わかってはいたが、随分と遅い帰宅になってしまった。夕飯の時間には当然遅れている。申し訳ないとでも言うような顔を作ると、私は一息ついて戸を開く。
然し、そこに居たのは父だけでなく、とある男だった。男は父お墨付きの顧客で、それは彼も同じだが、二人は最近の世間の動きとやらを淡々と語らいながら、食事をとっていたのだ。
私は少々気が抜ける思いをしたが、冷えた手を洗い食卓に着き、『遅れて、すみません』
と、一つ頭を下げた。父はお咎めをするような人ではないが、「夜道には気をつけなさい」とだけ言った。
「はは、旦那。不器用ですな」
向かいに座る彼は、私と父のぎこちないやり取りをおもしろそうに眺めて笑った。
「おい若旦那、この後は稽古だ。飯を食ったら裏山でかくれんぼうをしよう」
と、彼はよく突拍子もないことを言う。
ーー裏山での稽古は、いつも「かくれんぼう」という体裁で行われる。ルールは単純だ。支給されるのは三本の手裏剣。それが一本当たれば一点。僕が狩人となって、闇に潜む彼……師匠を狩れば勝ちというわけだ。
そんな師匠に付き合わされるように、今晩も裏山に来てしまった。
然し、暗闇での稽古にも段々と慣れてきた。父には身を守るための基礎しか教わらなかったが、彼と出会ってからは実践的な動きも身につき始めている。ーーもちろん、彼には当然のように手を抜かれているわけだが。
「今回は手加減しないからな」
木々の間から、実体の掴めない声が降ってくる。最近はずっと手加減なんてしてくれていないだろうに、と僕は内心でため息を吐いた。
ーー彼との出会いは一年ほど前。父の商売のやり方を気に入っただのと言って、そう多くはないが、店に居着くようになった。父も彼を気に入っており、時々仕事を流しているのを私は知っている。彼は所謂、どこの組織にも属さないフリーの忍者だった。初めて顔を合わせた時、彼は私をじろじろと眺めて、ニィッと口角を上げるものだから、私は鳥肌がだった。そうして「特別だ!お前に稽古をつけてやる」と突然言い出したのだ。
私はゾッとして、うまく開かない口を辿々しく、
『け、稽古とは一体どのような…』
「もちろん忍術さ、旦那から話は聞いている。頭がいいそうじゃないか、でも、それだけじゃあ勿体無い」
その頃の私には、彼の言っている言葉の意味がわからなかったが、今思えば、彼なりの計らいだったのやもしれない。自分のことは自分で守れる父と、そうでない私とじゃ、何かあった時に簡単に死んでしまう。なんせ、そういう時代に生きているのだから。
「旦那、アンタの息子をしばらくの間、しごいてもいいか?」
と、父は、私の顔すら見ずに「構わん」と一言。
ーー私は良いと言っていないのに!
湿った土の匂いと、微かな衣擦れの音。私は指先に挟んだ手裏剣の重みを感じながら、意識を研ぎ澄ます。枝が揺れるわずかな違和感、風の流れが変わる瞬間。
「ーーいた」
木々が葉をかすめ合う音に紛れるように、そっと呟くと、私は確信とともに素早く手裏剣を放つが、鋼の打撃音はただの幹に弾かれる。まさかと思い、ぐっと背を振り返ろうとした時、既に遅かった。
「甘いな、若旦那。視線が一点に固まってるぜ」
背後から首筋に、冷たい指が触れた。心臓が跳ねる。
「何ぼーっとしてんだ?風邪でも引いたか!情けないぜ、ちびっ子忍者さんよ」
と、耳元で彼が意地悪く笑った。その声に反論しようと振り返るが、そこにはもう影すら残っていない。私は唇を噛み、再び闇へと意識を向けた。今夜もまた、終わりの見えない「遊び」が続いていく。
息も絶え絶えに、動けば動くほど、先ほど食べた芋粥が腹から出ていきそうだ。食後の運動にしては激しいったらありゃしない。私は知っている、これをスパルタというのだ。
でも、私はこの時間がいちばん好きだったんだ。