の作業じゃない。由依の、あの真っ直ぐな夢を守るための、本物のマネジメントなんだと、初めて全肯定された気がした。
「……ウチ、最高のアシスト、できてる?」
「おう、バチバチにできてる。由依を次のステージへ連れていくためのロードマップの、一番大事な基礎工事をお前がやってんだ」
鉄平おじさんはニカッと笑い、更に言葉を続ける。
「だからよ、一人で泣きながら夜中にスマホいじるのはやめとけ。困ったことがあったら、俺や達也兄ィにすぐ言え。大人の汚い交渉や、法的な脅し文句の書き方なら、ビジネス最前線で戦ってる達也兄ィのほうが、よっぽどエグい文章書けるからな」
「ふふ……達也おじさんの本気のメール、絶対トゲがすごそう」
ウチは、ようやく涙を引っ込めて、小さく笑った。
◇
さらに数日後、8月中旬。
富士の裾野から吹き下ろす風を受けながら、ゴルフ部の面々はグリーンヒル御殿場での練習を重ねていた。由依のパッティングフォームの修正や、葵の風を読むアプローチ特訓など、やるべきことは山積みだった。もちろん、フルスイングの練習は禁止されたままだが、今の由依には、芝の上での地道な基礎練習こそが何より必要だった。
「由依、アドレスの時の右肩のライン、ほんの少し下がってる。パパの計算だと、そのわずかなズレがストロークのブレの原因になるぞ」
「うん、もう一回やってみる!」
屋外のグリーンエリアでは、達也おじさんの物理データに基づいた指導のもと、由依がパターを何度も動かしている。その奥では葵が私も頑張らないと、と持ち前の立体的なセンスで風を読みながらウェッジを構えていた。
ウチは窓からその光景を見つめながら、手元のスマートフォンを確認した。共有アドレスには、相変わらずドラコン界からの片思いのラブコールが止まらない。
由依が練習の合間に、タオルで汗を拭きながら屋内に戻ってきた。
自分のスマホの画面を開き、整理済のフォルダの中に新しい件名が並んでいるのに気づくと、彼女はいつものように、全く困った様子も見せずに、ウチの方を振り返った。
「紡ちゃん。今日も、なんかドラコンの人たちからいっぱい通知が来てるみたい」
「あー、またそれ? ウチが秒でバチバチのお断りメール送っとくから、由依は気にしなくていーよ!」
ウチがいつもの笑顔で親指を立てると、由依は心底安心したように、ふわりと微笑んだ。
「うん、お願い。……私、ドラコンのことはよく分からないし、今は普通のゴルフの練習で頭がいっぱいだから。もっと上手くなって、次の大会では絶対に予選を突破したい。だから、紡ちゃんがいてくれて、本当に助かる」
由依のその言葉には、1ミリの迷いも、外部の雑音に対する惑いもなかった。
中身を開けば、普通のゴルフなんて無駄だと書かれているかもしれないメールの山を、由依は紡ちゃんが処理してくれるから大丈夫と、全幅の信頼を寄せて完全に背景のノイズとしてスルーしている。
「任せときなさいって! 怪しいメールは一通残らずシャットアウトして、完璧な裏方仕事で支えてあげるから。二人は次の大会で、練習の成果を思いっきり見せつけてきて!」
「ありがとう、紡ちゃん」
由依は再び、力強い足取りで芝生の練習エリアへと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ウチはノートパソコンに向かい、慣れた手つきで、新しいお断りメールの作成画面を開いた。
ネットの海には、まだ無責任な嘲笑や、的外れな熱狂があふれている。
けれど、小野寺紡がここにいる限り、その泥に汚れた波が如月由依の足元を濡らすことは、絶対にない。
由依を、彼女が望む世界へと、一番綺麗なままで連れていく。そのための防波堤として、ウチは今日も、笑顔でキーボードを叩き続けるのだった。