戦国、武蔵国江戸。
深い藍色の底にゆらりと落ちこんで、朝と呼ぶには幾分か早く、夜の微睡から抜け出せぬ夢見心地で虚な意識を取り払うように肌を刺す冷気を感じ、私はふと瞼を開く。
商家の早い朝には慣れたものだが、ぼんやりとした面持ちで、今にも下がりそうな目を擦って私は少しばかり頬を叩いた。
布団のすぐ側の、窓のすぐ下に配置している文机に手を伸ばして愛用の算盤を素早くとった。それから、柔らかい布で一粒ずつ珠を拭って、いち、に、さん、よん、と頭で数え、それに合わせるように息を深く吸って、ゆっくり吐いて行く。指先に伝わる木の感触を確かめ、滑りに狂いがないかを確認することが私の日課であった。
さすれば、次第にぼんやりとした思考が起き上がり目も覚める。
私の名は
使われていない古びた商家の一角を間借りし、一階を店として、二階を寝所として使っている。店といっても戸を開け放てばそのまま通りへ続くような粗末なもので、荷を並べれば商いの場となり、片付ければただの土間へ戻る。
上り下りする階段はギシギシと軋む音を立てていて、いつか底が抜けるんじゃないかと、初めこそヒヤヒヤしていたが、それも二年経てば鳴らない方が不安になる。
まだ眠っている父を起こさぬように、私はそっと戸を開いては、
『行ってきます』
と、小さく呟いた。
この町はまだ眠りについたまま、私は夜と朝の境目を飾った江戸の空を見上げては、未だ藍色の深い底に瞬く星々に目を輝かせていた。
そのまま、家から少し離れた寺小屋へと歩みを進めていくのだ。朝日も昇らぬ中、月明かりを頼りに、ただ、ただ思いのままに歩いて、歩いて、道すがら、私は足元に転がる手頃な石を一つ、つま先で転がしながら歩いた。カチリ、カチリと硬質な音が闇に吸い込まれて、気づけばどこかへ行ってしまうのだ。
時折、風に運ばれてくる潮の匂いや、どこかの家の竈から漏れる煙の香りを鼻先で分けて、少しずつ、朝を覚えていく。
寺小屋に辿り着き、教室へと足を踏み入れては周囲を見渡した。まだ誰もいない、一番乗りの贅沢な静寂を堪能する。私は自分の席のあたりにそのまま寝っ転がって、ぼーっと天井の木目を眺めていた。開け放した窓から入り込む風が、頬を撫でていく。
ーー静かで、心地が良かった。聞こえるのは、外で鳴き止まぬ鈴虫の鳴き声と、自分の中で刻まれる心臓の音だけだ。
そうやってしばらくの間、風を感じていたら、遠くからドタドタと慌しい足音が地面を伝って私の身体中に響いて、心臓の音が少しだけ早くなる。そして、勢いよく戸が開いた。
「ちぇッ、いちばんのりかと思ったのに!あーあ、気配わかんなかった」
がっかりした様子でそう言ったのは、本屋の息子だ。彼は悔しそうに肩をすくめながらも、私に向かって屈託のない笑みを浮かべて見せる。
『なァに。貴方だって、お早いではありませんか。まだ朝日も顔を出してない。ーーッはは』
と、私はそうやって寝っ転がったまんま笑う。
あいつは手に持った本を私に見える様にちらつかせると、側へやってくる。
私は起き上がって、
『ねえ、今日は何を持ってきたのさ』
と、期待を込めて問いかけると、彼は口の端をぐーっと上げて、悪そうな顔をして見せた。