「これは異国の本だッてさ。父さんが貰ったそうで、海の向こうが書かれてる。なあ、恋文が少し前に教えてくれた国とやらも、もしかすれば、載ってるんじゃないか?」
ーー彼はこの塾で唯一の友達だ。そんな本屋の息子である彼の手元には、時折こうした珍しい「知」が舞い込んでくる(と言っても、初めから仲が良かったわけではない)。彼と出会ったのは、私が江戸にやってきた二年前のことだ。寺小屋に通うようになった私と、随分前からいたあいつ。歳が近いこと以外に共通点なんてなくて、それはもう、最初こそ会話なんてものは私たちの間には無かった。ただ、彼が私のことを横目に見ているのは、初めの方から気づいて居た。私はいつからか無愛想な子になってしまったもので、そんな彼にどう声をかけてなればいいのかと不自然な態度でほったらかしにしていたのだが、しびれを切らした彼は、突如として何のお構いなしに私に絡むようになった。
言った通り、突如だ。これと言って特別な出来事なんて一つもなかったのだが、健気に話しかけてくる彼が可愛く見えて、適当にあしらっているうちに少しずつ打ち解けていって、今じゃ「仲良し」と言うものである。
彼はニヤニヤとしながら、見たこともない装丁の本を私に差し出す。
『どうだかね、異国の本が今手に入るなんてのも珍しいし、どこからやってきたんだい?』
「オオスミから知人の手に渡り父さんの元に、その前は海の向こうよりやってきた商人から」
『オオスミ? 大隈のことか? ポルトガルじゃないか?』
「ーーあぁ!そんな名前だった!」
『では、私の居た国ではないな』
「なァんだ、つまらないの。……でもいいさ、海の向こうには私たちの知らないことが沢山あるんだ。ワクワクするだろう」
『まァね』
そう言って二人、冷え切った教室の片隅で肩を寄せ合った。薄っぺらい仕上がりの、知らない香りがする本を開く。あいつは目を輝かせ、「なんだ! このプディングというのは!」と声を弾ませ、私の方を見やる。
『まだ、あまり有名じゃないと聞いた。私も一度食べたことがある』
「どんなものだ? ご飯か?」
『私が食べたのは甘かった。卵の味もした。一体どうやってできたものなのか想像がつかん。まるで、甘ったるい豆腐のようだった』
「甘いのか、甘いのかそのプディングは」
それは後に、世界で愛されることとなる『カスタード・プリン』の遠い祖先。けれど今の二人には、得体の知れない「甘い豆腐」に過ぎなかった。
ーー退屈しのぎの日常。
幕府により規制が厳しかった戦国の世を、私たちは慎ましく生きていた。
然し、そんなの子供の私たちにはどうだって良かった。知らず笑っていられる今が、何より幸せだったのだ。
本日の授業は昼まで。春先とはいえど、まだ冷え込んだ空気は辺りに漂っていて、痺れた足先がなかなか温まらない。日が落ち、暗くなる前にと、皆、急足で帰るのが普通だった。家路を急ぐ生徒たちの喧騒が遠ざかっていく中、
「なあ。この後、川辺に行こう」
あいつが声をかけてきた。悪戯っぽく笑うその表情には、誰もいない川辺で二人だけの時間を楽しもうという誘惑が混じっている。答えはもちろん『いいよ』だ。
帰り道とは反対の方向へ、私たちは歩き出した。少々遅くなるかもしれないが、それでも良かった。何となく、今日を逃したらダメだと、そんな気がしていた。
「冷たいな、魚いないか?」
「さあね、怪我するなよ」
そんな他愛もない言葉を交わしながら、私たちは冷たい水の流れる川辺へと向かう。春はまだ訪れていないが、冬の明けたばかりの川辺は芯を刺すように冷たくて、長くは浸っていられない。
「だめだ!だめだ!」と言って二人して逃げるように川から上がって、足先を押さえては手の熱で暖めた。
硬い石を尻の下に、私たちは冷え込んだ空気をただ肺へと送り込む退屈な時間を過ごした。穏やかな川のなせせらぎ聞きながら、ぼんやりと遠くを眺めている。
『まだ何もいないな』なんて私がこぼすと、
「春になれば魚が出るよ。一匹くらいならとったって構わないさ、むしろ喜ばれる」
と、あいつは言う。正直、私には分からなかった。けれど、『うん、喜ぶと思う』なんて、よく分からないのに、嘘をついた。
「暖かくなったら、次こそは魚を取りにこよう」
向けられた笑みに、本当は明るい返事をしたかった。然し、急にぶっきらぼうになって、私は俯く。顔の中心がだんだんと熱くなるのを感じて、うまく返事ができなかった。私はたまらず立ち上がって川に向かうと、両手で冷たい水をすくって自身の顔へと叩きつけた。
寒さで真っ赤になった顔を拭うと、振り返って、
『あたぼうよ!』
と、私が返せば、あいつは笑う。
ーーもう二度と訪れない、春の約束だった。