スティンガーから極めるゴルフ――HS64を叩き出す無自覚少女、風を切り裂く低弾道でゴルフ界を無双する 作:スティンガー
「パパ、本当にここでいいの? なんだか、葵ちゃんの鳥カゴより、ずうーっと広いみたいだけど……」
土曜日の朝、御殿場の澄み切った青空の下。私は車の助手席から窓の外を見上げ、思わず声を漏らした。
目の前に広がっていたのは、緑のネットが遥か彼方の空まで伸びる、目の眩むほどに広大なゴルフ練習場だった。数日前、散歩の途中で葵ちゃんに出会ったあの小ぢんまりとした鳥カゴとは何もかもが違う。駐車場にはピカピカに磨かれた高級セダンやSUVがずらりと並び、車から降りてくる大人たちは、みんな一様に高そうなゴルフウェアに身を包み、仰々しいキャディバッグを肩に担いでいる。
「ああ、ここで間違いない。風間さん――鉄平さんから教えてもらった、このあたりでも一番大きな練習場だ。奥行きは優に250ヤードはある」
運転席でハンドルを握るお父さんの声は、いつになく低く、張り詰めていた。
水曜日の夜、ネックがあめ細工のようにひん曲がった葵ちゃんのクラブを手に、風間親子が我が家に乗り込んできて以来、お父さんの様子は明らかにおかしかった。
普通なら「中1の女子が7番アイアンを曲げたり、的を貫通して鳥カゴを壊すなんて、物理的にあり得ん」と笑い飛ばすところだろう。けれど、元ガチ体育会系でハンデ3の理論派ギアオタクであるお父さんは、初手から風間親子の説明を、戦慄とともに信用してしまっていた。 実物のひん曲がった鉄の棒をその手で掴み、鉄平さんからコンパネが割れた鳥カゴの惨状を聞かされた瞬間、お父さんの脳内のゴルフ回路は完全にショートしてしまったのだ。
それからの数日間、お父さんはリビングの片隅で夜な夜なパターマットに球を転がしながら、ぶつぶつと奇妙な呪文をつぶやいていた。
仕事の重要書類そっちのけで「軽量スチールの7番アイアンを、インパクトの衝撃だけで曲げるなど……構造的にどんな出力を出せばそうなる? 効率が100%を超えているのか? どんなミート率だ? それとも……」などと、昔のゴルフの技術書を本棚から引っ張り出しては読み耽っていたのだ。
そして今日。私のオーディションのために、お父さんはクローゼットの最奥から、普段のエンジョイ目的のゴルフでは絶対に使わない、埃を被った古いツアーバッグを引きずり出してきた。
中に収まっているのは、最新の優しいキャビティアイアンではない。お父さんが25年前、2000年前後の大学体育会系ゴルフ部時代に死に物狂いで振り回していた、小ぶりで肉厚な伝説の名器――『三浦技研』製造の、傷だらけのマッスルバックアイアンだった。
「由依。聞く話から考えると、そのお前のバグのような出力に、今の市販の軽いクラブや、ジュニア向けのシャフトでは耐えきれん。スイングの強烈なねじれに負けて、またクラブを壊すだけだ」
お父さんは車のエンジンを止め、真剣極まる表情でバックミラーを覗き込んだ。
「だが、パパが全盛期に使っていたこの重鋼のアイアン(ダイナミックゴールド X100)なら、お前の出力を受け止められるはずだ。パパは今日、一人の未知の怪物と対峙する。たとえ我が娘であろうとも、丸腰で臨むわけにはいかないんだ。……さあ、行くぞ」
私がまたクラブを壊しかねないと言うことで、今日はパパの古いクラブを借りて打つ。車を降りるお父さんの鼻息の荒さに私は首を傾げつつも、その背中についていった。東京にいた頃のお父さんは、大企業の新プロジェクト総責任者として、いつもスーツをパリッと着こなす、理性的でカタいおじさんだった。それが静岡に引っ越してきた途端、なんだか得体の知れない熱血ゴルファーに変貌しつつある。ゴルフって、大人をこんなに狂わせてしまうスポーツなのだろうか。
駐車場のエントランスへと進むと、自動ドアの前で、見覚えのある学校のジャージ姿の少女が元気に手を振っていた。
「由依ちゃん! こっちこっち!」
「葵ちゃん! おはよ!」
私は嬉しくなって小走りで駆け寄った。葵ちゃんは今日も、小柄な体に似合わない小さなキャディバッグを律儀に肩に担いでいる。
「おはよう、由依ちゃん! あ、如月のおじさんも、おはようございます!」
葵ちゃんが私の後ろに立つお父さんを見上げ、すっと背筋を伸ばした。その瞬間、葵ちゃんの大きな瞳が、お父さんの佇まいを鋭く値踏みするように動いた。
お父さんは引き締まった体を黒いポロシャツに包み、左手にはうっすらと日焼けの残るゴルファーの証を刻んでいる。そして何より、お父さんが肩に担いでいるタイトリストの硬派な本格キャディバッグと、そこからのぞく、2000年当時の重厚な三浦技研製マッスルバックアイアン。プロや一握りのトップアマしか使いこなせない重くて硬いスチールシャフトが、鈍い銀色の光を放っていた。
(な、何このお父さん……水曜日に家で会った時も硬派な人だと思ったけど、持ってきたギアのスペックがエグすぎる……! ガチの体育会系シングルプレイヤーのオーラがドバドバ出てるんだけど……!)
葵ちゃんが内心で激しく戦慄しているのが、私にもなんとなく伝わってきた。9歳からゴルフを叩き込まれてきた彼女にとって、お父さんが持ち出してきた、25年前の名器×鉄筋のような硬さのシャフト、という組み合わせが、いかに容赦のないガチ勢の遺物であるかは、一目で理解できたのだろう。
「あ、そうだ葵ちゃん! これ、はいっ!」
私が自分の背中側から差し出したのは、一本の7番アイアンだった。
水曜日に私がひん曲げてしまった、葵ちゃんのクラブ。それが、まるで新品同様の真っ直ぐなスチールシャフトに差し替えられ、グリップも新調されてピカピカに輝いている。
「わあ……! 直してくれたんだ!」
葵ちゃんが弾かれたように顔を輝かせ、両手で丁寧にそれを受け取った。アドレスを構えるように軽くワッグルし、嬉しそうに目を細める。
「うん、お父さんがすぐにショップに走ってくれたの。シャフトの種類とか、元のやつと完全に同じにしてくれたんだって」
「おはよう、葵さん。先日は本当にすまなかったね」
お父さんがすまなそうに、けれどどこか恐縮したように頭を下げた。
「スペックは風間さんから聞いて、同じシャフトで組ませた。バランスや重量も、元の状態に極力近づけてあるはずだ。もし振ってみて違和感があれば、いつでも言ってほしい。何度でも調整し直すから」
「ううん、ありがとうございます如月のおじさん! むしろグリップまで新しくなっちゃって、なんだか得しちゃいました!」
葵ちゃんは人懐っこい笑顔を咲かせ、お父さんの律儀な対応にすっかり恐縮のバリアを解いたようだった。だが、すぐにその視線が、再びお父さんのバッグへと戻る。
「ところで、鉄平さんは?」
「父なら、もう一階の打席で待ってますよ! 如月さん、それ……やっぱりDGのX100ですか?」
葵ちゃんが目を輝かせてお父さんのアイアンを指差す。
「ああ。今のなまった私では到底振れないが、由依のバグを検証するには、これだけの剛性が必要だと判断した。……とは言え、未だに脳の半分は君たちの言葉を疑ってもいるんだ。大学時代にハンデ3まで登り詰めた私だからこそ、中1の女子が7Iを折ったり、鳥カゴを破壊するということが理解できない」
「ハンデ3……! 片手シングルだったんだ……」
葵ちゃんはゴクリと唾を飲み込み、お父さんの言葉の重みに圧倒されたように頷いた。
「嘘じゃないです。おじさん、今日、その目で見てみてください。由依ちゃんが、どんな音を出して、どんな風に空気を引き裂くのか。……打席、一階の端の方を確保してあります。あそこなら、250ヤードまで看板が正面に見えますから」
「感謝する。案内してくれ」
お父さんと葵ちゃんは、まるで重要な機密取引を行うエージェントのような張り詰めた空気のまま、練習場のフロントへと歩き出した。私はその二人の背中を追いかけながら、なんだか、私だけ置いてけぼりだなぁ、と苦笑いするしかなかった。
◇
案内された一階の打席は、練習場の最も左端に位置していた。目の前には、どこまでも続くかのような緑の人工芝のフェアウェイが広がり、遠くの斜面には50、100、150、200、250という文字が書かれた、黄色い鉄製の看板が堂々とそびえ立っている。
朝の早い時間帯ということもあり、周囲の打席では、熱心な常連ゴルファーたちが静かに球を打っていた。
その中で、私たちの指定された打席のすぐ隣――一番端の特等席で、黙々とクラブを振っている一人の老人の姿があった。
白髪交じりの短い髪に、日に焼けて深く刻まれた皺。ヨレヨレのポロシャツを着ているけれど、その背筋は定規を入れたように真っ直ぐに伸びている。老人がおもむろにクラブを振り抜くと、
――パシッ。
という、極めて無駄のない、小さくも乾いた音が響いた。放たれた白球は、滞空時間の長い美しいフェードボールを描き、200ヤードの手前へ正確無比に落ちていく。
「……ほう」
お父さんが足を止め、その老人のスイングを凝視して小さく声を漏らした。
「無駄な力みが一切ない、完璧なボディターンだ。インサイドアウトの軌道から、インパクトの一瞬だけフェースを正確にコントロールしている。あの正確さ……おそらく地元の、ハンデ1か2、あるいは元アマチュアチャンピオンクラスの頑固な常連(シングル)だな」
お父さんのゴルフ脳による正確なプロファイリングに、葵ちゃんが小声で応える。
「そうなんです。あのおじいちゃん、いつもあの打席で朝から晩まで黙々と打ってて、常連たちの間では練習場の主って呼ばれてるんです。すごく気難しくて、下手な人が隣で騒いでると、もの凄い目でにらみつけてくるから、みんな怖がって近づかないんですよ……」
「なるほど、本物の職人か。邪魔をしないように静かに始めよう」
「おお、如月さん! 待ってました!」
お父さんがツアーバッグを置こうとしたその時、少し離れたベンチから、ガッシリした体格の男性が快活な声をかけて立ち上がった。葵ちゃんのお父さん――風間鉄平さんだ。作業着の上着を脱いだラフな格好で、人懐っこい笑みを浮かべている。
「風間さん、おはようございます。朝早くから打席の確保、ありがとうございました」
「気にせんでください! それより如月さん、こっちが無理言って修理をお願いしちまったのに、本当に速攻で仕上げてくれたんですね。さっき葵から聞きましたよ。わざわざグリップまで新品に挿し直してもらっちゃって、かえって悪かったですね」
「いえ、こちらの娘がご迷惑をかけたのですから、当然のことです。スペックの数値を教えていただけたおかげで、クラフトマンも正確に組むことができました」
「ハハ、いやぁ、さすが仕事が早い! これで葵のやつも大喜びで一安心です。本当にありがとうございます」
鉄平さんは笑ってパパの肩を叩いたが、次の瞬間、その視線がパパのキャディバッグ、そしてそこから覗くスチールシャフトのアイアンに釘付けになった。
「……いや、それにしても、そのバッグの中身。骨董品のマッスルバックに、シャフトは……ダイナミックゴールドのX100か、なるほどな如月さん、これを由依ちゃんに使わせるってことですね」
「ええ。先日のバグを検証するなら、これだけの剛性と重量がなければ彼女のインパクト効率に耐えられないと踏んでいます。……あなたも、認識に相違はないでしょう?」
「違いねえや」
鉄平さんは頭をガシガシと掻くと、納得半分、呆れ半分の苦笑いを浮かべた。 先日、葵が倉庫から引っ張り出して由依に握らせた自分の古いアイアン。それこそが、まさに今目の前にあるものと同じX100だった。
「確かに、コンパネをぶっ壊すような衝撃を受け止めきれるのは、この鉄筋くらいなもんですわ。……お嬢ちゃん、怪我だけは気をつけるんだぞ」
「はーい、ありがとうございます!」
お父さんは重厚なツアーバッグをスタンドに立てかけ、そこから一本のクラブを引き抜いた。25年前の伝説の名器、傷だらけの三浦技研製マッスルバックの7番アイアンだ。
「じゃあ、由依。今日はこれを使って、水曜日の再現をしてみなさい」
お父さんから手渡された鉄の塊は、受け取った瞬間、ズシリと適度な重量感を手のひらに伝えてきた。さっき返すまで握っていた葵ちゃんの軽いクラブとは明らかに違うけれど、嫌な重さでは全くない。むしろ、私の体幹の奥にある何かがこの質量を求めていたかのように、しっくりと馴染む、心地よい手応えだった。
「昨日の夜に話した通り、葵ちゃんに教わった通りの手順で、思いっきり振ってみるんだ」
「うん、わかった!」
私はのんきに笑いながら、打席の緑色のマットの上に立った。
お父さんと葵ちゃん、鉄平さんが、背後で息を殺して私の一挙手一投足を見つめている。すぐ隣の打席では、あの気難しそうな常連のおじいちゃんが、新しいボールをセットしてアドレスに入ろうとするところだった。
私は、直径4センチほどの白い球を視界に収め、葵ちゃんから教わった魔法の構えを一つずつ、頭の中で再現していった。
まずは、重いクラブをグリップの真ん中あたりで、指二本分ほど短く持つ。
次に、ボールの位置を、体の中心ではなく、右足の親指の前に来るように極端に右側にセットする。
最後に、手元の位置を左太ももの内側の前へと突き出す。肉厚で小さな鉄のヘッドが、ターゲット方向に向けて斜めにきゅっと傾き、ロフト角が限界まで押し潰される。
その形を作った、まさに次の瞬間だった。
「――っ!?」
背後で、お父さんが明らかに息を呑む気配がした。
お父さんの目には、私が今作ったアドレスが、どれほど異常な完成度を誇っているかが、恐ろしいほどの解像度で理解できていた。
大学時代の4年間、毎日何百球と球を打ち、鏡の前で血の滲むようなミリ単位の調整を繰り返し、社会人になってからも理想を追い求め続けた、あの完璧なアドレスの軸。
しかも、大人の男性でもへたばるほどの重量級シャフト『ダイナミックゴールド X100』の重量を、12歳の華奢な体が完全に手懐け、淀みなく静止させているのだ。
ゴルフを始めてまだ数日、コースのセオリーもルールも何も知らないはずの娘が、何気なく、完全に無自覚に、完璧な形で体現してしまっている。
足の裏から骨盤、脊椎、そして肩へと繋がる骨格の連動性が、地球の重力に対して寸分の狂いもなく一本の美しい直線として噛み合っている。アドレスの佇まいだけで、周囲の空気をピリリと張り詰めさせるような、圧倒的なスタビリティ(安定感)。それは、どれほど努力しても手に入らない、神様から与えられた天性の骨格を持つ怪物だけが、初手から放つことのできる異様なオーラだった。
(バ、バカな……。教えられてできる構えじゃない。ましてや、その細い腕でなぜX100の重量を完全にコントロールして静止できる!? 構えただけで、これから放たれる弾道の鋭さが予見できるほどに、淀みが一切ない。この子は、本当に私の娘なのか……!?)
お父さんの胸の中で、ゴルファーとしての理性が激しく警報を鳴らし、心臓が早鐘のように脈打ち始める。
そんな大人たちの戦慄など露知らず、私は「よし、あの黄色い看板を狙おう」と、野生動物のような純粋な集中力で白球を見つめた。
御殿場の冷たい風が、広大なフェアウェイを吹き抜けていく。正面からの強烈なアゲインスト(向かい風)。ネットが風に煽られて、バタバタと大きな音を立てている。普通なら、球が高く浮き上がって風に押し戻されてしまう、最悪のコンディション。
「ふーっ……」
私は小さく息を吐き出すと、ゆっくりとクラブを後ろに引き上げた。
驚くほど滑らかに、私の肉体という名の精密機械が駆動を始める。関節が何の抵抗もなく理想的なインサイドの軌道を描き、トップの限界点で、一瞬の静寂が訪れる。
次の瞬間、私の中の無意識のスイッチが、カチリと最大出力へと切り替わった。
――天性の純動力が、フルスロットルで爆発する。
左足の踏み込みから始まったエネルギーが、一瞬の遅れもなく腰の鋭い高速回転へと変換され、それに引っ張られるようにして、私の細い上半身が猛烈な速度で反転する。
遅れてやってきた両腕と、鉄筋のように硬く重い、25年前のマッスルバック。
私の卓越した空間把握能力が、右足の前に置かれた白球の赤道を、ミリ単位の精度で完全にロックオンしていた。短く持ったことでロフトが極限まで立った鉄のヘッドが、地面に触れる直前、時速にして男子プロをも置き去りにするような狂気的な速度のまま、ボールへと吸い込まれていく。
ズレない。ダフらない。シャフトのしなり戻りすら力でねじ伏せる、完全なる、ゼロ・ディスタンスのコンタクト。
――バシィィィィィンッッッ!!!!!
静寂を守っていた広大な練習場に、鼓膜を激しく引き裂くような、凄まじい破裂音が轟き渡った。
それは、ゴルフ練習場というのどかな空間で、決して鳴り響いていい音ではなかった。パシン、というアマチュアの軽い音でも、ペシッ、というジュニアの可愛い音でもない。
あまりの打撃音の凄まじさに、一階の打席にいた何十人ものゴルファーたちが、ビクリと体をごわつかせ、一斉に動きを止めた。すぐ隣の打席でアドレスに入っていたあの頑固なおじいちゃんにいたっては、あまりの爆音に驚いてスイングを途中で崩し、持っていたクラブを危うく取り落としそうになっていた。
放たれた白球は、上がらなかった。
地面からわずか1メートルほどの高さを維持したまま、地を這うような、信じられない超低空の弾道を描いていた。
いや、それは弾道という生易しいものではなかった。漆黒の闇を切り裂いて放たれた、目に見えないスナイパーのレーザー光線そのものだった。
超高速、かつ超低スピン。左右のブレが一切ない、完全なるストレート。
男子プロ以上のヘッドスピードと、鉄筋シャフトによって一切ブレることなくロフトを極限まで立てたインパクトが融合したことで、ボールは空気抵抗という概念を置き去りにしたかのように、直線的に加速していく。
「なっ――!?」
お父さんの口から、絶句に近い悲鳴が漏れた。
弾丸となった白球は、正面から吹き荒れるアゲインストの風の壁を、文字通り切り裂いて突き進む。普通のジュニア選手なら、風に押し戻されて失速し、ラフの手前で力なく落ちるはずの風。
しかし、私の放った球は、そのまま150ヤードの看板を越えて、グンと一瞬だけ、意思を持ったかのようにホップした。弾道が低いぶん、風の影響を最小限に抑えた球は、この強風だと、一般のアマチュアゴルファーがドライバーを死ぬ気で振り回しても滅多に届かない聖域へと、一直線に向かっていく。
その先にあるのは、黄色い鉄製の200の看板。
そのど真ん中に向かって、私の打った白い小さな球が、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
――ガキィィィィィンッッッ!!!!!
広大な練習場全体に、鋭く、そして重い、鉄同士が激突した破壊音が響き渡った。
200ヤード看板のど真ん中に、ダイレクトにボールが突き刺さったのだ。黄色い四角い鉄板が、激しく前後に揺れ、ガシャガシャと音を立てている。
コロコロ、と力なく地面に落ちていく白い影を見送りながら、私は頭の後ろまで綺麗に振り切ったフォロースルーの形のまま、ピタリと固まっていた。
手のひらに残っているのは、まるで上質な絹豆腐を鋭利なナイフで滑らかに切り裂いたかのような、抵抗が全くないほどの、最高の感触(芯の快感)だけだった。
「あ……」
私はゆっくりとクラブを下ろし、200ヤード先の看板を見つめた。まだ小さく震えている黄色い四角。
よかった。今度は地面を壊さずに、ちゃんとあの白い球に当たった。
「パ、パパ……? 今度はちゃんと当たったよ! あそこにある、200って書いてある看板まで届いたみたい。……ええと、パパの前での実演、これで合格……かな?」
私はいつもの調子で無邪気に笑いながら、小首を傾げて後ろを振り返った。
けれど、そこにいたお父さんは、私の言葉に答えるどころではなかった。
お父さんは両腕を組んだ姿勢のまま、彫刻のように完全にフリーズしていた。その顔からは完全に血の気が引いており、額には大粒の冷や汗がにじんでいる。
お父さんの目は、限界まで見開かれ、信じられないものを見たかのように小刻みに震えていた。その視線は、200ヤード先でいまだに揺れている看板と、私の白くて細い手首を、交互に何度も往復している。
「パパ……? どうしたの? 顔が真っ白だよ?」
声をかけても、お父さんはピクリとも動かない。
お父さんのゴルフ脳は今、目の前で巻き起こった、物理法則の完全な崩壊を前に、処理能力をオーバーして完全にパニックを起こしていたのだ。
(ダイナミックゴールドのX100だぞ……? プロやトップアマが全身の筋肉を動員して、ようやくしならせる重量級のスチールシャフトだぞ……!? 大人の男子プロが猛特訓をして、ようやく手に入れる7番アイアンの飛距離は、普通170ヤード。飛んでも180ヤードの世界だ。それを……ゴルフを始めて数日の、中1の、我が娘が……アゲインストの爆風の中、あの低い球で200ヤード先の看板にダイレクトでぶち当てるなど……)
しかも、あの弾道だ。
高く上げて風に乗せたのではない。風の壁を真っ向から破壊して突き進んだ、あの冷徹なまでの直線。あれは、全米オープンや全英オープンといった、世界最高峰のリンクスコースで、選ばれしトッププロ達が強風を無効化するために放つ、究極のノックダウンショット。
「スティンガー……。完全なる、スティンガーショットだ……」
お父さんは、手の震えを抑えるように自分の胸元をぎゅっと握りしめ、掠れた声でそう呟いた。その瞳には、大学時代の4年間の、血の滲むような努力、親父としてのプライド、そしてこれまでの人生で培ってきたゴルフの常識を、初手で軽々と超越していった娘への、圧倒的な絶望――そして、それを遥かに上回る、狂気的なまでの歓喜が燃え上がりつつあった。
「……マジかよ」
お父さんの隣で、同じように打球の行方を凝視していた鉄平さんが、顎が外れそうなほど口を開けて硬直していた。その肌には、びっしりと鳥肌が立っている。
葵ちゃんから話を聞いたときは、物証があったにしても半信半疑だったのだろう。だが、目の前で鳴り響いたのは、大人の男でもそうそう出せない、硬鉄がひしゃげるような破壊音。そして、中1の女の子がX100を完璧にしならせ、アゲインストを直線で引き裂いた現実。
「こいつの言ってたこと、1ミリも盛ってねえじゃねえか……。おい如月さん、あんたの娘さん、本当に何なんだよこれ……!」
鉄平さんはガタガタと体を震わせながら、フリーズしているパパの肩を激しく揺さぶった。
「おじさん、嘘じゃなかったでしょ!?」
隣で同じように呆然としていた葵ちゃんが、我に返ったように叫んだ。
「由依ちゃん、本当に打っちゃうんです! 重いクラブで、あの乾いた音を出して、200ヤードを直線でぶち抜いちゃうんです! これ、私の見間違いでも、世界のバグでもないんです。由依ちゃんは、本物の天才なんです!!」
「ああ……。間違いない。あなたたちの目は狂っていなかった。この子は……如月由依は、本物の、とんでもない天才(モンスター)だ……!」
お父さんの声が、興奮で激しく震え始める。
まさにその時だった。
「――おい」
低く、地を這うような、威圧感のある声が私たちの打席に響いた。
振り返ると、隣の打席で打っていた、あの気難しそうな常連の白髪のおじいちゃんが、持っていたクラブを床に放り出すようにして、こちらへと歩いてきていた。その顔は、普段の気難しい老人のそれではなく、まるで未知のUMA(未確認生物)を目の当たりにした学者のように、驚愕と戦慄で激しく引きつっていた。
「あ、あの、おじいちゃん……? 私、何か悪いことしちゃった?」
私はその迫力に圧倒され、思わず葵ちゃんの後ろに隠れた。おじいちゃんは私の前まで来ると、限界まで見開かれた血走った目で、私を上から下まで凝視した。
「おい、嬢ちゃん。今の音……今の弾道、狙って出したのか?」
「ええっ!? ね、狙ってっていうか、葵ちゃんに言われた通りに構えて、思いっきり振ったら、あそこまで飛んでいっちゃって……」
「嘘を言うな! 狙ってもいないのに、あんな球を出せるわけがない! あの肉厚な破裂音、そしてアゲインストを切り裂いたあのストレート……! おい、如月さんと言ったか。あんた、この娘にどんな英才教育を施してきたんだ!?」
老人は今度はお父さんの胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。お父さんは一瞬戸惑ったものの、同じシングルプレイヤーとしての敬意を込め、真摯に答えた。
「いえ、嘘ではないのです。この子は3日前、初めてゴルフクラブを握ったばかりの、完全な素人です。私も東京からこちらに赴任してきたばかりで、娘がこれほどのポテンシャルを秘めているとは、今の今まで知らなかったのです」
「バカな……! 素人が初めて芯を食ったくらいで、この風の中で200ヤード看板をダイレクトで叩けるか! しかも、その腕でX100のマッスルバックを完全に振り切っていただと!? 俺はな、この練習場で30年、毎日球を打ってきたんだ。プロの卵も、トップアマも数え切れないほど見てきた。だがな……あんな7番アイアンの音、これまでの人生で一回も聞いたことがないぞ!」
老人の声は、怒りではなく、純粋な驚愕によって激しく震えていた。彼は再び私の方を振り返ると、そのゴツゴツとした大きな手で、私の前に新しいボールを一つ、ポツンと置いた。
「おい嬢ちゃん。……頼む、もう一回だ。もう一回、今の音を、今の弾道を見せてくれ。俺の目が狂っていなければ、今のは奇跡なんかじゃない。あんたの体そのものが、あの弾道を生み出す型になっているはずだ。頼む、もう一回打ってくれ!」
老人の真剣すぎる眼差しに、私は戸惑いながらもお父さんと葵ちゃんの顔を見た。二人は無言で、けれど「打ってくれ」と激しく目を輝かせて頷いていた。
「……うん、わかった。じゃあ、もう一回だけ、やってみるね」
私は再び、お父さんの重い7番アイアンを握り直し、打席のマットの上に立った。
今度は、練習場にいる他の打席のゴルファーたちも、何事かと手を止め、遠巻きにこちらの打席を凝視している。静まり返った練習場。響くのは、御殿場特有の、バタバタと鳴る防球ネットの風切り音だけ。
私は、足元に置かれた新しい白い球を見つめた。
短く持つ。右足の前に置く。手元を左に出す。
スッとアドレスに入った瞬間、私の体の中に、再びあの完璧な軸が一本、カチリと通った。周囲の雑音がすうっと遠のき、視界の中には、右足の前の白球と、200ヤード先の黄色い看板だけが、鮮明に浮かび上がる。
ゆっくりと、テイクバック。
トップの静寂。
そして、切り返し――。
――バシィィィィィンッッッ!!!!!
先ほどと、全く同じ。いや、それ以上に肉厚で乾いた猛烈な破裂音が、再び御殿場の空を揺るがした。
放たれた白球は、やはり地面すれすれの超低空を維持したまま、完全なる一条のレーザー光線となって、向かい風を真っ向から切り裂いていく。先ほどの再現をするように、150ヤードの看板を越えていく。
そして、200ヤード先の空間を直線で支配し――。
――ガキィィィィィンッッッ!!!!!
先ほどと全く同じ黄色い看板に、ダイレクトで白球が突き刺さった。看板が再び、ガシャガシャと激しい金属音を立てて波打つ。
練習場全体が、完全に静まり返った。誰もが、声を出すことさえ忘れて、その異次元の光景を凝視していた。
「……本物だ」
隣の常連のおじいちゃんが、天を仰ぎ、声を震わせながらその場にへたり込みそうになった。
「奇跡でも、何でもない……。あの嬢ちゃん、機械のように全く同じスイングで、全く同じ音を出しやがった……。御殿場に……とんでもないバケモノが現れおったぞ……」
老人のその言葉は、私の背後にいたお父さんの心に、確信という名の巨大な楔を打ち込んだ。
お父さんはゆっくりと私に近づくと、私の細い両肩を、そっと、けれど壊れ物を扱うかのような熱い手つきでガシッと掴んだ。その目の奥には、かつて大企業の新プロジェクトを立ち上げた時以上の、狂気的なまでの情熱がギラギラと滾っていた。
「由依……。これは夢じゃないな。パパは今、歴史的な瞬間に立ち会っているんだな」
「え、ええ? パパ、目が怖いよ……?」
「決めたぞ。由依、明日の休みは、パパとショップに行くぞ」
「えっ? ショップって、お洋服屋さん?」
「違う。ゴルフショップだ。パパが昔から信頼している、最高のクラフトマンがいるフィッティングスタジオの予約を今すぐ取る」
お父さんは私の肩を掴んだまま、葵ちゃんの方を振り返って力強く宣言した。
「葵ちゃん、君の言う通りだった。……この子は、市販のクラブを適当に握らせておいていい器じゃない。それどころか、私の、このX100ですら、由依の規格外のポテンシャルに対しては、まるで最適化されていない! この子のポテンシャルを100%受け止め、引き出すための、大砲を設計しなければならない!」
「……全くだ、そりゃあ大正解っすわ、如月さん」
鉄平さんはようやく我に返ったように深く息を吐き出すと、ガシガシと豪快に頭を掻きむしった。その顔はまだ驚きの余韻で引きつっていたが、目の奥にはゴルファーとしての凄まじい興奮が伝染している。
「おい葵、お前が盛って話してんじゃねえかって疑って悪かったな。中1の女の子がアゲインストをライナーで200ヤードぶち抜くなんてのを、生で観ちまったなら信じるしかねえわ……。如月さん、あんたの言う通りっす。俺のX100もあんたのも、ただ折れないってだけの話だ。あのインパクト効率を100%球の推進力に変えるなら、1から組んだ専用のギアじゃなきゃ追いつかねえ!」
「フィッティング……! すごい、由依ちゃん専用の、本物のクラブを作るんだね!」
葵ちゃんが我がことのように目を輝かせて拳を握りしめた。
「由依、パパが全部面倒を見る。道具の不自由は一切させない。君のその才能を、パパが責任を持って世界の頂点へと押し上げてみせる。……いいな!」
「う、うん……? よく分からないけど、パパがそこまで言うなら、お出かけ、楽しみにしてるね!」
私は相変わらずの天然な笑顔のまま、手の中の重い7番アイアンを愛おしそうに見つめた。200ヤード先の看板を打ち抜いた時の、あのスコーンと抜けるような快感が、いまだに私の手のひらに心地よく残っている。
お父さんと葵ちゃん、そして地元の目の肥えたゴルファーたちの世界を完全にひっくり返してしまったことに、私はまだ、1ミリも気づいていなかった。ただ、この鉄の棒を使って、あの白い球を遠くへ飛ばすことが、心の底から楽しいと、それだけを純粋に感じていた。
御殿場の激しい風が、私たちの打席を吹き抜けていく。
私の手の中に握られたアイアンが、これから始まる、私たちの終わりなき激闘の未来を、静かに、けれど確実に切り裂き始めていた。