スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
カツン――
硬質で心地よい乾いた打音。それがグリーンヒル御殿場のアプローチエリアで繰り返されていた。
夕暮れが迫り、富士山のシルエットが紫色のグラデーションに染まり始める10月中旬。涼しさを通り越して、肌寒さすら感じる御殿場の秋風が吹き抜ける中、由依が放ったウェッジの球は、綺麗な放物線を描いて20ヤード先のグリーンへと向かった。
夏の過酷な大会、そして地獄のようなパッティング特訓を経て、由依は確実にショートゲームの土台を掴みつつあった。課題だったパットの距離感や安定性は驚くほど向上し、スコアの底上げはできている。
しかし、今度は15から30ヤード程度の、グリーン周りのアプローチという、さらなる深い底なし沼が彼女の前に口を開けて待っていた。
「……うーん、やっぱりちょっと左かあ。スピンも思ったより解けちゃってる」
アドレスを解き、サンドウェッジを軽く地面についた由依が、不満そうに眉をひそめた。
今放たれた白いボールは、ピンの手前、約1.5メートルのところに着弾した。そこまでは完璧に見えた。しかし、そこからツツッと頼りなく転がり、最終的にはピンを2メートルもオーバーして止まった。
外から見れば、非の打ち所がない美しいスイングだ。大ダフリをするわけでもなければ、ホームランのようなトップをするわけでもない。アマチュアゴルファーが羨むくらいに、完璧に
なのに、狙った半径1.5メートルの円の中に、どうしても球が集まらないのだ。
「おかしいな……。パパ、今の悪くなかったよね?」
「ああ。当たり自体は完璧だ。ミート率はきれいに1.2台前半で揃っている。この距離のコントロールショットとしては、これ以上ない理想的な芯の喰い方だ」
由依の後方に設置された、最先端のレーダー弾道計測器『トラックマン』。その液晶画面を覗き込みながら、父でありコーチでもある達也が、厳しい表情で顎に手を当てた。
弱小の私立高校ゴルフ部であるはずの彼女たちの環境には、世界のトッププロが持つプライベートスタジオ並みの最新機器が揃っていた。由依の感覚だけに頼らず、すべてを数値化するためのデジタル環境がここにはある。
アプローチ練習を始めてからは、自分の体の動かし方と、感覚を一致させるのが先決だ、という達也の方針のもと、あえて封印してきた機器だった。だが、ここ最近、由依のアプローチの精度向上に明らかな停滞が見え始めたことで、達也はついにこの精密機械を由依の後ろに設置したのだ。
だが、その完璧なデータが、かえって奇妙な矛盾を浮き彫りにしていた。
「見てみなさい、由依。これが今のショットのデータだ」
達也に促され、由依はiPadの画面を覗き込む。
「当たる瞬間はすべてフェースの芯だ。ミート率の高さだけは、いつ見ても惚れ惚れする。だが――問題はその先だ。見てみろ、このブレ方を」
達也が画面をスクロールし、他の細かな数値を指し示す。
「……バラバラ、だね」
由依はぽつりと呟いた。
「そうだ。芯には当たっている。しかし、1球ごとにクラブがボールに衝突する角度とフェースの向き、ロフトの立ち方が、まるで別の人間が打っているかのように目まぐるしく変化している。だから打ち出し角もスピン量も全く一定しない。結果として、キャリーもトータルの飛距離も2、3ヤード単位で前後するんだ」
2、3ヤードの狂い。フルショットのドライバーなら誤差の範囲だ。しかし、ピンまで残り20ヤードの緊迫したアプローチにおいて、3ヤードのズレは、1パット以内に留まるか、留まらないかを分ける致命的な差になる。
「これだけ綺麗に芯で当たっているんだから、あと少し、あと少しだけ身体の感覚が噛み合えば、面白いくらいピンの根元に絡むようになると思うんだけど……」
由依の少し後ろで、自分のウェッジを抱えながら練習を見守っていた葵が、もどかしそうに口を開いた。葵から見ても、由依のインパクトは天才のそれだった。ダフリやトップの恐怖とは無縁の、恐ろしいほどのクリーンヒット。
「そうなんだよねえ、葵ちゃん。なんかね、自分の中では全部おんなじように振ってるつもりなんだけど……ボールがフェースから離れる瞬間、あっちに行ったりこっちに行ったり、勝手に遊んじゃう感じがするの」
由依は首を傾げながら、次のボールを足元から引き寄せた。
カン。
またしても小気味よい音が響く。今度は高く上がった。トラックマンの数値を見るまでもない。打ち出し角が高く、スピン量が跳ね上がった。今度はキャリーが足りずに手前のカラー部分で止まってしまった。
「あー、もう! なんで!?」
由依の口から、珍しく感情の乗った悔しそうな声が漏れる。
どれだけ球数をこなしても、その、あと少しの距離が縮まらない。
(当たっているのに、寄らない)
それは、ゴルフというスポーツが持つ、最も底知れない恐怖であり、孤独な焦燥感だった。どれだけ練習しても、どれだけ汗を流しても、結果が1ミリも努力に比例してくれない。暗闇の中で、手探りで出口を探しているような、息の詰まる足踏みが、冷たい秋の練習場を静かに支配していく。
「……達也兄ィ、ハイスピードカメラの方の動画、重ねてみたら良いんじゃねえか?」
それまで黙って横で缶コーヒーを飲んでいた鉄平が、口を開いた。
「ええ、鉄平くん。今、3球分のインパクト動画を同期させて重ねてみます」
達也はiPadを操作し、三脚で真横と正面に据えられた超高感度ハイスピードカメラの映像を呼び出した。1秒間に数千コマを撮影できるそのカメラは、人間の肉眼では絶対に捉えられないインパクトの一瞬を完全に解剖する。
画面上で、由依の三つのスイング動画が、半透明になってピタリと重ね合わされた。
「……おいおい、信じられねえな」
鉄平がコーヒーをすする手を止め、画面を凝視して低く唸った。
「これを見てくれ。バックスイングからダウンスイングに入るまで、頭の位置も、前傾角度も、腰のキレも、完全に1枚の絵のように重なっている。肉眼で異常が分かるわけがない。だが――」
達也が親指と人差し指で画面をピンチアウトし、由依の手首を大きく拡大した。
コマ送りの速度を極限まで落とす。インパクトの直前、ほんの数十センチの領域に入った瞬間だった。
「ここだ。手首を中心とした身体の使い方が、一定になっていない」
重ね合わされた三つの映像のうち、一つの映像の手首が、ほんのわずかに早く解け、それに伴ってフェースがわずかに上を向いた。もう一つの映像では、逆に手首がハンドファーストを維持したまま、フェースをやや左に向けてシャットに押し込んでいた。
普通のゴルファーであれば、これだけ直前で手首の動きが変われば、まともにボールを捉えることは出来ず、トップ、ダフリ、シャンクなどを起こす。しかし由依は、そのバラバラに動く手首の辻褄を、インパクトのまさに一瞬で合わせ、寸分の狂いもなくフェースの芯でボールを捉えきってしまっているのだ。
外から見れば不可解なコントロールの乱れだが、その実態は、由依の驚異的な身体能力と感覚が、インパクトの瞬間に毎回異なるパズルを解き明かしてしまっているがゆえの、恐るべき再現性の低下だった。
「当たりの強さは一定だ。だが、軌道の線が歪んでいる。インパクト付近で、平面上のスイング軌道――つまり左右のフェースの向きが、1球ごとにわずかにブレて遊んでいるんだろう」
達也は、データと映像から導き出した、指導者としての仮説を口にした。
「由依。ちょっと待ちなさい。技術的な矯正を入れる」
「うん、パパ。どうすればいい?」
達也は、キャディバッグから2本のアライメントスティックを取り出してきた。それを、由依の足元、打球方向に向けて真っ直ぐ地面に並べた。
2本のスティックの隙間は、ウェッジのヘッドが左右に数ミリでもブレれば接触してしまうほど、極限まで狭く設定された。
「即席の直線のレールだ。左右のフェースのブレ、軌道の乱れを物理的に強制シャットアウトする。由依、余計なことは何も考えるな。この2本の線の間を、ヘッドを真っ直ぐ通すこと。それだけを意識して打ってみろ」
「直線のレール……。うん、分かった。この線の間を、まっすぐ通せばいいんだね」
由依はその真っ直ぐな軌道を目でなぞり、素直に納得したように頷いた。
視界に提示された、物理的な檻、明確な境界線。
アドレスに入り、ゆっくりとウェッジを引いた。
コン。
「あ、ごめんなさい」
1球目。狭すぎるレールのプレッシャーからか、ダウンスイングでヘッドが右側のスティックに軽く接触した。当たりは薄く、球は弱々しく右へ転がった。由依の顔に困惑が走る。
「気にするな。ヘッドの通り道をその線の間だけに制限するんだ。集中しなさい」
カツン。コン。
2球目は芯で捉えたものの、フォロースルーで今度は左側のスティックを叩いた。
普通のジュニアゴルファーなら、これだけ狭いガイドを意識させられると、物理的な恐怖心から身体がすくみ、スイングの形そのものが崩れてダフリやトップの連発に陥る。しかし由依は、ぶつけながらも次の球へと平然とアドレスに入っていく。
(この線からはみ出しちゃダメ、なんだよね……)
前後を塞がれた直線のガイドを脳が認識した。だが、そう簡単にアジャストはできない。
3球目、4球目、5球目――。「コツン」「カンッ」と、由依のヘッドは幾度となくスティックに触れ続けた。時には右、時には左。
「うーん……やっぱり、まっすぐ引くのって難しいね」
汗をにじませながら、由依は何度もアドレスを直す。
しかし、何百球と繰り返すその果てしない試行錯誤の中で、ほんのわずか、本当にごくわずかだが、何かが変わり始めていた。
激しくスティックに衝突していた初期の数球に比べ、徐々にその接触が、カサッという微細なかすり傷のような音へと変化していく。完全にスティックに触れずに振れるわけではない。10球に1球、忘れた頃に触れずに通り抜けるスイングが混ざる――その程度だ。
「……ふう。ちょっとだけ、真っ直ぐの通り道が分かってきたかも」
由依が額の汗をぬぐいながら、少し疲れたように笑った。
「ほう、さすがだな由依ちゃん。これだけ何度もぶつけながらも、心が折れずに感覚を縮めてきやがる」
鉄平が感心したように笑い、自分の頭をかく。
「普通の奴なら嫌になってやめちまうか、怖がってまともに振れなくなるが、諦めずに線の間を探り当てようとする根性は一級品だな」
「ああ。まだまだ荒削りだが、軌道の線を意識させることで、大ハズレの球は確実に減ってきた。このままこのガイドの感覚を何日もかけて身体に染み込ませて、アプローチの型を少しずつ固めていこう」
達也もまた、自らのアプローチ指導が、少なくとも最悪のバラつきを食い止める方向性としては間違っていないことを確信し、満足げに頷いた。
劇的な変化ではない。ここからこの真っ直ぐな軌道が型として馴染むまでには、まだまだ果てしない反復練習が必要になるだろう。だが、由依の驚異的な適応力をもってすれば、このまま地道な練習を続ければ少しずつ精度は上がっていくはずだ。暗闇の中に確かな足がかりは見えた。今日の練習としては十分すぎる成果だった。
◇
練習を終え、水銀灯の白い光の下で、達也は片付けをしながらiPadのトラックマンデータをのんびりと見返していた。
ミート率に見合わない、極端なミスショットは消えている。ただ、データを細かく精査していくと、打ち出し角やスピン量の微細なバラつきが、完全に一定の数値に収まりきっていないことにも気づく。
(なるほど、左右の線を意識させることでスイング軌道の平面的なブレは抑えられた。ターゲットに対して真っ直ぐヘッドは動いている。だが、まだインパクト付近でのロフトの立ち具合やヘッドの上下の入れ方――つまり入射角とロフト角という、縦の次元のコントロールに細かなブレが残っているな)
だが、達也の心に焦りはなかった。むしろ、ここからの伸び代を前にして、ギア・理論オタクとしての探求心が心地よく刺激されている。
(今回は地面に置いた2本のアライメントスティック――いわば平面的な2次元のレールで軌道を縛った。初日でこれだけ形になるなら、上々の滑り出しだ。このまま反復練習を続けて基礎を固めたら……次はもう少しステップを上げてみるのも面白いかもしれないな)
達也の頭の中に、次のアプローチ特訓のアイデアが楽しげに浮かび上がる。
(左右の線だけでなく、ヘッドが通るべき高さを制限する上部のバーや、ゲートのようなものを組み合わせたらどうだろうか。左右だけでなく上下の逃げ道も物理的に狭める、3次元のガイド。空間そのものでスイングを囲ってしまえば、本人が無意識に手首をこねる余地すら完全になくなるはずだ)
「よし、由依。まずはこのレールの練習を徹底して体に覚え込ませよう。それができたら、パパが面白い秘密兵器を作ってみるから、試してみよう」
「秘密兵器? うん、楽しみ!」
夕闇が完全に練習場を包み込み、冷たい秋の風が打席を吹き抜ける中、如月親子は確かな手応えと、さらなる技術向上の見通しに胸を膨らませながら、楽しそうに荷物を鉄平のハイエースへと積み込んでいった。